お茶、お酒、タバコ、シーシャ、ノンアルコール……。

現代の若者たちにとって、嗜好品とはどのような存在なのか。

2023年、大学生を対象にした初開催されたエッセイコンテスト(主催:日本たばこ産業株式会社(JT))には、「時代とともに移り変わる嗜好」「現代の嗜好をめぐる論考」「嗜好の生成メカニズム」をテーマに、感性豊かな論考が寄せられた。

そんななか、ある大学生の「DIG THE TEAを読んでいる」という声がきっかけとなり、座談会記事と同コンテストの入賞作品の掲載に協力することになった。

2021年にDIG THE TEAに公開した記事「嗜好品は思考に不可欠な『孤独』を生み出す」が大きな反響を生んだ哲学者で東京大学大学院教授の國分功一郎さんと、入賞者やエッセイに応募した学生たちとの座談会を2023年9月に実施。

國分さんは、『新潮』2023年7月号にて「享受の快──嗜好品、目的、依存症」を発表。カントの哲学に遡りながら新たな嗜好品論を展開している。

國分さんの新たな嗜好品論のレクチャーをまとめた前編「『人間は、全員が軽度の依存症である』哲学者・國分功一郎、若者と嗜好を語る」に続き、後編では入賞した3作品について國分さんの講評を交えながら、嗜好をめぐる若者たちとのディスカッションの様子をレポートする。

最優秀賞・潮亮太郎さん「孤高の孔雀たれ

 孔雀の羽は何故美しいのだろうか。この問いの答えは科学が教えてくれているようだ。どうやら孔雀のオスは、綺麗な羽を広げて踊り、メスに求愛するのだが、はるか昔から、メスが美しいオスを選ぶものであるから、今の孔雀の羽は美しいらしい。しかしそれでも、何故「美しさ」で選ばれるのかは分からない。他のオスを蹴散らす力強さや、いい家を作ってくれる要領の良さならばいざ知らず、美しさに何の意味があると言うのか。この問いの答えとして、面白い一説を聞いた。曰く、「美しさ」とは「無駄遣い」であり、優秀な個体は生きるリソースを美しさに割くことができるゆえに優秀であるのだ、と。なるほど納得である。これが本当ならば、オスは自分がいかに無駄遣いできるくらい余裕があるかをメスにアピールしていることになる。こうしてモテるべく無駄の塊を身にまとった孔雀を思うと、メスの前で踊る姿は、少し滑稽にも見える。ふと、人間の「嗜好」も、この孔雀の羽と同じところがあるような気がしてくる。(続きはこちら


動物園で見た孔雀の羽の美しさを入口に、真の嗜好のあり方を探る。誰もがSNSで自分の趣味や行動をシェアする現代、孔雀のようにひとりで孤高に嗜好品を嗜むことの重要性を説く。

……….

國分:みなさんのエッセイを大変興味深く読みました。まずは潮くんのエッセイを見てみましょう。

孔雀が放し飼いにされた動物園があるそうだけど、これはどこにあるの?

潮:伊豆シャボテン動物公園です。初代仮面ライダーやウルトラマンの撮影にも使われた場所でした。すぐそばに孔雀がいて撮影もできるんです。

潮亮太郎さん

潮:園内には他にも壁に向かってひたすら走るハダカデバネズミがいます。現在社会を生きる私たちのように、虚無に向かって走り続けている……。

國分:ジムのランニングマシンで走る人たちと一緒だね。完全に現代社会のメタファーですね。

潮くんはエッセイで「お茶を嗜む人の、背筋の伸びた立ち居振る舞いはやはり素敵に感じられるかもしれないが、どれだけ自分が卓越しているかをアピールするために茶器を握るその姿は、まるで踊る孔雀そのもの」だと書いています。

確かに人に見せつけるような目的性はあるかもしれませんが、他方でそれに没頭することで自分で心地よさを作っていく面は絶対にあると思うんだよね。

潮:確かにそうですね。仏教的な内面に向き合うイメージでしょうか。正直、ちょっと乱暴に言い切ったほうがウケるかなと思ったところはあります。

國分:うん、それはそれで大事です。言い切ることによって見えてくるものが絶対にある。でもそこでちょっと隠そうとしたものを覚えておくとよいですね。

私は潮くんのエッセイを読んで、前編でお話した「欲望」と「欲動」の問題を考えました。

現代は嗜好がSNSでシェアされて、みんなのものになっていく。しかし、他人の目を気にした欲望の側面だけじゃなく、嗜好品を嗜む人が満足する欲動の次元があると思います。

その点をうまく書けたらよさそうと思っていたら、きちんと後半で「孤高」という問題を論じている。これは大変よい言葉ですね。ある種のメタファーかもしれませんが、嗜好品を享受する人間の姿を非常にうまく表していると思います。

「孤高」はどういう風に英語に訳すのでしょう?

潮:「solitude」でしょうか。

國分:それだと「孤独」になってしまうね。ハンナ・アレントは「solitude」は「孤独」で、「lonliness」が「寂しさ」だと言いました。今、スマホで辞書を見てみましたが、日本語の「孤高」のニュアンスをうまく表す単語はないのかもしれない。

同じように「嗜好」も非常に特殊な言葉で、英語に訳すのがとても難しかった。

いずれにせよ「孤高」という論点は非常によいと思いました。

ところで、「トリに孤高の精神が本当は無いことも知っている」と書いてあるけど、本当にそうでしょうか。孔雀はメスの気を惹くために羽を広げるとのことですが、自分の姿に自己満足をしている側面もあるのではないか。「孤高の孔雀たれ」ってすごいタイトルだよね。やっぱり、孔雀は孤高なんじゃない?

潮:そうかもしれません。僕がちょっとトリを馬鹿にしすぎていたところもあります。そこまで孔雀を強く肯定しても、僕自身がそんなに孤高に生きられてるわけでもないため、心のなかにちょっと迷いがありました。

本田:メスの気を惹くという側面もあるかもしれませんが、メスが引いてしまうくらいに美しく羽を広げて満足しているオスの孔雀を想像しました。

僕が気になったのは、孔雀は「心は自由で平穏である」という表現でした。

何にも縛られずに自由なのはすごくわかる気がします。でもそれは本当に平穏であるのかな、と。自由であるがゆえに儚さもある気がしていて。何も縛られていないからこそ、誰にも相手されないこともあるのかなと。

なぜ、孔雀を平穏だと思いましたか?

(写真右)本田茜吏さん

潮:孔雀を見ていると、平和な感じがするんです。

現代人はSNSに自分の盛った写真をアップしたとき、他の人の似た写真のほうが「いいね」をもらっていたら、心がザワつきます。他人の視線によって常に何かから急き立てられている。

先ほどの話で言えば、ハビット(習慣)が常に脅かされつづけている。

孔雀はそういう生き方からは解放されています。落語で、お金を溜め込んだ男が誰にも盗られたくないと思っていたけれど、最終的に盗まれてしまうことで同時に心配事もなくなったという話があります。それに近いものを感じて、平穏という言葉を使いました。

本田:なるほど。(他人に)急き立てられる状態から解放されたイメージなんですね。よくわかりました。

優秀賞・諏訪優介さん「嗜好品の構造

研究対象が多岐に渡り社会生活にあまりにも密着していることが仇となっているのか、嗜好品研究には浩瀚なものが少なく、さまざまな論客がさまざまな対象について私見を述べるというのが嗜好品研究の現在地であるように思われる。実際、嗜好品についてさまざまな論客が小論を寄せたアンソロジー形式の書籍である『嗜好品文化を学ぶ人のために』(世界思想社、2008年)を紐解くと、嗜好品の例としてコーヒー、煙草といった全世界で嗜まれているものに加えてポリネシアのカヴァのように特定の地域でのみ消費されるものも嗜好品の一例として扱われている。しかし、このようにあらゆる「嗜好品」をひっくるめて捉えることを許容する風潮にはやや注意を要する。ひとくちに嗜好品といってもその担う機能は時代や場所により大きく異なるからである。 

(略)

以上から明らかなように、「嗜好品」なるものを一枚岩として捉えるのは不正確と言わざるを得ない。そこで、本稿では、現代の一般的な意味で用いられる嗜好品(すなわち実益よりも快感を求めて消費される嗜好品)と区別して、儀式・呪術などに役立てられる嗜好品を「原-嗜好品」と呼び、二つ目のイレギュラーな嗜好品(すなわち否応なく消費される嗜好品)を「後期嗜好品」と呼ぶことにしよう。 (続きはこちら

嗜好品の歴史を概観し、「原-嗜好品」「嗜好品」「後期嗜好品」という三段階にのフェーズがあったと論じた。特にその「儀式的」側面に着目し、嗜好本来のあり方に迫った。また現代においてはマッチングアプリの登場によって「恋愛」が嗜好的な位置を獲得しうると投げかけた。


……….


國分:非常によく書けていて面白いと思いました。論文としてよく組み立てられているし、「原-嗜好品」「後期嗜好品」という新しいタームをうまく導入しています。特に「キッチュ」(低俗なもの・まがいもの)と「儀式」についてはまだまだ展開できるでしょう。

諏訪:締め切りまでにわかっているところだけを書いてみました。まだ論理が甘いと思いつつ……。

諏訪優介さん

國分:特に儀式というのは非常に重要な論点です。レポートで出てきたら十分よい点をあげるのは間違いない。

儀式と欲動という問題があると思うんです。

儀式といってもいろいろあるから一概には言えないけれど、なぜそれが始まったかというと、何らかの欲動の満足が関係していたと思います。

簡単に言えば、人間の満足です。でも儀式は続けることで、やりたくないけどやらされるという側面が出てくるでしょう。つまり、目的から逸脱していく。そういう複雑な事情があるわけです。

ここで思い出すのは、ドゥルーズ(フランスの哲学者)が若い頃に書いた論文「本能と制度」です。

非常に面白いことに、「本能と制度はどちらも満足を得るための手段である」と論じている。

まず、本能については、例えば食欲があってそれを満たすと満足が得られます。だから本能というのは、直接的に満足を得る手段である。

それに対して、制度は間接的に満足を得るといいます。彼が挙げている事例は、結婚制度があれば毎晩相手を探さなくてすむ。あるいは貨幣制度があれば貪欲さを満足させることができると。その間接性があるから、非常に複雑なものになる。

今の話だと、欲動が本能に対応して、儀式が制度に対応する。それらをうまく結びつけて考えていくと、何かわかることもあるかもしれない。

國分:また、タバコなどのハビットも儀式性を持っているよね。僕が加熱式たばこに抵抗があるのは、別に代わりのものを手で握って口に入れたいからやっているわけじゃない。タバコというものを手に持つことに意味があるからなんですよ。

諏訪:パイプについてはどうですか。

國分:留学中によくやっていたね。手に持っていると温まってきて、ちょっと気持ちがよい。味もとてもよい。パイプはどの形状を選ぶのかなど、その人の癖が非常によく現れますね。

高木:「孤高」の話のときにも思ったんですが、やっぱり嗜好品は自分を確かめる側面があると思いました。ハビットに戻ってくると。

國分:そうですね。あるいは確かめつつ、作ってみたということもある。

つまり作っていることと確かめることの区別ができない。ハビットにはそういう側面があるでしょう。

ハビットでずっとやっていることが、ハビットを作っていることであり、そのハビットを続けていることが、自分が生きている意味である。この辺りの話にはとてもヒントがあるように思います。

──マッチングアプリによって、恋愛が嗜好品になると書かれていたのも興味深かったです。

諏訪:これはどうなんだろうと思いつつ、考えるに値することではあると思いました。最後にちょっと浮いた形でマッチングアプリを論じました。

國分:マッチングアプリについては、まだ考えが定まっていません。

先日、文芸誌『文學界』でオードリーの若林正恭さんと対談したときに聞いたんだけど、マッチングアプリでは中年の医者が若い女性にめちゃくちゃモテているらしいんです。

それは要するに、市場経済が恋愛に導入されたということだと思います。

近代以前は、お金にせよ恋愛にせよ規制がありました。

例えば、1960年代までは海外旅行に持っていく現金に上限があった。国外に現金が流出してしまうと困るからです。今のような国を超えてお金が大量に行き来するグローバリゼーションは考えられませんでした。

恋愛についても自由恋愛ではなく、非常に規制があった。

身分が違ったら結婚はできなかったし、ある年齢に達すると勝手にお見合いで結婚させられた。なぜかというと、あぶれてしまう人が出ないように規制をしていたんです。

私たちは近代以前の規制があった時代に戻ることはできない。身分が違ったら結婚できなかったり、ある年齢になったら無理にお見合いをさせられたりすることは、絶対に嫌でしょう。

でも、市場経済に支配された今がよいかというと、そこにはいろいろな問題があるように感じます。これは果たして我々が望んでいた自由だったのか。

マッチングアプリは嗜好品の問題から考えることもできるかもしれませんが、僕はどちらかというと、近代における自由であることのアンビバレンス(両価性)について考えさせられます。

特別賞・髙木咲織さん「布団の中の定まらない私

寒いのが苦手だ。寒いと悲しくなる。寒いと自分が本当にみじめな存在だと感じる。それ でも寒風の中へと出ていかなくてはならない。私は分厚くて毛羽だったコートを愛してい た。ぎっしり目の詰まった重いのがいい。強い風も通さないような、ずっしりしたもの。コ ートの重みは私を慰め、励ましてくれる。そこまで寒くない季節は、コーデュロイのジャケ ットとかもいい。あの起毛と凸凹のある生地の厚みには癒やされる。やっぱりそういうトラ ディショナルな感じの服が私のキャラにも合っている。私ってほら、結構古風なところがあ るし。 

しかし数年前の冬、愛していたはずのコートを羽織って思った。 

「重い!」 

「このコートこんな感じだったっけ」 

「なんだかデザインも野暮ったい気がする」 

あらためてクローゼットを検分すると、そこにある服のほとんどが野暮ったく見えること に気づいた。服についての私の嗜好があきらかに昨年から変化している。何がきっかけでこうなった? 記憶をたどると、はたと思い当ることがあった。 (続きはこちら

人の嗜好は、無意識に環境に影響されていることを自身の体験を元にまとめたエッセイ。毎日使っているあるものを買い替えたことで、ファッションの嗜好、さらには大学院進学など進路選択にも思わぬ変化が生じたかもしれないと綴る。

……….

國分:高木さんの論考は、エッセイとして非常によくできていました。自分で振り返ってみてどうですか?

高木:先ほど話したように、嗜好品は自分を確かめる側面があると思います。だから当然、自分の領域でコントロールできるという勝手な思い込みがあって。しかし、実は自分の意図しない方向から侵食されていたという体験を書きました。

髙木咲織さん

國分:よく書けていますが、ちょっと気になったのは、認知心理学のようにエビデンスを出す科学だけを根拠としなくてもよいかもしれません。

今の世の中はある種、究極の民主化が進んでいて、学問も民主化している。フロイトのような天才が極度に思弁的なことを言っても「そんなのフロイトさんの感想ですよね」と言われてしまう。

それに対して、何らかの実験をして「100人中68人がそうでした」という証拠があると、納得できる。みんなが多数決でOKになれば、通るようになってしまっている。そのようにエビデンスのある科学ばかりが重視されることには、もう少し批判的になってもよいと思います。

高木さんのエッセイは、嗜好品ではなく嗜好、つまりテイストの話をしていますね。テイストは味わうという意味であるし、趣味という意味でもある。だからこれは嗜好と訳して問題ないと思います。

國分:私が嗜好品論を書いたときは、テイストの問題をあまり考えていませんでしたが、重要な論点であると気づかされました。

ジョルジョ・アガンベン(イタリアの哲学者)にまさに『Taste』という本があるんですが、そこでは実はテイストは哲学における隠された重要な論点だと論じられています。

高木さんは、テイストは様々な影響のもとで変化すると書いています。そうすると、私というものはどこに行っちゃうんだろうと。

これは私の研究対象のスピノザに基づいて言うならば、人間は誰しも必ず外から刺激を受けて何かをしているわけです。でも同じ刺激を受けても、人によって反応の仕方は違うし、同じ人でも時と場合によって変わってくる。

その反応の仕方が、その人の個性、その人の本質なんだと思います。

高木:自分というひとつの関数があり、それにいろんな変数が関わるように、私たちは偶然を受け入れつつ生きています。でもどこかで自分を必然的なものと考えてしまっていて、偶然の影響を受け続けているという前提に立って考えられていないのかもしれません。

國分:人間は外側から刺激がないと生きていけません。酸素を取り入れるのもそうですし、食事をすることもそう。知的な刺激を受けることもある。それらは全部、偶然的なものだと思います。

自身の実存的な悩みが書かれていたのもよかったです。布団を変えたことによって、高木さんは仕事をセーブして大学院進学を考えた。

僕に同じことが起こっても、人生に大きな変化はなかったかもしれない。でも高木さんの人生は大きく変わったのだから、それが高木さんの個性。そういうことでよいんだと思います。

エッセイコンテスト入賞作品(主催:日本たばこ産業株式会社(JT)エッセイコンテスト実行委員会)

最優秀賞「孤高の孔雀たれ」潮亮太郎
優秀賞「嗜好品の構造」諏訪優介
特別賞「布団の中の定まらない私」髙木咲織
特別賞「『如雨露』としての嗜好、『こぼし』としての嗜好」内藤広武 ※座談会は欠席

(構成:篠原 諄也 写真:西田香織 編集:笹川ねこ)

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濁流のように去りゆくこの時間を、心が溶けるひとときに。