連載

人は嗜癖からはじまる:精神科医・松本卓也

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。『DIG THE TEA』では連載シリーズ「現代嗜好」を通じて、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

第6回は、精神科医の松本卓也をたずねた。医師でありながら、ジャック・ラカンの精神分析をベースに現代思想の研究・言論活動も手がける松本は、臨床と理論を往還しながら、現代社会における「狂気」や「享楽」のあり方を探求している。前編では、主体化のプロセスにおける「移行対象」の果たす役割を検討したうえで、享楽と「おぞましさ」の切っても切れない関係性や、誰しもはらんでいる「依存症」性、さらには嗜好品が可能にするオルタナティブなコミュニティへの逸脱まで語ってもらう。

(編集・文:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海  写真:佐藤麻優子)

主体化に必要な「移行対象」は、人生最初の嗜好品

──松本さんのご専門である精神分析学の見地に立つと、嗜好品が果たしている役割はどのように捉えられるのでしょう?

20世紀中盤に活躍したイギリスの精神分析家ドナルド・ウィニコットの「移行対象」の議論を参照すると考えやすいと思います。移行対象とは、スヌーピーが登場する漫画『ピーナッツ』に出てくるキャラクターのライナスが抱えている毛布のように、子どもが「ずっと手にしていないと安心できないもの」を指します。幼い頃、どんなにボロボロになっても捨てられなかったぬいぐるみと同じです。僕が研究しているジャック・ラカンはこれを「対象a」と呼びます。

結論からいえば、嗜好品は、この移行対象と同様の役割を果たしているのではないかと考えています。ウィニコット自身、嗜癖(しへき)がこの移行対象と関係していることを示唆しています。移行対象は、人生最初の嗜好品であるともいえるでしょう。

──人はなぜ移行対象を求めるのですか?

手元にあることで落ち着ける対象というものがあって、はじめて自分のベースキャンプを定められるからです。特定の対象に執着することで、はじめて主体化が成し遂げられる、つまり「私」という主体が形成されるわけです。「人は嗜癖からはじまる」というテーゼを立てていいと思うんです。

これは動物も同じです。ブリーダーさんから子猫をもらってくるとき、もともとくるまっていた毛布や、使っていたトイレの砂を一緒に持ち帰ることがあります。こうした対象があってはじめて、子猫に安心して居着いてもらえるようになるからです。

──移行対象は、主体化するために必要不可欠なものであると。

はい。そもそも子どもは、生まれたときから母親と密着していて、一人でいることはできないわけです。しかし、母親はさまざまな用事で目を離すこともあるし、ずっと子どものそばにいてくれるわけではありません。つまり、子どもは必ず、母親の身体を喪失する体験を経るわけです。そのとき、母親の身体の痕跡が残っているものが手元にあることで、母親の喪失という体験を補うことができるのです。これが「移行対象」の機能です。母親に抱っこされていたときに包まれていた毛布などは、その代表例ですね。

ただ話はそんなに単純ではありません。この「移行対象」を獲得するプロセスは、子どもにとって母親から離れて自己を形成する、つまり主体化していくうえで、必要不可欠な契機なのです。考えてみれば、子どもにとって母親は、自分の生存を支えてくれるありがたい存在であると同時に、自分のすべてを支配する恐ろしい他者でもあります。

授乳してもらっているときは「ずっと近くにいてほしい」と思う一方で、授乳してもらえないときには幻滅が起こる。さらには、「あっちに行ってしまえ」といった感情も湧き出てくる。すると、移行対象とは、それを手にすることで母親から離れていくことを可能にする対象だとも言えるわけです。

もう少し細かく説明すると、ここで言う「移行」とは、自分と他者を区別できる状態に行き着くまでの、過渡期という意味です。ウィニコットは、移行対象を持つことで、子どもは現実から離れた空想を働かせられるようになると言っている。それまでは子どもにとっての世界は抱っこされているお母さんの身体しかありませんが、移行対象、つまり母親を抽象化した対象を持つことで、母親の身体しかない状態から脱し、自分の考える能力というのが育まれるわけです。自分らしさが生まれ、主体化していくんです。

移行対象とは、母親とのつながりの痕跡である一方、母親の支配から手を切って主体化させ、自分らしさを生み出すきっかけでもある。本来的に両義性を帯びているわけです。

おぞましさこそが、享楽を可能にする

──ということは嗜好品も、移行対象と同じく、両義性をはらんでいるということになるでしょうか。たしかに、気持ち良さはたいてい気持ち悪さと紙一重ですよね。僕はコーヒーや紅茶、お酒や葉巻が大好きなのですが、摂取しすぎると、すぐに気持ち悪くなってしまいます。

おっしゃる通りです。「移行対象」も嗜癖から始まりますからね。同じく性愛や享楽の対象には両義性があります。少し前に『君の名は。』という映画が流行りましたよね。あの映画に出てくる「口噛み酒」というものが、まさにそのことを体現していました。これは噛んだ米を吐き出して作るお酒で、主人公が途中でつながることができなくなってしまったヒロインの痕跡が、唯一残されたものとして描かれています。

よく考えたら、かなり気持ち悪いお酒ですよね(笑)。実際、口噛み酒を作っているシーンで、引いてしまった視聴者も少なくなかったようです。でも、そのおぞましさこそが、切断されたつながりを回復するためのキーになっている。すべての関係が切れても、この特権的な対象を経由すれば、つながりを回復できるというわけです。もっとも、『君の名は。』では、口噛み酒は関係をつなぐための痕跡としてしか登場せず、関係を切るためのものとしては描かれていません。新海誠監督の作品がしばしば「童貞くさい」と評されるのはそのためかもしれません。

この例のように、あらゆる嗜癖の対象となるものは、おぞましい側面がある。むしろそのおぞましさによって初めて性愛や享楽が可能となる。たとえば、寿司もそうですよね。冷静に考えると、ナマの切り身を職人が素手で握るなんて衛生的ではない。しかし、だからといって清潔な機械が握ればいいというわけではありませんね。実際、機械の握った寿司に、拒否感を覚える人は少なくありません。寿司もまさに、おぞましさや汚さを享楽しているのだと思います。

──誰もが執着する美食には、気持ち悪いものが多いですよね。たとえば、フォアグラだって、ガチョウやアヒルに必要以上の餌を与え、肝臓を肥大させたものを食べている。

文化的なものはそもそも両義的なんです。かのジークムント・フロイトも、人間のエロス的側面について「不快が性的興奮に転化する」ことを論じています。ところが、現在の状況は、その両義性をできるだけ廃しようという動きがますます熾烈になってきている気がします。哲学者の千葉雅也さんも、世の中がどんどんクリーンになり、気持ち悪いものがどんどん排除されていくことに警鐘を鳴らしていますよね。タバコへの風当たりが強くなっていることに顕著に表れていますが、「気持ち悪いけれど、だからこそ気持ちいい」という感覚が消えつつある。「一周回って」という逆接が作用しなくなり、「気持ち悪いものは気持ち悪いし、汚いものは汚い」と、人間がひだのない、単純なものになりつつある。

誰しも依存症である。依存先の一点集中こそが問題

──嗜好品が本来持っている両義性が、どんどん認められなくなってきていると。

そもそも嗜好品は、自分の中から溢れ出てくるものを、コントロールするために摂取するものです。精神分析の用語でいえば、抑えがたい「欲動」が人間にはたくさん溢れていて、それをなんとかして発散させて処理するために、嗜好品をたしなむわけです。言い換えれば、人間の欲動というのは、気持ち悪いものを通じて享楽に至るんですね。

タバコは、ニコチンの摂取そのものではなく、手持ち無沙汰の解消のために吸う人も多いでしょう。電車に乗っていて何もすることがないときに、身体の内側からそわそわする感じが溢れてきて、別に見たくもないのにスマホでTwitterのタイムラインを更新し続けてしまったり、やりたくもないのにパズルゲームを開いてしまったりするのと同じです。

もっと言えば、依存症も、似たような原理から起こっているといえます。最近は「自己治療仮説」というモデルが提唱されています。過去の耐え難い体験の記憶が内側から蘇ってきて辛い感情が押し寄せてきた時に、その感情を処理するための逃げ場として、特定の物質に依存してしまうと。ある意味で依存とは、自分で自分に対する治療と捉えているわけです。

──なるほど。嗜好品の摂取と依存症は、似た働きをしているのですね。

依存それ自体が病的なわけではないんです。移行対象への嗜癖からスマホいじりまで、誰しもなにかに依存している。むしろ重要なのは、よくいわれることですが、依存先を集中させないことだと思います。

小児科医の熊谷晋一郎さんの自立に関する議論は参考になります。自立と言うと、障がい者の自立ばかりが議論されるけれど、例えば健常者とされる人であっても、自分で水道を掘ったりガスを引いたりできるわけではない。つまり、本当は誰もが、さまざまなものに依存しているのだけれど、なぜかそれは都合よく無視され、「健常者は自立している人」「障がい者は自立していない人」と区別されている。でも、それは本当はおかしい。依存はグラデーションであり、どれだけ依存先がたくさんあるかが大事だと、熊谷さんは論じています。

ある程度健康な人は、依存先が分散している。さまざまなものに依存しており、依存のリスクヘッジがなされている状態こそが、ほどほどに健康ということなんです。逆に、湧き上がってくる内的な欲動を、一個のものでしか処理できなくなっている状態は不健康というより、危険なわけです。依存症にもさまざまなタイプがありますが、リスク分散ができていない点は共通しています。盗癖であっても、対人関係の嗜癖であっても、「それだけ」になってしまうから大きな問題が生じるんです。

スマホをいじったり、友達と喋ったり、映画を観たり、お酒を飲んだり……人は本来、さまざまな仕方で欲動を処理しています。しかし、ある特定の物質ばかりを摂取し続けるようになると、身体を壊してしまうし、そうすると友人とのつながりも狭くなってしまいます。すると、ますます限られた対象だけに依存するようになる。それが一番の問題なんです。

──どうすれば依存先を分散させられるのでしょう?

嗜癖の萌芽が、社会のあらゆるところに用意されていることが大事だと思います。社会的には逸脱とみなされるけれど、ちょっとはまれるようなおぞましいものが、社会の中にたくさん散らばっていることです。嗜癖の対象とは本来おぞましいものだと言いましたが、何を享楽に感じるかは人それぞれです。多くの人にとっては単におぞましいものでも、社会の中にささやかな場所を残しておくことで、それを気持ちいいと思う人がちょっとずつ手を伸ばすことが可能になる。そうすることで依存先を分散させられるわけです。逆にそうしたおぞましいものを「汚いからダメ」「身体に悪いからダメ」と消し去っていくと、小さな依存先が失われてしまい、特定のものに極端に依存するようになってしまうわけです。

嗜好品は、オルタナティブなコミュニティへと逸脱させてくれる

──クリーンなものばかりを志向して、嗜好品を排除していくと、結果的により深刻な依存が引き起こされるのですね。

もっとも、「表現規制」の話題でつねに議論になるように、歴史的かつ累積的に維持されてきた性差別的な表現などは、その意味ではもちろん全廃すべきであるというわけではありませんが、世の中の至るところにそれがあるような全面化した状態は問題でしょう。あくまで程度問題として、どれだけアクセス可能性が確保されているかという点が重視されるべきでしょう。

そして、嗜好品で大切なのは、ただ愛着するためだけのものではないということ。移行対象が母親から離れるきっかけとなっていたように、嗜好品は、つなげるものであると同時に、関係を切るものでもあります。たとえば、喫煙所。仕事の休憩で喫煙所にタバコを吸いに行くということは、いま自分が置かれている人間関係から一旦切断され、別のコミュニティへとつながることです。実際、喫煙所では、普段いる部署ではなされないような、多様な情報交換がなされるじゃないですか。そして、そこで得た情報や構築した人間関係が、本来の仕事に戻った後で活きることもある。私は喫煙者ではありませんが、たまのつきあいで行った喫煙所でそんな光景をたくさん見てきました。

つまり嗜好品は、それをたしなむ「場所」と一緒に作用することによって、オルタナティブなコミュニティへとつなげてくれるものなんです。自分がいつも属している、資本主義に則って、制度的にもかっちりしていてどこか息苦しいコミュニティとは違う、オルタナティブなコミュニティを発生させるための欠かせない小道具として、嗜好品はある。切断しつつ、接続する。そうした往復を可能にさせてくれるのが、「嗜好品+場所」だというわけです。

──ただ、最近はさまざまな場所で、喫煙所が撤廃されていますよね。

まさに僕がいる京都大学でも、最近になって喫煙所が一掃されました。こうした避難場所がなくなっているのは、由々しき事態だと思います。ちょっとした逸脱、普段のコミュニティからちょっと切断して、一時的にオルタナティブなコミュニティに行くことを可能にしてくれる場所がなくなってしまった。

同じく、京都大学ではここ数年で、キャンパスから外部に向けた立て看板が即座に撤去されるようになってしまいました。立て看板というのも、異物との出会いにほかなりません。怪しげな看板とか、よくわからないものと出会うことで、普段の「まっとうなキャンパスライフ」からの離脱が生まれる。そうした逸脱は、息苦しさを回避するために、学生にとっても、教員や職員にとっても、必要不可欠なものです。また、かつては立て看板を見た地域の住民がいろいろなイベントに参加してくれることもありました。つまり、立て看板は「社会に開かれた大学」の一種の「窓」だったわけです。

僕が学生だった頃と比べても、最近の学生はちゃんと授業に出席するし、課題の量もすごく多い。オンライン授業になって、その傾向はますます加速しました。だからこそ、息の詰まる「まっとうな大学生活」から離脱できる、ちょっと不気味かもしれないけれども心躍るような逸脱が可能な場所が必要だと思うんです。そして、そこで得た経験こそが、新しい発想を生み、学問をいい意味でかき乱していく。それを京都大学は「自由な学風」と呼んできたはずです。しかし、そうした自由さの萌芽が、一掃されてしまったわけです。この「現代嗜好」のシリーズには、山極壽一さんも登場するようですが、彼が総長をやっていた時代にそのような舵取りが強力に推進されたことは、はっきりと指摘しておきたいと思います。

──ただ、あまりに逸脱ばかりになっても困りませんか? 逸脱しすぎずに、また戻ってこれるようにするためには、何が必要なのでしょうか。

さまざまな逸脱先があれば、自然と戻ってきますよ。ずっと同じところに居続けるのは、それはそれで不快ですから。仕事場にずっといるのは辛いですが、逆に「喫煙所に8時間居ろ」と言われたら、ものすごく苦痛ですよね。だからこそ、逸脱の場所はたくさんあったほうがいい。

逆に、逸脱先が一箇所しかない状況になると、かなり苦しくなってしまいます。ゲーム依存が問題なのは、ゲーム以外にちゃんとした居場所がないからなんです。家庭内で不和や暴力があったり、学校でいじめやトラブルがあったりして、安心して自分のベースキャンプを置く場所がないとき、避難先としてゲームだけに依存してしまう。他に逸脱先がないと、そこに依存し続けて苦痛になったとしても、居続けるしかない。

だから、逸脱先を分散させることが大切であり、そのためにも喫煙所のような場所や、立て看板のような逸脱のためのドアを簡単に撤去してはいけないんです。そういった逸脱を禁止する法があったとしても、運用において法に抵抗することも可能です。たとえば、立て看板は、1週間に一度、あるいは1カ月に一度、撤去作業を行えばいい。そうすれば、立て看板を立てたい人は立てたり撤去したりすることができますし、大学も行政に対して「ちゃんと撤去してます」と言えるわけです。わざわざ職員を早朝から出勤させて「即時撤去」すると、そのような余白はなくなってしまいます。

》後編:全体化の論理に抗うコミュニティを作ろう:精神科医・松本卓也

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