連載

茶道を広めた「侘び茶」は、「不足」から生まれた。嗜好品の文化と経済──文化経済学者・太田直希

篠原 諄也

日本において最も豊かなエコシステムを形成している嗜好品の一つと言えば「お茶」だろう。

単なる飲料の枠を超えて、長きにわたって形成された歴史の中で、「茶道」という伝統文化として結実し、日本の政治や文化と不可分の体系が築き上げられている。

他方、茶道の「経済」的な側面について語られることはそう多くない。

茶道という体系をめぐって、いかなる経済システムが形成されているのか──その問いに正面から向き合う数少ない研究者の一人が、同志社大学経済学部の助教で文化経済学者の太田直希さんだ。

太田さんは2024年、初の著書『茶道の文化経済学』を上梓。免状発行や指導を行う家元制度の構造や「侘び」の精神などの文化的側面と同時に、「稽古場の経済」「茶会の経済」「茶道具」の3つの観点から経済的側面を論じている。

お茶を取り巻く経済システムはいかにして成り立っているのか?

なぜお茶という嗜好品は、ここまで豊かなエコシステムを築けたのか。

これからの嗜好品のあり方を考えるうえでの大きな示唆を与えてくれるだろう伝統文化の経済学について、太田さんに聞く。


(文:篠原諄也 写真:田野英知 聞き手・編集:小池真幸)

お茶の「文化経済モデル」を解き明かす

──太田さんのご専門は「茶道の文化経済学」ですよね。そもそも文化経済学とは、どのような学問分野なのでしょうか?

文化経済学は比較的新しい学問分野で、元々はイギリスやアメリカで発展した学問なのですが、日本では30年ほどの歴史があります。

文化経済学においては、基本的に2つの側面から「文化市場」が捉えられています。​​

オリジナル性に基づく市場(美術品などの一点ものを扱う)と、複製技術と知的財産権に基づく市場(映像などの複製可能コンテンツを扱う)です。その中でも特に流通面、つまりコンテンツがどう顧客にリーチするかが多く研究されていますね。

日本の文化経済学では、創造都市(芸術・文化活動で都市を活性化し、経済や観光に結びつける都市戦略)としてどのようにまちおこしをしていくかについての研究などもさかんです。

近年の日本の文化経済学では、日本なりの文化経済モデルを解き明かして、世界に発信していこうという意識が強まっています。そうした中で、僕は元々お茶をやっていたこともあって、日本の伝統文化である茶道に着目したんです。

──茶道の文化経済モデルを解き明かす、ということですね。

ただ、それまで、茶道の世界の経済的な側面を論じた研究はほとんどありませんでした。

私は著書『茶道の文化経済学』の中で、茶道の経済の実相を「稽古場の経済」「茶会の経済」「茶道具の経済」の3つに分けて論じましたが、このように図式化をしたのは初めてのことでした。

お茶は奥が深い文化なので、当初は図式化する難しさもありました。「茶会」の経済の中に、「茶道具」の経済が入ってくるなど、さまざまな要素が複雑に絡み合ってくる。しかしそれぞれに説明可能なシステムがあり、それを解き明かすことには新規性があるはずだ、という思いがありました。

僕が挑みたかったのは、茶道そのものをどのように捉えるべきかを論じた上で、それを経済と連関させて分析することでした。後ほど詳しくお話ししますが、茶道は、その思想的な体系が経済システムにも反映されていると思っているんです。

文化・経済を一貫して捉えて描き切ったのは、これまでに誰もやってこなかったことだと自負しています。

──元々茶道をやられていたとのことですが、そもそもお茶に関心を持ったのはなぜでしょうか。

祖母がお茶をやっていたので身近ではあったんです。ただ、本格的に関心を持ったのは、大学進学のために、東京から京都に引っ越したことが大きかったです。

東京にいた頃は演劇、ライブなどのコンテンツ系のエンターテインメントにどっぷり浸かっていました。しかし、京都は東京に比べると、そうしたエンタメにはアクセスしづらい。でも、その代わりにお茶会はものすごい数があるわけです。

そこで、最高のエンタメはお茶ではないかと気づいたんです。そうして初めてお茶を自分ごととして捉えるようになり、稽古を始めるようになりました。

「茶道」という多様なシステム

──茶道に限らず、文化経済学において日本の伝統文化を論じた先行研究はあったのでしょうか。

僕の指導教員の一人の八木匡(ただし)先生が、邦楽(伝統音楽)の研究をしていて、伝統文化領域の先行研究としてはそれがほぼ唯一でした。そこで家元制度にも言及していましたが、家元制度における課題も指摘されていました。

たとえば、社中(師匠に学ぶ弟子の集団)を抱える中で、発表会には稽古が不十分な人も出演させないといけません。実演系の伝統芸能では、本番の舞台を目指して稽古するわけですが、舞台に出られないなら稽古にも来なくなるからです。

結果として、未熟な人も舞台に立つことになり、全体のクオリティが下がってしまう。それを見た観客は憧れを抱かなくなってしまうという、悪循環が起こってしまいます。

そこで伝統芸能の多くでは「観客にどうリーチするか」という視点がとても強くなります。

──そうした伝統芸能の枠組みから茶道を見ると、どのようなことが言えるでしょうか。

茶道はそうした点において、持続的にうまく回っていると感じています。

まず「稽古」のシステムの完成度が高い。稽古の場は社中にとっての学びの場であり、先生側にとっては謝礼を受け取る場でもある。免状制度(家元が技能習得の証として発行する資格証明制度)とも紐づいています。

そしてお茶は実演芸術だけにとどまりません。点前のような実演はあくまで「総合芸術としての茶道」の一側面にすぎず、茶道全体を構成する要素は非常に多様です。

──その多様な要素として、太田さんはお茶の経済を「3つの経済圏」に分けて論じていますね。​​稽古人が教授者を指導して謝礼などを受け取る「稽古場の経済」、茶会を通じて会費などを集める「茶会の経済」、そして茶道具の売買をする「茶道具の経済」です。

はい。研究を進める中で、この3つが、茶道の世界における大きな経済的支柱となっていることが見えてきたんです。それらは別個に存在するのではなく、互いに連関し合うことで、非常に強固なシステムをつくっています。

実際、現在も茶道圏には何十万人という参加者がいて、強固な仕組みとなっている。それを支えているのが、まさにこの3つの経済活動を繋ぐ家元制度なんです。

どの伝統分野にもこれと同じことが言えるかというと、そうではないでしょう。

「諦めの境地」が茶道文化の広がりを支えた

──ご著書では、お茶の思想的な価値として、とりわけ「侘び」について集中的に論じていましよね。

「侘び」という言葉には、人によってさまざまな解釈がありますよね。海外の人にとっても「wabi」は日本文化を象徴する引きのある言葉になっています。

ただ、それを経済システムとどう結びつけるかはあまり考えられてきませんでした。

この本では、千利休の孫にあたる千宗旦(せんのそうたん)に着目しました。宗旦は、後に千家が3つに分かれる(武者小路千家、表千家、裏千家)三人の息子を持った人で、侘び茶を追求しました。

侘びといえば、彼の一番弟子の山田宗徧が「侘の字は音を嗏(た)といい、侘傺(たせい)とつづけて用いる。志を失った心のさまである。わが心の思うに任せず、不如意なさまである」としています。これは「ものが不足し、立ちすくむ」という意味です。つまり、諦めの境地ですよね。千利休の時代とは違い、厳しい経済状況におかれた宗旦は、そういうものを侘びの原意としています。

──諦めの境地。

かつての日本においては、中国からの高級な輸入品、いわゆる唐物が最も格の高いものとされていました。

ただ、千家のお茶では楽焼(手づくり感と温もりのある茶碗。侘び茶の象徴)の茶碗を好んで使います。

つまり、格が高いことは諦めている。このような「諦め」こそが、侘びであると。

そして重要なのは、実は茶道文化の広がりは、侘び茶なくしてないということです。

侘び茶の草庵(簡素な茶室の様式)では、田舎の東屋の囲炉裏など、庶民的で素朴な生活空間を茶室のしつらえに取り入れています。そうすることで、亭主と客との距離が近くなる「一座建立(いちざこんりゅう)」(亭主と客が一体となって空間や時間を共に創るという茶道の理念)があるわけです。

──茶道具の格式の高さを「諦め」たことが、門戸の広さへとつながったのですね。

侘び茶以前の時代は、当然、ちゃんとした道具を使って茶事をするのが当たり前で、それを見ることが稽古になるような時代でした。

しかし、侘び茶以降はひらかれていった。この本の中でも象徴的な事例として書いているのが、利休の孫・宗旦と、近衛家の方とのやりとりです。

公家の筆頭格である近衛尚嗣(ひさつぐ)が、宗旦に「盆点てを見せてくれ」と求めた。そのとき、茶入は盆の上に乗せるので、当然ながら非常に格の高いものが求められる。にもかかわらず、宗旦は新しい瀬戸か何かの国産の茶入を乗せたんです。

これは、それ以前の感覚ではまずありえないことでした。当時でもかなり驚かれたからこそ、その記録が残っているんでしょうね

──門戸広がったことで、新たにどんなお茶文化が育まれたのでしょうか。

11月の茶正月(主客の近い、わび茶の醍醐味である炉の季節到来の喜びを表した言葉)は喜ばれます。これは決して格が高いからではなく、多くの人にひらかれた、侘び茶の季節到来を喜んでいるわけです。


​​僕らはそういう喜びを共有していて、こうしたお茶文化を継承しているのが、今の家元システムなんです。

「茶道」はグローバル文化となり得るか

──今、日本の茶は海外でも注目を集めています。たとえば抹茶は欧米でかなり高い値段で取引されていますが、こうした動きをどのように見ていますか?

まず、過去にも同じように、イギリスで抹茶がブームになったこともあるようです。

イギリスにも同じように庭があり、ティータイムがあるからです。元静岡県知事で研究者の川勝平太さんもその共通性を書いておられました。日本と英国には親和性があるんです。ただ、茶道がちゃんと海外に輸出されて定着したという話は聞いたことがないですね。

それから、最近では中国で日本のお茶が手に入りにくくなっていると聞きます。日本でも買い占めが起きていて、お茶屋さんも「お一人様2点まで」などの対応を取っているほどです。それだけ需要があるならば、輸出しようという動きも出てきていて、設備投資なども進められています。

ただ、中国では質の低い偽ブランドのようなお茶や茶会も多く出回っていると聞きます。

最近、衝撃的だった話としては、京都・建仁寺の「四頭(よつがしら)茶会」のやり方を、中国のある歴史的背景のある場所が学びに来て、正規に学んで帰ったと思ったら、全く違う中国式の四頭のようなものを展開し、それを「世界遺産」として登録してしまったことがあったそうです。

こういったことから、日本の茶道を海外に伝えるのは非常に難しいというのが現実です。よく「これからの時代は、お茶も新しく西洋式などに変えていくべきだ」と簡単に言う人もいます。たとえば「最近は炭がないから仕方ない」「もう畳に座れない人も多いから」と。

でも、僕としてはどうなのかと思っています。海外にも、日本でいう数寄者のような人たちは必ずいるはずなんです。そういう人たちをいかに惹きつけて、日本の精神や文化が息づいたお茶の世界に参画してもらうか。その視点を大事にしたいと思っています。

──インバウンドの文脈で言えば、茶道体験は海外からの観光客に人気だとも聞きます。

そうですね。とはいえ、お茶そのものは輸出時には高級嗜好品のように扱われる一方で、茶道体験をした観光客が払う金額が極端に少ないことには、正直疑問を感じています。抹茶を数万円で買う人がいるのに、なぜ茶道体験には数千円しか払わないのか。

僕自身、京都で観光向けの茶道体験のアルバイトをいくつも経験しました。その時給は1000円ちょっとで、体験の価格はだいたい1人あたり3000〜4000円台です。海外のツアー会社が間に入ると、それ以上の価格設定は成立しないんです。

以前、僕も京都のお寺と、個人で観光ツアーを運営されている方と組んで何かできないかと試みたことがあります。しかし、海外のクライアントは「1人1万円以上はNG」だと言います。3人が関わる企画で、少しずつ取り分を考えても、1人あたり7000〜8000円ほどが妥当という計算になりますが、それでも難しかった。結果として、一般的なツアーでは3000〜4000円に落ち着くことがわかりました。

今の人気は、おそらく観光客が「ちょっとお土産を買って帰る」レベルのものです。そこから茶事にまで踏み込む人がどれだけいるか。そこには大きな違いがあると思っています。茶事の体験を楽しみに来てくれるような数寄者の外国人をいかに開拓していくか、というのが重要でしょう。

お茶とは「世界のプロデュース」である

──最後に、これからの嗜好品についてお聞きします。そもそもお茶は「嗜好品」として捉えうるのでしょうか?

日本人にとって、お茶は元々「嗜好品」としての側面が強かったと思います。

歴史的には、最初は薬として飲まれていたものが、やがて茶室という特別な空間で楽しむようになりました。お茶自体の味や効能だけでなく、「壺中(こちゅう)」(茶室という閉ざされた空間・時空間)と向き合う、それ全体が嗜好だといえます。

当時はお茶を飲み、タバコを吸い、アルコールを飲む。ある種のドラッグパーティのようなものでした。アルコール、カフェイン、ニコチンのコンプリートですね。

ただ現代では麦茶や煎茶のように、喉を潤すための日常的な飲み物としてお茶を飲む人が多くなっています。本来は嗜好品として成立していたお茶が、現代では単に飲料として消費されるようになってきている側面があるのかもしれません。

──そうした変化も踏まえて、これからの嗜好品において、大切なことは何だと思いますか? 

新しい嗜好品を生み出そうとするなら、単に味わうだけではなく、お茶のように多様な要素を巻き込むことが重要だと思っています。

たとえば、今では抹茶ではなく煎茶を淹れて楽しむ「煎茶道」という文化もあります。道具や稽古において、ひとつの世界がきちんと構築されています。新しい嗜好品が成立していくためには、そうした要素が関連しあっていることが大事だと思います。

もっと言えば、お茶を熱心にやっている人が口を揃えて言うのは、お茶には魔力がある、ということです。

──魔力?

僕はその魔力が、まさに茶道にある3つの経済(稽古・茶会・道具)に関係していると思っています。それぞれ人を惹きつける魅力そのものなんですよね。

お茶会では、季節や客人に合わせて、茶掛や花器をしつらえ、自分の点前によって「世界をプロデュースする」ことができます。そして、どのような道具にするのかという楽しさがあります。

稽古の場は「一座建立(いちざこんりゅう)」で、いろんな人々の交流の場となっている。お茶が好きなもの同士というのは、階層や立場を超えて繋がり合うことができる。そこでお茶を通じて出会った人たちと、茶会や道具について語り合う。

──嗜好でつながる人、場所、体験ですね。

どこまでいっても手詰まりのない世界が構築がされているのが、本当に面白いところです。一期一会という言葉はよくいったもので、全く同じということはない。

お茶を点てて飲むことは、同じことを繰り返しているようでいて、その細かい違いを楽しむことができるんです。

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Author
ライター

1990年、長崎生まれ。フリーランスのライター。本の著者をはじめとした文化人インタビュー記事など執筆。最近の趣味はネットでカピバラの動画を見ること。

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編集、執筆など。PLANETS、designing、De-Silo、MIMIGURIをはじめ、各種媒体にて活動。

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1995年、徳島県生まれ。幼少期より写真を撮り続け、広告代理店勤務を経てフリーランスとして独立。撮影の対象物に捉われず、多方面で活動しながら作品を制作している。