日本各地に点在するお茶の産地では、毎年4月下旬ごろから茶摘みと製茶がはじまる。艶やかで青々とした茶畑を眺めれば、本格的な春の訪れと、これからやってくる夏の予感を感じずにはいられないだろう。新茶ならではの爽やかな香りと味わいも、この季節だけの特別な体験だ。
『DIG THE TEA』では2022年、「新茶をめぐる冒険」と題して、お茶のスタートアップ「TeaRoom」代表で茶道家の岩本涼さんの案内のもと、各地の茶の生産地をめぐり、個性豊かな新茶シーンをひもといていく。
私たちは、5月下旬に再び静岡を訪れ、有機栽培の「かぶせ茶」を生産する藤枝市の茶農園「小葉香(コバコー)」と、静岡市清水区のオリジナル品種「まちこ」を栽培する「自然農法杉山農園」を訪ねた。
山に囲まれた自然豊かな環境にある有機栽培の茶畑
五月晴れのその日、東京から静岡へ向かった。
新幹線で約1時間。都会から離れるほどに空が広くなり、神奈川県を抜け静岡県にさしかかるころには、イワシの背中のように青黒い色をした太平洋が、進行方向左の車窓を彩りはじめる。
右手には生い茂る緑の山々。このエリアは日本でもトップクラスの日照時間を誇る。海と山の強い気配、生命力に呼応して心が浮き立つようだ。
静岡駅で、TeaRoomの岩本さんと合流し、車に乗り換えてまず向かったのが、玉露の名産地として有名な藤枝市朝比奈川沿い。
静岡県は、太平洋プレートとフィリピンプレートに押し上げられた大地が、水深2500メートルもの駿河湾から一気に隆起したエリア。つまり平地は少ない。ひっきりなしにアップダウンを繰り返すうちに、地図を見ていても、いったい自分がどこを走っているのかよくわからなくなった。
この山間部の中で、日照時間や降水量、水はけなど条件のよい斜面が昔から良質な茶を生み出す生産地として知られてきた。
道すがら、ありとあらゆるところにチャノキが植えてあるのも印象的だった。車道沿いの細長い畑、一般家庭の庭、さまざまなところに日本庭園のように丹精されたかまぼこ型の緑色が整然と連なっている。
中には手入れされることがなくなり、自然に還りつつある放棄茶畑もあった。
1時間ほど繰り返し現れる、山、茶畑、山、茶畑の風景。
「山また山のその向こう……」と物語の中に入り込んでしまいそうなところで朝比奈川沿いの県道210号に出た。
緑の濃淡で彩られた山のひだから立ち上るように靄が出ている。清らかな水が軽快に流れる川の淵には、今では少なくなった天然のうなぎもいるそうだ。この川から立ち上る霧が良質な茶を育むという。
急な傾斜地での茶の収穫で大切なこと
県道210号から少し外れた集落の中に茶農園、小葉香(コバコー)はあった。コバコーは近隣にいくつかの茶畑を持ち、主にオーガニックの碾茶をはじめ玉露、かぶせ茶を生産している。碾茶とは抹茶にするためのお茶のこと。碾茶も玉露もかぶせ茶も、茶畑に覆いをして日光を遮って栽培するのが特徴だ。
今はお茶の刈入れ時で、収穫した葉は間髪を容れずに工場の製造ラインに乗せていく。加工前の茶葉はまさに生鮮品。収穫から加工まで一気に進めなければならない。私たちが到着したのは、ちょうど製造ラインが一息ついたところのようだった。
「こんにちは」
製茶工場の中からにこにこと現れた代表の小林芳昭さんは、全身がほんのり緑色に色づいていた。
比喩ではない。よく見ると、作業着はもちろん、手の甲や小鼻のわきなどにまで、粉状の茶葉が入り込んでいる。今まで製茶の現場で忙しく立ち働いていたことが容易に想像できる。
しかし、まったく疲れを見せることなく小林さんは言った。
「じゃ、まず今収穫中の畑に行ってみる?あの山の上のほう、人が働いているのが見えるでしょ」
指差す先は見上げる山のかなり上。首が痛くなるような斜度だ。今いる場所がすでにそこそこの標高だと思われるが、さらに100メートルは高そうだ。そこに豆粒のようにしか見えないけれども確かに人の姿が見える。
小林さんの軽自動車のバンに乗せてもらって5分後、今までに輪をかけて急斜面の道、しかも対向車とすれ違えないほどの細道に入る。竹林の中に縄を投げたように這い回るこの細い道づたいに、車は縦横無尽に登ったり降りたりを繰り返す。山の茂みを駆け回る虎のようだなと思う。静岡の山を全然わかっていなかったと反省した。
後部座席に座った私たちは、座席から放り出されないようアシストグリップをしっかり握りしめるのみだ。ぐいぐいと標高が上がっていき、この道を引き返すことはできないんじゃないかと不安になり始めたあたりで車が止まった。さきほど見上げた茶畑に到着したのだった。
山の上にぽっかり開けた斜面の畑では、茶の収穫の真っ最中だった。
静岡県の山間地茶園面積の38%が傾斜度15度以上というが、まさしくこのような茶畑なのだろう。まるでスキー場の中級者コース並みの傾斜の地に、気持ちよさそうに陽を浴びてツヤツヤと輝く茶の木が葉を茂らせている。
茶畑に下りていく小道に農業用モノレールが走っていく。
つんのめって転がり落ちそうなこの斜面で、バランスを崩さぬように作業をするだけでも至難の技と思われる。しかも働く人は高齢者も多い。
茶摘みは、2人掛かりで大きな弓形の茶刈り機(可搬型摘採機)を生垣を挟むように持ち、一定の高さに合わせて新芽を刈っていく。茶刈り機にはサンタクロースが担ぐような大きな袋がついていて、刈り取られた茶は袋の中に収まる仕組みだ。
後ろから袋を持つ担当者がついていく。小林さんいわく「簡単そうに見えてあれもなかなかコツがいるだよ。3人の息がぴったり合わないといけないからね」と教えてくれた。
茶の収穫時期には、親族や友人、その子どもたちなど、茶栽培のことをわかっている仲間が互いの茶畑を収穫してまわるそうだ。茶の収穫で大事なのは助け合いとチームワークなのだという。
「私たちは子どもの頃から一緒に茶畑で遊んで働いてきた仲間だから、阿吽(あうん)の呼吸、ちゅうわけさ」
「そうそう。わしらは茶から生まれて茶の中で育ったからのう(笑)」
そんな朗らかな会話やユーモアの奥に、確かな強靭さが見える。この日も、早朝から茶摘みに製茶にと、休む間もなく働いたあとに、軽々と車を駆って山を走り回る。驚くほどのバイタリティ、なにかお茶の魔法があるのかもしれない。
天空の茶畑から眺めた青くきらめく駿河湾
さらに標高の高いところにあるかぶせ茶の茶畑で、収穫前に覆いを取る作業をしているとのことで、それを見せていただくことに。
今いるところよりもまだ高い場所に茶畑があるのかと嘆息するばかりだ。
旨みや甘みを引き出すために、収穫前の1週間から10日間ほど、直射日光を遮る黒い覆いで茶畑の生垣をすっぽりと覆うのがかぶせ茶の特徴だ。玉露となると、日光を遮る期間はさらに長くなる。
茶畑では、覆いを取った端から収穫していくという。ここは比較的平らな土地のため、乗車型摘採機が活躍していた。
「もうひとつ、もっと高いところにある茶畑も見てみる?」
さらに高いところに? 驚きでひっくり返りそうになりながらも、再び小林さんのバンに乗せてもらい、頼もしいエンジン音とともに曲がりくねった山道をぐんぐん進む。
誘われるままに、なんと遠く、山の高みまできたことか。
ふと視線をあげると、青々と広がる茶畑の向こう、山と山の間から見えたのは、青くきらめく駿河湾だった。海のほうから吹く風が、茶畑を渡ってやってくる。
「いい眺めでしょう」
小林さんのその言葉を聞きながら、深く深く息を吸い込んだ。
“桜葉の香り”を纏った新品種のお茶
次に向かったのは、静岡市清水区の自然農法杉山農園。こちらでは「まちこ」と呼ばれる新品種の茶を育てているという。
まちこは「クマリン」という香り成分が含まれる珍しい品種で、飲んだあとに、桜の葉のような個性的な香りが残る。ちなみにクマリンは製菓材料として使われるトンカや桜の葉にも含まれる。日本人にとっては“桜餅の香り”として親しみ深い。
訪れた茶園は、まさかこんなところに茶園が!と驚くほど山深いところにひっそりと佇んでいた。
道路の脇の斜面に、扇型に茶畑が広がっている。
いつか写真で見た、インド・ダージリンの茶畑の風景にも似ているような気がする。この中に身を置いてみたいという衝動にかられる美しさがこの畑には宿っている。
ときおり通る車の音以外は、川のせせらぎの音しかしない。夏が来ると、この川には蛍も現れるという。美しい水辺にしか棲めない蛍の光が茶畑を縁取る夕暮れは、夢の中で見た風景のように美しいにちがいない。
植えられたまちこの新芽の色は、これまで目にした茶畑よりも、少し紫がかった暗色を帯びていた。これもまたこの品種の特徴である。
葉を1枚摘んで指先でもんでみると、ミントのような清涼感とともに、懐かしい桜の葉の香りがした。
個性的な香りの「まちこ」は新時代の緑茶。海外でも人気に
まちこは清水区以外でも栽培されているが、10年ほど前に、清水区の茶農家や農協、役所が協力して研究を重ね、香りが強く出る製法を開発したそう。ちなみに正式名称は「静7132」だそう。
今回畑を見せていただいた自然農法杉山農園の杉山隆良さんが、この畑で有機農法によるまちこの栽培に取り組んでから10年になるという。
「『霧がかかって半日影』という条件の場所が、このお茶の栽培に適しているのではないか」という仮説のもと、試行錯誤を繰り返した。
湿度が高い日本の気候での有機農業は病害虫などのトラブルが起きやすい。そのため、栽培技術を成り立たせるためにかなりの苦労があったはずだ。
そのうえ、製品として一定の品質と量を確保し、工場を動かすためには、20アール(2000平方メートル)の畑が50個分必要だそう。
急傾斜地の畑に設置された農業用のモノレールで畑の上の方まで堆肥を持ち上げて肥料を施したり、収穫後の茶に露が残らぬように乾かしたりするなど、細やかな作業について語る杉山さんの表情は柔和である。
「お茶栽培というのは何代にも渡って伝えながら少しずつ進化してきた、ものすごい技術と英知の結晶なんです。代々積み重ねてきたその技術を、美味しいお茶を飲んでいただくことで多くの人に伝えられたらと思っています」
こうして大切に作られた有機栽培のお茶は、海外でも人気があり、引き合いが強いという。
杉山農園では、畑の改植を進める中で、慣れ親しまれた旧来の品種だけでなく、新たな個性を持った次世代の茶を育ててみたいと、新しい品種の栽培にも積極的にチャレンジしている。
「これまで緑茶はブレンドしたものが好まれていましたが、最近は個性が際立った品種が好まれるようになっています。まちこをはじめ、香りに個性があるものに改植して、新しいお茶の楽しみ方を提案していきたいんです」
長年培われた技術を大切に継承しながらも、常に未来を見据える姿勢。
試行錯誤を繰り返しながら、ハードな力仕事を丁寧にこなす。そんな日々から生まれる、自らが作るお茶への誇りと自信。
こうした茶農家の人々の奮励によって、あの芳しい新茶の味わいが私たちのもとに届けられているのだ。
今日も急須に茶葉を入れ、お湯を注いで茶葉がゆっくりと開くのを眺める。
お茶の時間に、湯のみに注ぎきった一杯のお茶の色、香り、味を心ゆくまで味わうと、この日に見た、あの山中の美しい茶畑の気配がふんわりと蘇るのだ。
写真:江藤海彦
山形県鶴岡市出身。料理研究家、ライター。TVや雑誌、ラジオなどへのレシピ提案や商品開発、料理教室を主宰するかたわら、食に関する著述も行う。著書に『パッと作れて旨い! 居酒屋おつまみ』(宝島社)など。山形特命観光・つや姫大使、山形県農林水産部県産米ブランド推進委員、鶴岡市観光大使を務める。
合同会社ディライトフル代表。1976年、埼玉県秩父市出身。早稲田大学第二文学部在学中より、制作会社にて編集者、ライターのアシスタントとして雑誌などの制作に携わる。2004年よりリクルートにてフリーマガジン『R25』の創刊に携わり、編集を担当。2010年に独立し、雑誌、書籍、ウェブメディア、企業や自治体が発行する冊子、オウンドメディア等の企画、編集を手がけている。
ひとの手からものが生まれる過程と現場、ゆっくり変化する風景を静かに座って眺めていたいカメラマン。 野外で湯を沸かしてお茶をいれる ソトお茶部員 福岡育ち、学生時代は沖縄で哺乳類の生態学を専攻