何を食べるべきか。あるいは、何を食べるべきではないのか——。
「サステナビリティ」や「リジェネラティブ」を無視できない昨今、私たちは日々の食でこの問いに向き合う場面が増えています。
私たちの生活に彩りを添える、コーヒーやお酒、チョコレートといった「嗜好品」をきっかけに、その生産や消費についても考えることができます。気候変動による生産環境の悪化や、生産に携わる特定の地域・人々に負担が偏ることを防ぐ「フェアネス」の実現など、嗜好品を取り巻く課題もあります。
たとえば、近年関心が高まっているベジタリアニズム(菜食主義)を巡る議論もそのひとつかもしれません。「健康に良くないから」「動物がかわいそうだから」「宗教的なタブーだから」「牛のゲップなどが気候変動の一因になるから」……。サステナビリティへの配慮をはじめ、多様な主張や価値観が存在します。
こうした食を巡る複雑な問題に対し、示唆に富んだ視点を与えてくれるのが「食農倫理学」という学問です。今回インタビューしたのは、日本における食農倫理学の旗振り役である太田和彦さん。
「食農倫理学とは、『食べてもよい/食べるべきではない』という判断の根拠を探る学問」と語る太田さんに、食農倫理学の視点から見た嗜好品の価値や、私たちが持ちうる「想像力の射程」について聞きました。
見えてきたのは、分断された社会をつなぎ止めて「大した理由や理解なしにそこにいること」を許し合う核になる、嗜好品が持つ「粘り強さ」でした。
(文:鷲尾諒太郎 写真:田野英知 編集:小池真幸)
「なぜそれを食べていいと思うのか」の根拠を深掘りする食農倫理学
——太田さんの専門である「食農倫理学」とは、どのような学問なのでしょうか?
食農倫理学と聞くと、多くの方は「これは食べていい、これは食べてはいけない」といった、いわば「食べるべきもののリスト」を提示してくれる学問というイメージを持つかもしれませんが、実態は少し異なります。
食農倫理学が注目するのは、さまざまな場面で人々が下す「食べてもいい/食べてはいけない」という判断が、どのような根拠や価値観に支えられているか、という点です。
「○○は食べるべきではない。なぜなら××だからだ」という主張があったとしますよね。食農倫理学は、その「××」の部分、理由や前提に焦点を当てるわけです。
たとえば、日本でも広がりつつあるベジタリアニズム(菜食主義)の議論を考えてみましょう。「お肉を食べるべきではない」という主張一つとっても、その根拠はさまざまです。
ある人は「健康に良くないから」と言い、ある人は「動物がかわいそうだから」と言います。あるいは、宗教的なタブーとして語られることもありますし、牛がゲップなどで出すメタンガスが気候変動の一因になるから食肉を控える、といった環境負荷の観点もあります。
こうした多様な理由付けを整理せず、単に「食べるべきだ」「いや、そんなことはない」と意見をぶつけ合うと、不毛な水掛け論になりがちです。なので、争点や前提の違いを分解し、どこで合意できてどこが対立点なのか、できるだけ多くの人が納得できるような形に落とし込むにはどうすれば良いかを考えるのが、食農倫理学の基本的な方向性です。

——かなり実践的な学問なのですね。
はい。実際、食農倫理学は「応用倫理学」の一分野と位置付けることができます。
応用倫理学とは、倫理学の中でも特定の領域に関係する人が考えるべき「倫理」を取り扱う領域のことです。たとえば、ドーピングの是非やトランスジェンダーの選手の競技参加を論じる「スポーツ倫理学」、医療現場の判断を扱う「医療倫理学」、エンジニアや技術者が新製品の設計や運用の際に配慮する「技術者倫理」などが代表的です。
ただ、応用倫理学の中でも、食農倫理学には少し特徴的な点があります。応用倫理学は、通常「その仕事(分野)の担い手や専門家」に関する倫理を探究する側面が強いのですが、食農倫理学はその限りではありません。
なぜならば、「みんな食べている」からです。職業を問わず、誰もが当事者であるという意味において、食農倫理学は応用倫理学のなかでもやや特殊な立ち位置にあります。
とはいえ、「みんな食べている」からといって、話がシンプルになるわけではありません。農家のみなさんや食品メーカーの方々といった「食べさせる人」にとっての倫理と、消費者──つまり「食べる人」にとっての倫理は、焦点も責任のあり方も異なります。両者を混同せず、論点を丁寧に整理していくことも、食農倫理学の重要な役割の一つです。
1950年代に起こった「大加速」の衝撃
——食農倫理学という領域は、日本ではまだ馴染みが薄いように感じています。いつ頃から成立してきた学問なのでしょうか?
「食の倫理」を探究する営み自体は、「道徳」にまつわるそれと同じくらい長い歴史があります。古代ギリシャでも「なぜ酒を飲みすぎてはいけないのか」「そもそも飲みすぎとは何を指すのか」といった議論が交わされてきました(プラトン『法律』)。
ただし、今日の意味で「食農倫理学」という研究領域が輪郭をもつのは、主に20世紀後半以降のことです。背景には、1950年代前後から始まった「大加速(グレートアクセラレーション)」と呼ばれる時期があります。
——「大加速(グレートアクセラレーション)」とは?
人間の活動規模が一気に巨大化した時期のことです。たとえば、世界人口を見てみましょう。世界の人口は長いあいだ、とてもゆっくりと増えてきました。紀元1年頃は2億人ほど、1700年頃はようやく6億人ほど。18世紀後半の産業革命をきっかけに増加は加速し、1950年頃には25億人に達しました。そして、2025年現在、世界人口は約82億人に達しています。つまり20世紀半ば以降の数十年で、人口は3倍以上に増えたことになります。けた違いの増加です。
そして1950年頃から、この爆発的な人口増加だけでなく、エネルギーや食料の生産・消費活動、輸送、CO2の排出量や熱帯雨林の減少なども一斉に急加速しました。まさに、「大加速(グレート・アクセラレーション)」です。
食料システムの拡大を支えた要因の一つは、技術革新です。この70年の間に、食料を「つくる」技術だけでなく、「運ぶ」「加工する」「販売する」技術や仕組みも大きく進歩しました。それによって──もちろん、程度の差こそあれ──「食べることができる人」が増えた。
こうした変化は、医療や衛生の改善などと相まって、爆発的な人口増加を支えました。そして逆に、人口増加もまた、食料システムの大変革を促し、現在に至ります。
しかし、変化のスピードが速すぎて、私たちの直観は追いつけていません。今までは「なんとなく良し」とされてきた生産や消費のあり方も、現在の世界の姿と照らし合わせて「本当にこのままでいいのか」と問い直す必要が生じました。その問い直しは、当然「食べること」にも及んでいます。

——「食べること」に関する技術の急速な発展と人口の増加に伴い、その「倫理」も問われるようになったと。
まさにその通りです。そこで登場したのが、食農倫理学という学問です。1980年代末から90年代にかけて、哲学者ポール・B・トンプソンらが旗振り役となり、立ち上げました。1995年に出版された彼の著書『〈土〉という精神(The Spirit of the Soil)』は、その代表的な著作のひとつです。環境倫理学と農業を接続することを試みています。
当時の環境倫理学は「『手つかずの自然』を守るためにいかに保護区をつくるか」、あるいは「いかに野生動物を守るか」といった点に主眼があり、農地のような「人の手が入った自然」にはあまり関心を向けていませんでした。
しかし、現実には食料生産のために熱帯雨林を切り開いて大豆畑にするといった事態が起こっていた。環境倫理学の観点から議論をすると、「農業をやめよう」という話に向かってしまいがちです。「『手つかずの自然』を守る」という目標を達成するためには、それが一番根本的な解決になりますから。ですが、急増した人口を支えるためには、食料を生み出す農地の拡大は不可避です。農地開拓を辞めてしまえば、みんなが飢えることになる。実際のところ、80年代当時は現在以上に、飢餓問題の存在が大きかった。
そして、行政は「自然を守る」ことと「食料を安定供給する」ことの間に板挟みになってしまったわけですね。そこで、環境保護と食料供給を統合的に考える必要が生じ、食農倫理学という学問領域が生まれることになったのです。

食農倫理学から食を捉える「4つの視点」
——食農倫理学の中で、コーヒーやお酒といった「嗜好品」はどのように扱われているのでしょうか?
嗜好品も、基本的には他の食と同じ枠組みで扱われます。つまり、穀物や野菜、肉といった「必需品」だけでなく、ワインやスパイスといった「嗜好品」、栄養摂取のためではなくもっぱら楽しみのために口にされる食べ物に関する議論も非常に盛んです。食農倫理学には食文化に関する研究もあるのですが、その文脈で語られることが多いですね。
個別の嗜好品の話に入る前に、食農倫理学でよく使われる4つの視点を紹介します。
まず、①「フードシステム」です。フードシステムとは、食が成り立つ仕組み全体のことです。土をつくることから始まり、作物の種子づくり、生産、加工、流通、小売り、調理、さらには廃棄まで、あらゆる要素が含まれます。さらに、それを支えるさまざまな機材の輸出入や、農政の制度、農業や食に関わる人々の教育まで含めた、「食の全体像」を捉えるための視点です。
このフードシステムは、大きく2つに分解できます。「モノ」に注目するか、「コト」に注目するかですね。そして、「モノ」に注目する視点は、さらに2つに分けられます。そのひとつが、②「フードチェーン」、すなわち「モノの流れ」を追う視点です。食材が生産者の元から食卓に届くまでの流れを見る、ということですね。
食をモノとして見るもう一つの視点が、③「フードシェッド」です。「シェッド」とは「流域」のことで、特定の地域の人々を養う食が「どこから来ているか」を地図として捉える視点です。
そして最後に、④「フードスケープ」です。直訳すれば「食の景色」ですが、これは食との出会いや、食にまつわる体験全般を指します。たとえば、カレーライスを食べるにしても、家で食べることもあれば、レストランで食べることもあるでしょうし、あるいはSNSでおいしそうなカレーを紹介する投稿を見ることもありますよね。こうした「コト」としての食を捉える視点がフードスケープです。

——この4つの視点を踏まえたうえで、どのように食に向き合っていけばよいのでしょうか。
まず「いま自分は何について(どの視点で)考えようとしているのか」を確認してみましょう。つまり、「この話はフードチェーンの話なのか、フードシェッドの話なのか、フードスケープの話なのか。あるいは、より大きなフードシステムに関する話なのか」をちょっと振り返ってみましょう。
嗜好品に関しても「モノ(=フードチェーン / フードシェッド)」と「コト(=フードスケープ)」に切り分けて捉えることで、論点が整理され、議論が深まりやすくなります。
たとえばチョコレートを「これからも食べ続けたい」と考えたとします。
フードシェッド(供給圏)の視点では、「そのチョコレートの原料はどこで育てられたのか」「供給地で何が起きているのか」に焦点が当たります。そうすると、カカオの生産地(とくに西アフリカ)では、最近、気候変動の影響による激しい雨や長雨が増えていて、病害が広がり、カカオの実がダメージを受けていることがわかるでしょう。
次に、フードチェーン(流れ)の視点から見ると、「カカオの生産者を支援するにはどうすれば良いのか」を考えることができるようになります。これは、フェアトレード(公正な価格での取引を保障する仕組み)などをどう整えるべきか、という議論につながります。
フードシステム(全体像)の観点からは、もっと広く考えられます。「耐暑性のあるカカオを生み出すためには、いかに品種改良をすればよいか」「その品種改良をサポートするために、どのような座組で、どのように助成金を付与するか」といった論点が考えられます。
そして、これら「モノ」の話とは別に、フードスケープ(出会い・体験)の視点では、「そのチョコレートをめぐって、どのような場をつくるべきなのか」を問います。食べる場のデザイン、語り(ストーリー)の作り方、イベントなどが扱われます。

嗜好品がもたらす、「ただ、そこにいる」自由
——では、そうした4つの視点から見たとき、嗜好品の価値とはどのようなものだと考えられるのでしょうか?
嗜好品の価値は「フードスケープ」の視点から捉えるとわかりやすいと思います。嗜好品は栄養そのもの以上に、誰かと一緒に、味わい、語り、過ごすといった体験と不可分だからです。さまざまな分断が取り沙汰されている現代において、嗜好品が果たす役割は非常に大きいと感じています。
嗜好品がある場所には、ある種の「遊び心」や「余白」が生まれ、なんとなくそこにいてもいいような雰囲気がつくられます。
お茶やコーヒー、甘いもの、あるいは飲食物に限らず、ゲームなどでもいいのですが、それらはその場にいる人たちに「もうちょっとここにいてもいいかな」と感じさせる。よく「居場所づくり」と言われますが、空間があるから人が集まるというより、「人がそこに留まること」で、その場所が結果的に居場所になっていくのではないでしょうか。嗜好品は、その「人がそこに留まるきっかけや理由」になり得るところが面白いなと思います。
たとえば、街中にインドやネパール出身の方が経営しているカレー屋さんがありますよね。そういったカレー屋さんは、そのエリアに住まうインドやネパール出身の方々のコミュニティの拠点になります。一方で、そうした国の出身者ではない人々――たとえば、私のような日本人――も、そこで食事をするわけですよね。別に拒まれたりはせずに。
このとき、カレーが果たしている役割はとても大きいです。「スパイシーなカレーを食べに来た」という理由があるからこそ、店員さんが知らない国の言葉で話していても、テレビで馴染みのないボリウッドが流れていても、極彩色の宗教的なポスターが壁に貼られていても、私たちはそれほど気にならない。そこに留まり続け、ナンとかを食べる。
ここで大事なのは、カレーが「生きるために必要な栄養」ではなく、「わざわざ味わいに行く楽しみ」として機能している点です。カレーを食べるのは栄養摂取のためでもありますが、栄養摂取のために食べるのはカレーでなくても良いわけですよね。だからこそ、外から来た人でも「食べに来た」という正当な理由を持てて、その場に自然に留まれます。
カレーが嗜好品”的”に楽しまれるからこそ、カレー屋は「コミュニティの拠点としての内輪さ」を保ちつつ、外から来た人がそこに留まることもできる開かれた場所になり得ます。
つまり、モノ、特に嗜好品は、その場に滞留性をもたらす「粘り強さ」の源となるわけです。
——粘り強さ?
はい。質量を持ったモノには、特有の「粘り強さ」があります。
質量を持たないモノ、たとえば、パソコンの画面に映し出される本のデジタル画像を想像してみてください。私たちは何らかの操作をすることによって、その本の表紙の色を抽出し、それを自由に変えることができるし、輪郭線だけを残してディテールを消去することもできますよね。
一方、物理的な本の場合は、そうはいきません。本を動かそうとすると、必ず「本全体」が動きますよね。当たり前のことではありますが、「表紙だけが動いた」「本の輪郭はその場に取り残された」なんてことは起こり得ません。
つまり、現実空間に存在するモノは、否応なく「モノ全体が同時に動く」わけですね。あるいは、停電が起きて視認できなくなったとしても、本はそこにあり続ける。数百年の間放置されたとしたら、ある程度風化するかもしれませんが、そこに本があった何らかの痕跡は残るだろうと思います。
このような、実態を持つモノのもつ「粘り強さ」、連動性と残存性には、理由がありません。部分と部分が粘り強くつながり、その場に粘り強く存在し続ける。そういった物理的なモノの存在が、それが存在する空間に、簡単には消えない手触りを付与します。
そんなモノにかこつけることで、人は大きな理由なく、その場に居続けやすくなる。

——嗜好品などのモノがあることによって、人は空間に留まり続けられる。モノが持つ「粘性」が、私たちをそこに“貼り付ける”。
そうです。もちろん誰にでも同じようにそれを感じるわけではありません。でも、嗜好品は、嗜好が合う人であれば、国籍に関係なく「もう少しここにいよう」と思わせる力を生み出します。先ほどのカレー屋さんの例で言えば、「おいしいカレー」はインド人もネパール人も日本人もその場に留まらせる力がある。
ここで重要なのは、嗜好品は、人を結びつける目的というより、共に居るための媒介になり得る、という点です。話題がなくても手持ち無沙汰を吸収してくれる。沈黙があっても間がもつ。つまり、さまざまな人を理由なくつなぎとめる「紐帯(ちゅうたい)」になり得ると考えています。
もっとも、嗜好品のもたらす“貼り付け”はいつも良いものであるとは限りません。依存症はその最たるものです。
——嗜好品が、人を結びつけて、つなげる「紐帯」となる。
私たちが本当に求めているのは、嗜好品そのものというより、それを楽しむ「場」であり、その場を維持するための小さな支え、「粘り気のあるもの」としての嗜好品なのではないでしょうか。
そういった「粘性の高い場」をつくるものであれば、その場にあるものはお茶でもコーヒーでもシーシャでもノンアルコールカクテルでもいい。
「その場に居続ける」には大きく二つの負荷があります。なぜここにいるのかを説明する負荷(理由の負荷)と、相手や場の作法、暗黙のルールを理解していることを求められる負荷(理解の負荷)です。嗜好品は、飲みたさ・味わいたさによって前者を下げ、注文のやりとりといった定型のふるまいを与えることで後者の入口も下げる。
現代社会では、「理由と理解がなければ、その場にいてはならない」といったプレッシャーが高まっているように思います。
特に後者については、意図せぬハラスメントを避けるためにも、相手の事情を理解しておくことが求められます。たとえば、お酒を飲めるけれどあえて飲まないソバーキュリアスな生活をしている人と行くお店は、居酒屋ではなく、ノンアルコールバーの配慮は必要でしょう。その一方で、十分な理解への期待が過度に上がると、誰かと共に過ごすハードルはだんだんと上がってしまいます。
だからこそ必要なのは、「理解が十分でなくても、とりあえず居てみて、徐々に馴染める余地のある場」だといえます。そして嗜好品の持つ粘り強さは、その余地を支える可能性があると私は考えています。
ゲームから「共にある」ための想像力と知識を養う
──「食」を「コト」から捉える「フードスケープ」の観点から見た場合、嗜好品の価値とはその「粘性」にある、ということですね。では、モノ、すなわち「フードチェーン」や「フードシェッド」の観点からは、嗜好品に関するどのような論点が挙げられるでしょうか?
まずは、フードチェーンから見てみましょう。このとき、キーワードになるのは「公正(フェアネス)」です 。嗜好品が生産され、運ばれ、私たちの手元に届くまでの過程で、負担が特定の地域や人に偏らないようにしよう、という考え方ですね。
安くて美味しいと言われる南アフリカ産のワインについて考えてみましょう。
南アフリカは決して水が潤沢な地域ではありませんが、ワイン農家は水源を確保する必要があります。それ自体は、違法行為に及ばなければ、直ちに問題とはいえないかもしれません。しかし同じ地域で、住民が飲み水に事欠くような事態が起きていたら、どうでしょうか。輸出する安いワインのために水を使うことは、倫理的にどうなのか。そうした問いが突きつけられます。
日本は比較的、水が豊かな国ですが、それでも「水争い」と呼ばれる村どうしの乱闘は1930年代まで続いていました。世界的に見れば水は生活や農業、産業を左右する、激しい争奪戦の対象となる資源です。とりわけ地下水は、目に見えにくいぶん管理が難しく、地域によっては過剰な汲み上げが問題になります。大規模な汲み上げ施設を持つ企業が、地下水を事実上独占してしまうこともあります。
私たちが嗜好品を楽しみ続けるために必要な「想像力の射程」は、私たちが思っているよりもずっと広いのです。
──「理解なしにそこにいてもいい場」をつくる嗜好品を享受する私たちは、その生産の裏側にあるさまざまな問題にも目を向けなければいけないでしょうか。
そここそが、嗜好品を巡る問題の難しさだと思います。「大きな理由なしに、十分な理解なしにそこにいてもいい場所」をつくるためには嗜好品の力が必要ですが、フードチェーン、フードシェッドの観点から見ると、嗜好品の生産にはさまざまな問題がつきまといます。
ただ、嗜好品を享受する私たちを含め、より多くの人がその問題に目を向け、解決しなければ嗜好品生産の持続可能性は失われてしまいます。
つまり、「理解なしにいてもいい場所」を守るためには、そういった場を生み出す嗜好品の裏側にあるさまざまな問題について、少なくとも「無関心のままにしない」必要はあるのだと考えています。
──しかし、遠い場所で生じている問題を具体的に想像することは簡単ではありませんよね。
だからこそ私は、想像力の射程を広げる手段として「ゲーム」が有効だと考えています。
最近作った『フードダイバーシティ・ポーカー』というゲームをちょっと紹介させてください。
プレイヤーはタヌキの料理屋さんに扮し、限られた食材カードを駆使しながら、ユダヤ教、イスラム教、ベジタリアン、アレルギーを持つ方々など、さまざまな食習慣や禁忌を持つお客さんをおもてなしします。
たとえば、ムスリムの方々にとって、豚肉や豚由来の成分は禁忌であり、豚肉のカードは使えません。では、仏教徒であれば何を提供してもいいのかといえば、そうではありません。たとえば、台湾やタイに多い上座部仏教に帰依する方々は、「五葷(ごくん)」と呼ばれるニンニク、ニラ、ラッキョウ、ネギ、アサツキなどの強い匂いを放つ野菜類は避けなければならないとされています。
もちろん、こういった知識を知らずとも何不自由なく暮らすことはできるでしょう。でも知っておけば、トラブルを避けられるかもしれないし、どのような方とでも食事の場を快適に楽しめるようになるかもしれません。
想像力の射程距離を広げるための手段の一つとして、このようなゲーム(「シリアスゲーム」と呼ばれます)はとても有効だと考えています。

楽しみながら、自分の「目と手の届く範囲」を広げていく
──最後に、「食がどこから来ているのか」という「フードシェッド」の視点からは、嗜好品に関してどのような論点が挙げられるでしょうか。
「地産地消」という言葉があります。自らが住んでいる土地の食材をいただくことには、新鮮な食材が安価に手に入ることや、地域経済への貢献など、さまざまなメリットがあります。
嗜好品に関して言えば、この視点は「身近なものを選ぶ」だけでなく、「産地やつくり手に関心を向ける」きっかけにもなりえます。
「大好きなワインを生産しているワイナリーに行ってみたい」「酒蔵に行き、出来たてのお酒を飲んでみたい」という理由から、特定の土地を訪れた経験のある人も少なくないと思います。
普段自分が嗜んでいる嗜好品がどこで、どのように生まれてきたのか。その生まれ故郷であるシェッド(流域)を訪ねる楽しみ方は、きっと世界を広げてくれるはずですし、地域経済の活性化にもつながります。
──自分の好きな嗜好品を巡る旅、わくわくしますね。
私自身も、グラフィックデザイナーであり、居酒屋探訪家の太田和彦さん──まったく偶然にも同姓同名なのですが──が紹介するお店に行くことがあります。こうした小さな「訪ねる、知る」は、嗜好品が生み出している豊かな場や文化を、長く楽しみ続けるための支えにもなると思います。

——実際に足を運んで、嗜好品を嗜むとともに生産の現場を見ることにも意味がありますね。
そう思います。これまで見てきたように、食や農はさまざまな要素が重なり合って存在しています。嗜好品がつくり出す多様なフードスケープも、それぞれの土地での生産者のみなさんの努力や、それを私たちの元まで届けてくれる盤石なサプライチェーンがあるからこそ生み出されているわけです。
フードシステム全体を想像するのは簡単なことではありません。ですが、生産されている土地に足を運び、その土地や生産者の方々の話に触れたりして、その背景を少しだけ思いめぐらせてみることが、その第一歩になるのではないでしょうか。
「大きな理由なしに、十分な理解なしにそこにいてもいい場所」を生み出す嗜好品を楽しみつづけるために、無理のない範囲で「来し方」や「支えられ方」に関心を向けていくことが、大加速期の嗜好品との付き合い方だと思います。「無関心のままにしない」ように人を動かすのは、罪悪感ではなく、好奇心であってほしいです、これからも。

1990年、富山県生まれ。ライター/編集者 ←LocoPartners←リクルート。早稲田大学文化構想学部卒。『designing』『遅いインターネット』などで執筆。『q&d』編集パートナー。バスケとコーヒーが好きで、立ち飲み屋とスナックと与太話とクダを巻く人に目がありません。
1995年、徳島県生まれ。幼少期より写真を撮り続け、広告代理店勤務を経てフリーランスとして独立。撮影の対象物に捉われず、多方面で活動しながら作品を制作している。
編集、執筆など。PLANETS、designing、De-Silo、MIMIGURIをはじめ、各種媒体にて活動。
