言語や宗教は違うのに。毎日の「コーヒーセレモニー」に村の人々が集うわけ:文化人類学者・松村圭一郎

吉川 慧

あなたにとってお気に入りのコーヒータイムは、どこで、どのように楽しむものだろう。

ブラックコーヒーで目覚める起き抜けの一杯だろうか。昼下がりにケーキやお菓子とともに味わう一杯だろうか。それとも、夜のリラックスタイムにホッとひと息つく、牛乳をたっぷり入れたカフェオレだろうか。

私たちが「当たり前」に思い描くコーヒーの在り方も、国や地域が変われば全く異なっている。

コーヒー原産地とされる東部アフリカ・エチオピアの農村では、コーヒーを淹れるとき必ず近所の人に声をかけ、一緒に楽しむという。そこには民族、宗教、言語の壁はない。

原産地に暮らす人々にとって、コーヒーはどんな存在なのか。彼らのコーヒーの文化から、日本に暮らす私たちの移り変わりと現在地を辿ってみたい。学生時代から20年以上、エチオピアでのフィールドワークに携わってきた、『うしろめたさの人類学』の著者で文化人類学者の松村圭一郎さん(岡山大学准教授)に聞いた。

自分たちが飲むコーヒー豆を確保して輸出する

──エチオピアはコーヒーの原産地とされています。歴史的にもコーヒーとの関わりは密接で、広くコーヒーが飲まれている国だと聞きました。

コーヒーの起源についてはよくわかっていないのですが、エチオピア南西部の森には、コーヒーの原木とされる大木があります。現在、農村部で栽培されているコーヒーの木は1.5~2メートルぐらいで、赤い実がなります。これがコーヒーの実です。みなさんがよく見かける茶色い「コーヒー豆」はコーヒーの実の中にある種を炒ったものです。

エチオピアのコーヒーの実(撮影:松村圭一郎)

かつてエチオピアの人たちは、野生のコーヒーの実をバターで煎って食べたり、儀礼に使っていたりしたと言われています。これが15世紀頃にイエメンを通じてアラブ世界に渡り、そこで飲み物としてのコーヒーが生まれたようです。

つまり、エチオピアでは飲み物としてのコーヒーは“逆輸入”になるんですね。アラビア語ではコーヒーを「カフワ」と呼びますが、一説にはこれが「coffee」の語源とされています。

こうした歴史があるので、はじめはムスリム(イスラム教徒)の人が中心でしたが、その後、キリスト教徒も含めてエチオピア全土でコーヒーを飲む習慣が広まりました。豆ではなく、コーヒーの葉や実の殻をお茶のように煮出して飲む地域もあります。

コーヒーを飲む文化がヨーロッパ諸国に伝わると、植民地でのプランテーション栽培が広がっていきました。アフリカには、エチオピア以外にもケニアやルワンダなどコーヒーの生産が盛んな国がたくさんありますが、そのほとんどが輸出向けで、生産者である農民たちは自分たちが栽培したコーヒーを飲むことはありません。

一方、エチオピアの農村部では自分たちが飲むためのコーヒー豆を確保した上で、輸出用の豆を売却しています。ちなみにエチオピアは、帝国主義の時代にも植民地にはならず、イタリア領となった1936年からの5年間を除いて独立を維持してきました。

民族・宗教・言語を越えて交流するコーヒーセレモニー

──エチオピアでは、コーヒーは輸出品としてだけではなく、国内でも飲まれる機会が多い。社会的にもコーヒーが重要な役割を担っているそうですね。

エチオピアで私が調査する農村では、コーヒーを飲むときに必ず近所の人に声をかけてふるまうんです。この習慣は最近「コーヒーセレモニー」とも呼ばれていますね。基本的に毎日開かれ、1日に3回くらいはコーヒーセレモニーがあります。村のご近所さんを互いに呼び合うんです。

朝10時ぐらいに1軒の家が開いて、午後の昼下がりに別の家がまた開く。さらに夕方にはもう1軒……みたいに。乾かした豆の殻をとって、洗って煎って、砕いて粉にして、1時間から1時間半ぐらいかけてコーヒーを淹れます。床をきれいに掃いて、花を飾ったり、お香を焚いたりもします。

その準備の途中で、近所の人に声をかけるとみんながバラバラと集まってきて、世間話をしながら、小さなカップで2〜3杯ずつのコーヒーを楽しみます。この催しが1日に何回もある。それがエチオピアの農村の日常です。

面白いのは、異なる民族や宗教の人も分け隔てなく招くことです。キリスト教徒もムスリムも、同じ空間で同じコーヒーを飲みながら交流する。そこでご近所さんとの人間関係が築かれていくんです。

──コーヒーが人間関係を媒介しているんですね。日本でも「お茶でも飲む?」と、知人と近況を話したり、世間話に興じたりします。

「話があるんだけど」とか「少し話せる?」とか言われると、ちょっとかしこまるじゃないですか。でも「お茶しない?」「一服しようか」と言われると、不思議と応じやすいですよね。

──日本でもエチオピアでも「飲み物」を媒介にすることで、円滑なコミュニケーションが取りやすくなっているのかもしれません。

これが「食べ物」だと少し事情が異なります。たとえばムスリムとキリスト教徒は、同じ皿の肉料理を絶対に食べません。キリスト教徒とムスリムでは、それぞれ肉を解体するときのお祈りや解体方法が決められているからです。

でも、コーヒーや飲み物は一緒に楽しむことができる。キリスト教徒の祝祭日に近所のムスリムの人がお祝いを述べにくるときも、お酒は飲めないので、ともにコーヒーを飲みます。民族も、文化も、言葉も異なる人たちが、同じコーヒーを一緒に飲む。コーヒーを通じて、民族・宗教・言語の壁を越えていく。

エチオピアのコーヒー栽培地帯の村には、さまざまな地域から出稼ぎにきて、そのまま定住する人たちもいます。そもそも、共有される空間や人間関係がマルチエスニックなのです。そうした環境での人間関係を構築する「創られた伝統」のひとつが「コーヒーセレモニー」ではないかと思うんです。

「貧しい」を理由に呼ばれないことはない

── ご近所同士という共通項だけでセレモニーに呼ばれる。そこには助け合いの意味合いもあるのでしょうか。

農村の中には貧しい家もあり、頻繁にホストができないところもあります。でも、必ずしもバランスを取る必要はないんですね。村の人たちは「あの家はあまりコーヒーを持っていない」と知っているんです。それでも、ちゃんとコーヒーセレモニーに声をかけます。

コーヒーセレモニーでは軽いおつまみも添えて出します。お菓子ではなく、主食の「インジェラ」という薄焼きパンを切ったものなどがふつうで、それとコーヒーだけでもお腹はそれなりに満たされる。本当に貧しい家では、ご近所さんから1日に何回かコーヒーとインジェラをいただいて空腹を満たしているのかもしれませんね。

── まるで村におけるライフラインの一種みたいですね。

村人たちは互いの経済状況をよく分かっています。なので、あからさまに何かを施すというわけではなく、「まだ朝ごはん、食べていないよな?」という感じで声をかけたりする。そういう雰囲気の中で、世間話やお互いの身の上の事情を共有しながらコーヒーを飲むんですね。

村の中で何らかのイザコザや問題が発生することももちろんあります。そういうときには「あいつは呼ばないでおこう」「今はあの家には行かないほうがいい」となります。コーヒーセレモニーの中で「あの家とこの家は、いまケンカしている。実はこういうことあって……」と噂話が広まることも。

村ではいつでもみんなが仲良くしてるわけではないんです。ケンカもよくする。興味深いのは、誰が今ケンカをしているのか、なぜケンカしているのかといった私的な問題がコーヒーセレモニーを通じて可視化され、公の問題になることです。村の中で起きてる問題を共有して、みんなが当事者になる催しでもあるのかもしれません。

「ひとりはよくない」話すことが娯楽のひとつ

── 毎日ご近所さんとコーヒーを飲むなんて、正直面倒くさいなって思ったりはしないのでしょうか?

そうなんですよね……。私もそのことをよく考えます(笑)。でも、それは現代の日本で生まれ育った私たちだからそう思うのだと思います。

エチオピアの人たちは「ひとりで居るのはよくない」とよく言います。私もたまにはひとりで静かに本を読みたくて、部屋に籠もっていたら「こっちに来て読め」「みんなのところで読め」と言われたことがありました。 

誰かがいる場所にいたら、話をするしかありません。結局、ひとり黙って本は読めません。

村の中でも、あまり人付き合いが好きじゃない人が、悪い噂を立てられがちなんですね。

「あいつは家に篭って何をやっているのか。誰かに呪いでもかけているんじゃないか」と噂になったりする。今ではテレビのある家も増えていますが、人と話すことが娯楽のひとつなのです。

── 毎日顔を合わせていたら「話すことがなくならないか?」とも思ってしまうのですが……。

村のコミュニティの中には、“お喋りが巧みな人”がいて「持ちネタ」のように何回も同じ話題を繰り返し披露していますね。日本でも柳田國男が『不幸なる芸術・笑の本願』という本を書いていますが、「ホラ吹き」「騙る(かたる)」といった口八丁の嘘であっても、その嘘でみなが笑えることが重要だと指摘しています。

そう考えると、かつて日本の農村も同じように、日常的にみなが集まって話をして、笑い合って、楽しさを分かち合っていた……。そんな繋がりがあったことに気付かされます。

儀礼や嗜好品として親しまれる「チャット」

── エチオピアではコーヒーの他にどんな嗜好品があるのでしょうか。

エチオピアでは紅茶、タバコもありますが、とくに重要なのが「チャット」という植物ですね。東アフリカにおける嗜好品で、ケニアだと「ミラー」、イエメンだと「カート」などと呼ばれています。そのほとんどがエチオピア原産です。

精霊の宿る木の下での儀礼の場面。父親がチャットに祈りを捧げて息子たちに渡す。(撮影:松村圭一郎)

コーヒーの栽培地帯はチャットの栽培地とも重なります。とくに男性たちが集まるときは、誰かがチャットを手土産にもってくるので、チャットにお祈りを捧げて、みんなで噛むんです。飲み込まずにチャットの葉っぱをずっと奥歯で噛んでいると高揚して目が冴えてくる。農作業をするときにはみんなチャットを噛んで、やる気を出す。 儀礼的にもチャットは重要で、結婚する相手の実家への挨拶などでも必ず携えていきます。

トウモロコシの収穫作業中にチャットを配る男性(撮影:松村圭一郎)

── チャットもコーヒー同様、エチオピアでは社会的な役割があるんですね。

みんながチャットを持ち寄ると、だいたいその場にいるもっとも年長の人に差し出します。年長者が神にお祈りを捧げながら、もう一度みんなにチャットを分け与えていく。ムスリムの人たちはチャットもコーヒーも、かならずアッラーや聖人にお祈りを捧げてから、みんなで分けるんです。

神の祝福を受けたものを、みんなが分かち合うというかたちになる。これも「楽しみを独り占めしない」「楽しいこと、良きものは分かち合う」という考えがベースにあるのだと思います。

楽しみをひとり占めせずに、分かち合う社会規範

──エチオピアではなぜ「分かち合う」ことが社会規範のベースになっているのでしょうか。

たとえ通りがかりの他人でも「人間」として認識する思考によるものだと思います。エチオピアではコーヒーはもちろん、ご飯を食べているときに人が通りがかって、目が合うと「一緒に食べろ」って声をかけるんです。

「みんなお腹が減るよね」「彼も食べたいかもしれないのに、ご飯をひとり占めしてるのは恥ずかしいし、後ろめたい」とエチオピアの人は考えます。私が外国人だったからかもしれませんが、エチオピアの首都アジスアベバでも、そういうことがありました。飲み屋でビールをおごってもらうこともよくあります。

でも、日本では通りがかりの人に「一緒にごはんを食べよう」と呼びかける人はなかなかいないですよね。例えば、あなたが通り沿いのカフェで美味しいアイスを食べていても、そこで、道行く人を見て「あの人もアイスを食べたいかもしれない」「一緒に食べないか聞いてみよう」と考えて、声をかけるなんてことはしませんよね。

── たしかに。日本では「自分だけが楽しむことは後ろめたい」という感情を抱く場面は少ないかもしれません。

コーヒーセレモニーでも同じようなことが言えます。自分の家だけでコーヒーを飲むなんて許されない……という感覚です。そもそもコーヒーを飲もうとすると、豆を炒ったり、お湯を沸かしたりする匂いや煙で「あの家、コーヒー淹れてるな」ってすぐに分かるわけです。

それなのに、誰にも声をかけずに自分の家だけでコーヒーを楽しんでいたら、村中で陰口を言われかねません。何かをひとりで楽しむことはやましいこと、いかがわしいことだという共通認識があるんですね。

もちろん、そこから逸脱する人もいるし、都会になるほど状況が変わってきた面もあります。でも「楽しさとは、人と人との間に生まれ、分かち合うべきもの」「楽しみをひとり占めしてはいけない」という考えが、エチオピアの人々の根底にあるんですね。

日本でもきっと、かつてはそうだったように思うんです。でも、そうでなくなったとしたら、それはなぜなのか。それは私たちの「当たり前」「普通」がちょっとずつ変化してきたからかもしれません。

これは決して「エチオピア人が正しく、日本人が間違っている」という話ではありません。どちらも同じ人間ですし、違いも似ているところもある。私たちの暮らしが変化し、かつてとは違う在り方を求めてきた。そういうことなんだと思います。

── 他人から羨ましがられたり、妬まれたりすることは、ある意味怖い。そんな思いが、エチオピアの社会の裏側にあるのでしょうか。

コーヒーセレモニーも「自分たちだけで楽しむと羨ましいと思われてしまう」「妬まれたら病気になるかもしれない」と信じられている側面があります。そうした考えはかつての日本にもあったんですが、どんどん無化していきました。人の目は気にしない。自分だけの時間を、自分が自由に独り占めして使う。他者がいない世界の中で生きていく。それが「自由」だ、と。

他人と切り離されている方が、自由で心地よい。でも、現在でもSNSのなかでは「私のことを認めてほしい」「私はこの世界にいるよ」「みんな私を認めて」「ひとりは寂しい」という承認欲求もよく見られますよね。自らの手で他者を切り離して、自由に楽しみをひとり占めすることが良かったはずなのに。私たちはどこかで「誰かに見てもらいたい」「楽しみを分かち合いたい」という矛盾した気持ちも抱えているんですよね。

お土産から考える日本社会の移り変わり

── 現代には、ひとりの「自由さ」がもたらす「寂しさ」がありますね。

かつての日本社会では、どこか旅行に行ったら、知り合い全員にお土産を買わなきゃいけなかった……そんな時代や習慣もありました。私が以前調査した島根県の漁村では、婦人会の申し合わせ事項に「旅行のお土産配りはしない」という決まりがありました。あまり守られなかったので、あとで廃止になったようですが。

裏を返せば、集落のほとんどが親戚みたいなものだから、お土産配りは負担が大きすぎたんですね。 お土産の文化も「妬み」を受けないための代償と言えます。「自分だけが楽しむ」ことへの「うしろめたさ」は、今の日本に暮らす人の中にも全く消えたわけではありません。それに、旅行のお土産を渡す相手が誰も思い浮かばないっていう状況も、それはそれでちょっと寂しいですよね。

松村さんが暮らす岡山県の瀬戸内海

── それはつまり、自分を「人間」として見てくれる人がいないということになる。

でもプレゼントやお土産って、考えるのが意外と面倒くさいですよね……。相手に応じて考えないといけないし、あんまり高価なものを渡しても気を遣わせてしまうから、とても難しい。

そうした中で「お金は出すので、自分で好きなものを選んでね」とカタログギフトが生まれました。でも、沖縄の島嶼部で結婚式の引き出物をカタログギフトにしたら、みんなが遠慮して注文しなかったという事例もあったそうです。地域によってはいまも贈答文化は残っています。子どもが成人式を迎えると集落中の人を呼んで、ごちそうを並べて挨拶をする。そういう文化が残っている地域では、カタログギフトみたいなものはあまり機能しないのかもしれません。

そう考えると「日本社会」とひと口に言ってもエチオピアと均質に対比できるようなものではないのです。都会にいると、ひとりでも人間は生きていける……と考えることもあると思います。一方で、私たちの体の中には、社会の中で一人の人間として認められたり、自分を気にかけてくれる人がいたりすることに喜びを見出す場面もあるわけです。

100年後の世界がどうなってるかはわかりませんが、今のSNS文化の中にも片鱗はあると思うんですよね。ひとりの自由が心地いいはずなのに「既読スルー」を寂しいと感じるのは、まさにそれかなと思います。

嗜好品の地域性から、自己像を解きほぐす

── コーヒーをはじめとした嗜好品との向き合い方が、現在の地域性を浮かび上がらせますね。

コーヒーのような嗜好品は世界中に広がっていますが、地域によって楽しみ方も役割も異なっている。その差異から、自分たちの“いま”が見えてくる。エチオピアは、たしかに日本と異なるところも多いです。でも、決して異質な存在ではなく、私たち自身が気付かない自己像に気付かせてくれる存在だと思うんです。

── 具体的に、どんな気づきがありますか?

たとえば、コーヒーやチャットにお祈りを捧げてから一緒に楽しむ習慣もそうですね。そういえば、日本の家庭でも季節の初物やいただき物は仏壇にお供えしてから、みんなでいただくことってあったよね、みたいに考えるきっかけになる。

そうした類推を重ねていくと、日本とエチオピアは完全に切り離された存在ではないとわかります。少しズレながらも、異なるコンテクストで同じようなことをやっていたり、同じ機能を必要としていたりします。

「文化人類学」というのは「日本人はこうで、エチオピア人はこう」と単純な文化論としてイメージされがちですが、決してそうじゃないんですね。問題なのは「日本人はこういう人たちだ」「私たちはこんなことはしない」と私たちが自己イメージに縛られて生きているということです。

── 文化人類学の視点があると、自己イメージを柔軟に捉えられますね。

最初にエチオピアにしばらくいて、馴染んでから日本に帰国したとき、それまでは当たり前だったことが、すごくおかしく感じてしまう経験をしました。時間ぴったりにバスが出発したり、係の人がいつもお辞儀をしてくれたり……。わずか1年くらいエチオピアにいただけで、そんな「日本の当たり前」にズレを感じたりする。人間の心や体はすぐに変わりうる、可変性を持った存在であることにも気付かされます。

だからこそ、日本と海外を行ったり来たりしながら「自分たちは、なにを当たり前として生きているのか」と、他者を通して凝り固まった自己イメージを解きほぐしていく。それが文化人類学の面白いところです。

写真:西田香織
取材協力:peni..ecole+cafe

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Business Insider Japan記者。東京都新宿区生まれ。高校教員(世界史)やハフポスト日本版、BuzzFeed Japanなどを経て現職。関心領域は経済、歴史、カルチャー。VTuberから落語まで幅広く取材。古今東西の食文化にも興味。

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お茶どころ鹿児島で生まれ育つ。株式会社インプレス、ハフポスト日本版を経て独立後は、女性のヘルスケアメディア「ランドリーボックス」のほか、メディアの立ち上げや運営、編集、ライティング、コンテンツの企画/制作などを手がける。

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