連載

コスト削減の呪縛から抜け出し、ダラダラすることが必要だ:思想家・内田樹

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。連載シリーズ「現代嗜好」では、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

最終回である第8回は、思想家の内田樹をたずねた。前編では、「アルタード・ステーツ(Altered states、変性意識)」への切り替え、そして共同性の立ち上げという嗜好品の役割を踏まえたうえで、現代における「コモンの再生」の仕方を探った。後編では、「人それぞれであり、基準はない」という健康の本質を捉えたうえで、嗜好品排斥の背景にある管理コスト削減原理主義、日本人が有用性にとらわれ「カリカリしすぎる」ことの問題点に迫っていく。

(編集&取材:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海 写真:佐藤麻優子)

前編 》 嗜好品は変性意識を生み出し、共同性を立ち上げる:思想家・内田樹

健康志向は不健康。画一的な「健康」などない

──嗜好品は昨今、健康志向の流れが強まる中で、全体的に逆風にさらされています。この状況についてどう思いますか?

昨今の健康志向は不健康だと思います。極端な清潔好きや無臭化はほとんど病的だと思います。

幕末の加賀藩主・前田斉泰(なりやす)が、『申楽免廃論』という能楽論を書いています。でも、この本の面白いところは、能の芸術性に関しては一切言及がなく、ひたすら「能がいかに健康に良いか」だけが論じられているというところです。斉泰は重篤な脚気を患っている状況だったのですが、お能の稽古を通じて治った。だから、能楽は健康によいという世にも珍しい能楽論を書いたのですが、病気と健康の間を行き来した人にしか書けないものだと思います。

斉泰の結論は「健康とは適度ということであり、何が適度であるかは人によって違う」というものでした。終日家の中に座り込んで針仕事をしていることが健康によい人もいれば、天秤棒を担いで、一日中外を売り歩くことが健康によい人もいる。五合飯を食わないと持たない人は五合が適量であり、一合で足りる人には一合が適量である。人それぞれの生き方によって「適度」は違う。だから、健康法というのは自分にとっての「適度」を見つけ出すことだ、と。万人に妥当する「健康」や「病気」があるわけではなく、人はみんなそれぞれの健康と病気の「あわい」にいる。それでよろしいのである、と。

これは病気をした人ならではの言葉だと思いました。たしかに病気や怪我をしても、具合が悪くてどうにもならない時と、何とか仕事をしたり、遊んだりできる時がある。「これぐらいなら何とか暮らしていける」なら、それは「適度」のうちなわけです。

アルベール・カミュも「適度」とか「あわい」とかいうことを重く見るヨーロッパでは珍しい思想家でしたけれども、それは彼が若い時に肺結核で苦しんだ経験とかかわりがあると思います。もともとカミュはすばらしく性能のよい身体に生まれついていたのですが、家が貧しくて栄養不良で結核になりました。でも、静養して少し回復した。肺にはまだ穴が開いているけれども、それでも再び地中海で泳ぐことができるようになった。それに深い喜びを感じることができた。カミュの初期の書き物には太陽と海を賛美するものがいくつもありますけれど、あれは病気が少し癒えて、「これくらいならなんとか暮らせる」状態になったときの歓びが反映しているのだと僕は思います。生まれつき100%の健康を享受している人よりも、病気になったり少し健康を取り戻したりというふうに「あわい」を行き来している人の方が健康であることへの感謝の気持ちは深い。そういうものだと思います。

でも、昨今の健康についての言説には「適度」という感覚が欠けています。個人の体質や生得的な身体性とは無関係に客観的に数値化された「健康」があって、そこから逸脱するとすべて「病気」や「異常」とみなされる。でも、ふつうの人間が達成することの困難な「完全な健康」を満点にとって、今の自分の状態を減点法で査定して生きるのは心身の健康にはよろしくない。「健康にならねば」といつもじたばたしているのは、健康によくないです。それよりは自分にとっての「適度」を理解して、許容範囲を広めにとって、「この範囲内にいればいいや」というくらいの気分で暮らす方がいい。

嗜好品も同じことです。人によって好みが違うし、心身に及ぼす影響も一人一人違う。そもそもこの世に健康に良いだけで、悪い副作用が一切ないものはありません。運動し過ぎても、しなさ過ぎても身体に悪い。食べ過ぎても、食べな過ぎても身体に悪い。仕事をし過ぎても、しなさ過ぎても身体に悪い。酸素を吸わないと死ぬけれど、活性酸素は細胞を傷つけ、がんや心臓疾患の原因になる。僕たちは生まれた瞬間から死に始めているわけですから、「生きていること」自体が身体に悪いんです。

管理コスト削減原理主義は、多様性を許さない

──画一的な「健康」など存在しないと。それにもかかわらず、「適度」をあまり許さない世の中になってきていますよね。これはなぜだと思いますか?

管理コストの問題だと思います。一人一人が自分独自の健康の物差しを持って、自分にとっての「適度」の内側で暮らしていればそれでいいはずなんですけれども、それだと誰が健康で誰が不健康なのか「格付け」ができなくなる。健康についても、万人に一律の物差しをあてがって査定して、単一のランキングに配列した方が管理し易い。全員がそれぞれの個性的な基準に従って行動すると、本人たちは気分がよくても、社会としては統御しにくい。管理コストを最少化するためには、メンバーたちに画一的な行動を強制し、一律の数値的基準をあてはめて格付けして、上位者に報酬を与え、下位者には処罰を与えるという仕組みが一番簡単なんです。多様性を許さないのは、組織の管理コストの問題なんです。

組織の管理コストを最少化することが絶対善であると信じられるようになったは、かなり最近の話です。前はそれよりは組織のパフォーマンスを上げることの方が優先された。今の日本社会は違います。どうすれば、みんな生き生きと愉快に暮らせるかということよりも、客観的・数値的な基準に基づいてメンバーを格付けして、それに基づいて資源分配を行うという何の生産性もないタスクにみんな夢中になっている。日本が短期間にこれだけ国力が衰微したのは、「どうすればみんな元気になるか」より「どうすれば管理コストを最少化するか」を優先させてきたからです。全員が斉一的な行動をとるような社会からは新しいものが生まれるはずがない。だから、日本ではイノベーションも、ブレークスルーも何も起きなくなった。 

多様な生き方を受け入れるというのは言葉は簡単ですが、実践するのは難しい。多様性を受け入れるというのは、自分とは判断基準が違う、ふるまい方が違う「不快な隣人」との共生に耐えるということなんですから。でも、多様性を担保できる社会からしか、「新しいもの」「よきもの」は生まれません。

日本がこれほど管理コストの削減にこだわるようになったのは貧乏になったからです。それまで高度成長期、バブル期には、そんなこと考える必要がなかった。「どうやったらもっとお金が儲かるか」を考えることにみんな夢中になっていて、「どうやってコストを減らすか」なんていう「後ろ向き」の話題には誰も取り合わなかった。国に勢いがあるというのはそういうことです。

──画一的な健康観の背後には、経済の問題があるということですね。

そうです。でも、管理コストを最少化してゆくというのは、組織においては端的に「雇用を減らす」ということです。メンバーを一律の物差しで格付けして、下位者を切り捨ててゆくことです。でも、そんなことをして社会が活気を取り戻すとか、次々にイノベーションが起きるというようなことは決して起きません。

これから先日本に必要なのは、もう一度社会を活気あるものにすることです。全員が自尊感情を維持して、愉快に生活できる条件を整えなければならない。そのためには「雇用を確保する」ことが最優先されます。それはできるだけ多くの人間を雇用できる仕事を創り出してゆくということです。

AIの導入が進んで、大量の雇用崩壊が予測されていますけれど、それを「AI化で消えるような先のない業界に就職してしまった人間の自己責任」で終わらせて、失業者を放置しておけば、資本主義システムそのものが持たなくなる。失業者が増えれば、いずれ市場がシュリンクし、税収が減り、社会不安が増大し、国の知的レベルも下がる。だから、どんなことがあっても国民の雇用を最終的に保証するのは政府の仕事なんです。

では、どこに雇用を創出するのか。行政・教育・医療といった非営利的なセクター部門が雇用を引き受けることになると思います。実際、アメリカのラストベルト地域のような製造業が立ち行かなくなった地域では、雇用を担保しているのは行政機関と大学と病院だけだそうです。行政機関と大きな大学と大きな病院があれば、そこで働く人たちのためのサービス業や小売業が成立し得るから、小さい市一個分くらいの雇用は引き受けられるそうです。

そういうところの仕事はもともと営利ではないので、「儲からないから止める」ということがない。それに社会にとって必要な仕事をしているわけですから、働いている人たちは自尊感情を持つことができる。例えば、アメリカの病院には「メディカル・アシスタント」と呼ばれる「採血するだけの人」や「血圧測るだけの人」といった人がいます。看護師がしてきた仕事をモジュール化して、簡単な資格があればできるようにしたのです。給料は高くないけれど、白衣を着て、病院に勤めて、人の命を救う仕事をしているので、働く人たちの満足度は高いそうです。行政も教育もそうだと思います。「世の中の役に立っている仕事」をしていると思えば、多少給料が安くても、人間は誇りをもって仕事ができる。そういう仕事を増やしてゆくことが大切だと思います。

世の中にあるものは9割方が「余剰品」である

──新自由主義的な「Winner takes all」の思想にもとづいた、「適度」を許さない風潮は、変わっていくでしょうか?

変わらざるを得ないと思いますけどね。現にアメリカでは新自由主義的なイデオロギーのせいで、新型コロナウイルス感染症の感染者と死者の数が世界最多となっている。アメリカでは、医療は高額商品であって、金がある人間は受けられるが、金がない人は受けられないという思想が支配的です。アメリカには今3000万人近くの無保険者がいて、彼らは感染しても、医療機関に行かない。だから、感染源として残り続ける。全国民が等しく良質の医療を受けられる仕組みを作らない限り、アメリカは感染症を抑制できないでしょう。 

──コロナ禍に際して、主に欧米のメディアなどで「essential」という言葉をよく目にするようになりました。人や物資が欠乏していく中で、一見すると余剰で、essentialではない嗜好品は、ますます旗色が悪くなっているように思えます。

でも、そんなこと言ったら、この世のもののほとんどは「余剰」なんじゃないですか? 本当に必要なのはエネルギーと食料と医療品くらいで、それ以外のものはすべて嗜好品ですよ。自動車も家もファッションもコンピューターもリゾート地も、すべて余剰品です。「これは余剰で、こちらは本質的だ」なんてことを言って区別してみたら、この世の仕事のうち9割ぐらいのものは余剰だから要らないということになってしまう。

「余剰」産業にいる人についても、できる限り雇用を保証してあげるべきだと思います。誰もが尊厳を持って、健康で文化的な暮らしができるような仕組みを考えましょう。「本質的な仕事をしている人間だけ残ればいい、非本質的な仕事をしている人間は路頭に迷っても自己責任だ」といったタイプの議論は、いま一番してはいけないことです。

有用性の縛りから逃れて、ダラダラしよう

──同意です。2020年の春先、コロナ禍が急拡大する中で嗜好品やファッション、エンターテインメントが「それ、いまいらなくない?」と名指しで公然と批判されていたことに、僕は大きな違和感を覚えていました。

そもそも何が生きていくうえで必要か、何が生きてゆく支えになるかなんて、簡単に外からはわかりませんよ。生きるか死ぬかのギリギリまで追い詰められたとき、文学や音楽や演劇が最後の救いになったなんていうことは多々あるわけですから。

──有用・無用の論議でいうと、アメリカの批評家リチャード・クラインの『煙草は崇高である』では、タバコの崇高さは、その無用性、悪であることに由来するのだと論じられています。

僕は無用ではないと思いますね。もちろんさまざまな疾病の原因になるのは事実ですけれども、同時にさまざまな効用もある。ヨーロッパに最初にタバコが入ったのは薬品としてです。少なくとも鎮静効果があることは確かです。興奮を鎮める力はたしかにある。

95年の阪神淡路大震災の翌日、僕はバイクで大学に行ったんです。瓦礫の山の中で、いったいどこから手を着けてゆけばいいのかわからずに呆然としていたのですが、他にも10何人か教職員が来ていたので、とりあえず善後策を相談しようと会議室に集まりました。そのうち気づいたら、全員がタバコを吸っていた。集まった全員がスモーカーだったわけではないと思いますけれど、ふだん吸わない人たちも、こういう場面では興奮を鎮めるためにタバコに手を出した。それだけの効果はあるということです。

──表面的な有用性だけを見て嗜好品を排除していくと、そうした一見わかりづらい効用も享受できなくなってしまうと。

みんな有用性ばかりを追い求めて、カリカリしすぎなんですよ。僕が客員教授をしている京都精華大学は、ウスビ・サコ先生という、アフリカのマリ出身の方が学長をやっているのですが、彼は「日本人は真面目過ぎる」と言うんです。もっとリラックスして、もっとダラダラしないといけない、と。

サコ先生が授業で映画の話をしたら、授業後に映画好きと称する学生がやってきて、先生に説教したそうです。「映画というのは、そんなにいい加減に観るものじゃない。どういうフィルムメーカーがどういう意図でどういう映画を作ろうとしているのか。カット割りや音楽にどういう隠された意味があるのか、それを踏まえた上でないと映画について語るべきではない」と。別の時に授業でコスプレの話をしたら、今度はコスプレイヤーが研究室にやってきて、「先生はコスプレを全然わかっていない」と説教された。「コスプレというのは、キャラクターに対する深いリスペクトを持っている人間が、二次元の画面から型紙を起こして、大変な労力と知識、情熱をかけてやっているたいへんな仕事なのだ。よく勉強してから発言するように」と。

そこでサコ先生はプツッと切れてしまった(笑)。どうして映画をダラダラ見ちゃいけないのか、どうしてへらへらと仮装プレイしちゃいけないのか。必死にやりたい人は必死にやればいいけれど、気楽に楽しんでいる人のところに来て「それについて語るな」というのは抑圧的すぎる。なぜ君たちは自分の趣味や遊びの領域においてまで、必死になって知識をかき集め、それに基づいて格付けをしたがるのか。いったい君たちはいつリラックスするんだ、と。映画もコスプレも社会的有用性と直結しているわけじゃない。でも、そういう分野においても知識や技術に基づいてうるさく格付けがされる。誰にも査定されずに、誰にも良し悪しをうるさく言われずに、のんびり自分の好きなことを楽しむということが日本人はできないのかとサコ先生は心配されてました。僕もほんとうにそうだと思います。もっとダラダラしていいじゃないです。もっと適当でいいじゃないですか。日本人はカリカリし過ぎですよ。

(了)

前編 》 嗜好品は変性意識を生み出し、共同性を立ち上げる:思想家・内田樹

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