連載

世界や人間を有用性で判断すべきではない:思想家・東浩紀

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。『DIG THE TEA』では連載シリーズ「現代嗜好」を通じて、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

第7回は、思想家の東浩紀氏をたずねた。1998年のデビュー作『存在論的、郵便的』から20年以上、サブカルチャーから情報技術、政治まで幅広い領域を渉猟しながら、「誤配」の哲学を作り上げてきた東。2010年に株式会社ゲンロンを創業してからは、経営者として、思想を実践に落とし込む活動も重ねてきた。前編では、ノンエッセンシャルなものが持つ価値、人間の生における「間違い」の必要性をとおして、嗜好品の存在意義に迫った。後編では、人間を人間たらしめる非合理的な動物性、人びとの本音から遊離するSNSの現状について考えながら、これからの嗜好品が目指すべき場所を探っていく。(取材:2020年9月25日)

(編集&取材:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海 写真:佐藤麻優子)

前編 》 ノンエッセンシャルなものが大きな価値を持つ:思想家・東浩紀

非合理的な動物性こそが、人間を機械と分かつ

──前編では、ノンエッセンシャルな「間違い」こそが人間の本性である、というお話をうかがいました。2020年に刊行された対談集『新対話篇』の中でも、「ぼくはいわば『誤配原理主義者』で(笑)、超越論的なものはすべて誤配=ノイズから生まれると考えている」と語っていましたよね。

仮に完全に「正しく」生きられたとすればと、人間は機械になってしまいます。人間が機械にならないのは、動物の部分があるからです。動物の部分があるからこそ、人間は間違いを犯すし、それゆえに逆に、神のような超越的な存在を考えてしまうわけです。

ユヴァル・ノア・ハラリのように、シンプルな進歩史観を持つ歴史学者は「まず動物がいて、進化して人間になり、最終的な神になる」と考えますが、僕はそれは間違いだと思います。神は、言ってみれば、僕たちが作った妄想にすぎません。そうした妄想が必要とされるのは、僕たちの中に動物性、ある種の生物としての歴史があり、かつては進化に役立ったけれど、もはや合理的に生きることには無関係な欲望がいろいろと刻まれているからです。そうした非合理性を抑制するため、神のようなものを必要としている。

人間が機械とは違った存在である所以は、動物性をたくさん秘めており、合理性とは異なる論理で動く欲望をたくさん抱えているからです。そして、それこそが人間、あるいは生命というものの強さだといえる。どんな生物も、大きな耳や長い足など、いま、この瞬間の生存には必要がなさそうなものをたくさん持っていますよね。けれどそれこそが、環境が激変したときに、生き残る確率を高めてくれる。今この瞬間の環境だけを前提に合理的に設計されていたら、そもそもここまで生物の多様性は生まれていない。ハラリ的な歴史観は、世界の多様性や人間の複雑さを取りこぼしていると思います。

──ハラリは、神に迫るごく一部のエリート層と、AI以下の労働にしか従事できない「無用者階級」に分かれるとも論じています。

まず重要なのは、人間は有用性だけで測られるべきものではないということです。僕は最近、あらためてマルクスの『資本論』について考えていて、労働力を特別な商品とみなすマルクスの議論は、けっこう面白いアイデアだと思うんです。

『資本論』の基本にあるのは、「有用なものは交換可能である」という前提です。有用なものを等価交換するだけなら、お金は単に便利な道具であり、経済活動自体が問題とされているわけではない。マルクスが問題視するのは、剰余価値の創造によって人間が搾取されるようになる、という点でした。では本来、等価交換だけで成り立っていた経済に、剰余価値が生まれるのはなぜなのか。そこで彼は労働力に注目するわけです。本来人間は何かの「役に立つかどうか」で測られるものではありません。でも人間の労働が労働力として有用性に転換され、商品になることで、本来なら等価交換できないものが等価交換されてしまうようになる。それが根本的な問題だというわけです。

人間は有用性では測れないし、労働力にならなくてもいい。同じような議論をハイデガーは「ゲシュテル(Gestell)」という言葉を使って論じたといえます。彼は、プラトンまで遡って、世界を資源とみなし、有用性で測ろうとする考え方が昔からあり、それこそが近代の科学技術の問題を引き起こしたと言ったわけです。考えてみれば、世界そのものは本来、単に存在しているだけで、「これを使ったらいくら儲かる」「これでどのくらい自動車が動く」と有用性で測る目線は、非常に倒錯している。そもそも宇宙はものすごく巨大で、有用ではないものだらけです。地球という巨大な存在からしたら、本当にくだらない話ですよ。有用性によって世界を分類するなんて、どれだけ視野が狭いのかと思いますね。

21世紀のうちに、アルコールすら禁止される?

──しかし、昨今の世界は、ますます有用性のものさしにとらわれるようになっていますよね。ノンエッセンシャルなものを排除しようとする風潮は、まさにその表れでしょう。

おっしゃる通りだと思います。さきほども言いましたが、僕はゲンロンを経営する中で、商売は誤配だらけだと学びました。ものごとは計画通りにいかないけれど、思わぬ人が助けてくれる。だから、とりあえずいろんな人とゆるくつながっておく。そのつながりこそが資産であり、それがないと、商売なんて怖くてやってられません。

それにもかかわらず、人びとはいま、観念で作り上げた計画通りに動くことが効率的だと信じ、ますます誤配を許さなくなっている。1960年代〜70年代が自由と解放の頂点だったとしたら、20世紀後半から、明らかに世界は逆の方向に向かっていると思います。コロナ禍におけるオンライン偏重もその延長線上にあります。この調子だと、お酒だって21世紀の真ん中には禁止されてもおかしくない。アルコールこそがハラスメントの温床だという認識は徐々に広まりつつあります。性道徳が時代によってかなり波があるように、お酒に対するスタンスも変わりうる。

──たしかに、若者世代を中心に、あまりお酒を飲まなくなりつつありますよね。

ハラスメントを取り締まることは大事です。でも、そうしたことが起こるのは基本的には例外のはず。現実に起こっているのはむしろ、あらゆるところに「問題」を発見しようとする、自己増殖のプロセスのように思います。

──嗜好品が批判されるとき、過度な摂取を呼び込む中毒性が槍玉に挙げられることも少なくありません。また昨今では、健康や環境にも配慮した、21世紀的な「倫理的な嗜好品」が求められるようになっています。生産や流通、消費の仕方を倫理的に変えようという風潮のもと、たとえばオーガニックワインやオーガニックコーヒーといったものが現れはじめています。

結局は程度問題だと思います。中毒性に関しても「人に迷惑をかけない程度にたしなもう」としか言えません。すべての依存や中毒性が悪いといったら、人間関係もそもそも依存によって成り立っているものです。どこまでが健康でどこからが病かというのは、恣意的な判断にならざるを得ない。最終的には個別判断でしかないでしょう。

環境面についても、「ゴミをポイ捨てしてはいけません」程度ならばいいですが、完全にエシカルな世界を作ろうとしたら「人間はいないほうがいい」という結論に至らざるを得ないのではないでしょか。実際に反出生主義のような思想も出てきていますが、僕はあのタイプの議論は根本の問題設定が間違っていると考えています。論理的に考えたら、人間が生まれないほうが良いという結論が出た。それは結構ですが、いますでに人間は存在してしまっているわけで、そんな哲学は言葉遊びにしかならない。エシカルという目的にとらわれて、私たちの生存そのものを間違いとみなす結論を出したところで、何の役にも立たないんですよ。

SNSはもはや、本音が可視化される場所ではない

──たしかに、エシカルという言葉は、最初は経済一辺倒な価値観へのオルタナティヴになるかと思いましたが、昨今はどんどん窮屈なものになっている気がします。

人びとが何も考えず、「正しいことをやっている」感覚に飛びつくための言葉という印象はありますね。政治的なハッシュタグをツイートしていると、問題そのものに全く関心がなくても、正義を執行している錯覚に陥るのと同じです。みんな、何も考えずともパッと手に入る正義が欲しいのでしょう。ハッシュタグで政治的なアピールをしている人のほとんどは、現実の運動にコミットしているわけではなく、ただ「ハッシュタグを打っている自分」を人に示したいだけだと思います。

こうやって「それらしいもの」に踊らされてしまう根本的な原因は、SNSだと思います。SNSは、具体的な現実を見えなくしてしまう。本来の政治運動は、近くに困っている人や、困っている人に同情して運動をしている人がいて、その人とのコミュニケーションの中で、参加するかしないかを決めていくべきものです。

ハッシュタグ・デモの無力は、残念ながら、安倍政権末期と菅政権スタート時の支持率の高さで証明されていると思います。菅政権の支持率は、小泉と細川に続いて、歴史上3番目の高さです。平均年齢60歳、女性閣僚わずか二人、派閥均衡型人事、コロナ対策の失敗も特に考えず、政策は継承……それにもかかわらず、高支持率を維持している。ネットでハッシュタグがいくら盛り上がっても、国民の大多数には関係がないんです。そういう現実への真摯な反省なしに、リベラルと野党の復活はないでしょうね。

──厳しい現実ですね。SNSはそれぞれの個人の意見表明の場から、社会的な潮流に身を置く場になっているのは感じます。

人びとの本音がどこにあるのか、わからなくなってきている。今回の結果で明らかになったのは、多くの人の本音は「安倍政権大好き」だったということ。そのなかには、ハッシュタグを打って「モリ・カケ」や「桜の会」を批判していた人もいたかもしれない。

SNSはかつては本音を喋る場所だったと思うのですが、いまは建前しか流通していないし、誰も本当のことを書いていないようにも思います。「ハラスメントは許さない」「エシカルに生きねばならない」といった意識が高い言説があっても、足元ではそんなことほとんどの人が信じていないのではないですか。遊離した言葉だけがグルグルと動いているだけのように見えます。

──東さんがかつて『一般意志2.0』の中で構想していたような、情報技術によって社会の「無意識」を可視化して合意形成の基礎に据える、新しい民主主義は、遠のいてしまったということでしょうか。

そうですね。SNSは、人びとの無意識が出る場所ではなくなった。欲望は表現が与えられた瞬間、覆い隠されてしまう。一人でこっそり買うものと、友人と一緒に買うものは違いますよね。SNSはもともと前者に近かったのですが、あるときから後者に変質してしまった。

こうしたSNSの変質に象徴されるように、2000年代にさかんに叫ばれた「ネットが政治を変える」という夢は破れました。僕はじつは、2010年代の思想界でのAIブームはその「心理的補償」だったと見ています。「社会を変える」と期待されていたブログやSNSが実際に生み出したのは、ポピュリズムでポストトゥルースでありトランプだった。そのため、みな「シンギュラリティ」のような夢想的で大きな話に飛びつくようになってしまったのではないか。

画一化したとき、左翼は終わった

──SNSの言葉が現実から遊離していくことで、どのような問題が生じるのでしょう?

政治運動から多様性が失われ、リベラルはますます窮地に立たされると思います。2012年の政権交代の直後、社会学者の小熊英二さんと対談したことがあります。そのとき小熊さんは「多様な人間で構成されているのが、左翼運動の良いところ。デモに行っても、保守派はみんな同じような服装で、同じような主張を掲げている一方、左翼は団体や個人が別々に参加し、プラカードに書かれた主張もバラバラだ」と語っていました。

でも結局、のち、SEALDsを中心に、コンビニプリントを使ったデモの手法が普及し、左翼もみんなが同じデザインの同じ色のプラカードを掲げるようになってしまった。このとき、左翼は大事なものを失ったのだと思います。本来、権力は画一的なもので、その周りの反体制勢力は多様でなければならない。しかし、ハッシュタグを打って気軽に参加させる方法論を取った結果、運動自体が画一的で単純になってしまった。そして、あらゆる運動が一瞬のファッションとして消費されるようになり、結果としていくら反安倍キャンペーンを実施しても、菅内閣が歴代3位の支持率で発進するようになってしまったわけです。

世界的に見ても、シャンタル・ムフの提唱する左派ポピュリズムのような議論が注目されていますが、そんなものはうまくいくはずがないと思います。反体制側は、権力側と同じゲームで戦ったら負けるに決まっています。だから、ルールを変えて、ゲリラ的に戦うしかない。しかし、SEALDsやハッシュタグ・デモの参加者は、「正しいことを言いさえすれば世界に広まる」という、じつに真っ直ぐなことを真面目に信じている。いい人たちなんだろうとは思いますが、過去の歴史の教訓が消えているのではないか。正しいことは、基本的にはすぐには広まらず、抑圧されるものです。

だから、社会変革というのはおしなべて、最初は理解されないマイナーなものからはじめ、少しずつ世の中を変えていくしかないのです。それには長い時間がかかります。ある程度成果が出たときには、その人の人生が終わりに差し掛かるっていることも珍しくない。正しいことは常に複雑であり、いまの常識とは少し違うことだったりする。一つの「正しさ」の旗があり、そこにみんなで集って安心している時点で、それはもう本当の正しさではないのだと思います。

──画一的な「正しさ」に安住しないためには、どうすればいいのでしょう?

たいへん素朴なことをいいますが、仕事上付き合う人以外の人と、かかわりを持つ場所を確保することが大事だと思います。左翼の人たちは、家族や友人もリベラルな人ばかりといったケースが多い。身内に安倍支持者なんていないから、政権はすぐ倒れるはずだと思い込んでしまう。でもそれはまちがいです。

商品交換が人間のコミュニケーションによってでしか行われなかった一昔前であれば、たとえば野菜一つ買うにしても商店街の店員と話さなければならなかったわけで、彼らはガリガリの自民党支持者かもしれない。そのように地域や家族コミュニティを通じて、政治的な多様性を空気のように浴びる機会が用意されていた。でも昨今は、人と人の間のコミュニケーションがない状態で商品交換がなされるようになりました。左翼知識人が現実から遊離している背景には、こうした社会変化もあると思います。

必ずしもローカル・コミュニティではなくていいと思いますが、政治的志向性や社会的価値観の異なる人たちと出会う機会を、意図的に作らないとまずいですよね。僕自身、ある種の中道性を保っておくように気をつけています。極端なことを言ったほうが、特定のクラスタには支持されてRTされやすくなりますが、気づけば周りがそれ一色になってしまう。「いろんな人がいる」ことに敏感であり、具体的な折り合いをつけていくための努力こそが大切なんです。

──そうした、異なる価値観の人々と出会う場というのが失われたのは、いつ頃だったのでしょうか?

やはり急速に進んだのは2000年代以降でしょうね。僕のような団塊ジュニア世代が子どもだった1970、80年代頃は、親の世代は地方にルーツを持っていましたし、郊外もまだ作られたばかりで、今のようにコンビニとロードサイドビジネスに完全に覆われてしまっていたわけではなかった。2000年代に入り、団塊ジュニアが30代に差しかかったあたりから、核家族がコミュニティから分断され、政治的な多様性に出会う場がなくなったように思います。

こうした単純化の圧力に抵抗するためには、啓蒙活動に地道に取り組んでいくしかないと思います。啓蒙はすごく時間がかかることで、一発で100万人動員といったかたちはありえない。お祭りを作るのではなく、さまざまな領域で、いろんな人がいろんなかたちで啓蒙活動を続けることで、はじめて世界は良くなっていく。SNSに革命の夢を見るのではなく、できることを積み重ねていくべきです。僕にとって、ゲンロンカフェはそういう試みの一つです。

──歴史的に見ても、カフェは市民社会の形成に大きな役割を果たしていますよね。民主主義や保険会社もカフェから生まれています。

でも一方で、昨今の世界を支配しているスターバックスのようなカフェビジネスは、かつてのカフェが持っていた、言論や意見交換の場としての役割は果たしていないようにみえます。単純にコーヒーを飲んだり、時間を潰したりするためだけにあり、機能がはっきりしている。第三の時間・場所がなくなってきている印象があります。

まったくその通りだと思います。僕はまさに、その第三の時間・場所を維持しようとしているつもりです。でもこうした活動はスケールできません。というか、僕は最近、スケールという考えこそが悪の根源だと考えています。どんなにいいことを考えていても、スケールした瞬間に、資本主義とSNSのゲームに巻き込まれてしまう。だから僕は、スケールしないギリギリのラインを保つことを心がけているんです。

ジークムント・フロイトの『夢判断』の初版が数百部だった話は有名ですが、徐々に何かが広がって世の中を変えていくことが大事で、それはすごく時間がかかる。最初からスケールを目指すと、広告費か投資でお金をまかなうしかなくなり、短期的な成果を目指さざるを得なくなります。僕はそれが嫌なので、スケールに対抗するためのロジックや空間を作っているんです。

(了)
前編 》 ノンエッセンシャルなものが大きな価値を持つ:思想家・東浩紀

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