いま、私たちの“心が満たされる料理”とは? 京都の名イタリアン「Cenci」、“美味しい”の追求

呉玲奈

日本の食材を使ったイタリアンを供する京都の名店、cenci(チェンチ)。アジアのレストランのランキング「2024 Asia’s Best Restaurant50」に選出され、ミシュランで1つ星を獲得するなど、躍進するファインダイニングとして、その名を知る人も多いだろう。

しかしDIG THE TEAが注目したいのは、そこで設計される食体験だ。

コース料理は全8品。個性豊かで多様な食材の組み合わせは、どれも意外ながら日本古来の発酵調味料を生かしたオリジナルなソースが調和を醸す。煉瓦造りの温かみのある光を放つ空間、手触りのいいカトラリー。そして行き交うスタッフたちは、的確にテーブルの上を把握して、その食材の魅力を伝えてくれる。

イタリアンの枠を超えてーーチェンチは、料理を通じていったい何を届けようとしているのか?まずはすべてを采配するオーナーシェフの坂本健さん、続いて料理を手がける気鋭の料理人・中川寛大さんに話を聞いた。

(取材・文:呉玲奈 写真:入交佐妃 編集:川崎絵美)

「うまい」「おいしい」ではなく「美味しい」を追求

坂本健さんは京都のイタリアンの名店「イル・パッパラルド」、「イル・ギオットーネ」で研鑽を積んだのち、2014年に独立。チェンチをオープンして、2025年で丸10年が過ぎた。

『チェンチ』オーナーシェフの坂本健さん

「料理人としてのキャリアが長くなって、食への私の感じ方が変化してきました。『うまい』『おいしい』ではなく『美味しい』でありたい」

口に入った瞬間「うまい」「おいしい」と感じるのは油脂分や糖分、やわらかさ。人間である限り、動物の本能であり、直感としておいしく感じるのは当然だ。

しかし、坂本さん自身が、それだけでは満足できない。

「いい食材を使えば、ある程度おいしい料理はできます。でも、『美味しい』になるためには、食材の作り手のこと、どうやって料理しているのかも伝えられるお店の環境、スタッフが揃っていること。なにもかもが大切です」

「オンラインで注文した食材を使って、習ったレシピで作っても『おいしい』のだろうけれど、美しさに満たされていない。それでは僕は満足できない。僕の目指す『美味しい』じゃないんです」

環境と食の両立。そのバランスを探りながら

では、坂本さんの目指す「美味しい」とはなにか? 

最初に出てきたキーワードは「食材の背景」だ。

「僕ら飲食の仕事は、環境に対して負荷をかけている。『できるだけ環境に負荷をかけない食材を使いたい』という思いが年々強くなっています」

「レストランのくせに綺麗事を言って」という批判は、これまでにたくさん受けてきた。環境負荷の話になると、「じゃあ飲食業やめればいいのに」「ビーガンになれば?」という人もいた。

「前提として、食べることは大切にしたいし、食文化をつなぐことも、楽しく食べて過ごす時間も大切。環境と食の両立をずっと探っています」

レストランが過剰に、フォアグラやキャビアといったいわゆる高級食材を買い求めることが、“地球への破壊行為”の代表格になってはいないか。

そんな問題意識から、坂本さんは、海の持続可能性を学び、活動する料理人集団「Chefs for the Blue」の理事を務める。後の世代に環境と食をつなぐ意識が大きい。

「オーガニックの野菜であれば、収量を下げてでも丁寧に作ろうと思う作り手が多いから、金額は高い。一方で、収量を上げることを目的に、化学肥料や農薬を使用した野菜が、市場のほとんどを占めています。そういった収量を上げるための行為が、土地を、山を、海を痩せさせていく」

「『体にいいから、オーガニックフードを食べよう』という人は多い。とはいえ、農薬を使って育てた野菜を食べ続けたところで、死ぬわけでもないしすぐに健康を害することもないでしょう」と坂本さんは前置きして、続ける。

「その上で僕がオーガニックの野菜を支持するのは、人の健康のためだけじゃなくて地球への環境負荷を考えるから。収量を上げるための行為が、地球に悪い影響を与えているのに、私たちは私利私欲のために収量を求めている」

「だからこそ僕は、収量が少なくてもオーガニックな農産物を作る生産者たちの生業が成り立つように、正当な対価を払いたい。それが真っ当なお金の使い方だと思っています」

たとえば、チェンチが放牧豚を仕入れるのは、京都北部の綾部にある『てまひま自然農園』。

ここでは、耕作されなかった農地に放牧した豚が、草や土に埋まった根を食べて、農地再生に一役買っている。他にも、蒸したさつまいもやくず米、野菜を餌に、健やかに育てられている。

 坂本さんは、生産者に正当な対価を支払いたいからこそ、コースの料金を熟考する。

「オープン当初は昼5,000円、夜1万円だったんです。3年目までその値段でがんばったんですが、利益が残らなかった。スタッフも少しずつ増えていくなか、3年目に税理士さんから『開店からほぼ満席の状態。こんなに安くしていたらあかん』と怒られました」

税理士は「いい食材でいい料理を出しているのだから、相応に料金を上げていかないといけない」と教えてくれた。

しかし坂本さん自身は、デフレの時代を生きてきた料理人。当初は価格転嫁に抵抗があったと振り返る。

コロナ禍を経た現在、チェンチの価値を理解してくれる客との関係性を築く大切さを感じている。

「お客様のなかには、『あの店に行った』『この店も行った』と人気店をスタンプラリー的に楽しんでおられる方も一定数いるでしょう。そういう方はそういう方として、僕は、自分たちの日々の取り組みまで含めて好きになってくれるお客様を大切にしたい。そういうお客様は、自分たちの料理の変化を楽しみながら、世の中が変わっても店に足を運んでくださるから」

「自分の店で提供して、お客さんに伝えたい」

「美味しい」の実現のために、次に坂本さんから出てきたキーワードは、「この人のものを、店で提供したい」という想いだ。

日本には、たくさんのオーガニックな生産物の作り手がいる。坂本さんは「訪れるのは趣味だから」と謙遜しつつ、産地に足を運ぶことを惜しまない。坂本さんが生産者を選ぶ基準は、「気が合うかどうか」だ。

「生産者さんと僕にズレがあると、食材にうまさがあっても、積極的に使いたい気持ちが起こらないものもあります。『この人のものを、自分の店で提供したい』、『お店に来るお客さんに伝えたい』という想いが一番の決め手です」

それは食材に限らず、カトラリーも同じだ。

たとえば、すべてのテーブルに配された、まるで鉱物のような独特の質感をたずさえたランチョントレイ。置かれた皿を際立たせてくれる。

「これ、漆なんです。石川の能登で漆塗りの世界にゼロから飛び込んで素晴らしい作品をつくり、伝統を継承しながらもオリジナリティのある世界を創出している、赤木明登さんによるもの。『坂本さんのお店のために、用意する』と赤木さんに言っていただいてうれしかった。そうなると、他のカトラリーもまったく妥協できなくなりました」

まるでアンティークのような風合いをもつ水グラス。これは金沢にアトリエを構えるガラス作家、辻和美さんによるものだ。このグラスにも惚れ込み、店で使いたいと思った。

「いいものに囲まれていると、作品たちから自分が常に見られている気がする。仕事への向き合い方を自戒させてくれるし、気が引き締まります」

自戒を挙げるのには、理由がある。料理人の仕事は常に危うさをはらむ。メディアでは繁盛店のシェフは成功者としてもてはやされやすい。その一方で、ミシュランで星を取った店がその何年後かに閉店するなど、「トップまで駆け上がって、蹴られて凋落」、そんな例もたくさん見てきた。

坂本さんは、そういった自己顕示欲が刺激される世界からは、一線を画す。一年一年を確実に重ねて、日々の取り組みを通じて顧客との関係性を築くことを大切にしたいと坂本さんは考える。

彼にとって、「この人のものを、提供したい」と心から思える食材やカトラリーは、「素晴らしい作り手がいる」と伝えるだけではなく、同時に自分の位置を確認させてくれる存在でもあるのだ。

2カ月に1度のスタッフ全員参加の試食会

そして「美味しい」の実現のために欠かせないピースは、「スタッフ」だ。

「同じメンバーで長く仕事をしていると、見ている方向が揃っていく。スタッフの目線が揃っていると、言葉でメッセージを発する以上に、お店に来てくれる人には浸透するものがあると感じています」

連日満席のチェンチには年間のべ約1万人もの客が訪れる。年間1万人は、食体験を伝えるメディアとも言える規模だろう。

そこで重要な役割を果たすのがスタッフだ。現在、チェンチには正社員からアルバイトまで含めて16人のスタッフがいる。料理、ドリンク、サービス。誰から話を聞いてもブレがないように、情報の共有のために重視するのは2カ月に1度、全員が参加する試食会だ。

写真提供:チェンチ

「隔月ごとにコースメニューを変えています。すべてのお料理は新作で、ワインや日本酒、お茶のペアリングの組み合わせもすべて変わる。スタッフは全員着席して、実際にお客様が召し上がるのと同じ量を、コースの最初から最後まですべて食べるのです」

チェンチのスタッフにとって、この試食会は、試作にはじまり1カ月の準備期間をかけた一大イベントだ。

4時間ほどかかるこの試食会がある日曜、チェンチは夜の営業をあきらめた。予約の絶えない人気店で、その決断がどれほどのものか想像に難くない。

それほどまでに、坂本さんは試食会に力を入れている。

試食会、それはシェフにとっては本番のオペレーションを練習する場だ。ドリンク担当はコースに合わせたワインと日本酒とお茶、それぞれのペアリングを最終確認する。

そして、サービスのスタッフは、厨房の意図を自分の言葉で説明できるまで理解する。そして、その練り上げられた説明は、ロンドン在住の翻訳家が英訳して、スタッフに共有される。

英語版は、ネイティブに違和感のないレベルのものと、食材についてシンプルに伝えるものの2種類を用意するという。

「どのスタッフがテーブルについても、自分の言葉のように料理を説明できることが一番大事。お客様から質問されたら的確な返答ができる。それが、お客様にとって心地がよく、『この店はサービスがいい』と思ってもらえる秘訣だと思います」

日本食からイタリアンへ転向した、若き料理人

続いて、坂本さんが期待する1994年生まれの料理人、中川寛大さんに話を聞いた。

三重出身。18歳で料理学校を卒業後、ミシュラン三つ星で知られる京都祇園の「さゝ木」に10年間勤め、2番手として活躍。2年前の2023年にチェンチへ。チェンチでは現在、シェフ、スーシェフに次ぐ3番手として、アミューズに続く2皿を考案する。

「チェンチに来たとき、日本料理と発想がまったく違うことに衝撃を受けました。先輩の料理を食べると、鼻に抜ける香りや食感が心地よい。食材の組み合わせについて考えた経験がまだまだ浅かったのだと気づきました」

「松茸と鱧」「わかめと筍」「鰻ときゅうり」というように、日本料理は「出会いもの」と呼ばれる、旬を迎えた海と山の食材同士の組み合わせを大切にする考え方がある。それに対して、チェンチの発想はまったく異なる。

「スーシェフはフレンチ出身なんですが、教えていただくことがとても多いです。彼から『料理の組み合わせは、色で合わせることができる。あるいはシソ科やセリ科といった同じ食材を合わせていくと、料理が自然とまとまっていく』という話を聞いて、感銘を受けました」

「以降、ひたすら本を読んで勉強しました。食材について、チェンチのシェフほどに考えている料理人の方ってどれくらいいらっしゃるのでしょうね。僕は、今も勉強している最中です」

鰹をメインに赤い色で合わせた美しい一皿。キヌアと発酵させたビーツ。そして、ビーツのジュースに京都・丹後の飯尾醸造さんの紅芋で作ったお酢、あゆの魚醤、白麹を合わせてソースに。白麹と紅芋酢の角度の異なる複雑な酸味と魚醤のうまみが合わさり、赤身の食べ口はさわやかだ。

振り返ると、中川さんは26歳のときに、若手料理人が腕を競うテレビ番組「ドラゴンシェフ」(2022年からは『CHEF-1グランプリ』)に出場したことで、悔しい学びを得た。準決勝まで進んだが、食材への理解の浅さを思い知ったのだ。

以来イタリアンに転向して研鑽を積み、4年後の30歳のときに、35歳以下の料理人のコンペティション「RED U-35」(RYORININ’s EMERGING DREAM U-35)でトップ5に入賞。

中川さんは「チェンチに来て2年半経ち、ようやくやりたいことを形にできるようになってきました」と話す。

まるでオーケストラのように、素材の個性を重ねる

中川さんの料理は、「この食材をどうやったら美味しく食べられるだろうか?」という思いから着想が生まれることが多い。

たとえばゴーヤは、日本料理の世界で扱うことはほぼない。そんなゴーヤを、旬のホッキ貝と合わせた一皿がこちらだ。

スパイシーさと炭の香りが飛び込んで、後から複合的な柑橘が追いかけてくる。糸のように刻まれたゴーヤ、万願寺唐辛子のピューレの上で穏やかなハーモニーを作りだす。一つ一つの素材は確かに個性があるのに、舌の上でいくつもの味が合わさって生まれる調和がおもしろい。まるでオーケストラのようだ。

ピューレにした万願寺唐辛子のソースの上にじゃがいものガレット、さらに薄くスライスしたゴーヤと万願寺唐辛子を載せる。そこに和歌山の蔵光農園から届いた翡翠みかん。

「他の果実を甘く育てるために摘果(てきか:余分のものを幼いうちに摘み取ること)されたのが翡翠みかんです。甘みはほとんどなく、青い香りと爽やかな酸味があるんです」

ゴーヤの上にかけるのは、XO醬のようなソース。アミューズに出すペルシュウ(塩のみで作った生ハム)は、イタリアでパルマハムの作り方を学んだ岐阜の多田昌豊さんによるものだ。ペルシュウの切れ端で出汁をとり、米麹と合わせ、発酵させて、ホッキ貝のヒモ エシャロットといった野菜と合わせ、ソースにしている。

「お味噌のような、XO醤みたいなソースを作りたいなと思ったんです」

その上に、ホッキ貝をさっと炭で炙って載せる。最後にマイクロパクチーとティムールペッパー(ネパールの山椒)を振って、仕上げた。

もう一品は栗のお粥。福知山で採れた「ぽろたん栗」は大粒で甘くておいしい日本栗の新品種で、鬼皮と渋皮が離れやすい。
お粥は信楽の作陶家、大谷哲也さんの鍋で炊いている。

影響を受けながら、「美味しい」を考え続ける

摘果みかんを生かしたり、ペルシュウの切れ端を煮込んでソースを作ったりと食材を余すことなく使うチェンチ。しかし、そこに主眼を置くことはない。あくまで美味しさが最優先だ。

「坂本さんは『捨てるものにはヒントが隠れている。どう加工するか、それが料理人の腕の見せどころ』といいます。実際、創意工夫をした経験が、自分の引き出しに入るのを感じます」

冒頭に坂本さんが述べた「美味しい」について、中川さんも自分なりのビジョンを持っている。

「高級食材だから使うのではなく、料理人の文脈として『自分が精通した食材なら、使う意味合いがある』と考えています」

「たとえば僕の出身地である三重の松坂牛。『高級食材を使うことで料理をラグジュアリーに見せる』というのは、僕の考えとは違う。生産者さんとのつながりがある食材だからこそ、使うことを検討したい」

環境や資源への危機感は、チェンチへ来て高まったという。

「以前は『この魚じゃないと、この料理は作れない』という思いがありました。でも、Chefs for the Blueをはじめ、坂本さんの活動を間近に見ることで、もっと柔軟に考えた方がいいと思うようになりました」

「いろんな影響を受けながら、考え続けている」と現在地を教えてくれた中川さん。「さゝ木」の佐々木浩さん、そしてチェンチの坂本健さん。まったくスタイルの異なる、料理人の大先輩から受ける薫陶は大きい。

細部まで行き届いて、はじめて「美味しい」になる

チェンチが目指す「美味しい」の実現には、「行き届いていること」が欠かせない。

坂本さんはコロナ禍を経て、食の世界で変化を感じている。

コロナ前までは、キャビアの載った料理をシャンデリアのある空間で食べるようなわかりやすさが、「贅沢」としてもてはやされていた。しかし今はリトリートホテルに注目が集まるなど、精神のありようが重視される時代になった。

「友人夫婦と自分たち夫婦で食事に行くのが好きで、よく4人で出かけます。そんな時にいつも思うのは、レストランでは食だけが主役ではないという事実です。仲のいい人と会話をして、丁寧に過ごす。その時間こそが贅沢なんだと」

坂本さんを満たす店は、空間、サービス、料理人すべてが細部まで行き届いている。その体験で、坂本さんはチェンチのありようを再確認する。

「『美味しい』のためには、すべてが必要です。料理人は、生産者を知っている。スタッフは、食材について自分の言葉で話せる。そういう食体験を経て、料理にこれ見よがしな豪華絢爛さはいらないと思うようになりました。むしろ『ペアリングがおもしろい』とか、違う着地でもいい」

「そういう積み重ねで、最高に満たされる時間が生まれる」

飽食の時代は終わり、気候変動を肌身で感じるいま、私たちは何を豪華と思うのか? 

チェンチは、一年かけて坂本さんが自ら土間を掘り下げて町屋を改装したレストランだ。

ひとつひとつ作り手が見える料理、それを彩る皿やカトラリー。ペアリングされたワインを片手に、中庭を眺めながらいただく8皿。その時間には、確かに“自分が大切にされている感覚”。胃袋だけではなく、“心が満たされる感覚”があった。

チェンチの彼らが目指す「美味しい」は、次世代のラグジュアリーのありようを照らしている。

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Author
編集者 / ライター

Editor / Writer。横浜出身、京都在住のフリー編集者。フリーマガジン『ハンケイ500m』『おっちゃんとおばちゃん』副編集長。「大人のインターンシップ」や食関係の情報発信など、キャリア教育、食に関心が高い。趣味は紙切り。

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編集者

お茶どころ鹿児島で生まれ育つ。株式会社インプレス、ハフポスト日本版を経て独立後は、女性のヘルスケアメディア「ランドリーボックス」のほか、メディアの立ち上げや運営、編集、ライティング、コンテンツの企画/制作などを手がける。

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