超人気ワイナリーで働くマスターソムリエ
高松亨(たかまつ とおる)、27歳。
日本人初、かつ現在最年少のマスターソムリエだ。
マスターソムリエとは、1977年にイギリスで設立されたソムリエの資格認定機関「Court of Master Sommeliers」(CMS)の最高ランクで、ソムリエの資格のなかで世界最難関と評される。その合格率は3~8%で、この資格を持つソムリエは現在、世界に274人しかいない。
もちろんこの資格の価値は高く、保有者は世界中の一流レストランでソムリエをまとめるヘッドソムリエとして働いたり、ワインリストの監修を務めたりと引っ張りだこだ。
高松さんも2019年に、24歳でマスターソムリエの資格を取得した後、オーストラリア・シドニーの高級レストランで働いていた。
ところが2021年5月、地域おこし協力隊として北海道の余市町に移住し、「日本で最も入手困難なワイン」と評されるワインを手がけるワイナリー「ドメーヌ・タカヒコ」のオーナー、曽我貴彦さんのもとで働き始めたのだ。
ソムリエとしてサービスをすることと、ワイナリーでワイン造りを学ぶのは、まったく別の仕事である。
若きマスターソムリエに、どんな心境の変化があったのだろう? 彼が思い描く、マスターソムリエの未来像とは?
余市町のドメーヌ・タカヒコを訪ねると、物静かでシャイな雰囲気の高松さんは、「今が一番楽しい」とほほ笑んだ。
(取材・文:川内イオ、企画・編集:川崎絵美、写真:川しまゆうこ)
15歳からカフェでバリスタに
1995年、シドニーで生まれた高松さん。父親がシドニーで料理人をしていたことから、この地で生まれ育った。
15歳のとき、「自分で稼いで欲しいものを買いたい」という若者らしい理由で、アルバイトを始めた。職場は、父親が勤めるレストランが新たにオープンしたカフェだった。
私立の幼小中高一貫校に通っていたが、高松さんが16歳のときに父親が独立を決め、開業資金が必要になった。それを機に、地元の公立高校に転校。「とくに勉強したいことがなかった」という高松さんは、学校には通わず、カフェのアルバイトに精を出すようになった。
カフェ文化が発達しているシドニーでは、巷にたくさんの個性豊かなカフェがある。コーヒーへの興味が湧いてきた高松さんは、行列ができる人気店に自分を売り込んだ。
「バリスタは経験が採用基準になる職種なので、履歴書をなんとか誤魔化して(笑)。トライアルの機会さえもらえれば、採用してもらえるんじゃないかと期待して応募しました。僕の履歴書は捨てられかけていたらしいんですが、当時のヘッドバリスタが『若いし、面白いじゃん』とトライアルを受け入れてくれたんです」
ヘッドバリスタに拾われる形でトライアルを受けて合格した高松さんは、1時間で100杯のコーヒーが売れる人気店で、本格的にバリスタの見習いを始めた。
名のあるカフェで働いた経歴があれば、職には困らなくなる。その後、いくつかの名店を渡り歩き、バリスタとして腕を磨いた。
ワインとソムリエに出会った日
オーストラリアでは、18歳からお酒が飲める。「あまり美味しいと思っていなかった」とワインに興味がなかった高松さんだったが、ある日、バリスタ仲間たちと訪れたフレンチレストランで出会ったワインの味に驚く。
「サンセールのブラン・レ・モン・ダネと、ボルドーのシャトー・ラ・ラギューヌというフランスのワインでした。それまではワインの美味しさを知らなかったので、なぜみんなそんなにワインを飲むんだろうって不思議に思ってたんですよ。でも、これは思っていたものと違うなって感じました」
「今、自分にとっての美味しいワインの基準は“飲み続けられるもの”なんですけど、そのとき、楽しく飲み続けられたんですよね。想像よりずっと美味しかったということです。会計がひとり2万円ぐらいしたので、高いなあって思いながら払った記憶がありますが、美味しかったし、まあいっかって」
こうした食事会が何度か開かれ、レストラン巡りが趣味になったそうだ。一度、料理人になろうとしたものの、肌に合わず、再びコーヒーの世界に戻ったのが19歳のとき。
その頃、最初に仕事を教わったヘッドバリスタが共同創業者と「Primary Coffee」を開くと誘いを受けた高松さんは、そこで働くことになった。そのカフェは、テーブルからオーダーするレストランのようなスタイルで、高松さんは自然と「サービス」を意識するようになった。
ワインのおいしさを知った食事会と、サービスに関心を持つきっかけになった仕事。このふたつに加え、大地の恵みが味わいに深く結びつくことから「コーヒーの味わいはワインに通じるものがある」と気づいた高松さんは、職場近くのバーに通うようになる。
同じ頃、オーストラリアを代表するシェフのニール・ペリーが手がけるレストラン「ロックプール・バー&グリル」で出会ったのが、ソムリエの廣瀬ゆうきさんだ。
日本人同士、自然と言葉を交わすようになり、ワインの話を聞いているうちに、もっとワインを探求したいと思うようになった。
ワインをボトルで買っては、自宅で味を確かめながら飲むようになると、次第にワインの奥深さに惹きつけられていった高松さん。名のある高級ワインも自ら味わうようになった。
「ドンペリやロマネコンティのようなブランド力があるワインは、それだけの価値があるからこそ有名になったんだと思い、高いワインも飲んでみようと思ったんです。それで、ブルゴーニュのシャンベルタンをはじめ、何万円もするワインを買って飲んでみたんですよ」
「さすがに美味しいと思ったけど、当時の僕の知識だと産地とブランドしかわからないから、誰かに説明するためにはもっと追求しなければと、本格的に調べるようになりました」
マスター・ソムリエへの道
こうして自分のお金でワインを飲み、学び始めて1年後には、「ソムリエになろう」と決めた。
「廣瀬さんの働く姿を見たら、こういうサービスってすごいなと感じました。ワインを極めて行けば、必ずその先に道はあると思っていたので、ワインの勉強をしておいて損はないかなと思いました」
いくつものレストランに履歴書を送り、唯一、採用してくれたのが、廣瀬さんが働くレストランの姉妹店だった。そこで、「ランナー」と呼ばれる雑用係をしながら、ソムリエの修業を始めた。
最初から資格取得を目指していた高松さんは、勉強にも本腰を入れた。しかし、マスターソムリエへの道は長い。
ソムリエの試験はレベル1から4まで4段階あるが、1年に1度しか開催されない。レベル1は入門試験、レベル2はソムリエ認定試験、レベル3はアドバンスドソムリエ、そしてレベル4がマスターソムリエだ。
このうちレベル1、2は同時に行われ、2日間の授業を受けた後、3日目に受験する。日本のソムリエ試験と同じ位置づけで、本気で勉強すれば取得できる難易度だ。
2016年、高松さんはレベル1、2の試験を受け、一発合格を決めた。
すると、廣瀬さんの店から声がかかり、廣瀬さんの下でソムリエの見習いとして働けることになった。だか、そのときは嬉しさよりも、「ワインを勉強したいという気持ちが強くて、ワインの知識を覚えることで精一杯だった」と振り返る。
というのも、シドニーではレベル3の試験が2年に1度しか開催されず、それが翌年の2017年に控えていたのだ。これを逃すと2019年まで待たなければいけない。絶対に合格を逃したくない。
必死に勉強した高松さんは、見事にレベル3を突破した。
「レベル3は、世界のどのレストランでも働けるくらいの資格なので、一発で合格する人は多くはないと思います。僕もギリギリでした」
7000本のワインを客に説明するポイント
ここまではとんとん拍子だったが、レベル4のマスターソムリエ試験はハードルの高さが桁違いだ。
まず、試験が招待制であること。その試験を受けられる枠は世界でたった50人しかない。高松さんによるとアメリカでは800人がウェイティングリストに名を連ねる。
高松さんはレベル3に合格したその日、イギリス・ロンドン開催が決まっていた翌年のマスターソムリエ試験に出願した。さらに、その年の秋にはイギリスのワーキングホリデービザを取得した。
「受験できるかどうかわからないけど、ロンドン行きを決めました。試験が行われる地にいることは、自分にとってプラスになるだろうと思ったんです」
この時点で、まだ受験できるかどうかわかっていないが、彼の前のめりな気持ちが伝わってくる。
その想いが通じたのか、2018年3月、マスターソムリエ試験の案内が届いた。
翌月、ロンドンに渡る。
ロンドンでは、オープンしたばかりの高級レストラン「hide」(現在はミシュラン一つ星)で働くことになった。店の近くにワインショップを所有し、約7000本のワインリストを全てデジタル管理している最先端の店だった。
7000本すべてのワインを客に説明できるのだろうか。
「ラベルを見てどこの産地かで大体のイメージがつくので、少なくとも一言、二言くらいは説明しますね。お客さまは例えば『辛口で』と注文される方が多いので、基本的にワインの辛口、甘口は区別しています。あとはフルーティだとか酸が高いとかコッテリしてるとか。ポイントはいくつかあります」
ポイントとは?
「例えば香りについて、若いフレッシュなワインは『青っぽい茎やピーマンのような香り』と伝えることもありますし、ワインにお詳しい方にはそれを『メトキシピラジン』と(化学物質で)伝えます。熟成が進んでいる赤ワインの場合は、『タバコやなめし革、キノコのような香り』を表現します。白ワインは『蜂蜜、白きのこ』などです」
「味わいについてはアルコール、酸、タンニンの複雑み、余韻、バランスなどがポイントになります。例えば酸が高いものは『スッキリしている』、アルコールが低いものは『喉越しの良い』といった感じです。僕はワインの説明が好きなので、楽しかったですよ」
高松さんにとって大きなアドバンテージになったのは、「hide」のディレクターがマスターソムリエだったこと。勉強方法や学ぶべきポイントなどの助言をもらい、モチベーションを高めた。
ストイックな勉強はしない
ワインの味を確かめるため、家賃など必要な分を除いて、給料のほぼすべてをワインにつぎ込んだ。仕事を終えた後は、自宅で勉強をして過ごした。
今週はイタリア、来週はフランスと計画を立て、ひたすら本やネットで検索して、広く知識をつけたという。
マスターソムリエを目指す人は1日に何時間も机に向かうのかと思ったが、どうやら彼は違ったようだ。
「僕が大切にしたのは楽しく続けること。だから疲れているときは勉強しなかったし、計画通りにいかなくても、今週はそんなに勉強できなかったなと思うくらい。ストイックにやらなかったからこそ、続けられたと思います」
世界最難関であるマスターソムリエ試験だが、彼の話しぶりは意外なほどライトだ。
一見ワインとは関係のない「趣味」に、楽しく学べるカギを見つけた。
高松さんは『ポケットモンスター』や『モンスターハンター』を24時間プレーし続けたことがあるほどのゲーム好きだという。総プレー時間は2000時間を超える。これはゲーマーの間でも「すごい」と認識されるレベルだ。
そして『ポケモン』や『モンハン』などのゲームにも、「集める要素」がある。
高松さんにとってワインは楽しいこと。ゲームをしているときのような圧倒的な集中力で、ワインの知識を収集してきたのだ。
難問のブラインドテイスティング
ロンドンに来て半年後の2018年9月、マスターソムリエの試験が行われた。
試験は3部構成で、口頭による「知識テスト」(各質問に答えるのに45秒の制限時間がある)、模擬レストランでワインを勧める能力を評価する「サービステスト」、そしてボトルを布などを覆いワインの情報を隠した状態でテイスティングする「ブラインドテイスティング」だ。
ブラインドテイスティングは、25分間で白ワイン3種、赤ワイン3種のブドウ品種、地区、生産国、ビンテージ(ブドウの収穫年)を回答する。
特殊なのは、トータルでの評価ではなく、3部門それぞれで合否が出されること。1回目の試験を受けてから3年間、その合否の成績がキープされ、3年以内に3部門に合格すれば、マスターソムリエの資格を得られる。
つまり3年間の猶予があるということだが、見方を変えればそれだけ時間があっても合格率3~8%の狭き門だ。
その超難関試験に初めて臨んだ高松さんは、ブラインドテイスティングで失敗したものの、なんと口頭試験と実技試験の2つに合格し、大手をかけた。
迎えた翌年8月、オーストリアのウィーンで開催された試験で、ブラインドテイスティングに挑む。試験ではワインの色調、色、粘性、香り、果実味、余韻やバランスなどの味わいから判断する。
高松さんによると、だいたい2つから3つの候補に絞られて、1番可能性が高いと思うものを答えていく。
合格するためには、6本のワインのうち4本を当てなければならない。制限時間は25分あるが会場に時計はなく、最後まで余裕をもって答えるためには、1本あたり平均して3分半ほどの間に次々と答えていく。
全員が試験を終えた後、ひとりひとり呼び出され、結果を伝えられる。
高松さんの2度目のチャレンジ、果たして、その結果は?
高松が部屋に入ると、審査員から「最初と2番目のテイスティングは、ぜんぜんダメだった」と告げられた。それは、高松さんも自信なく答えていた2本だった。
審査員に笑顔はない。「……落ちたかな」と嫌な予感がよぎったとき、審査員が口を開いた。
「でも、残りの4つが当たっていたから合格です。おめでとう!」
この瞬間、24歳の高松さんは史上2番目の若さ、そして日本人として初めて、マスターソムリエの称号を手にしたのだった。
この試験を振り返り、なぜ合格できたのか、高松さんはこう振り返る。
「受かるものだと思ってやるか、すごく難しいと考えながらやるか、メンタルの要素が大きいと思います。特徴的なワインが問題に出てくるから、普段通りやれば当てられないはずはないんです。それを間違えずに答えられるかが1番なのかな」
彼の軽やかな話しぶりでは、どうしても「簡単そう」に聞こえてしまうが、合格を勝ち取るために、世界のソムリエたちは血の滲むような努力をしながら何年もかけて合格を目指す。
繰り返すが、マスターソムリエは世界にたった274人しか合格していない最難関の資格だ。
そして、以前に23歳でマスターソムリエに合格したフランス人が資格を失ったため、高松さんは「最年少」のマスターソムリエとなった。
ソムリエから、次の道へ
念願のマスターソムリエとなった高松は、実家があるオーストラリアに帰国。
間もなくして新型コロナウイルスのパンデミックが起き、自宅にこもりながら次の道に思いを巡らせているとき、新たな資格を取得しようと思い立つ。
それが「マスター・オブ・ワイン」だ。
これはイギリスに拠点を置くマスター・オブ・ワイン協会が認定する資格で、ブドウの栽培や醸造、ワインビジネスなど幅広い知識が問われることから、「ワイン界のMBA」とも呼ばれる。
こちらも超難関で、世界に約400人しかいない。高松さんは、日本人で唯一の資格保持者、大橋健一氏の存在を知り、興味を持った。
ちなみに、マスターソムリエとマスター・オブ・ワイン、両方の資格を持っているのはこれまでに世界でたった3人しかいない。
そのうちのひとりは、2019年に亡くなった世界的ソムリエ、ジェラール・バッセ。2つの資格を持てば、ワイン業界にその名を轟かせるような偉業となる。
この偉業に向けた第一歩として、マスター・オブ・ワインは、ワインを造る技術や知識が重視されているため、高松はワイナリーで働く経験が必要だと考えた。
それで「研修させてもらえないか?」と連絡を取ったのが、北海道余市町のワイナリー「ドメーヌ・タカヒコ」の曽我貴彦さんだった。
なぜ、面識もない曽我さんに?
「2017年に日本に来たとき、一度だけ曽我さんのワインを飲んだことがあったんです。そのとき感動はなかったけど、後から考えると“すごいワインだな…”としみじみと感じさせられました」
「世界中のいろいろなワインを飲んできたなかで、曽我さんのワインは、すごく個性を感じる、日本人ならではの味わいがあります。ひとりでできる規模の広さで、単一品種のワインを造っている。僕も同じようなスタイルで、自分が飲みたくなるような個性のあるワインが造れたら面白いなと思ったんです」
しかし、曽我さんからの返事は「研修生は受け付けていない」という断りの連絡だった。
メールには「将来ここで、本気でワイナリーをやるつもりの人しかとっていない」と書かれていた。
その返信を読んだ高松さんは、あらためて10年後、なにをしていたいかを考えた。
そのときに浮かんだのが、「自分でワイナリーをやりたい」。その想いを曽我さんに伝えたところ、余市町の地域おこし協力隊として移住する道があると教えられた。
マスターソムリエ試験でも最短距離を目指した高松さんの、それからの動きは早かった。
“肌に合った”余市町での仕事と生活
日本に来て2度目の夏、高松さんはドメーヌ・タカヒコのブドウ畑で汗を流していた。
世界のどこでも評価されるマスターソムリエの資格を持ちながら、その道を離れたことに後悔はなさそうだ。
「自分はサービスよりも造るほうが向いている気がします。バリスタ時代も、人柄を慕ってお客さんに来ていただくより、僕が淹れるコーヒーが美味しいから来てほしいと思うタイプでした。それは父から受け継いだ、職人気質のDNAみたいなものかな」
「こういう仕事って本当に楽しいなと、毎日思っています。特に醸造の時間、ワインができていく過程の時間は本当にいいですね。自分の目標に近づいていく感覚があります」
高松さんを受け入れた曽我さんは、早くも師匠のような存在。
ブドウの栽培やワイン造りだけじゃなく、将来どうやってワイナリーを開くのか、具体的なアドバイスをもらっているという。
シドニー育ちの高松さんにとっては、初めての日本での生活であり、初めての農業とワイン造り。慣れないこともあるだろうが、想像以上に肌に合っているようだ。
スーツを着て、ワインのボトルを持っているときの引き締まった表情とは対照的に、ブドウ畑では肩の力が抜け、自然と笑顔がこぼれていた。
朝、ブドウ畑に出勤し、1日の仕事を終えて自宅に帰れば、妻がいる。夕飯は妻が作り、週に1、2回は高松が選んだワインを開ける。このなにげない時間が、「一番幸せ」と語る。
「余市に来てから、ストレスがないんですよ。シドニーにいたときも自由な生活だったと思いますけど、今の方が確実に楽しい」
5年後か10年後か、いつになるかわからないが、高松さんは曽我さんとの約束通り、余市でワイナリーを開くつもりだ。
マスター・オブ・ワインへの道を歩みながら、余市で心ほどける時を過ごすマスターソムリエ・高松亨。彼がいつか造るワインは、どのような味・香りを醸すのだろうか。
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントなどを行う。稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。
お茶どころ鹿児島で生まれ育つ。株式会社インプレス、ハフポスト日本版を経て独立後は、女性のヘルスケアメディア「ランドリーボックス」のほか、メディアの立ち上げや運営、編集、ライティング、コンテンツの企画/制作などを手がける。
若いころは旅の写真家を目指していた。取材撮影の出会いから農業と育む人々に惹かれ、畑を借り、ゆるく自然栽培に取り組みつつ、茨城と宮崎の田んぼへ通っている。自然の生命力、ものづくり、人の暮らしを撮ることがライフワーク。