連載

嗜好品は、私たちの「心の武装」を解除する:歴史学者・藤原辰史

吉川 慧

嗜好品には、体をつくる栄養があるわけではない。

生命維持に必要不可欠ではないのにもかかわらず、全世界で嗜好品はたしなまれている。

嗜好品は、人間らしく生きるために、なくてはならないものなのかもしれない。

嗜好品や嗜好体験を考えることは、人間が生きるためには何が必要か、ひいては「人間という生き物とは何か」に迫ることでもある。

現代における私たちの嗜好品や嗜好体験を探究するために、文化人類学や歴史学者など様々な一線の研究者に話を聞く、新連載「生きることと嗜好」。

初回は京都大学人文科学研究所准教授の藤原辰史さんのもとを訪れた。

藤原さんは、米や麦など「人間の腹を満たすもの」が歴史的にどう耕作され、どうやって食べられてきたのかに向き合ってきた農業史の研究者だ。

お茶やコーヒーなどの嗜好品は、こうした主食とは異なり、必ずしも栄養の摂取を目的としたものではない。言うなれば「お腹を満たさないもの」だ。

それでも藤原さんは「人間の心の武装解除に一役買う存在」として、嗜好品に宿る可能性を評価する。

現代における嗜好品のありようについて、京大近くの自然食レストランで、農家である奥出雲の実家での原体験と合わせて、じっくり話を聞いた。 

(取材・文:吉川慧 写真:木村有希 編集:呉玲奈、笹川ねこ)

お茶の時間で、人の心は変わるという実感

──歴史学、なかでも農業史と環境史が専門の藤原さんにとって、「嗜好品」とはどういう存在でしょうか。

私の研究テーマは農業史と環境史ですが、これは主食などを中心に「人間のお腹を満たすもの」を歴史的に考える分野です。

一方で「嗜好品」は「お腹を満たさないもの」。研究テーマとの関係で言えば「周縁」にあるものという感覚です。

ただ、私自身は嗜好品が嫌いというわけではありません。嗜好品はコミュニケーションの場の空気を作り出すのに一役買っていますよね。

個人的な体験からも、1杯のコーヒーやお茶がもつ「ポテンシャル」を感じることが多々あります。

私の実家は島根県奥出雲町の農家なのですが、暑い日の農作業で疲れたりすると実家や近所の人たちが長靴のまま縁側にちょこんと座って、お茶をすすりながらスイカを食べていました。

これを私の実家のほうでは「タバコする」と言っていたんです。

もちろん、必ずしもみんながタバコを吸うわけではありません。基本的にはお茶を飲みながら、近所の人たちが集まって会話をする。「最近どげかね?」と互いに情報共有をするんです。

──「縁側」で過ごす喫茶の時間。風情があって、リラックスできそうですね。

近所のおじさん、おばさんは「久しぶり」「どうもどうも」と玄関からではなく縁側に回覧板を渡しに来たりするんです。

迎える方は「まあ、座りなはい」「茶でも飲まーや」と誘う。来たほうは「忙しいんだわ」と最初は断る。でもね、「ま、ちょこっと、どげかね」「いやいや…」というのが繰り返されて、5回目ぐらいには100%座ることになるんです(笑)。

30分〜1時間ぐらい喋り続けていると、お茶請けやおやつ代わりにスイカ、葡萄、メロンなどが出てくる。

すると、子どもたちが“おこぼれ”をもらいに行く。

夏の農作業の最中だと、汗をかいて身体も疲れている。塩分補給のためにお煮しめや漬物を出したりしていましたね。

なので、僕にとっての嗜好品は、実家の縁側で近所の人たちと楽しむお茶、果物、煮しめ、漬物のようなもの。

満腹にはならないですが、人間の心が武装解除され、交流しやすくなる境界領域に存在するものだと感じています。

──湯呑みにお茶を淹れる動作も、「心の武装解除」に一役買いそうですね。 

実家で使っていたお茶の湯呑みは小ぶりなもので、お猪口より少し大きいくらいなんです。急須も小さかった。

暑い夏でも、わざわざ小さなおままごとの道具みたいな急須と湯呑みで、何度もお茶を淹れ続ける。実家にいた頃は「こんなの煩雑でしょうがない。大きな急須で、飲みたい人が自分で好きに注げばいいのに」と思っていました。

ただ、今になって思えば、これはお茶を淹れる時間をとることで会話の「間」を保っていたのかもしれません。

──「間」ですか。

私が住んでいた地域もそうでしたが、田舎の人たちはお喋りが好きです。ずっと止まらず喋り続けたり、話しかけてきたりする人もいる。

でも、みんながみんなそうではないですよね。「次に何を話すかを考えたいな」「話題を変えたいな」「一旦休憩したいな」など、一呼吸入れたいタイミングもありますよね。

そういうときにお茶を淹れたり、飲んだりする際の一連の所作や動作で「間」をつくることができる。

例えば、お茶を淹れるときには茶器を温め、茶葉を急須に入れ、お湯を注ぎ、蒸らして、湯呑みに注ぐ……というような動きがあります。

お茶を飲むときも、熱いお茶ならフーフーと少し冷まし、ゆっくり口に運ぶ。お茶請けを口にしたりもしますね。

湯呑を口に運んでいたら「私はいま喋らない」という非常に緩やかな合図になる。コーヒーを飲んだり、タバコを吸ったり、お茶を飲んだり、お酒を注いだり……。

そういった一連の動作が、初対面の人同士であっても旧知の間柄であっても適度な「間」を形成することで、お茶の場の空気をつくっているのかもしれません。

ただ、家父長制の根強い農村社会でしたから、「お茶」を用意する役割は女性、特にその家の「お嫁さん」に集中していた。これは閉鎖的な日本社会の象徴の一つでもあるので、その点は指摘しておきたいですね。

飲食、発話、呼吸。意外と忙しいのが「口」

──お茶やコーヒーのような「嗜好品」と、藤原さんの研究対象である「食事」。両方の共通点はあるでしょうか。 

冒頭でお話したように「食事」と「嗜好品」ではお腹を満たすか否か、主な栄養になるか否かで比較できますが、共通点もあります。

いずれも摂取するのには「口」という器官を使うことです。面白いのは、口にはそれ以外にも大きな役割を果たしていることですね。

少なくとも口には三つの役割がある。「飲食」のほか「発話」「呼吸」。一つの器官で食べたり、話したり、呼吸をするわけです。

──口はかなり忙しい器官ですね……。

誰かと会話をしながら食事を摂る際は、特に忙しいですよね(笑)。

そこで交通整理の役割を果たしてくれるのが嗜好品なのかもしれません。

人間の口は「食べる時間」と「話す時間」をうまく混合しながら、時にお茶を飲んだり、場合によってはお酒を「差しつ差されつ」する時間を設けたりすることで、自然と場面転換ができている。

何かを食べているとき不意に誰かが面白いことを言うと、吹きだしちゃうことがたまにありますよね。そうならないように、何か口に含んでいたり、箸を構えているときに話しかけたりはしないでしょう。

インタビューは昼食を食べながら実施。藤原さんの「口」は大忙しだった。

「口」にとって、会食の場でのお茶やお酒の所作は、劇の「書割(かきわり)」(背景画)のようなもの。飲む、食べる、話す……と、コロコロと場面転換を果たしてくれるわけです。

その場の人たちは互いの動きを観察しつつも、あまり意識せずに間をとったりする。お茶やコーヒーは交通整理と場面転換を通じて「口」という器官をサポートしているのだと思います。

嗜好品が場の空気、間を形成するポテンシャルがあると私が考えているのは、こういった、交通整理と場面転換ができるという意味からなのです。

お腹いっぱい食べられる社会へのヒントを求めて、歴史学へ

──あらためてうかがいますが、そもそも藤原さんは、なぜ「食」や「農」を起点に歴史と向き合っているのでしょうか。

「人々の腹が満たされない社会は、ダメな社会じゃないか」という自分なりの考えに拠るところが大きいですね。

過去の歴史を遡ると、時の権力者による政治のせいで飢えを強いられた弱い立場の人がたくさんいる。

裏を返せば、政治のあり方次第で「みんながご飯を食べられる社会」になるはず。それが私の仮説です。

──お腹いっぱいご飯が食べられる社会のヒントを探しているんですね。

高校や中学校での歴史の授業では、よく土地制度や農法などを覚えさせられますよね。「荘園」や「三圃制」、「エンクロージャー」といった言葉が出てきます。

日本史でも「班田収授法」という農地を平等に与えるという、現代史でいえば社会主義の計画経済のような制度が出てきたり、一方で「墾田永年私財法」という自分が耕した土地は自分のものにできるという資本主義的な制度も登場したりします。

土地制度の理解はとても大事です。ただ、土地からもうひとつ先に、人間がどうやって田畑を耕し、何を育てていたのか。どんな物を食べていたのかという農業史の視点も大事だと思うのです。

お店に並んでいた新鮮な京野菜

──たしかに、そのほうが当時の人々の生活に思いが馳せられますね。

例えば、中世ヨーロッパでは「パンを食べていた」とは言うけれど、そのパンはどうやって焼いていたのか。実は、それぞれの村落には共同の「パン焼き窯」があって、村人みんなが共有して使うこともあった。

当時の人たちが何をどうやって食べていたのか。農業や食を中心に据えれば、もっと子どもたちにも歴史を身近に感じてもらえるんじゃないか。

もっと言えば、いま自分たちが口にしている食べ物がどんな道をたどってきたのかにも興味を持ってもらえるかもしれない。そんなことを考えています。

「人間であることの証明」としての、食や嗜好品の楽しみ

──現代における食の変化といえば、コロナ禍では多くの飲食店が休業を強いられ、私たちの食の選択肢が狭まった部分がありました。食べることの自由さを奪われた部分もありました。

ドラマ化された『孤独のグルメ』で主役を演じていた俳優の松重豊さんは、以前対談させていただいたときに、あえて一人で食事を食べることに幸せを感じる「独食」という概念を提起していました

「周りに直接的な縁を求めなくても、『給仕してくれるおばちゃんの言葉があったかい』と感じるとか、世界が広がっていく可能性がある。

好きな居酒屋のテイクアウトで『元気?』って声をかけながら買うと、そこに文脈があるので、家で食べても孤食になりません」

(2020年12月30日・朝日新聞デジタル)

世界の歴史を見てもそうですが、いつも食事を「家族」で食べることが当たり前だったわけではありません。

特に単身者の労働形態が多い国や地域では屋台が発達しました。香港やシンガポールや台湾では、いつでも外の屋台で気軽にご飯が食べられます。家族以外との食、家族の外にある食が豊富にある。

コロナ禍では、特にこうした場が奪われてしまいました。

だからこそ、危機の時に社会的に弱い立場にある人がどのように食事にアクセスしやすい場所をつくるか、重く受け止めて考えるべきです。これからの時代は、災害時に価値がなくなるお金の有無よりは、平常時も災害時も価値は変わらない食事のアクセスが誰にでも許されている、そんな社会を目指すべきでしょう。

一人でふらっと訪れて食事をつくるお店の人の顔が見えるような「独食」や、自分がそこに居てもいいと思える“子ども食堂”のような「縁食」の場が求められていると思います。

「家族」という単位を超えて自由にご飯を安価に食べられる場所が、もっと日本にもあればいいなと思います。

──縁食や独食の場があること、そして嗜好品を楽しめることは、自らの人間性を守ることにつながりそうです。

私たちが誰かのお家を訪ねるとき、たいていの場合はお茶を出してくれますよね。お客さんがくると自分の財産とは見合わないほどもてなす国や地域もあります。

お客さんを招き入れたり、誰かとお茶を一緒に楽んだりする行為は、とても人間的だと私は思います。

食や嗜好品を自由に楽しめることは、私たちが「人間であることの証明」なのかもしれません。

(後編:戦場と同じ思想で、ランチを選ぶ現代人「嗜好品は人間性を保つ上で大切」:歴史学者・藤原辰史

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記者

Business Insider Japan記者。東京都新宿区生まれ。高校教員(世界史)やハフポスト日本版、BuzzFeed Japanなどを経て現職。関心領域は経済、歴史、カルチャー。VTuberから落語まで幅広く取材。古今東西の食文化にも興味。

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編集者 / ライター

Editor / Writer。横浜出身、京都在住のフリー編集者。フリーマガジン『ハンケイ500m』『おっちゃんとおばちゃん』副編集長。「大人のインターンシップ」や食関係の情報発信など、キャリア教育、食に関心が高い。趣味は紙切り。

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『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。

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