お茶を点てる、コーヒーを淹れる、タバコをくゆらせる……。嗜好体験の内実はさまざまだが、そこには必ず、嗜好品をたしなむ「時間」が流れている。

もっと言えば、私たちの生と「時間」は、切っても切れない関係にあると言えるだろう。

2022年7月に刊行された『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』(青土社, 2022)では、19~20世紀に活躍したフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの時間哲学を紐解きながら、私たちの「心」と「時間」の関係性を解き明かす試みがなされている。

著者は、時間と心の哲学、記憶の形而上学、ベルクソンおよびライプニッツを中心とする近現代哲学を専門とする、慶應義塾大学文学部教授・平井靖史さんだ。

平井さんを訪ね、私たちの心にとって「嗜好品をたしなむ時間」はどのような時間なのかを探っていく。前編では、ベルクソンの時間哲学も踏まえ、「そもそも『時間』とは何か?」という哲学的な問いに迫った。

結論を先に、そして平井氏の著作名をもじって言うなれば、「私たちは時間でできている」──。

(聞き手・文:鷲尾諒太郎 写真:今井駿介 編集:小池真幸)

世界は時間、そして「記憶」でできている

──平井さんのご専門は「時間と心の哲学、記憶の形而上学、ベルクソンおよびライプニッツを中心とする近現代哲学」とのことですが、現在は主にどのような研究に取り組んでいるのでしょうか?

最近は時間の問題に対する切り口として、「記憶の哲学」を探求しています。

記憶というものは、僕らの人間観や世界観にとってどのような意味を持っているのか。こうした議論が、哲学の世界でも少し過小評価されているなと感じていて、その状況を変えるために仕事をしていきたいと思っています。

「記憶」という言葉を聞いたとき、多くの人が直感的に思い浮かべるのは「何年前にこんなことがあった」とか「あのとき、あの人はこう言った」というような、いわゆる「エピソード記憶」ですよね。しかし、これはあくまでも記憶の一部でしかありません。

実際には、記憶はもっと広い概念で、僕たちのあらゆるところに記憶の働きが染みこんでいる。

いま僕たちは目の前にあるさまざまなものが見えていますよね。この「ただ見えるということ」がすでに記憶なのです。たとえば、ここに生まれたばかりの赤ちゃんがいたとすると、その子は僕たちと同じものが見えるわけではありません。

僕たちは生まれたのち、繰り返し学習することで、物を立体的に見たり、物の色を識別したりできるようになる。物を見たり聞いたりする「知覚」も生まれつき備わっているわけではなく、生後に学んだもの、「覚えた」ものなのです。

人間を心と身体に分けて考えるとき、記憶が関係するのは決して心だけではありません。身体の働きもまた、記憶でできている、ということです。

たとえば、僕たちが歩いたり、走ったり、自転車に乗ったりできるのは、小さな頃に学習したからこそですよね。遠い過去のことなので、学習をしたことを忘れているだけで、生まれてすぐにそれらの行動ができた人はいないはずです。

それから、いわゆる「知識」もそうですよね。僕たちが受験勉強や仕事の中で学んだ知識は「意味記憶」と言われており、これも記憶の一部。考えたり推論するという行いは、この記憶なくして成り立ちません。

さらに、私たちは事前に見聞きしたものによって判断が影響を受けることが知られています。それも結構長い期間です。これは「プライミング」と呼ばれる記憶現象で、本人は全く自覚がありませんが、実験によってその効果がわかっています。

哲学に限らずさまざまな領域で、これは「知覚」論、これは「身体」論、これは「知識」論と複数のカテゴリーに分けて考えることは多いですが、そこに「記憶」という概念を導入すれば、すべては記憶のサブカテゴリーとして位置づけなおすことができる。

行為すること、知覚すること、思考すること、実はこれらすべて記憶が違った仕方で発露したものなんです。それは全人的な現象を包括的に見るひとつの有効な視点になりうるのではないか。

これが僕が記憶にフォーカスする理由のひとつです。

──世界は記憶でできている、とも言えそうですね。

さらに言えば、ベルクソンの主著『物質と記憶』でも触れられているように、記憶は「時間」と深い関係があります。

これまで生きてきた時間が「折りたたまれ」、身体に蓄積されることで、その人の「今」ができています。

折りたたまれた時間とは、「歩くための学習をした時間」のように、思い出すことはできないけれど、確かに僕らの身体に積み重なっている時間のことです。

一方で、僕らが過ごしてきた時間の中には、きら星のように輝き、いつでもすぐに思い出せる「折りたたまれていない時間」もある。そういった思い出のようなものは、誰しもありますよね。

先ほど見たように、認識も行動も思考も、記憶がさまざまな仕方で発露したもの、その絡み合いです。そして記憶は過去を現在につなぐものです。

ですから、まさに人は、時間を実に複雑な仕方で織り込むことでつくられていると言えるわけです。

時間を折りたたんだり、広げたりしながら、僕たちは生きている。そして、そうすることによって、僕たちの今がつくられている。

時間は、そして記憶は、僕たちにとって、とても重要な存在なんです。

単一の「絶対的な時間」は存在しない

──哲学において、「時間」は古くから重要なテーマであり続けてきたとも思います。ベルクソンの時間哲学の特徴や革新性は、どういった点にあるのでしょうか?

遡るとアリストテレスもこのテーマに言及しているように、「時間」は今日に至るまで、哲学における重要なテーマのひとつであり続けています。

しかしベルクソンは、そんな「時間」に関する哲学の議論を抜本的に変えてしまうようなアイデアを、いくつも導入しました。その中でも、特に重要なものが3つあります。

まず1つ目は、「マルチ時間スケール」です。

ベルクソン以前の時間哲学においては唯一絶対的な“正解の時間”が想定されており、その前提に立って「時間は存在するのか」「過去は存在するのか」「時間は流れているのか」といった問いが探求されていました。専門用語で言えば、「絶対時間」と呼ばれる単一の概念について議論していたわけです。

しかし、ベルクソンは「絶対時間など存在しない」という姿勢を取った。

「この宇宙には、大小さまざまなスケールの異なる時間がひしめき合っている」という言い方で、時間の多様性を主張したんです。

そして、僕たち一人ひとりの中にも、複数の時間が存在すると考えました。

──一人の中の「複数の時間」?

たとえば、僕はいまみなさんと話していて、「次にどんなことを話そうかな」と考えているわけですが、このとき僕は秒単位のスケールで物事を考えています。

他方で、いまそれについて深く思考しているわけではないものの、頭の片隅には長い付き合いのパートナーや友人、数年がかりのあるプロジェクトといったものがずっと存在していて、数年という単位で物事を考え、数年というスケールを生きている僕もいるわけです。

このように、僕たちは同時にさまざまな時間の中に身を置いていて、それらの時間が僕たちを形成しています。ベルクソンは、こうした時間スケールの多様性を提起し、それまでの単一的な時間の見方を否定したんです。

時間を「アスペクト」から捉える意味

──続いて、ベルクソンが提起した「3つの革新的なアイデア」のうち、2つ目についても教えてください。

2つ目は、僕が特に強調している「アスペクト」、日本語でいうと「相」という概念です。

──アスペクト、聞き慣れない言葉です。

時間を「量」と「質」という2つの性質にわけて捉える、というところから説明しましょう

「量」とは、時計やカレンダー、あるいはストップウォッチなどで表される、ある単位で測ることができる時間の性質のことを指します。

でも他方で、時間というのは量だけではない。そうした時間の「質」の側面を、どうやって捉えるか。

ベルクソン以前の多くの哲学者たちは、それを「時制」の存在に訴えてきたんです。「時制」というのは、過去・現在・未来の区別のことです。たしかに、過去・現在・未来の区別は、「何分何秒」といった量的な差異で示せるものではありませんよね。

「過去のかけがえのなさ」や「現在の特別さ」は、どうやっても時計やカレンダーで示すことはできません。

このことに不満を持った過去の哲学者たちが「量」ではない「質」の時間として、時制に注目し、その質が人類にどのような影響を与えているのかを論じてきたわけです。たとえば(ローマ帝国の)アウグスティヌスはこのタイプの代表格です。

ところがベルクソンは、時間の「質」を捉える切り口として、新たに「アスペクト」を導入したのです。時間の第三の切り口ということになりますね。

アスペクトとは、ある時間が持つ「内部構造」を指します。ベルクソンは、時間には「完了相」と「未完了相」といったアスペクトがある、と言いました。

「完了相」とはその名の通り「完了した時間」のことで、「静的で、すでに起きることが決まっている状態」だとも言えます。対して、「未完了相」は「その出来事が終わっていない時間」のことで、「動的で、次の瞬間にはどうなるかわからない時間」を指します。

「完了相」と「未完了相」の違いをわかりやすく言えば、時間には“完了形”と“進行形”がある、ともたとえられます。ただ、アスペクトは、先ほどの「時制」とはまったく性質が異なるので、注意が必要です。

──「完了」と「過去」はなんとなく似ている気がするのですが、「アスペクト」と「時制」はそれほど違うものなのでしょうか?

アスペクトと時制の違いは、未来なのに完了相だったり、過去なのに未完了相だったりするケースを考えるとよくわかると思います。

たとえば、何年何月何日に月蝕が起こりますというとき、時制とはしては確かに未来ですが、出来事はもう決まっていますよね。これはアスペクトしては完了相ということです。

逆に、過去の恥ずかしい出来事を思い出して、顔を赤くしてしまったとしましょう。再び恥ずかしくならずに「恥ずかしかったな」と思い返せるようなら、もう完了相と言えるかもしれません。でも、赤面してしまうということは、リアルタイムで再び恥ずかしくなっているわけですよね。

その出来事自体が起こったのは「過去」ですが、その出来事は“進行形”、すなわち未完了相で現在の僕たちに影響を及ぼしているわけですね。

僕たちは「過去」を完了相というアスペクトから未完了相というアスペクトに戻し、その時間を生き直すことができる。

ベルクソンは、ここに注目したわけです。

つまり、アスペクトと、過去・現在・未来という「時制」はそれぞれが独立している。このことを指して、「時制と相は直交する」という言い方もできます。「『過去』であり『未完了相』の時間」も存在するし、「『現在』だけど『完了相』の時間」も存在するわけです。

──つまり、過去に生じた出来事だけれど、「動的で、次の瞬間には何が起こるかわからない時間」(未完了相)として思い出すものもあれば、現在起きていることだけれど、「静的で、すでに起きることが決まっている時間」(完了相)として流れるものもあると。

はい。もうひとつ別の例でご説明しますね。今日、僕はお昼ご飯にケバブを食べたんです。

「ケバブを食べている」と「ケバブを食べた」の違いを問われたら、「現在と過去の違い」と答える人が多いと思います。

僕たちは時間を一本の線で捉えることに慣れていて、「ケバブを食べている」をその線上に置こうとすると、「現在」の位置に置きますよね。また、「ケバブを食べた」という事実は、「過去」に置くことになると思います。

一方、アスペクトという視点から言えば、「食べている」と「食べた」の違いは「未完了相と完了相の違い」なんです。

起きることが決定しているか否かの違い、と言うこともできます。

たとえば、いままさにケバブを食べているとしても、すでにケバブの味や中身を知っていて「こんなものだろう」と決めつけて食べている場合、その時間は完了相になります。

あるいは「もうすぐお客さんが来るから」と、とにかく急いで何かを食べているときも、僕たちは「食べている時間」を過ごしているとは言えず、完了相の時間が流れているわけです。こうしたアスペクトは、時間量の問題ではないので時間の「質」なのですが、時間軸上の位置の問題(時制)とはまた違うのです。

時間を「一本の線」上にプロットした時点で、見誤る

──時間には、過去・現在・未来といった「時制」とは別物として、完了相と未完了相といった「アスペクト」という観点があるのですね。

実は次の瞬間に何が起こるかわからない、ドキドキするような未完了相の時間は常に存在しているし、多くの人が時折顔を見せるそういった時間の存在に気付いています。

ただ、人々は何が起こるのかを予測したり、これまでの経験に当てはめたりすることによって、暴れん坊で獰猛なその時間を型の中に押し込めて、時間を整備したことにしている。

ベルクソンはこれを「時間の空間化」と呼びました。これは私たちが生きていくうえでは避けられない必要悪なのですが、時間について哲学しようというときには、厳に批判しなければならないものです。

実際、現代に生きる僕たちにとって、未完了相の時間を生きることは、ますます難しくなっているように思えますよね。

──予測不能で不安定な未完了相の時間を、「量(計測可能な時間)」や「時制」で覆い隠すことで、“コントロールしている”という感覚を得ようとしていると。

そういうことです。予測不能であるということを説明するために、ベルクソンは「相互浸透」という言葉を使いました。いわく「瞬間が相互浸透する」と。

僕たちは、1秒のあとには2秒が来て、そのあと3秒、4秒……と“瞬間”が続いていくと理解していますよね。しかし、そう理解している時点で、時間を一本の線の上に並べて捉えてしまっている。

本来は、僕がいまこうして言葉をしゃべっている“瞬間”には前後なんて関係なくて、常に入れ替わっているというのが、相互浸透という言葉の意味です。

──相互浸透、どういうことでしょう?

前のものが後のものに「浸透する」というのは、比較的わかりやすいと思います。直前の言葉や音の影響で、言葉やメロディの印象って変わっていきますよね。

面白いのは、「相互」浸透という点、つまり逆もあるということです。後から来たものが前に影響するという一見不可思議なことを言っています。ですがこれは実に重要なことなんです。

現代の認知科学の領域では、このことを「ポストディクション」という概念で説明しています。

ポストディクションとは、「(絶対)時間的には『後』で得た刺激が、『前』に生じた刺激に関する知覚に影響を及ぼすこと」を指します。

視覚刺激や触覚刺激を使った実験で、実際にごく短い時間内であれば、(客観的には)後から与えた刺激の影響で、直前のものの見え方が変わってくることが確かめられています。

他にも、後からきた音声を、意識の中では先に到着している唇の動きに合わせるという「リップシンク」をやっていることも知られています。遠くの人の声は、映像よりも遅れてやってきます。映像の方を「待たせてる」ということですよね。

つまり、僕たちは知らず知らずのうちに時間的な前後を入れ替えながら、積極的につくり上げながら生きているとも言えます。

このことからも僕たちが常に、次の瞬間に何が起こるわからない「未完了相」の時間を生きていることがわかると思います。

時間を一本の線の上にプロットした時点で、実はもう完了相に変換されてしまっているんです。これでは永久に未完了の時間、僕たちが実際に味わっているライブの時間は捉えられないわけです。

──「アスペクト」という視点を導入することで、「時間」に対する捉え方を大きく変えられた気がします。最後に、ベルクソンの「3つの革新的なアイデア」の3つ目についても教えてください。

3つ目は、ベルクソンが時間に「緊張と弛緩」という軸を導入した、という点です。

これは、直感的にもわかりやすいものかもしれません。言葉の通り、時間はきゅっと縮こまったり、ゆったりと緩んだりするということですね。

ベルクソンが登場するまで、時間には主に「経過」を表す横軸しか想定されていなかったのですが、新たに「緊張と弛緩」という縦軸が導入されました。これもベルクソンのオリジナリティーのひとつで、重要な論点です。

──たしかに「時間が伸び縮みする」というのは、感覚的にも理解できるような気がします。今回のテーマである「嗜好品の時間」とも大きく関係しそうですね。

(後編は1月12日に公開します)

Follow us!  → Instagram / X

Share
Share
  • 著者:
    鷲尾 諒太郎
    1990年、富山県生まれ。ライター/編集者 ←LocoPartners←リクルート。早稲田大学文化構想学部卒。『designing』『遅いインターネット』などで執筆。『q&d』編集パートナー。バスケとコーヒーが好きで、立ち飲み屋とスナックと与太話とクダを巻く人に目がありません。
  • 編集:
    小池 真幸
濁流のように去りゆくこの時間を、心が溶けるひとときに。