連載

全体化の論理に抗うコミュニティを作ろう:精神科医・松本卓也

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。連載シリーズ「現代嗜好」では、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

第6回は、精神科医の松本卓也をたずねた。前編では、主体化のプロセスにおける「移行対象」の果たす役割を検討したうえで、享楽と「おぞましさ」の切っても切れない関係性や、誰しもはらんでいる「依存症」性、さらには嗜好品が可能にするオルタナティブなコミュニティへの逸脱まで語ってもらった。後編では、「許されない逸脱」への弾圧を生む享楽への怯え、マイナーなものをマイナーなまま維持する難しさを前提として、社会を覆う「全体化の論理」に抗うために「徒党を組むこと」の必要性を考えていく。

(編集・文:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海  写真:佐藤麻優子)

前編 》人は嗜癖からはじまる:精神科医・松本卓也

享楽への怯えが、「許されない逸脱」の弾圧を生む

──前編は、「いま社会全体で、逸脱の芽が潰されている」という問題定義で終わりました。こうした状況が生まれているのはなぜだと思いますか?

「よくわからない享楽」への怯えが原因だと思います。例えば、タバコが批判されやすいのは、非喫煙者にとってはよくわからない仕方で、喫煙者が享楽しているからだと思うんです。自分にはわからない享楽に、自己破壊的なかたちでふけっている人たちが怖いわけです。さらに、自分の享楽にも怯えている。立て看板を撤去したがる人たちが、一歩そこに足を踏み入れたら実は「面白い!」と思うようになる可能性だってあるわけです。しかし、そうした予測不可能な享楽が、ことごとく避けられている。

──コロナ禍に際しても、逸脱を徹底して攻撃する「自粛警察」が問題になりました。

逸脱というものが、「怪しげだけれど、すごい享楽をもたらしてくれるかもしれないもの」ではなく、単純に「道徳的に良くないから、弾圧すべきもの」と捉えられているんですよね。

一方で、カジノが合法化されたり、ガチャと課金で人を依存させるスマホゲームが許されたりしています。これは一見、矛盾しているように思えますが、実は同じように逸脱への怯えが根底にあります。問題は、「許される逸脱」と、「許されない逸脱」の線引きが、国家レベルではじまっていることです。国家的に管理されている特定の依存だけが許され、それ以外の逸脱は徹底的に排除・弾圧されつつある。ギャンブルやゲームは、巨大なお金が動いて経済を潤しますし、誰にとっても享楽の仕方が想像しやすいですから。

嗜癖の対象がごく限られたものにしかなくなって、どんどん文化は貧相になっていくわけです。よくわからないものに対する好奇心は、世界を動かします。僕自身の経験をお話しすると、高知県の中高一貫校に入学した直後、学内の掲示板に貼られたガリ版刷りの黒いポスターに「イデオロギーは崩壊する」と書いてあったんですよ(笑)。中学1年生の僕にとっては衝撃で、いまでも鮮烈に当時の感覚を覚えています。

でも、その衝撃こそが現代思想への関心を持つ原体験になった。よくわからないけれど、とにかく「やばいな」と心躍り、辞書で「イデオロギー」を調べてみた。そこから、カール・マルクスやルイ・アルチュセールの存在を知って、彼らの著作を読みはじめたわけです。そうした異世界への通路がなくなると、人間の世界は面白みがなくなり、学問的にも面白いものが生まれなくなると思います。

マイナーなものをマイナーなまま維持する難しさ

──逸脱への弾圧に抗うためには、どうすればいいのでしょう?

逸脱を実践し、その姿を“こっそり”見せていくことが大事だと思います。いまはSNSのせいで、ちょっとした逸脱が、すぐに炎上に結びついてしまいますよね。一番の問題は、あらゆる活動が、「公共的」になりすぎているということです。福祉国家的な意味での社会的なものがどんどん衰退していく一方で、より過酷な社会的なもの、ちょうどフランスの哲学者ジャック・ラカンが「鉄の秩序」と呼んだようなものが全面化しつつあるともいえます。だからこそ、全体化、公共化せずに、ちょっとした逸脱をすること。世界が悪い意味で「社会的」になりすぎているなかで、ローカルで局地的でマイナーなものを、もう一度作り直すことが大事だと思います。

メジャー化しようなんて、考えなくていいと思うんです。むしろメジャーなものからの避難所として形成されるマイナーな局地的コミュニティの中では、資本の論理や上下関係、法律や制度といった、もともとのメジャーなコミュニティと、同じ論理で支配させてはいけない。避難所では、資本の論理ではないロジックを考えないといけないし、競争があるにしても、非資本主義的に競争しなければいけません。組織だって、ヒエラルキー状ではない、官僚的ではないような組織を考えなければいけない。そうした自己批判をしながら、オルタナティブな場所を維持していくことが、最も大事です。せっかくマイナーなものになれたのだから、しっかりとマイナーなまま維持していく。メジャーにしようとした時点で、資本の論理に巻き取られてしまいますからね。

マイナーなものをマイナーなまま維持することが、実は一番難しいことなんです。インディーズバンドがメジャーデビューした途端つまらなくなるのと同じで、資本の論理や組織の論理が介入すると、すぐに面白くなくなってしまう。近年、当事者研究や自助グループが注目されているのは、そうしたマイナー性を維持するための示唆を与えてくれるからだと思います。オルタナティブでマイナーなグループが、官僚的な組織ではないような仕方で組織されていることが、現代的な資本と組織の論理でがんじがらめになっている人たちにとって、理想形として映るのでしょう。もっとも、そういったグループのなかにもさまざまな動きが生じますから、自分たちが資本と組織の論理にひきずられていないかをたえず問い直し続ける大変な努力が必要なわけです。これは簡単に実現できるユートピアのようなものではまったくありません。

──その一方で、カジノやスマホゲームは、メジャー側の論理が支配している?

基本的にそうだと思います。もちろん、まったく希望を見ていないわけではありません。たとえば、スマホゲームをやっている人どうしで、安心できる居場所としてコミュニティが作られることもあるでしょう。それ自体を批判する気はありません。

でも、やはり危機感も覚えています。スマホゲームは、人を依存させ、そこからお金を巻き上げる仕組みで成り立っている。ゲーマーのコミュニティに居続けようとするならば、資本の論理、法と制度の論理の強烈な支配に従わなければならない場面がどうしてもでてくるかもしれない。YouTubeでゲーム実況を配信して人とつながるにしても、たとえば再生回数やチャンネル登録数をめぐる、強烈な数のゲームに巻き込まれてしまうわけです。そうした場所で、喫煙所的なコミュニティを形成して、サロン的な機能を果たすことは難しい。資本の論理に対するオルタナティブであるはずの避難所が、もとのコミュニティよりも過酷な資本の論理によって管理されているのは、地獄だと思います。

「徒党を組む」ことが禁じられ、個人がアトム化している

──松本さんの著書『享楽社会論』の中で、人びとが「統計学的自我」として管理される2010年代以降の状況が持つ閉塞感について、以下のように書かれています。

「不可能な享楽」は「エンジョイ」になり、<父>はデータの番人へと置き換えられた。現代の私たちは、後者による徹底的な制御のもとで、前者の「エンジョイ」としての享楽の過剰な強制──「享楽せよ!Jouis!」という超自我の命令──によって、そして、その結果として消費されるさまざまなガジェットがもたらす依存症的な享楽によって慰められながら、徐々に窒息させられつつあるのではないだろうか。

スマホゲームは、まさにこうした「窒息」状況を端的に表しているように思えます。

そうですね、資本の論理とセットになった依存です。そうした窒息状況から逃れて閉じないと開かれないし、切らないとつながれない。家族、職場、教室……自分が主に所属しているコミュニティに居場所がないと感じたとき、まずはコミュニケーションを拒否してそこから離脱することで、別のコミュニケーションが発生するんです。

──その意味では、昨今の嗜好品のあり方は、よくない傾向を見せていると思います。近代以前には共同体の紐帯を形成する作用として、嗜好品的なものは、一体感や特有の儀礼的コミュニケーションをもたらしていました。しかし、嗜好品の日常化、コモディティ化に伴って、現代では個人的に愉しむものとなりました。お酒もタバコもコーヒーも、どんどん個人的に味わうものとなっています。

よくないですね。繰り返しお話ししているように、嗜好品で最も大事なのは、それをたしなむことで、人とつながるオルタナティブ・スペースを作ること。嗜好品の個人化は、そうしたつながりを発生しづらくさせます。

この問題は、統治の問題と関連していると思います。たとえば、京都大学は山極総長の時代に、学生と執行部のあいだの対話の場所であった「情報公開連絡会」を廃止しました。代わりに、「学生意見箱」を設置し、そこへの個人の投稿を通じて、学生の意見を吸い上げるようになった。そして、学生自治というかたちで「徒党を組む」ことにネガティブな評価が与えられ、物言う学生がさまざまな理由をつけて処分されるようになりました。つまり、人と人がつながることを禁止し、アトム化された個人の意見だけを聞くようになったわけです。

しかし、当たり前のことですが、団結しないと、人は強い力は持てないんですよ。それをわかっていて、つながることを禁じているわけです。個々の意見は、吸い上げたうえで取捨選択し、「検討はしました」と却下してしまえる。香川県ネット・ゲーム依存症対策条例に関するパブリックコメントで、規制を擁護するコメントが不自然に多く集まっていたことが問題になりましたが、徒党を組んでいない個人の意見は、都合よくピックアップしたり、無視したりできるので、「意見は聞きました」という方便に使いやすいんです。

ちゃんと人びとがつながれば、大きな力になり、ステークホルダーになれる。すると、その意見を無視するのが難しくなります。しかし、いまは国のレベルでも大学のレベルでも、市民や学生が団結することに対する無茶苦茶な恐れがあり、それを個々人が内面化している。党派性というものが、すごく嫌われているわけです。

資本の論理の全体化に抗う、秘密結社を作ろう

──では、「徒党を組む」ことこそが、全体化の圧力に抗する手段になるということでしょうか?

そうですね。「徒党を組もう」という政治的なニュアンスをもつ言葉にアレルギー反応を抱く人が多いのであれば、「コミュニティを作ろう」でも「サードスペースを作ろう」でも「秘密結社を作ろう」でもいい。自分が生きづらさを感じているグループとは別の仕方で運営されている、オルタナティブなコミュニティを維持すること。そうすることで、少なくとも自分のいるコミュニティは、メジャーなものとは別の仕方で運営されるようになり、確実に世界は少しずつ変わっていきます。世界を一挙に変えてしまうことはできなくても、自分の周りなら少しずつ変えていける可能性があるわけです。

でも、昨今はそうした実践に対してすら、国や大学が大きな障壁を築いている。どんどん秘密基地が作れなくなっている。それに抗っていかなければいけないと思っています。

──たしかに、僕が編集者になりたての1980年代頃には、その店の外には情報が漏れ出ない、箝口令の敷かれた店がいくつもありました。でも、いまはSNSがあるから、クローズドな情報でもすぐに漏れ出てしまう。

ここ20年ほど、日本経済がどんどん下向きになっていることを背景に、「あらゆるものが公共的・社会的な役割を果たさなければいけない」という社会のムードが醸成されていきました。その結果、「隙間」のように存在していたものは、すべて価値がないと言われるようになった。人文・社会科学や、生活保護へのバッシングが強まっているのも、公共的な「生産性」がないように見えるからです。あらゆる領域において、数字で見えるかたちで何かを生産していなければならなくなり、資本の論理が全体化していったんです。

その中で、資本の論理に適合したカジノとスマホゲームだけが許可され、その他の依存は徹底的に弾圧されるようになりました。享楽の仕方も、パブリックなもの以外、認められないようになっているわけです。たとえば昨今は、Appleの新製品発表を心待ちにして、毎回買い換えるような人が「ガジェット好き」とみなされています。しかし、本当にガジェット好きなら、趣味で電子工作をして、同じ趣味を持った人とつながればいいと思うんですよ。本来はそうした志向性を持っているはずの人たちが、Appleの新製品発表を見て一喜一憂するしかなくなっている現状には、大きな危機感を覚えますね。

しかし、ただ「作ろう」と言っているだけで、公共的に全体化されない場所を作るのは難しい。何か共通の「はまっているもの」があることは大事です。嗜好品もそうでしょう。

僕がリアルタイムで通過した90年代後半のインターネットは、そうした意味で大きな可能性があったわけです。掲示板を中心に、同じ趣味を持った人たちが集うコミュニティが形成されていた。そうしたマイナーな集まりを、さまざまな手段を使って確保していくことが大事です。GAFAが支配的になる前のインターネットで一時的に可能だった状態、多彩な仕方で逸脱できる状態を、いかにして作っていくか。おそらく、また新しいメディアや技術が出てきたときに、少しだけ希望が見える時期が来ると思います。その機を逸しないよう、注目し続けなければいけません。

(了)

前編 》人は嗜癖からはじまる:精神科医・松本卓也

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