嗜好品には、体をつくる栄養があるわけではない。

生命維持に必要不可欠ではないのにもかかわらず、全世界で嗜好品はたしなまれている。

嗜好品は、人間らしく生きるためには、なくてはならないものかもしれない。

嗜好品を考えることは、人間が生きるためになにが必要なのか、ひいては「人間という生き物とは何か」に迫ることでもある。

現代における私たちの嗜好品や嗜好体験を探究するために、文化人類学や歴史学者など様々な一線の研究者に話を聞く、新連載「生きることと嗜好」。

初回は京都大学人文科学研究所准教授の藤原辰史さんのもとへ向かった。

かつてナチス・ドイツは、国家に貢献できる人間をつくりだすべく、食生活のキャンペーンや禁煙運動などの「健康政策」を通じて、国民の日常に介入した。

その恐ろしさを著書『ナチスのキッチン』で指摘した歴史学者で、農業史と環境史が専門の藤原辰史さん(京都大人文科学研究所・准教授)はこう語る。

「戦場でも嗜好品は人間性を保つ上で大切な役割を果たしていた」

一方で藤原さんは、現代社会にも「健康」の押し付けや「食べること」の価値を軽視する萌芽があると指摘する。

「心の武装」を解除する嗜好品の作用について紐解いた前編に続いて、後編では、歴史をふり返りつつ、食事や嗜好品が私たちに与えうる影響を藤原さんと考えた。

(取材・文:吉川慧 写真:木村有希 編集:呉玲奈、笹川ねこ)

かつての農業政策に「飢えのない社会」を実現するヒントがある

──前編では「人々の腹が満たされない社会は、ダメな社会じゃないか」という藤原先生の歴史観と、政治のあり方次第で「みんながご飯を食べられる社会になるはず」という仮説を教えてもらいました。歴史をふまえ、現代の食についてどう考えていますか?

これまで携わってきた研究では、主に20世紀の中で飢えていた子どもたちや女性たちが登場します。

20世紀という時代は、政治が引き起きた飢餓も多いんです。

例えば、いま現在ロシアが侵略しているウクライナでは、20世紀前半(1932〜33年)に当時のソ連の集団農業化政策によって「ホロドモール」と呼ばれる歴史的な大飢饉が起こりました。

ウクライナの人たちは食料や家畜、農地を奪われ、強制移住もさせられた。400万人から1000万人以上ともされる数えきれない人々がご飯が食べられずに亡くなっていった。

「ホロドモール」を知ることは、ウクライナがいま置かれている現状を理解する助けになると考えています。

──なるほど、農業政策と人の命は密接に関わっている。食糧危機は、戦争とも結びついていくと。

私にとって、戦争というのはひとつの大きなテーマなんです。

私は研究を続けているのは、根底に「なぜ人は戦争をやめられないんだろう?」という、僕が小学生のときにもった素朴な疑問を解きたいという思いがあるからです。広島の原爆ドームを訪れたり、平和資料館のマネキンを見たりしたときの衝撃が忘れられず、今でも引きずっているんです。

──現代は農業の経験がない人も多いですし、自国の農業政策について理解している人は少ないかもしれません。

2017年に中公新書で『トラクターの世界史』という本を書いた時のことでした。編集者に「同僚の中にはトラクターを知らない人もいる。読者も東京の人が多い。それを前提に本を書いてください」と言われたんですね。

トラクターは農業機械の代表です。大きいタイヤと小さいタイヤがあって、農業生産で用いる「牽引車」のこと。それを知らない人がいるという事実に個人的にショックを受けました。

最近は農業への関心が高まっています。でも、その工程が肉体感覚でわかっている人は決して多くありません。

稲作であれば、田おこし、代掻き(しろかき)、田植え、水の管理と除草管理、害虫管理、落水(水抜き)、収穫……という生産工程をイメージできる人は少ないと思います。

これは不況や災害、ひいては戦争で食糧危機に陥ったとき、国民の多くが農業を知らないということを意味します。

しかも農業の担い手のほとんどが70歳以上の人たち。この国の農業は高齢者の人たちがなんとか支えているわけです。このことは国家として致命的だと私は思います。

日常生活に「食事」で入り込むのがナチスの怖さ

──歴史をふり返ると、食糧不足に陥った国家は配給制などで食糧を統制・配分しました。

第一次世界大戦では特にドイツとオーストリア=ハンガリー帝国は食糧難が深刻でした。そこでつくられたものが民衆食堂でした。

特定の場所でまとめて調理することで燃料や食糧を効率的に運用し、集団で食べることで命をつなぎました。

一方でこれは、国民が半ば強制的に同じものを食べさせられる事例にもなりました。

──著書『ナチスのキッチン』では、ナチスが国家に奉仕する“カリスマ主婦”やシステムキッチンを奨励したことを紹介。国家が国民の食生活に介入する恐ろしさを指摘しています。

スタンフォード大学の歴史学者ロバート・N・プロクターが『健康帝国ナチス』という本で説明していますが、ナチスは集団的な健康診断、アスベストの使用制限なども推し進めていました。

──ナチスは世界屈指の「健康政策」を推進し、栄養の摂取を目的としないタバコをめぐっては禁煙運動も展開していました。

一口に「健康」と言っても、ナチスが標榜した「健康」が何を意味するのか注意が必要です。

ナチス・ドイツではこんな標語がありました。

「あなたの身体は国家のもの。あなたの身体は総統のもの」

これはつまり「自分の素敵な身体を国家に捧げましょう。そのために国民は身体をメンテナンスし、来るべき戦争の時には国家に身体を捧げなければならない」という意味であります。

ナチスにとっての「健康」とは、男性であれば立派な兵士に。女性であれば、立派な兵士を産む母になることと同義でした。

例えば、肉を食べると胃がんになりやすいからと魚を食べるように推進する。食の選択肢にも国家が介入していたのです。

食事という日常生活に入り込んで人々の心を動かす。それがナチスの怖さでした。

──そう考えると、他者から言われる「健康」という言葉は実は怖いものかもしれません。

なるべく病気をせず、心身とも健やかな状態であることは大切でしょう。でも「健康」とは、国家や他人から押し付けられるものではありません。

スリムな瘦せ型で、お腹がへっこんでいて……と、メディアが持てはやしてきたステレオタイプの身体像の中に自らを食事行動を従属させていませんか。

それが「生きること」なのでしょうか。

私自身は、人生の目的が「健康」になっている。そんな風潮がないか心配しています。本来の健康とは「目的」ではなく、互いの気遣いの上で生まれる「結果」だと思うんです。

自分の愛する人たちとガハハと言いながらどんちゃん騒ぎをして笑ったり、誰かを宴に招いて楽しんだり。こういったことも健康的なことではないかと私自身は考えています。

インタビューはランチを食べながら実施した

──ナチスは秋・冬の第1日曜日に「国民みんなで質素なスープを食べよう」というイベントも開いたそうですね。

『アイントップの日曜日』ですね。このイベント自体は、それほど国民の気持ちをナチスに向かわせようと考えられたものではなかった。

ただ、国民全員が同じ日に、同じものを食べることを奨励した。排他性を生み出すと同時に、国民一人ひとりに「最近肉を食べすぎてなかったか」「最近、贅沢しすぎてなかったか」と考えさせたわけです。

──戦時中には「贅沢は敵だ」というフレーズが使われていました。

先ほどお話ししたように、私にとって戦争というのはひとつの大きなテーマなんです。

だからこそ、現代の食事のひとつの価値観になっている「無駄なく食べる」「栄養補給」、そして「食べることに楽しみをともなわない」が、戦場の思想でもあることに、違和感があるのです。

『ナチスのキッチン』でも書いたのですが、たとえば肉を食べることをナチスは推奨しないんですね。なぜなら肉を食べると胃がんになりやすいから、そして肉のためにはたくさん牧草を育てないといけないので、土地が奪われてしまう。この2点においては、環境問題という観点からの主張は正しいのです。

ただ、この話の問題点を「健康のために肉を食べない」と置き換えてしまうと、ちょっとずつ話がおかしくなってくる。

ここで言う「健康のため」って、自分が本心で望んでいることなのでしょうか?

先ほど紹介した、ナチスの「あなたの身体は国家のもの。あなたの身体は総統のもの」という標語は、健やかな自分の身体を、来るべき戦争のときに国のために捧げることを奨励しました。いわば軍事のための健康ですよね。

健康は国家のために、あるいは自分以外のなにか別の大義のために、という自分の生の選択肢や可能性を減らしてしまうことになる。

藤原さんがよく来る京大近くの「キッチンハリーナ」のランチ

戦場の論理に対抗し得るのが「嗜好品」

──忙殺される日々のなかで、現代人が食事の時間や手間をかけにくいことも確かです。「『料理をすること』と『食べること』は、それがたとえ毎日繰り返されるものであっても芸術と呼ぶに値する美的行為である」『ナチスのキッチン』に綴られたこの一文は印象的でした。 

あるゼリー飲料のキャッチコピーに「10秒チャージ」という言葉がありましたね。

個人的には、食事を「チャージ」と表現することに時代の古さを感じます。食事を燃料にたとえるあり方が、まるで産業革命期ですよね。

まるで人間に給油口があって、パッと開けて栄養を注入する。まるでガソリンスタンドで車に燃料を入れるかのようです。

──最近は健康志向を受けて「カロリーゼロ」「糖質カット」を謳ったドリンクや食品が流行しています。1日分に必要な栄養素が含まれていることをアピールする食品もあります。

確かに、バー状の栄養補助食品やレトルトやフリーズドライの食品はとても便利ですよね。私もたまにフリーズドライのお味噌汁を飲みます。

ただ、こうした商品は元をたどれば、アメリカのネイティック陸軍研究所で開発された軍用のレーション(糧食)技術が民間転用されて生まれたものです。

もちろん市場が用意してくれるさまざまな商品の中から、自分が能動的に「これが食べたい」と自由に選ぶことは否定してはいけません。

ただ、今の自分が置かれている環境の中で、今日は何を食べようかなと自由に考えられる。それが本来の食事の在り方です。

──仕事など「しなければならないこと」を優先して、食べることへの喜びや楽しみを二の次にすることに、私たちは慣れてしまっているのかもしれません。

むしろ、戦場でも嗜好品は人間性を保つ上で大切な役割を果たしていたんです。

第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも、兵士はつかの間の休息時間にタバコを吸い、お茶を飲んでいた。特にタバコがないと兵士の士気に関わった。イギリス兵にとっても紅茶はとても重要でした。こうやって自分の正気を保っていたところもあったと思います。

──日々の食事と戦場。思想的な部分で実はつながっているのですね。

僕は、「私たちの生きる社会で、あらゆることが戦場化してはいませんか?」と問いたいのです。

たとえば、現代の私たち、特にランチタイムは「食べたいから」ではなく、「腹持ちがいいから」「手間取らないから」「とにかく必要な栄養補給ができればいい」というような、戦場と同じ思想で食べ物を選ぶ社会状況に陥っていないでしょうか。

戦場と同じくらい学校生活や会社においても、競争やプレッシャーに晒されていないでしょうか。兵士のように心を病んでいないでしょうか。食べる時間を削って行き着く先の一つが過労死です。

ゼリー飲料の広告や、かつてC Mに流れていた「24時間戦えますか」といった栄養ドリンクのキャッチコピーからは、そういうことを考えてしまいます。

そういった戦場的な思想がないと、労働が成り立たないことがおかしい。

逆にいえば、食事をおろそかにしないことは、戦争反対の意思表示につながると思うのです。声高に戦争反対!と叫ぶのとは違う、小さな意思表示です。

でも、なにが怖いって、「この戦場化している世界に私たちが慣れていること」です。いじめによる自殺や、過労死といった悲劇が各地で起こっているのにそれに耳を閉ざし、今の世界が戦場化していることがみんな当たり前だと思い、違和感を感じていないこと。それがいちばん怖いですね。

前編:嗜好品は、私たちの「心の武装」を解除する:歴史学者・藤原辰史

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  • 著者:
    吉川 慧
    Business Insider Japan記者。東京都新宿区生まれ。高校教員(世界史)やハフポスト日本版、BuzzFeed Japanなどを経て現職。関心領域は経済、歴史、カルチャー。VTuberから落語まで幅広く取材。古今東西の食文化にも興味。
  • 編集:
    呉 玲奈
濁流のように去りゆくこの時間を、心が溶けるひとときに。