「ラグジュアリーブランド」という言葉から、どのようなブランドを想起するだろうか。
これまで「ラグジュアリー(産業)」は、ヨーロッパのコングロマリット(多領域のビジネスを展開する巨大企業)が牽引する、富裕層向けの高付加価値ビジネスと捉えられてきた。しかし近年、サステナビリティ意識の高まりなどを背景に、ヨーロッパを中心とする旧来のラグジュアリーとは一線を画す「新ラグジュアリー」論が勃興しつつある。
「ラグジュアリーは、テクノロジーではなく人文知を起点に生み出され、新たな文化を創造してきた」
そう語るのは、『新ラグジュアリー 文化が生み出す経済10の講義』(クロスメディア・パブリッシング,2022)の共著者である安西洋之さん。
安西さんはストックホルム経済大やハーバードビジネススクールで教鞭をとるロベルト・ベルガンティが提唱する「意味のイノベーション」(製品やサービスに新しい「意味」を持たせる、あるいは見つけることによってイノベーションを起こす手法)という概念を日本で広めた「ビジネス+文化のデザイナー」だ。
ワインや葉巻(シガー)、あるいはコーヒーなどの嗜好品の中には、高い付加価値を有し、旧来のラグジュアリーに組み込まれているものも存在する。しかし、ラグジュアリーが変容する中で、「ラグジュアリーな嗜好品や嗜好体験」のあり方も変わりつつある。
DIG THE TEAでは「新たなラグジュアリーと嗜好体験」をテーマに、安西さんにインタビューした。浮かび上がってきたのは、「固有性から普遍性へ」、そして「部分から全体へ」──ラグジュアリーと嗜好体験を取り巻く大きな二つの流れだ。
(文:鷲尾諒太郎 編集:小池真幸 サムネイル写真撮影:Ken Anzai)
「古いラグジュアリー」から「新しいラグジュアリー」へ
——そもそも安西さんはなぜ「ラグジュアリー」というテーマに関心を持つようになったのでしょうか?
ビジネスとしてラグジュアリーに関わり始めたのは、いすゞ自動車に勤めている際、当時同じくゼネラル・モーターズ傘下にあったイギリスのロータスという自動車メーカーのスポーツカーの共同開発プロジェクトに参加したことがきっかけです。
その後、いすゞ自動車を退職し、ヨーロッパに拠点を移した後、いわゆるスーパーカーや家具のビジネスなどに携わりました。
ただ、当時は「ラグジュアリー」という概念とそこまで真剣に向き合っていたわけではありませんでした。スーパーカーも高級家具も、単なる商材として認識していました。
そんな僕が「ラグジュアリー」を考えるようになったきっかけは、リーダーシップ論やイノベーション論の研究者であるロベルト・ベルガンティの『突破するデザイン』(日経BP,2017)の監修を務めたことです。
ベルガンティは「意味のイノベーション」の提唱者として知られています。これは、製品やサービスに新しい「意味」を持たせる、あるいは見つけることによってイノベーションを起こす手法です。この考え方に触れて、自分も「意味のイノベーション」を起こす当事者になりたいと考えるようになったとき、視界に入ったのが「ラグジュアリー」でした。
というのも、ちょうどその頃、イタリアのファエンツァにある国際陶磁器博物館のディレクターと知り合って、国際的なセラミック(陶磁器)マーケットについて教えてもらったんです。
日本では、茶器のように特定の機能を持った器がとても高値で取引されることがありますよね。でも、ヨーロッパのマーケットで高値が付くのは機能を持たない、いわゆるアート作品としてのもの。コップや器のような品々は、高くても600〜700ユーロほどの値しか付かないけれど、ファインアートのギャラリーに行くと、用途がはっきりしない、わけのわからない形状の陶磁器が最低ラインが2,000ユーロで取引されている。
そういった状況を知って「その差は何によって生じているのか」と考え始めたことをきっかけに、本格的に「ラグジュアリー」に関心を持つようになりました。
——著書のタイトルでは「新ラグジュアリー」を謳っていますが、それまで「ラグジュアリー」はどのように定義されてきたのでしょうか。
そもそも、「ラグジュアリー」そのものに明確な定義はありません。にもかかわらず、特定の定義があるように装い、ラグジュアリー産業を牽引してきたのが、LVMH モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトンといったフランスのコングロマリットです。
彼らは「我々が生み出しているものこそがラグジュアリーである」というスタンスを取った。自ら定義したわけなので、そこに「間違い」があるわけではありません。
ただ同時に、唯一無二の「正解」があるわけでもないので、ラグジュアリー産業に参入するにあたっては、彼らが生み出してきたものに倣う必要もない。
そういった背景もあり、近年ではヨーロッパ以外の地域からもスタートアップが台頭し、旧来のラグジュアリーと一線を画した新しいラグジュアリーが生み出されているのです。
——では、旧来のラグジュアリーと新たなラグジュアリーの差は、どのような点にあるのでしょう。
旧来のラグジュアリーは「他者と差別化するためのもの」でした。排他的で特権的で、それを持つことで階級や名声が得られる、そういったものだったわけです。
たとえば、ラグジュアリーの新しい潮流として「コンシャスラグジュアリー」があり、現在は「自分の本質と地球環境全体に意識を向けること」の価値を示す言葉として使われています。
しかし、実はこの言葉自体は19世紀ごろから存在しており、当時は「他者との違いを『意識』するためのもの」としての「コンシャス」という、いまとはまったく違う意味をもった言葉として使われていました。
——新たなラグジュアリーも、たとえば「環境に配慮している」という点が付加価値として、ラグジュアリーでないものと差別化されているようにも思えます。
もちろん、結果的に区別されることにはなりますが、「差別化すること」が目的ではない点が重要です。
たとえば、従来のラグジュアリー産業では、“他者と違う”ことを強調するために「エクスクルーシブ」という言葉が使われていました。
しかし、「コンシャスラグジュアリー」と同じく、この言葉も新しいラグジュアリー文脈の中で、違う意味の言葉として使われています。
この新たな文脈において、「エクスクルーシブ」は「その人の感性や気持ちに合ったもの」という意味、すなわち「オーダーメイド」に近い意味を持つ言葉として使われるようになったのです。
クラフトの価値は「固有性」から「普遍性」へ
——いま、そうしたラグジュアリーの変化を象徴するものとして、安西さんが注目しているトピックがあれば教えてください。
「クラフト」ですね。たとえば、新たなラグジュアリーが立ち上がる中で、アーツ・アンド・クラフツ運動がいっそう再評価されていくのではないかと思っています。
アーツ・アンド・クラフツ運動とは、19世紀後半のイギリスで巻き起こったデザイン運動です。
この運動を主導したデザイナーで思想家のウィリアム・モリスは、産業革命によって安価で粗悪な大量生産品が社会を満たされるようになったことを批判的に捉え、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を一体化させることを主張しました。
モリスの仕事がいっそう再評価されていくのではないかと思った理由は、これからのラグジュアリー産業の担い手でもある若い世代が、クラフト的な商品を好む傾向にあるからです。そしてモリスと同様、社会的な事柄への関心が高い。
僕の息子も、大手メーカーが大量生産しているビールはまったく飲まず、クラフトビールしか飲みません。
そもそも、クラフト的な要素、すなわち生産地や生産者がはっきりしており、人の手によってつくられていることは、元来ラグジュアリーの重要な構成要素でした。しかし、20世紀後半ごろから「ラグジュアリーという名の大量生産品」が市場に出回るようになった。
昨今はそういった製品に魅力を感じない人々が、クラフト的な商品に目を向け始めているというわけです。
先日、2年ごとにヴェネツィアで開催されるクラフトの祭典「ホモ・ファーベル」に足を運んだときも、人々のクラフトに対する注目度の高さを実感しました。そして同時に、人々がクラフトに見出す価値が変容しつつあるとも感じたんです。
——どのように変容しているのでしょうか?
クラフト的な商品に注目が集まり出したのは、ここ十数年ほどのことだと思いますが、元々はそれらが持つ「固有性」に価値があるとされていたように思います。
生産者の目線で言えば、自分たちの土地や文化「ならでは」の部分を強調することによって、それを付加価値とし、消費者たちもその固有性を楽しんでいた。いわば、マイナーな土地やマイナーな文化が世界にその存在感を示すためのものとしての役割を担っていたわけです。
しかし、これからのクラフトは「固有性」を示すことで他の土地や文化と差別化するためのものではなく、その「普遍性」によって他の土地や文化とのつながりを見出すためのものになるのではないかと思っています。
というのも、ホモ・ファーベルを訪れた際、最初に見たのがさまざまな国や地域で生産されたテキスタイルをキャンバスに貼り付け、1枚の絵画のようにした作品でした。
それぞれのテキスタイルには、各国の刺繍作家たちによって、それぞれの国伝統の刺繍が施されていたわけですが、一見するとその差異がわからなかったんです。
もちろん一枚一枚のテキスタイルに差はあるのですが、それはあくまでも作家個人の色が出ているだけであって、「これはインドでつくられたもので、これはルワンダだな」と、少なくとも、この分野が専門ではない僕には、それぞれの文化性や固有性が読み取れなかった。
この展示を見たとき、クラフトのあり方が「固有性」や「ローカリティー」を強調するのではなく、「普遍性」や「ユニバーサリティー」に重点を置く方向に変わったのだと感じたんです。
——先ほど、ラグジュアリーが「差別化する」ためではない、別の価値を志向し始めたとお話されていた点とも重なりますね。
セラミックであれ、ガラスであれ、刺繍であれ、クラフト製品に用いられている素材の多くは、エリアを問わず手に入れやすいものが多い。それぞれのエリアにおける、伝統的なクラフト製品の固有性の根拠になっているのは、ざっくり言えば、素材や製法の些細な違いでしかありません。
もちろん、その些細な違いこそがそれぞれの文化のアイデンティティになっていることは間違いありませんし、それらを尊重することは大切なことです。
しかし、世界の各地で戦争をはじめとする地政学的なリスクが現実のものとして表出している昨今、その「小さな違い」を重視し、差別化ばかりにエネルギーを割いている場合ではないという空気が生まれつつあるのではないでしょうか。
セラミックやガラスといったユニバーサルなマテリアルやそれらを加工する技術を通して、いかに文化交流をするか。言い換えれば、「いかにして小さな差異を乗り越えるか」が重視されつつあるように感じているんです。
たとえば2004年、チェコやハンガリー、ポーランドといった東ヨーロッパ諸国を中心に、10カ国がEUに加盟しました。このときEUは、加盟国の一体感を高めるためにクラフトの力を利用したんです。
具体的には、セラミックというマテリアルを通して文化交流を図ることを目的に、展覧会やシンポジウムを開催。また、各国に存在するセラミックの作品を多く所蔵している博物館のネットワークを構築したんです。このプロジェクトで重要な役割を果たしてきた一つの機関が、先に話したイタリアのファエンツァにある国際陶磁器博物館です。
ローカリティとユニバーサリティのバランス
——新たなラグジュアリーの一端を担うクラフトの価値が、「固有性」から「普遍性」へと変容しつつあるわけですね。
そもそも、ローカル性や固有性を持つものとしてのクラフトは、グローバリゼーションに対するカウンターとして注目されるようになりました。
さまざまなもののサプライチェーンが長大化し、消費者からはどのような工程を経て手元にモノが届いているのかがわからなくなった。だからこそ、職人の手仕事の価値に再び光が当たったわけです。
また、パンデミックが生じ、さらには地政学的な問題が噴出したことによって、サプライチェーンのグローバル化に潜む危うさが露呈することになりました。
そういった文脈の中で、「グローバリゼーションに対するカウンターとしてのクラフト」もその役割をひとまず終えつつあるのではないでしょうか。
——クラフトの「普遍性」にフォーカスするということは、「文化の盗用」を助長するリスクもあるのではいないでしょうか。自文化と共通する部分、言い換えれば普遍性の存在を強調することを通して、他文化を収奪していることを覆い隠せてしまうのではないかと。
重要なのは、「固有性」と「普遍性」のバランスです。
新しいラグジュアリーの代表格として挙げられるのが、イタリアのファッションブランドである「ブルネロ・クチネリ」です。
エルメスなどと同等の格付け評価を受けているこのブランドを一代で築き上げたブルネロ・クチネリは常に、ローカルな価値、すなわち固有性と、ユニバーサルな価値、すなわち普遍性のバランスに言及しています。
その思想は彼の服づくりはもちろん、来年以降のオープンが予定されているされている図書館によく表れています。
ブルネロ・クチネリは創設以来、ソロメオというイタリア中部の小さな村に本社を構えつづけ、ほとんどの服を本社の100キロ圏内にある工房でつくっていることで知られていますが、この図書館もソロメオで建設が進められています。
図書館の英語表記は「UNIVERSAL LIBRARY」。日本語では「ユニバーサル図書館」あるいは「ソロメオの普遍的図書館」と紹介されているんです。
この図書館には世界中の言語で著された文学、哲学、芸術、建築、クラフトなどなど、ある程度限定されたカテゴリーの書物を40〜50万冊所蔵する予定とされており、特定のジャンルや領域に寄らない「普遍的な知」の拠点として構想されています。
そして、AIを使ったWebを介して、どのような書籍が収められているかを世界中の誰もが知ることができる仕組みを整える予定になっているのですが、わかるのは書名まで。本を読むためには、現地に行かなくてはなりません。
「ソロメオまで足を運び、紙の匂いを感じながら、ユニバーサルな知にアクセスしてください」ということですね。
このローカリティとユニバーサリティのバランスが、ブルネロ・クチネリらしいなと思いますし、これからのラグジュアリーにとって大切な要素になるのではないかと思います。
ラグジュアリーはつくれるか?
——これまでの話を踏まえて、嗜好品や嗜好体験についても伺いたいと思います。これからのラグジュアリーな嗜好品や嗜好体験には、どのような要素が求められていくと思われますか?
まず、ラグジュアリーとは「部分」ではなく「全体」なのだと理解する必要があると思います。
たとえば、ろうそく。ろうそくは電球が発明されるまでは、光をもたらすという明確な機能を持ったものだったわけですよね。しかし電球が普及した後、ろうそくは嗜好品に近い存在になりました。
高級レストランに行くと、テーブルにろうそくがしつらえられていることが多いですよね。機能的には必ずしも要るものではないけれど、高級感を演出するために置かれている。
では、テーブルにろうそくさえ置いておけば高級レストランだと言えるかといえば、そうではないですよね。高級レストランを高級レストランたらしめているのは、料理の味はもちろんのこと、サービスをする人、あるいはそこに集まるお客さんたちの身なりや態度など、その「全体」です。いくら「部分」にこだわったとしても、ラグジュアリーにはなり得ません。
このことから考えると、全体の一部としてラグジュアリーを生み出す起爆剤のような存在にはなるかもしれないけれど、嗜好品そのものをラグジュアリーだと捉えることは難しいような気がしています。
嗜好体験をラグジュアリーなものにするための第一歩は、部分ではなく、全体に目を向けることではないでしょうか。
——全体に目を向けたラグジュアリーな嗜好体験とは、たとえばどのようなものでしょう?
旅行を例にとりましょう。じゃらんリサーチセンターの調査によれば、2022年度の国内旅行の平均宿泊数は1.82泊で、1泊と2泊を足すと、全体の80%強になります。
ほとんどの日本人が、3泊以上の国内旅行をしていないわけです。
1日から2日という短い時間の旅行となると、その中身はスタンプラリーのようなものになってしまうことが多い。いくつかの有名な観光スポットに行き、その土地の有名なレストランに足を運んで終わりになってしまいますよね。
しかし、それではラグジュアリーな体験にはなりません。なぜならば、その土地の「全体」を味わえていないから。
少なくとも3日以上滞在しなければ、土地そのものを体験することにはならないと思うんです。
3日以上いればまずホテル周辺の道を覚え、どのあたりにどんな店があるかを知り、どのような人がいるのかもなんとなくわかってくる。
ガイドブックに載っているような観光スポットは行き尽くして、特に何の目的もなくぶらぶら歩いている中で見つけたお店で食べた料理がとてもおいしかった──ラグジュアリーな体験というのは、そういうものだと思うんです。
このテーマはピエモンテ州ランゲ地方に滞在するとよくわかります。あそこにある葡萄畑は、ユネスコ無形文化遺産の文化的景観として登録されています。ワインをつくる日常の営みすべてが文化的景観をかたちづくっているわけですね。そして、さまざまなところに美味しいワインと料理を味わえる場があります。
新しいラグジュアリーとは、精神が高揚しているときに出会うものではなく、むしろ興奮が冷めたあとに経験することの中にあるのだと思っています。
——ラグジュアリーはモノ単体ではなく、それを含めた「全体」の体験として設計していくものだと。
ただ注意する必要があるのが、ラグジュアリーは意図的につくられるものではないということ。
僕がそれを最近感じたのが、1980年代、イタリアのミラノを中心に活動していた「メンフィス」というグループのデザインの再評価です。
メンフィスは当時、ドイツのバウハウスの流れをくむ工業的なデザインではなく、機能を重視しない、幾何学的でカラフルな家具や雑貨を発表し続けていました。当時のスティーブ・ジョブズのように、ラディカルで、挑戦的で、社会的なステータスに対抗するようなものであったわけです。
そのメンフィスがいま、あらためてラグジュアリーとして注目を集めている。当時は大量生産や合理的思考に対するカウンターだったメンフィスが、大量生産や合理的思考とは違った方向への探索が求められるいま、ラグジュアリーとして再評価されているのです。
このようにさまざまな条件を合わせて新しい文化をつくっているうちに、時間をかけて、結果的にラグジュアリーになっていく。
作られるものではなく「結果」。ラグジュアリーは自称で言うものではなく、第三者に言われるものなんです。できるのは、他称してもらえるようになるための条件設定だけです。その意味でラグジュアリーは戦略的なのです。
ラグジュアリーは「語る」ものではない
——嗜好品単体だけではなく、嗜好品をたしなむ時間や空間、あるいはその前後の体験全体に目を向けることによって、ラグジュアリーな体験が形づくられていくと。
それから、ラグジュアリーも嗜好体験も「語る」対象としてではなく、「生きる」対象として捉えることが重要だと思います。
——「語る」ではなく、「生きる」?
はい。要するに、経験することが大事だということです。
たとえば、コーヒーやワインは代表的な嗜好品ですし、中にはラグジュアリーなものもあります。しかし、それらを「語る」対象としている限り、どんどん言葉だけが積み重なっていって、“重く”なってしまいます。
すると、いつの間にかそれらから受け取れるはずの価値や体験が生むライブ感のようなものから、段々と遠ざかっていく気がするんです。下手をすると、うんちく話に終始してしまうことになる。
ラグジュアリーも嗜好体験も、その真髄は「語ること」ではなく、それを「経験すること」を通してしか味わえないと思っています。
——これからの嗜好品や嗜好体験は、「語り」ではなく「経験」の対象となっていくべきだと。
19世紀後半にアメリカで経営学が確立され、20世紀になって日本でもその影響が及ぶようになりました。その結果、ビジネスと人の生き方のロジックが切り離されてしまいました。
つまり、大きな市場を相手に、大量のモノをつくり、売ることで、多額の利益を得ることが優先され、そういったビジネスのロジックの中で、いわゆる「人間らしさ」は排除されてしまったわけです。
しかし、今も昔も、そういった人間らしさを排除した大きなビジネスではなく、中くらいの、あるいはもっと小さな、生活と一体化したビジネスの世界で生きている人たちも存在します。
現在の嗜好品はどちらかと言うと、大きなビジネスをしている人たちがほっと一息つくためのものとして想定されているような気がします。
でももしかすると、そうではない人たち、すなわち生活と共にある中小規模のビジネスをしている人たちに寄り添い、その営みを前に進めることを視野に入れて考えてみると、新たな嗜好品のありかたが見えてくるのではないでしょうか。