お茶やコーヒーをたしなんでいるときに流れている時間は、仕事をしているときに流れているそれとはまったく別のもののように感じられる。

こういった「時間」と「心」にまつわる問題を哲学的に探求したのが、19~20世紀に活躍したフランスの哲学者アンリ・ベルクソンだ。

前編で解説したように、「マルチ時間スケール」や「アスペクト(相)」、「緊張/弛緩」といった革新的なアイデアを導入したことで、時間哲学を大きく変えたことで知られている。

前編:時間は「一本の線」ではない。“飼い慣らされた時間”から解き放たれるために:ベルクソン研究者・平井靖史

そんなベルクソンの時間哲学を精緻に描き、「時間」についての根源的な問いに迫った書物が、『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』(青土社, 2022)だ。

著者は、時間と心の哲学、記憶の形而上学、ベルクソンおよびライプニッツを中心とする近現代哲学を専門とする、慶應義塾大学文学部教授・平井靖史さん。

私たちの心にとって「嗜好品をたしなむ時間」はどのような時間なのか。

ベルクソンの時間哲学も踏まえ、「そもそも『時間』とは何か?」という哲学的な問いに迫った前編に続き、後編では時間と心の結びつきや、時間を「開いておくこと」の重要性、そして「嗜好品をたしなむ時間」の意味について聞いた。

(聞き手・文:鷲尾諒太郎 写真:今井駿介 編集:小池真幸)

いまこそ「開かれた時間」を取り戻す

──前編では、ベルクソンの時間哲学を踏まえ、「そもそも『時間』とは何か?」について根源的に考えました。そもそも、平井さんが「時間」というテーマに関心を持つようになったのはなぜなのでしょうか?

かつて浪人時代に、「時間」こそが人を形成しているのではないか、と感じたことがきっかけだったのかもしれないですね。振り返ってみれば。

僕は高校卒業後、1年間の浪人を経て武蔵野美術大学に入学し、油絵を専攻していました。その後、哲学に興味を持ち、本格的に学ぶために東京都立大学に入学し直すのですが、この際にも一浪しているんです。

浪人生は勉強をしなくてはなりませんが、(授業などを除いて)時間割にはあまり縛られないじゃないですか。勉強以外の予定もほとんどありませんでしたし、24時間の多くが「自分の時間」なんですよね。

そういった時間を過ごす中で、常に「この時間をどう過ごすか」が問われていた。

気になる本を読んでみたり、興味があることを掘り下げてみたり。誰に指示をされるわけでもない「自分の時間」が、その後の僕を支える土壌になっていく気がしていたんです。

ベルクソンに出会ったのは、都立大学に入学した後のことです。

ベルクソンは「時間」以外にも幅広い概念を探求した哲学者ではありますが、僕が研究対象として「時間」に強い興味を抱いたのは、浪人時代の経験がベースになっている気がします。

──浪人時代に過ごした時間のどのような要素が、平井さんの土壌になったのだと思いますか。

多くの「開かれた時間」を過ごしたことでしょうか。

利益や「何かの役に立つこと」を度外視して過ごす時間を、僕は「開かれた時間」と呼んでいます。逆に、特定の目的のために過ごす時間は「閉じている」わけですね。

僕たちが生きていくためには、さまざまな行動をしなくてはなりません。試験に受かるためには勉強をしなければならないし、お腹を満たすためには何かを食べなければならない。

「○○のため」に行動するとき、僕たちは有用性や効率性を重視します。

リソースを無駄に使わないようにすることは、人類が生物的な進化の中で獲得した生存戦略の一つ。人として、さらに言えば生物として生まれた以上、生来的に備えている性質です。

しかし、ベルクソンは人間という生物の特殊性は「無駄なものに開かれること」だと言っているんです。

人間は有用性や将来の利益を度外視して行動を決め、その行動をしている時間、すなわち「開かれた時間」を味わうことができる。

そして、こう言うと矛盾しているように感じられるかもしれませんが、普段「閉じた時間」ばかりを過ごしている人にとってこそ、「開かれた時間」を過ごすことは大いに意味があると思っています。

──ただ、「タイパ」という言葉の流行に象徴されるように、最近は以前にも増して効率性や有用性が重視され、「閉じた時間」の割合は増えているようにも感じます。

学術的な調査をしたわけではないので明確なことは言えないのですが、僕たちを取り囲むメディアの変化、とりわけそこでの「好奇心ハッキング」という動きが一因かもしれません。

僕たちは、ラジオやテレビ、そしてインターネットといったさまざまなリアルタイムメディアに触れていますよね。それらメディアの即時性や瞬発力は、たしかに情報を素早く伝えることに貢献していますし、もはや僕たちの生活には欠かせないものです。

しかし、その即時性や情報発信のスピードは、僕たちの時間を断片化することにもつながっています。これは大きな時間スケールでの思考を阻害します。そして近年の広告やメディアは、人間の認知特性を踏まえた上で、私たちの時間を奪うことで収入を得る構造になっています。

そうした情報の中で、本当に重要なものはそう多くはないかもしれません。でも、人間は好奇心を抱きやすい生き物なので、さまざまな情報を見せられると「あれも大事、これも大事」と意識が情報に引っ張られてしまう。

もちろん、好奇心を持って、さまざまな情報を集めること自体は悪いことではありません。しかし、常にメディアを通して何かしらの情報に触れていると、特定の問題に対してしっかりと向き合う時間が削られてしまいます。

本来は、常に意識的に何かを考え続ける必要はないはずです。

たとえば、電車の中でただぼーっとしているようでも、実は僕たちは、何かについてぼんやりと考えています。一見すると無駄な時間に見えるこうした「マインドワンダリング」が、実は創造性と関わりがあるという研究も出はじめてきています。

しかし、その時間をXやInstagramを見ることに充ててしまうと、意識がそっちに向いてしまい、無意識のうちに蓄積ないし開拓されていたはずのアイデアや気付きが奪われてしまう。

僕自身もそうした傾向はありますし、みなさんも何となく感じていることなのではないかなと思います。

物理法則は、人間の「心」には適用できない

──時間のあり方としての「開く」と「閉じる」は、私たちの心のありさまを言い表しているようにも感じました。

人の心に関する問題を「時間」によって解き明かそうとするのが、ベルクソンのアプローチなんです。

ここまでの話で、「心」を考えるための道具はある程度出揃いました。ここからは、時間を通して僕たちの「心」あるいは「自由」というテーマについてお話ししていきましょう。

僕たちは「一本の線」の上を流れる単一の時間を過ごしているわけではなく、多様なスケールと幾重ものレイヤーを持つ、縦横無尽に広がる時間の中で生きているというお話を(前編で)しました。

そして、その時間のあり方自体が、僕たちの心の広がりや奥行きを表しています。

このことは、「自由」という哲学上の重要テーマ、より具体的に言えば「決定論」を考える際に大きな意味を持ちます。

近代科学が発展し、原子や分子が物理法則にのみ従って動くことがわかりました。そして、人間も原子や分子によって構成されているのであれば、人間もまた物理法則に則って動いている。

つまり、一人ひとりの自由意志なんてものはなく、脳内の電気信号や遺伝子配列といった物理的なものによって、思考や行動は決定されている、と言われるようになったわけです。

しかし、そういった議論もまた、「一本の線上に順番に並んだ時間」が前提になっています。こういった時間のあり方を無批判に受け入れ、決定論的には立論されているわけですが、これまでに話してきたように、僕たちが生きている時間はそんなに単純ではありません。

──「時間」の捉え方をアップデートすることで、さまざまな議論の前提が覆ると。

そういうことです。物理法則に則った「決定論」を比喩的に表現するならば、ドミノのようなものです。

ドミノが一列に並んでいて、最初の一つを倒すと、時間の経過と共に次々とドミノが倒れていく。計算をすれば、「何分後にこのドミノが倒れる」ことはわかりますし、それは最初のドミノが倒れた瞬間に決定されているというわけです。

たしかに、単一の時間しか流れていない物理の世界では、その通りのことが起こるでしょう。しかし、こうした単純な法則は人間の心には適用できません。

なぜならば、人間の心には未完了相の時間が存在し、「相互浸透」や「ポストディクション」という言葉を使って説明したように、複雑な相互作用が生じているから。

詳しくは僕の本やより専門的な文献にあたっていただく必要があるのですが、ごく切り詰めて言えば、ドミノのように「過去」の出来事が「現在」の出来事を決定するようにはできていないわけですね。

そういった複雑性を抱えながら生きていることこそが、「心を持っている」ということ。その複雑さを「一本の線」の中に押し込めるなんて、無理な話なんです。

議論のベースとなっている「時間」を捉え直し、「心」や「自由」に関する議論を展開した点がベルクソンの面白さであり、革新的な部分だと思います。

嗜好品における「儀式性」の持つ意味

──「時間」は「心」と深くつながっている、と。ここまでの議論を踏まえて、平井さんは、「嗜好品をたしなむ時間」は私たちの心にとってどのような意味を持っていると思いますか。

それを考えるにあたっての重要なポイントの一つは「儀式性」、つまり行為の手順が決まっていることにあると思っています。

僕たちの心は緊張したり弛緩したり、あるいは開いたり閉じたりと、忙しく動き続けています。そのダイナミズムがクリエイティビティの源泉にもなるわけですが、同時にとても疲れるんですよね。

これは最近翻訳した講義(『記憶理論の歴史 コレージュ・ド・フランス講義1903-1904年度』(藤田尚志・平井靖史・天野恵美理・岡嶋隆佑・木山裕登訳)書肆心水、2023)の中でベルクソンも強調していることなのですが、僕たちは生きているだけで疲れるようにできている。さまざまな時間を生きることによって、クリエイティビティを手にする一方で、悩んだり疲れたりしているわけです。

だからこそ、時には心の動きを止める時間が必要で、儀式性を持った「嗜好品をたしなむ時間」が、そういったオフの時間になり得ると個人的には思っています。

決まった場所で、決まった手順で、決まったお茶やコーヒーを淹れる。そういった儀式に身を任せることが、心を休めることにつながるかもしれません。

だから、あまりこだわり過ぎないことが大事という側面もありますよね。「今日はこの茶葉にしようかな。でも、やっぱりこっちがいいかな」と考えすぎると、それだけで大きなリソースを使ってしまいますから。

もちろん、選択すること自体が一種のアミューズメントとして機能し、活力を生み出すこともあると思います。しかし、心の動きを止めてしっかりと休むという観点から言えば、「決まっていること」も大事なのではないでしょうか。

──どこで休むか。休む「場所」を決めておくことも大事なのでしょうか?

そう思います。僕自身、どれだけ仕事が忙しくても、意識的に数分間の空き時間をつくるようにしていて、その時間はベランダに置いたロッキングチェアで過ごすようにしているんです。

そうすることによって、身体がそこを「休む場所」として記憶し、そこに行くことによって自然と心と身体が休まるようになります。

記憶を司るのは、脳内にある海馬という部分だ、という話を聞いたことがあるかもしれません。海馬はもともと時間記憶ではなく、「場所に付随する記憶」を覚えるようにできているとする説があります。僕たちは場所記憶を転用して、時間記憶を形づくっている。

だから「どこで休むか」はとても重要で、僕の場合はベランダのロッキングチェアに行くと、自然と身体が休むモードにシフトチェンジするようになっている。

うまくくつろげないという方は、場所を決めて嗜好品を楽しんでみるといいかもしれませんね。

「時間を開いておくこと」が、心の地形を変える

──一方で、未知の嗜好体験に身を投じてまったく新しいものに触れる時間もまた、まさに「何につながるかわからない時間」、すなわち「開かれた」時間を過ごすことにつながるのではないかと思ったのですが。

嗜好体験が僕たちの心にもたらすものは、大きく分けて2つあると思っています。

1つは先ほどご説明した、日常の中に「儀式」としての嗜好体験を取り入れることによって生じる癒やし、です。そしておっしゃる通り、「非日常的な嗜好体験による、新たな刺激」も、また別の作用として重要なのはたしかでしょう。

そのどちらも重要だと思いますし、うまくその2つを使い分け、ときには組み合わせることで、よりよい効果が期待できるかもしれませんね。

後者の「非日常的な嗜好体験」については、美術館に行ってアートを鑑賞することや、旅行に行くことを想像するといいと思います。

僕は絵画を見ることや、どこかに出かけることも嗜好体験の範疇だと思っているのですが、それらの体験は僕たちに新たな刺激を与えてくれます。

それによって、僕たちはこれまで知らなかった世界の姿を知り、その姿に対して自分がどう反応するのかも含めて、予測不能な「開かれた時間」を過ごすことになる。

──ときには新しい嗜好体験をすることも重要だと。

ただ、実は「新しさ」を感じるのはそう簡単なことではありません。

先ほども触れたように、僕たちは何でも丸め込む力を持っているので、見たことのないアートに触れたとしても、「前に見たあれと同じテイストだな」と型にはめて理解することができてしまう。

だから、ただ「見たことのないものを見る」だけでは不十分で、常に「開かれた時間」のスタンスを持っていないと、新たな嗜好体験がもたらす効果を受け取れません。

前編でご説明したベルクソンの時間哲学の「アスペクト」の議論に即して言えば、「アートに触れる時間」を「完了相」にしてしまわないことが重要だということですね。

──「時間を開いておくこと」が求められている。

はい。僕たちは毎瞬間、世界から浴びるように情報を受け取っています。

しかし、僕たちの心は原子の集合体ではありません。「どんな情報を、どのような形で受け取ったら、どのように心が動くか」には、無限のバリエーションが存在します。

それは単に一本の幹から無数の枝が生えているということではありません。むしろそういう「枝分かれ」の捉え方が、時間の問題を見誤らせてきたのです。

未完了相のお話をしました。また、時間スケールが一つでないこともお話ししました。前後の流れ自体をアドリブで作りながら、一部をもっと大きな時間に投げ送ったり、逆にそこから受け取ったりしながら、私たちの時間はダイナミックに変容していくのです。

膨大な記憶のプールがいつでもそこにあって、融合や分離を繰り返しながら意識に環流してきます。

僕たちの心を形づくる時間が開かれているからこそ、緊張と弛緩を通じて僕たちはその中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、異なる階層に上がったり下りたりしながら、さまざまなアウトプットを創り出すことができる。

そして、山から流れ出る水が川となり、やがて地形をつくるように、その縦横無尽な動きは、いつしか僕たちの心のあり様を変えていくでしょう。

心の地形が変わることは、世界の見方が変わることにつながります。

だから、常に心を、そして時間を開きながら世界と関わり続けることが重要なのです。

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  • 著者:
    鷲尾 諒太郎
    1990年、富山県生まれ。ライター/編集者 ←LocoPartners←リクルート。早稲田大学文化構想学部卒。『designing』『遅いインターネット』などで執筆。『q&d』編集パートナー。バスケとコーヒーが好きで、立ち飲み屋とスナックと与太話とクダを巻く人に目がありません。
  • 編集:
    小池 真幸
濁流のように去りゆくこの時間を、心が溶けるひとときに。