「栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物」とされる嗜好品。
そうした“不必要”性こそが、嗜好品「ならでは」の果たせる役割、すなわち「われわれ」を生み出すことにつながる──今回インタビューした、哲学者の朱喜哲(ちゅ ひちょる)さんはそう語る。
さまざまな分断が露わになり、「われわれ」と「あの人たち」の溝が日々深まっているように感じている人も少なくないのではないか。あらゆる壁や差異を超えた「連帯」は夢物語へと消え、「ばらばらである」ということを受け入れなければならない。昨今の世界は、そんな風に語っているようにも思える。
こうした現実を前に、朱さんは「嗜好品」に「連帯」の契機を見出す。
プラグマティズム言語学を専門とし、アメリカの哲学者リチャード・ローティを中心に研究活動を展開する朱さんは、「いまこそ、嗜好品を『われわれ』を広げるものとして捉え直す必要がある」と語る。
自らも酒場をこよなく愛するという朱さん。ローティの哲学と、酒場での実体験を交えながら、お酒を中心とした嗜好品がいま果たすべき役割や、嗜好品が秘める力について語ってくれた。
朱さんは語る。
「いま世界に足りないのは“ほの暗さ”や“後ろめたさ“、“正しくなさ”である」
嗜好品が仲立ちするそうした「暗がり」こそが、いまの時代に必要な「われわれ」を生み出す──。
(聞き手・執筆:鷲尾諒太郎 撮影:田野英知 編集:小池真幸)
「唯一のバザール」と「無数のクラブ」──酒場はなぜ必要か?
──ふだん、朱さんはどのように嗜好品をたしなんでいますか?
日常的に親しんでいるのはお酒ですね。一人で家で飲むこともありますが、基本的には酒場に繰り出します。
酒場に行くと、仕事をしているだけでは出会えない方々と出会えるじゃないですか。ライフスタイルも職業も違えば、年齢も経歴も違う方々とお酒を介してつながって、その場限りの、束の間の共同体をつくる感覚が好きなんです。
それはただ「生きる」ということだけを考えれば、必ずしも必要な行為ではないかもしれません。しかし、「人はパンのみにて生くるものにあらず」と言うように、やはり人間にはそういったある意味では“不要”な、嗜好的な時間や体験も必要なのだと思います。

──“不要”な時間や体験が「必要」。矛盾しているようにも思えますが、なぜでしょうか。
ごく単純化して言えば、「公共空間」で溜まった疲れを癒やす、あるいは一種の「ガス抜き」をするためだと思います。
私はプラグマティズム言語哲学を専門としており、アメリカの哲学者であるリチャード・ローティ(1931-2007)をメインの研究対象としていますが、ローティはパブリックな空間を「バザール」、それに対してプライベートな空間を「クラブ」と呼びました。
──「バザール」と「クラブ」?
バザールとは「市場」です。そこで生活必需品を買う人もいれば、売る人もいるわけです。人々がそれぞれに生計を立てるために働き、生活のための営みをするすべての公共的な場所、あるいはその生態系全体を指す概念がバザールです。
ローティは「世界には、すべての人にとって唯一のバザールがある」と考えました。働く場所も仕事内容も人それぞれですが、一つのバザールという大きな場所、あるいは生態系の中でお金を稼ぎ、生活を営んでいると。だから、みんなでバザール、つまりは公共性を守っていかなければならないというわけです。
ただ、そこにはスリを働く人もいるかもしれないし、お店の商品を盗もうとしている人もいるかもしれない。あるいは、何とか商品を値切ってもらおうと、しつこく値下げ交渉をしてくる人もいるでしょう。それらもバザールの、切り捨てられない一部分です。
バザールにいる限り、どのような人とでも接触する可能性はあるし、お店を営む側の目線で言えば、「嫌だな」と思うお客さんもいる。しかし、それでも商品を売るためには、愛想笑いを浮かべながら、うまく接客してモノを買ってもらう必要があるわけですよね。
つまり、バザールにいる限りはどのような人とでも交わる可能性があり、生活のためにはどのような人とでもうまくやりながら、必死に働く必要がある。バザールはすべての人にとって必要な空間であると同時に、そこにいるだけで疲れてしまう場所でもあるわけです。
──「バザール」を避けては生きられないけれど、そこではどうしても負担がかかってしまう。
だからこそ、そんなバザールから家に帰る途中に立ち寄って、ほっと一息つけるプライベートな空間が必要です。
ローティはそのような空間のことを「クラブ」と呼びました。クラブに行けばバザールの愚痴を言えるかもしれないし、顔見知りたちと他愛ない話をしながら、バザールでの疲れを癒やし、翌日にまたバザールに向かうための英気を養う。
ここでのポイントは、バザールが唯一のものであるのに対し、クラブは無数に存在し得ることです。つまり、すべての人がそれぞれの「自分の場所」を持つ必要がある。ローティは、世界には「一つのバザール」と「無数のクラブ」が必要だと言っているわけです。

──朱さんにとっては、行きつけの酒場が「クラブ」であるということですね。
そう言える瞬間もあるかもしれませんね。
この比喩には注意が必要で、ある特定の場所や空間が、ずっと100%「クラブ」であったり、「バザール」であったりするわけではない。それぞれの感じ方もズレるかもしれない。ある瞬間、その場が「クラブ」として立ち現れることがある、という感じでしょうか。
酒場には常連客もいれば、一見さんも訪れますし、職業もライフスタイルも異なる人たちが集まります。どのような人であれ、その場を楽しみたい、または日頃の疲れを癒やしたいと思ってきているわけですから、自分が笑顔でいるために、あるいは他のお客さんの笑顔を奪わないためにも、それぞれの主義主張や政治信条は一旦脇に置きながら、他愛ない会話を楽しむわけですよね。
その意味ではバザール的な側面もあるのでしょうが、酒場で親しくなった人たちとは、直接の利害関係がないからこそ時に本音が喋れることもある。愚痴や悩みを聞けるかもしれない。そんな瞬間、ローティの言うクラブ的空間が立ちあらわれます。つまり「クラブがあるから、人は公共空間では言えない本音を晒せたり、うかつなことを言えたりする」わけです。
世界から「暗がり」が失われてしまった
──たしかに、仕事上では「これは言わない方がいいな」と引っ込めるような言葉でも、お酒の席では気にせずに言えることがあります。
ローティはクラブ的な空間が失われていき、世界がバザール化していくことを危惧していました。そして実際、SNSによって世界のバザール化は一層加速しました。
SNSが普及したことによって、私たちはいつ何時、過去の発言を掘り起こされ、それを全世界に晒されてしまうかもわからない状態にあります。当初はプライベートなものと思われたSNSは、もはやすっかりパブリックなものになってしまいました。
SNSから距離を置けばいい、という単純な話ではありません。仮に自分一人がSNSをやめたとしても、周囲の誰かが「あの人がこんなことを言っていた」「こんなことをしていた」と書き込んでしまい、それが何らかの火種になることもある。
そういった意味で、私たちは一挙手一投足に気を遣わざるを得ない世界を生きています。

──いつでもどこでも、バザールにいるときのような振る舞いを求められるようになった。
公共空間であるバザールは、言うなれば「明るい場所」です。白日の下にあるからこそ、悪事が働きにくくなるし、健全さが保たれる。
だけど、その明るさが場所も時間も関係なく、すべてを照らし出してしまったら、暗がりの中でこっそりしゃべっていたことや、暗い場所だからこそ許されていた、少し後ろめたい行為ができなくなってしまう。
いまの世界は、比喩的な意味での“昼”が“夜”を侵食してしまっているんです。世界から「暗がり」が失われ、常に「いつ誰が聞いているかわからない」と警戒しながらしゃべらなければならないので、言いにくい本音や、うかつなことが言いにくい。
人はバザールで溜まった愚痴や鬱憤を、クラブで晴らしていたのに、そこにもバザールが侵食してきたことで、うまくガス抜きができなくなってしまったわけです。そして、さまざまな不満や鬱憤は、澱のように人々の中にため込まれていく。
ローティが危惧していたのは、このような事態です。ローティいわく「人々の中に鬱積した不満に火を付ける『強い男』が登場し、人々はその不満を爆発させることになる」──特に、ここ最近のアメリカの状況を見れば、ローティの予言が正しかったことがわかりますよね。
──トランプ現象を予言していた、ということですね。ただ、クラブには本音を晒せたり、うかつなことを言えたりするからこその「危うさ」もありますよね。
その通りです。クラブ的空間では、その場にいる人は自分と同じように感じてくれるだろうと思えるからこそ、心が安まる環境になる一方、愚痴や悪口も共有できてしまえるがゆえに、それはお互いの偏見を助長したり、差別的な言動につながってしまう可能性がある。
バザールでは「一発退場」になってしまいかねない言動も、クラブでは「許されてしまう」ことがあるという危険性は、留意すべきポイントです。

しかし、それはとりもなおさず、クラブには「許される」可能性があるということでもあります。
気を許している場だからこそ、ある種の安心感が生まれ「言ってはいけないこと」を言ってしまうわけですが、よっぽどのことでない限り一発退場にはならず、指摘されたり、怒られるかもしれないけど最終的には許されうる。そして「許されうる」ということは、「言ってはいけないこと」を自覚し、自らの言葉を修正する機会にもなりうるわけです。「共感・同意してもらえるだろう」と油断してつい発言してしまったら、「いや、それはふつうに引きます」とか「え、それはないでしょ」「それ、私のことなんですけど」などと「異議申し立て」されることがありうる。
でも、そう言ってもらえるのはむしろ関係性があるからですよね。黙って去っていったり、内心見切られることの方がずっと多い。そして、そんな関係性ができている人と、あるいはそのお店と、今後もうまくやっていきたいなら、自分自身の言葉づかいや考え方を見直さなければいけない。
つまり、相互的な信頼があるクラブ空間では、「言ってはいけないこと」を口にした誰かに対し、誰かがそれを糾弾し、即キャンセルするのではなく本気でたしなめてくれるかもしれない。もしそうなれば、その「まずさ」について一緒に考える機会にもなるわけです。
一方、バザールではうかつな発言が一発退場につながってしまう可能性があるからこそ、言葉づかいを習熟できても、それは私的な信念を変えることにはつながらない。だから、人が私的な言葉づかいを成長させる機会は、じつはクラブ的な空間にしかないのだと思います。
嗜好品は「正しくない」からこそ意味がある
──そんなクラブ空間において、嗜好品はどのような役割を果たすのでしょうか。
「正しくなさ」による連帯を生み出すこと、かもしれませんね。
ここでもローティの話を交えながらお話します。ローティは1931年にアメリカ・ニューヨークで生まれ、社会正義に対して厳格な考えを持つ両親に育てられました。
「良識ある大人は社会正義のために戦うべきである」と教え込まれて育ったわけですが、ローティ少年にはある趣味があった。それは、野生の蘭を愛でること。端からすれば「育ちのいいお坊ちゃんだな」くらいのものですが、ローティにとって、その趣味は大問題だったわけです。
なぜならば、社会正義の追求と「野生の蘭を愛でること」はまったく無関係だから。社会正義の実現のための戦うことが人にとっての「正しさ」だと教えられてきたローティにとって、「野生の蘭を愛でること」はあえて言えば「正しくないこと」なのだけれど、どうしようもなく野生の蘭に惹かれてしまうというアンビバレンスを抱えていた。
その「正しさ」と「正しくなさ」を統合するために、ローティは学問の世界に飛び込むことを決め、14歳でシカゴ大学に入学し、哲学を専攻します。
そして、学びを深める中で「『正しさ』と『正しくなさ』を統合しようとするから、さまざまな問題が生じるのだ」という気付きを得ることになる。

人は「正しさ」を追い求めるだけでは生きていけない。むしろすべての人が「正しさ」のみを追求する社会は息苦しく、持続可能なものにはならない。
だから、人は「正しさ」を信奉しつつも、自らの内に存在するいかんともしがたい「正しくなさ」も受け入れて生きていかなければならないとローティは考えたわけです。
──たしかに、社会的な「正しさ」ばかりを求められると、どうしても生きづらさを感じてしまいます。
ここで話を嗜好品に戻すと、どのような嗜好品もある種の「正しくなさ」を内包しています。
たとえば、私は服飾も好きなのですが、環境負荷の問題や動物倫理、作り手の労働問題など、ファッションにもさまざまな問題がつきまとう。好きなものを好きなように楽しもうとするとき、必ずそういった「正しくなさ」が入り込んできてしまうのだと思います。
ここで重要なのは、「生きていくためには『正しくなさ』が不可欠なのだから、しょうがない」と開き直るのではなく、「正しくなさ」に自覚的になり、それとうまく付き合っていくこと。
酒場で酒を飲むことも、社会的な「正しさ」とは反するところがあります。先ほども言ったように、誰かの悪口や愚痴などの「正しくなさ」が入り込みますし、なにより過度の飲酒は心身の健康を損ね、依存症や周囲にまで害悪を及ぼしてしまうという問題もあります。
誰にでも推奨できる行為ではないと自覚した上で、その場を愛し、そこに集う人たちと「正しくなさ」を、互いがそれを自覚していることも含めて共有するからこそ、生まれる連帯があると思うんです。
つまり、嗜好品には「正しくなさ」があるからこそ、嗜好品がある場所には「ほの暗さ」が生まれる。そして、ほの暗い空間だからこそ、人はこっそりと「そこでしか話せないこと」を口にできるのでしょう。
嗜好品は「正しくない」からこそ、不可欠なものだと言えるのかもしれません。

──どうすれば「正しくなさ」に自覚的になり、それとうまく付き合っていくことができるのでしょうか。
酒場の例を続けると、いい酒場って暗黙のものであれ、明文化されたものであれ、しっかりとしたルールがあるんですよね。そこに集まる人たちも周囲に気を配りながら発言をするし、店主が定めたルールをしっかりと守っている。
では、なぜルールを設けるのかと言えば、お酒の「正しくなさ」に自覚的だからだと思うんです。お酒に飲まれてしまう危険性や、その「正しくなさ」に自覚的になればこそ、その危険性をなるべく排除し、みんなが楽しむためのルールを設けようとする。
それが「正しくなさ」とうまく付き合うということですし、そこに集う人たちが常に「後ろめたさ」を抱えていることが、いい酒場、ひいてはいいクラブの条件なのだと思います。
嗜好品はなぜ「われわれ」を広げるのか
──嗜好品は「正しくない」からこそ、みんなが楽しめるルールが生まれ、人と人をつなぐ役割を果たせるということですね。
そうですね。さらには、嗜好品は排他的にならない形で「われわれ」を広げる役割を果たしうると思っています。
──「われわれ」を広げる?
人は「われわれ」の悲しみや「われわれ」に対する理不尽さには敏感である一方、「われわれ」ではない人々に降りかかる悲劇や残酷な行為にはどうしても鈍感になってしまいます。
たとえば、私たちは親しい友人から失恋の話を聞いて本気で心を痛め、悲しみを共有する一方で、世界のどこかでいまも進行している虐殺に対してはほとんど無関心でいることができてしまう。
「正しさ」という視点から言えば、そのありようは間違っています。「君の友人が振られたことなんて知ったことではない。世界にはもっと他に関心を向けることがあるだろう」と言われれば、「その通り」と言うしかありません。
しかし、遠くの誰かの死よりも、身近な人の失恋に心を痛めてしまうのが、ある意味では人間という動物のもつ傾向性なのだと思います。私たちの共感能力や想像力には、どうしても身体的な制約がある。
だからこそ、ローティは一人ひとりにとっての「われわれ」を広げることが重要だと考えた。「身近な人」が増えれば増えるほど、本気で共に怒ったり、悲しんだりして、それが現状を変えるための行動につながり、社会をよくすることになるはずだと。

ここで重要になるのが、何をもって「われわれ」を規定するのか、という問題です。
ローティは「本質主義的な規定は避けるべき」と考えます。その理由は、より本質的な部分に着目して「われわれ」を規定しようとすると、人は容易に排他的になってしまうから。
たとえば、人種や民族がなにか本質的なものとして存在するかのように考え、「日本人であること」が「われわれ」の条件とするならば、その時点で出自の異なる人を「われわれ」から排除することが決定してしまうわけですね。
この感覚は、残念ながら日本で根強い「日本国籍を取得した外国にルーツを持つ人」を「われわれ」から排除したがる傾向を思い起こしていただければわかりやすいのでは。ローティが本質主義を退ける理由はそこにあります。
──より表層的な部分で「われわれ」を構想する必要があると。
嗜好品に話を戻すと、「嗜好」って結局は好き嫌いの問題ですから、決して本質的な差異ではありませんよね。だからこそ、排他的にならない形で「われわれ」を広げる可能性があると思っています。
たとえば、漫画。ある漫画のことが好きになり、そのことを公言するうちに「私も好きなんだよね」と、誰かとつながっていく可能性がありますよね。そのつながりを成り立たせているのは、「その漫画が好き」という極めて表層的な嗜好性です。ゆえに、人種や国籍といった安易に「本質的」とされがちな差異を超えて「(その漫画を愛する)われわれ」が形成され得る。
お酒を飲む人もいれば、飲まない人もいますが、飲まない人でも「この場所の雰囲気が好きだから」とある居酒屋に通い詰め、「われわれ」になる可能性もあるわけですよね。
つまり、嗜好品、あるいは特定の嗜好性によるつながりは、表層的なものではあるのだけれど、表層的であるからこそ、本質主義にとらわれず「われわれ」を広げてくれる可能性を持っている。
嗜好品は、その「正しくなさ」によって、バザール化する世界の中に「暗がり」をつくる。そして、その暗がりの中で人々は「非本質的なつながり」を形成することで、「われわれ」を拡大させられる。
これが嗜好品の持つよさであり、いま嗜好品が果たすべき役割なのではないかと思っています。

「他者と共にいる場所」としての酒場
──嗜好品があるからこそ会話が生まれ、その会話が誰かとつながるきっかけになることは、経験的にもよく理解できます。
「会話」はローティを研究する上で極めて重要なキーワードです。なぜならば、ローティ自身が「哲学の使命は『会話を継続させること』」と論じているから。
だからこそ私も「会話」について考える機会は多いのですが、最近考えているのは、ローティが想定していた「会話」、つまり“conversation”は、「しゃべること」に限らないのではないかということ。
日本語で「会話」というと、「言葉を交わすこと」を想像するじゃないですか。でも、”conversation”という英単語の語源を調べてみると、少しイメージが異なるんです。
”conversation”の語源は、ラテン語の”conversatio”という単語だとされています。これは「共に」という意味を持つ接頭語”con”と、「回転させる」とか「向きを変える」といった意味を持つ動詞”versare”で構成されている言葉です。つまり、conversationは元を辿れば「向き合う」という意味を持つ言葉だった。
さらに「会話」を考える上で参考になるのが、キリスト教絵画様式の一つである「聖会話図」です。この様式が生まれたのはイタリアだとされていて、イタリア語で言えば”sacra conversazione”、英語では”sacred conversation”ですね。
聖会話図のフォーマットは、キリストとキリストを抱く聖母マリアを中心に、その周囲に聖人たちを配置するというものですが、注目すべきは登場人物たちの「口元」です。

上図に限らず、いかなる聖会話図においても、そこに描かれている人物たちは誰一人として口を開いていません。つまり「口を開かないこと」もまた、聖会話図のフォーマットになっていると言えるわけです。
──「会話」にまつわる図であるにもかかわらず、言葉を発している様子が描かれていないのですね。
このことを踏まえると、かつては「口を開かず、ただそこにいること」もまた「会話」だと考えられていたと言えるのではないでしょうか。
これは「会話」を考える上でのポイントになると思っています。つまり、もしかすると「会話」は、「言葉を介して、意思を伝える」あるいは「言葉によって相互理解を深める」ことよりも、もっと素朴な目的のためにあると考えられていたのではないでしょうか。
たとえば、サルなどの動物は互いにグルーミング(毛づくろい)をすることで、敵意がないことを示し、友好関係を保っていると言われています。そこに言語的なコミュニケーションはありません。
かつて「会話」は、そんなグルーミングのような行為の延長線上にあったのではないか。
同じ空間に「誰かがいる」ということには、ある種の緊張感が伴います。いきなり危害を加えられるかもしれないし、あるいは何らかのきっかけで自分が危害を加える側になってしまうかもしれない。
同じ空間を共有する者同士が、そのような状況やそこにいる他者を受け入れていることを示すために「ただ、そこに留まっている」。
「会話をしている」とは、そのような状態を指しているのではないかと思うのです。
──ただ「そこにいること」によって、「われわれ」になる可能性があることを示している、とも言えそうですね。
そのことを踏まえると、現在の社会には「会話」が足りていないようにも思えます。
SNSなどを通して、言語的なやりとりをすることは容易になったかもしれませんが、そこに他者の身体はありません。身体的な危害を加えられる心配がないがゆえに、ともすれば相手を深く傷つけてしまうような言葉を平気でぶつけてしまうわけです。
これも、身体性を伴うクラブ的な空間が痩せ細り、他者と空間を共有するという意味での「会話」が減ってしまった結果なのではないかと思っています。

その意味において、酒場は「会話」のいい練習場所です。
酒場におけるコミュニケーションの本質は、言語的なやりとりではないかもしれません。だって、酒場で交わした会話の詳細なんて次の日にはほぼ忘れてしまうわけですから(笑)。……いや、笑いごとではなく、反省しないといけないことも多々ありますが……(苦笑)。
とにかく、酒場にいる以上はたまたま居合わせた他者と同じ空間と時間を共有しなければならない。そこでは理路整然とした意思疎通をするわけではない。もちろん、それは酒場でなくてもよいんですが、ただ、そんな「会話」が内包する緊張感の中でしか、人は他者とただ共にあるためのふるまいを磨けないのだと思います。
──言葉の内容ではなく、「共にいること」が重要であると。
そして、「他者と共にいる場所」にはやはり何かしらの嗜好品が必要なのだと思います。
「そこにいることが重要」と言っても、何もない場所に留まり続けるのは難しいですからね。お酒やお茶、コーヒー、漫画といった嗜好品は、そこに留まる理由にもなり得る。そういった意味で、嗜好品は「会話」のきっかけにもなるのだと考えています。
──他方、最近ではあえて「お酒を飲まない」ことに興味を持つ「ソバーキュリアス」が世界的なトレンドになっていて(参考)、酔わないことで頭が「明瞭」になることの良さを強調する人々も出てきています。
興味深いですよね。私が酒場に行くのは、言語的な意思疎通やディスカッションではなく、ここまで話してきた意味での「会話」、少し違う言い方をすれば、そこに集う人たちが溶け合ってひとつの場をつくっていく感覚が好きだから。
一方、ソバーキュリアスなライフスタイルを実践する人たちは、脳の明晰さを保ち、バーバル(言語)コミュニケーションを楽しもうとしているように思えます。ですから、より「明るい場所」、つまりはバザール的な場所で営みやすい嗜好行動なのかもしれないですよね。
新たな嗜好の形としてとても興味深いですし、今後どのような発展を遂げるのか注目したいと思っています。
いま、嗜好品を位置づけ直す
──ここまでの話にあったように、これから社会の中で嗜好品が果たす役割や重要性も意味を増す中で、嗜好品を生み出すプレイヤーや企業はどのようなスタンスを取るべきでしょうか。
そもそも嗜好品に限らず、現在ほど、いち企業がある種の公共性を引き受けている時代は未だかつてなかったのではないかと思っています。いまや、どのような企業にも社会的な責任を果たすことが求められ、企業も自社が社会的な責任を負っていることを積極的に主張しています。
そんな中でもいち早く社会的な責任に向き合ってきたのが、交通や電力、通信などのインフラ企業と、そして嗜好品を生産する企業だったのではないかと思います。
あえて単純化すれば、前者は「バザール」のインフラを整え、後者は「クラブ」のインフラをつくりあげてきたと言えるかもしれませんね。その意味において、両者の事業内容は社会的な責任と切っても切り離せないものです。
嗜好品を生産する企業は、少なくとも近年みずからが扱う嗜好品への依存や嗜好品がもたらす害を最小限に抑えること、あるいは「依存性があること」をしっかりと告知することによって、その社会的責任を果たそうとしてきました。
酒造メーカーやタバコを生産している企業を思い浮かべてもらえればわかりやすいと思います。自社の商品に「害がある」と告知することは、企業として利益を追求するという観点から言えば、はっきり非合理的な行為です。ですが、社会的責任を果たすために、各企業はしっかりと告知をしてきたわけです。

──そうした“クラブ空間のインフラ企業”に対して、いまの時代に期待することはありますか。
「依存」に関する新たなモデルを社会に根付かせる役割を担ってほしいと思っています。
これまで「依存」はただネガティブなものとして語られてきました。「何かに依存するのは悪で、何にも依存せず自立することが重要である」と。だからこそ、嗜好品を生産する企業も、自社の依存性のあるプロダクトに消費者を過度に依存させないためのコミュニケーションを取ってきたわけです。
しかし、現在はそういった「自立」と「依存」を対置する考え方は古いものとして、アップデートされつつあります。そうではなく「たくさんの依存先を持っている状態こそが『自立』である」という考え方が台頭してきている。
「依存」そのものは、すべての人間が持つ「正しくなさ」の一部であり、それを完全に捨て去ることはできない。あくまでも、害をなすのは「一つのこと(もの)に極度に依存すること」であって、それを防ぐためにもうまく依存先を分散させ、さまざまなものに頼りながら生きていくことが重要だという考え方です。
──「自立とは依存先を増やすこと」という言葉は、近年しばしば聞くようになりましたね。
アディクション、依存症の研究が進み、臨床の働きも知られていくなかで、これまで、絶対的にネガティブなものとして「依存」を捉えてきたことが、むしろ当事者へのスティグマ、偏見の強化と蔑視につながり、「回復」を阻害するものであることもわかってきました。もちろん、「依存症(addiction)」は問題です。ただ、「依存(dependence)」はむしろ私たちにとって不可欠なもので、それを全否定して「自立(independence)」を求めるのは、むしろ人を追い詰めるものだったのではないでしょうか。
これまで、嗜好品を生産する企業はある種の「後ろめたさ」を抱えながら、消費者とコミュニケーションを取っていたと思うんです。依存を生じさせる原因を生産しながら、社会的な責任を果たすために「依存しないように」と呼びかけてきたわけですから。
ですが、依存の新たなモデルが生まれたことによって、嗜好品を生産する企業は自らのプロダクトが、いかに人々に貢献するかについて、もしかするとちゃんと真正面からコミュニケーションできるようになっていくのかもしれません。
もちろん、依存性のある嗜好品は「極度な依存」を生み出してしまう危険性がつねにあるので、そういった意味での「後ろめたさ」は不可欠なものです。しかし、正面からのコミュニケーションを通して、「何にも依存せず、自らの力のみで生きていかなければならない」と考え、生きづらさを感じている方々に、「さまざまなものに頼りながら生きていってもいいのだ」と伝えてもらいたいなと思っています。
──「さまざまなものに頼るしかないのだ」と思えると、少し気持ちが楽になる気がします。
そして世界のバザール化が進み、クラブ空間が失われつつある中で、嗜好品が持つ「ほの暗さ」や「われわれ」を生み出す力、あるいはそこに潜む「危うさ」に、多くの人が気付き始めるのではないかと思っています。
そのときに問われるのは、嗜好品やクラブが「みんなのもの」になっているかということです。
もちろん、何を嗜好するか、あるいはどこを自分のクラブにするかは人それぞれですし、ここで言いたいのは「特定の嗜好品を、全世界に行き渡らせよう」ということではありません。
あくまでも重要なのは、「すべての人が、それぞれの嗜好品やクラブを持っているか」。
かつて、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが『サードプレイス——コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』(みすず書房、2013)を発表したとき、世界的なサードプレイスブームが起こりました。
しかし、この本をよく紐解いてみると、結局はサードプレイスは外に働きに出ている「男性」のための場所になってしまっており、嗜好品やクラブ的空間が「みんなのもの」にはなっていなかったことを批判しなければいけません。また、サードプレイスやクラブ的な場所を維持・運営していくための、一種のケア労働の配分にジェンダー不均衡がありがちだという大きな問題もあります。
いまこそ、クラブ空間やその空間をつくり出す嗜好品を、「われわれ」を生み出すものとして位置づけ直すことが求められているのではないでしょうか。そうすれば、嗜好品を語る言葉づかいも変わっていくでしょうし、それが社会を変えるきっかけになるのではないかと思っています。

1990年、富山県生まれ。ライター/編集者 ←LocoPartners←リクルート。早稲田大学文化構想学部卒。『designing』『遅いインターネット』などで執筆。『q&d』編集パートナー。バスケとコーヒーが好きで、立ち飲み屋とスナックと与太話とクダを巻く人に目がありません。
編集、執筆など。PLANETS、designing、De-Silo、MIMIGURIをはじめ、各種媒体にて活動。
1995年、徳島県生まれ。幼少期より写真を撮り続け、広告代理店勤務を経てフリーランスとして独立。撮影の対象物に捉われず、多方面で活動しながら作品を制作している。
