酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。
そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。『DIG THE TEA』の連載シリーズ「現代嗜好」では、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。
最終回である第8回は、思想家の内田樹をたずねた。エマニュエル・レヴィナスをはじめとしたフランス現代思想の研究者であると同時に、合気道凱風館の館長を務め、武道家でもある内田は、哲学・武道から文学、教育や政治・経済まで、幅広い分野において多数の著作を世に問うてきた。前編では、「アルタード・ステーツ(Altered states、変性意識)」への切り替え、そして共同性の立ち上げという嗜好品の役割を踏まえたうえで、現代における「コモンの再生」の仕方を探っていく。
(編集&取材:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海 写真:佐藤麻優子)
嗜好品は「アルタード・ステーツ」への切り替えを引き起こす
──内田さんは数多くの著作を刊行されていますが、中でも『レヴィナスと愛の現象学』に好きなフレーズがありまして。「レヴィナスはいまここにある、通俗的な出来事を題材にして、人間性についての根源的な考察を試みているのだ」というフレーズで、これは内田さんの思想にも通底すると思うんです。
そうした視座のもと、嗜好品について話をうかがわせてください。内田さんは喫煙者であることを公言されていますが、嗜好品の価値はどのような点にあるとお考えですか?
生活の句読点のようなものだと思います。タバコや酒、コーヒーといった嗜好品は「アルタード・ステーツ(Altered states:変性意識)」への切り替えを引き起こしてくれます。夜に寝て夢を見ることで脳がリセットされるのと同じで、嗜好品をたしなむと、頭の中の仕組みがちょっと変わる感覚がある。鎮静作用や興奮作用によって、日常的なものの見方や感じ方に固着している状態から、一瞬ふっと浮き上がったり、沈み込んだりして、今の自分が居ついている現実から少しだけ離れられる。
僕は基本的に、18時になったら仕事はおしまいにすることにしています。風呂から出てから一服しながら冷たいワインを飲む。ダウナー作用とアッパー作用が同時に働いて、頭の中の配線が替わるのがわかる。仕事で疲れた脳の緊張がほぐれるのがわかる。別に泥酔するまで飲んだり、咳き込むまでタバコを吸ったりするわけではありません。熱い風呂に浸かって、手足を伸ばして、深く息をつくような感じです。
──茶の湯は、荒々しい政治や戦の日々を送る戦国武将たちが、強制的に平穏を得る小空間での営みとしてスタートしました。またコーヒー文化は、大航海時代が始まり、貿易を手がけていた荒くれ者たちが、コーヒーハウスで情報交換をするところからはじまりましたよね。これらはまさに「アルタード・ステーツへの切り替え」といえますね。
ミクロコスモスとマクロコスモスを行き来し、「自我の縛り」から逃れる
──他方、昨今は嗜好品をたしなむ場であっても、経済性や効率性に侵食されてしまっている気がしています。たとえば、スターバックスは仕事をしている人ばかりが集う、疑似労働空間のようになってきている。そうした新自由主義的な要請から来るキツさや虚しさから逃れるためには、どうすればいいのでしょうか?
「自我の縛り」から逃れることです。武道では「我執を去る」、「念を去る」ということを繰り返し教えられます。念が働くと、動きが定型的・記号的なものになる。なにより、念が働くと、相手にこちらが次に何をしようとしているのかが伝わるので、予測され、簡単にかわされ、制されてしまう。
だから、必要で適切な動きはするけれども、その際に念を働かせない工夫が要る。方法としては大きく二つあります。一つは、自我の圏域よりもさらに「内側」に入ること。たとえば、臓器や関節、靭帯や細胞にまで深く沈んでゆくと、もう自我の入り込む余地がない。心臓までなら「私の心臓」というふうに所有代名詞が使えるけれども、弁膜になると「私の弁膜」とはちょっと言いにくい。「私の上腕二頭筋」くらいまでは実感があるけれど、「私のアミノ酸」とか「私のミトコンドリア」とかは言わない。こうしてみると、「私の」と言えるレベルは自分の身体についてもそれほど深くはない。あるレイヤーから下に入ると、自我のない世界になる。
武道の稽古はそういうレイヤーまで下がるということです。身体部位の細部がどういう動き、どういう動線をたどるのが生物として自然なのか。原生動物でも、餌に近づき、捕食者からは遠ざかるくらいのことはできます。人間にできないはずはない。与えられた環境の中で生き延びていくための最適な動きを選ぶこと、それが武道の修業がめざすところです。
そのために呼吸法や瞑想法を行う。どの武道でも呼吸法をたいせつにしますけれど、これは呼吸が意識的に統御できる例外的な生命活動だからです。僕たちは心臓の鼓動や消化器の蠕動を意識的に統御することはできない。でも、呼吸についてはできる。呼吸はそれをしないと死んでしまうから、寝ているときも意識を失っているときもしています。でも、意識的に深くしたり浅くしたり止めたりすることもできる。呼吸は念と身体の深層をつなぐ回路なわけです。だから呼吸法を研究することで深いレイヤーに入る訓練をする。
自我の縛りから抜け出るためのもう一つの方法は、自我の「外側」に出ることです。自分の一生を超えた大きな流れの中で生きる。この道場には合気道開祖、植芝盛平先生の写真が正面に飾ってあります。植芝先生は、僕の合気道の師である多田宏先生の師です。多田先生が植芝先生から受け継いだ教えを、僕は多田先生から受け継いだ。それを次の世代に伝える。そのための場としてこの道場はある。自分の一生をそういう世代を超えた流れの中でとらえることで自我の軛から逃れることができる。
植芝先生のさらに前には大東流の武田惣角、大本教の出口王仁三郎という師がいます。その方たちの前にも師がいる。技芸の伝承は、個人が生きるたかだか数十年の時間を超えた何百年という長いタイムスパンの中で、何千、何万、何十万人もの人びとが関わることで果たされている。この働き全体を一人の人間の一生とみなすと、今度は僕自身がその多細胞生物の一つの細胞にすぎないように思えてくる。
このように、自分の中にあるミクロコスモスに分け入るフィジカルな稽古と、自分を超えた広大なマクロコスモスの中に想像的に自分を位置づける知性的な営みを並行して行うことを通じて、自我の縛りから逃れる。理屈ではそういうことになります。
──ただ、仕事や生活に忙殺される中で、ミクロコスモスやマクロコスモスを意識することは簡単ではないように思えます。
そのためにはある種の仕掛けが必要です。僕の場合は、毎朝起きたら道場で「お勤め」をします。神棚に向かって祝詞を上げ、般若心経と不動明王の真言を唱えてから「オキナガ」という特殊な呼吸法をします。全部で5分くらいの儀礼ですけれども、それでもこういう道場のような場がないとなかなかできません。オフィスで仕事の合間にとか、街角で人を待ちながらとか、ちょっと5分くらいあるから「お勤め」をしようというわけにはなかなかゆきません。
価値あるものを分かち合うことで、共同性が立ち上がる
──嗜好品をたしなんでアルタード・ステーツに切り替えることも、そうした仕掛けの一つだといえそうですね。
そうだと思います。それから、喫煙や飲酒は純粋に個人的な営みではなく、ある種の共同体儀礼だということも忘れてはいけないと思います。煙や液体は本来分割できないものです。それを共有することで共同体を立ち上げるという儀礼は世界中に存在します。とりわけ異族・異人との間に和平や対話の場を立ち上げる場合には、ほぼ必ず、共食・共飲の儀礼が行われます。貴重なものを私的に独占せずに、分かち合うことで自他を隔てるデジタルな境界線を解除する。
たとえば茶道においては、同じ水から沸かしたお茶を回し飲みしていきます。お酒を飲む盃(さかずき)も私有しにくいつくりになっている。漢語では盃を表す語に「觴」「觥」「觚」などがありますけれど、どれも「角」偏のついた漢字です。獣の角は古代において身の回りに見出す中で最も不安定なものでした。だから下に置くことができない。飲み干すか、他の人に回すしかない。
宴会でも、マイ・ビールを手元に置いて手酌で飲むのは非礼とされます。まず隣の人の空いたグラスにビールを注ぎ、相手が注ぎ返すのを待つ。これは太古の時代から続いている作法だと思います。自分が欲しいものはまず他人に贈与して、返礼されるのを待つ。これは贈与儀礼の基本です。
贈与から交換が生まれ、経済活動が生まれ、共同体が生まれる。もし、最初の人間が生きる上で必要なものを私的に占有して、誰とも分かち合わないという生き方を採用したら、贈与も交換も始まらなかった。人類は今も未開状態のままだったでしょう。
人類学が教える通り、贈与というのは別に博愛とか利他心によって始まるものではありません。交換するものが人間なんです。だから、お酒やタバコのような嗜好品については贈与儀礼の古代的な痕跡が残っています。昔は、タバコは見知らぬ人からもらうことができた。居酒屋で隣に座った人に「ちょっと一本いいですか?」と言えば、だいたいもらえた。火まで点けてくれた。お酒だって、こちらの徳利が空になっていると、「ま、どうぞ」と注いでくれた。「その焼き鳥一本ください」ということはできないけれど、煙と液体については贈与することへの義務感が1970年代までは残っていたと思います。
──価値あるものを贈与し、人と共有するところから、共同性が立ち上がると。
ただ、ここ数十年で、贈与と共同体についての基本的な考え方が消滅してしまったような気がします。貴重なものは私有し、他人とは分かち合わない、貴重なものを共有し、共同管理するという発想そのものが希薄になった。「パーソナル・スペース」という言葉が出て来たのはこの40年くらいでしょう。他人の体臭や香水の匂い、タバコなどの匂いが「臭い」と言われるようになった。自分の周りの空間は「私物」だと思うから、他人の匂いが侵入してくると腹が立つ。自分の周りの空間も公共財だと思っていると、「臭いから出ていけ」というリアクションは出てこないでしょう。
そもそも、僕が子供の頃までは、タバコは「よい匂い」だったんです。昭和30年代までの日本の家屋は糞尿とドブの臭いが絶えず侵入してきた。だからタバコの匂いは消臭剤の役割を果たしていたからです。タバコは文明の香りだったんです。その後、社会のデオドラント化が進むにつれて、「よい匂い」が「いやな匂い」に記号が付け替えられた。社会的感受性の方が変わったんです。
血縁でも地縁でもない、新しい「コモンの再生」を
──嗜好品も、その日常化・コモディティ化に伴って、現代では集団よりも個人的に愉しむものとしての性質が強まっています。
でも、人間は一人では生きていけない。集団を作って暮らす方が安全だということはいまも変わらないと思います。結婚するのも、家族を作るのも、仲間を増やすのも、基本的には安全保障でしょう。
豊かで安全な時代なら「一人でも生きていける」でしょう。でも、日本はどんどん貧しくなっている。高齢化と人口減少のせいで、これからさまざまな産業が消えてゆく。さらにコロナ禍によって、航空業界をはじめ、大量の雇用消失が短期的に起きている。明日の生活が確かだという人はいないんです。そういう時代だからこそ、チームを作って生きる必要がある。
──では、どうすれば紐帯を形成できると思いますか?
いまさら献酬したり、タバコを分け合うようにしようといっても現実的ではありません。何か別の仕方を探し出すしかない。何らかのかたちで中間共同体を創り出す。僕が『「コモンの再生」というのはそのことです。かつての血縁共同体や地縁共同体をいまさら再構築することができない以上、新しいタイプの共同体を考える必要があります。僕は教育共同体や宗教共同体、医療共同体のようなものが次世代のコモンになると思っています。貴重なものを公共財として共有し、共同管理してゆくことを自分たちの使命だと思う人たちによって形成された共同体だけが生き残れると思います。
コモンとして生き残る可能性が高いのは教育共同体です。教育とは要するに、先人から受け取った知識や情報、生きる知恵と力を、次の世代に伝えてゆく営みです。長い時間の流れの中での「価値あるものの継承」という物語がないと共同体は持たない。共同体の維持・管理のコストは参加者たちからすると主観的には「一方的な持ち出し」なんです。
コモンにかかわるときに「出した分だけ回収する」という取引のようなマインドでいれば、みんなが「自分だけが持ち出して、割を食っている」と思うようになる。必ずそうなります。全員が「自分は割を食っている」と思い、自分の割り前を不当に占有している「フリーライダー」を探し出して、罰を与えようとする。自分が出した分だけ回収しようというマインドでは、共同体は維持できません。逆に、短期的には採算が合わないけれど、長期的にはこの共同体が存在することによって自分は大きな利益を得るという見通しがないといけない。
僕が凱風館道場を開いているのは、多田先生からもらったプライスレスな贈り物を、次の世代に伝えていくためです。僕は先生からあり余るほどの贈り物をいただいた。これを私有独占していては罰があたる。だから、門人たちにそれを「パス」する。道場の立ち上げや運営は、当期利益だけを考えたら、まったく割に合わないです。でも、「金が儲からないから道場を閉めよう」ということにはならない。それは伝統的な技芸を継承することが僕のミッションだからです。当期利益至上主義でやっていたら、ほとんどの教育機関は存立できないと思います。
しかし、いまほとんどの社会人が属している共同体は株式会社か、あるいは株式会社化した組織です。だから当期利益至上主義を基調として運営される。そもそも株式会社の平均寿命は5年ですからそれより先のことを考えてもしょうがない。株主は株価が最高値をつけた日に売り抜けるのが最も賢いわけですから、今日株を買って、明日に最高値だったら、明日売ればいい。1日だけしか会社に関わらず、それが何の会社であるか、どのような商品やサービスを扱っているのかを知らなくても全然構わない。そういう人が最も賢い投資家だと見なされる。そんな人たちに長い時間にわたる物語が作れるはずがない。でも、コモンを維持するためには「そもそもこの共同体は、誰がどんな夢を託して作ったのか」という起源に、絶えず立ち戻って参照する必要があります。
後編は、6月24日に公開予定です。
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