木を食べる。日本産のハーブやスパイスを生かすーー。クラフトコーラの先駆け「ともコーラ」仕掛け人の“原点回帰”

Yuuki Honda

愛好家によるお手製から企業ブランドまで、広く親しまれている「クラフトコーラ」。いちジャンルとして定着しつつあるが、火付け役の一端を担ったのが、古谷知華さんが手がけてきた「ともコーラ」だ。

食育に熱心な家庭に生まれ育ち、スパイスやハーブに惹かれ、その魅力を伝えていきたいと考えていた彼女だからこそ生み出せた100%天然素材&無添加の「ともコーラ」は、“美味しいが身体に悪い”という従来のコーラ観を軽やかに覆した。

いまでは多くの飲食店のメニューに並び、高級スーパーにも流通し、店頭の棚から多くの人々の手に届けられている。

なんとなく自作したコーラを友だちに振る舞ってから、わずか数年の出来事だ。

いまは今年立ち上げたばかりの「日本草木研究所」で掲げる“木の食用化”や、日本の植生の探求に注力しているのだとか。

それは、彼女が幼い頃から好奇心を揺さぶられ続けてきた、色彩豊かでパワフルな植物から生み出されるスパイスやハーブそのものに焦点を当てることを意味する。

「ともコーラ」が生まれるきっかけになった原点に立ち返りながら、木の食用化に挑戦しようとしている古谷さんに、新たな好奇心の行方を聞いた。

(左)軽井沢・離山が舞台の木食ブランド「木(食)人」の第一弾商品「FOREST SODA」(右)炭酸で割るだけで、クラフトコーラを楽しめるコーラの素「ともコーラ -THE ORIGINAL」

最初はコーラではなくパンだった

──「ともコーラ」は、古谷さんのスパイスやハーブへの関心から生まれたものだとうかがっていますが、食自体に興味を持ったのは家族の影響があったからだとか?

食育に熱心な母親と母方のおばあちゃんの影響で、小さい頃から食への関心は高かったと思います。食卓の話題は「今日のおかずについて」というのが定番で、食べながらその話ばかりしていました。

「今日使っている豚肉は、抗生物質を使わずに育てられていたものだよ」とか。母は添加物が含まれる食材は使わなかったし、低糖も意識していたようです。20年ぐらい前なんですけど、グルテンフリーの春巻きを作るために豆の粉で皮を作っていたり。

──20年前にグルテンフリーは相当ですね。

だから私も食への関心が異様に高くなって、おのずと食べることも好きになりました。特にハーブやスパイスはどこか好奇心をくすぐってくれるものだったし、私自身小さい頃からよく料理に使っていたんです。

でもバジルやローズマリーは一般のスーパーで買えても、それ以外のものはあまり売ってないですよね。それで子どもながらにスパイスの類は意外と使われていないのかなと思って、「じゃあスパイスやハーブの魅力を伝えていきたいな」と思ったのが原点です。

──この原点が「ともコーラ」の開発に繋がっていくと思うんですが、大学は建築学科の卒業なんですよね。なぜ建築だったんでしょう。

最初は文系の学科に入学したんですが、批評に寄る人がいたり、何かを作る人へのリスペクトが薄かったり、言論が先んじてしまう感じが苦手で。そこで何かを作ることができる学科への転科を考えて、唯一条件が当てはまっていた建築に移ったんです。

ただ私はもともと建築家志望ではなかったので、建築の造形をどうするかということよりも、建築という表現をつかって社会でどういう新しい提案をするか、ということに興味が湧いて、そっちを学びました。

──プロジェクトの大元になるコンセプトデザインはどこでも生かせるスキルですよね。

コンセプトという点で言えば、サービスやアプリ開発などビジネスにも生かせるので卒業後に代理店に入ったんです。

でも代理店で働いてみてわかったことですが、大抵のプロジェクトは進んでいくにつれて最初に決めたコンセプトからズレていくんですよね。だったら自分で好きなことをやろうと。私が心から夢中になって時間を忘れて作れるものはなんだ? と考えて本来の食に行き着いたんです。

──ここで食とリンクするんですね。「ともコーラ」の構想もこのあたりから?

最初はパンだったんです。社会人1年目のときに、そのときの気持ちに合った効用のあるスパイスを使ったパン屋さんの企画書を作ったんです。例えば「気持ちが落ち込んだ日のためのラベンダー・クリームパン」「エネルギーを入れたいときのためのレモングラス・サモサ」とか、そういうパンを扱うイメージで。

──めちゃくちゃ良いですね。

企画書を持ってパン屋さんやハーブを作っている農家さんに声をかけていたんですが、このときに「和ハーブ協会」の方と知り合って、日本の里山や原生林にある日本産のハーブやスパイスの存在を聞いたんです。

風藤葛(フウトウカズラ)という日本産の胡椒のようなものや、ほかにも色々なハーブがあると聞きました。「和ハーブ協会」はそういう日本のハーブやスパイスの再価値化を試みていたんですが、私はそれを個人コンサルの形でお手伝いし始めて、そのうち自分でもやってみたいと思うようになって、それが「ともコーラ」に繋がっていきます。

一度も飲んだことがなかったコーラを選んだ理由

──なぜコーラだったんでしょうか。

コーラって身体に悪いってイメージもあるじゃないですか? でも昔はコーラが薬膳飲料や戦場下の気付け薬的に飲まれていたことを本を読んで知って、「コーラは身体に良いもの」という文脈を現代に取り戻せたら面白いだろうなと思ったからです。

──グッと惹かれますね。でもかなり熱心な食育家庭で育った古谷さんがコーラを選んだのはギャップを感じます。

そうなんですよ、私コーラを飲んだことがなくて。そんな私だからこそコーラを作ってみたら面白いだろうなって。思い入れがないからこそ、今のコーラのイメージに引っ張られない美味しいものが作れると思ったし。

ともコーラの原材料に使われているハーブやスパイス。

──なるほど。

まず友だちに自作したコーラを飲んでもらったんですけど、けっこうポジティブな反応が返ってきて、中国人の友だちが「母国に持ち帰りたい」って言ってくれたんですね。じゃあ適当にロゴでも付けようと思って作ったのがいまのロゴなんですよ。バニラを頭に刺しているこの女の子は当時から変わってません。

──へえ! モデルはいるんですか?

よく言われるんですが、じつは私ではなく仲のいい友人なんです(笑) 。この自作したコーラを行きつけのカフェ&バーに持っていったら店の方が気に入ってくれて、「次の日から店で出したい」と言い出して、実際に置かせてもらうことになりまして。そこから芋づる式に飲食関係の方に広がっていったんです。

当時は、レシピを試行錯誤しながら貸し工房で作って、殺菌して、しかも自分でリュックに入れてお店に納品しに行ってたんですよ。重たかったなあ〜。いやあ、配送業者に頼めよっていう(笑)。

──商いの原点ですね。

江戸時代の商人と同じようなことをしてましたね。ただ会社員としての仕事もあるので、自分だけじゃ追いつかなくなったタイミングで工場生産に切り替えました。そして会社化して、ECやSNSも始めて、おかげさまでファンも増えて……ここまで来たって感じです。

──法人化したのは2019年ですよね?

はい。自作して友だちに飲んでもらったのが2018年7月かな。その1カ月後にはブランドをローンチしてます。工場生産に切り替えたのが2019年3月。レシピはこれまでに30回ぐらい変わってますね。工場生産になってからは5回ぐらいかな。味の大枠はそんなに変わってないですが、柑橘系の原材料はかなり増えてますね。

完全無添加の天然クラフトコーラ「ともコーラ」。原材料には国内外のスパイスとハーブがふんだんに使われている。アイスクリームやホットワインのほか豚の角煮などの料理にも。

──約3年で目まぐるしく変化しながら、ブランドとしてもかなり大きくなりましたね。

「ともコーラ」とほぼ同時に「伊良コーラ」も立ち上がったんですけど、彼らがかなり意欲的に展開されていたので、クラフトコーラというジャンル自体が広がりましたよね。だから「ともコーラ」にもいろんなお話が来るようになったんだと思います。いま「ともコーラ」は、成城石井さんでも販売されているので、私の手から離れつつある感はあります。

日本全国の里山を巡って気づいた新しい道

──では今後は、新たに立ち上げた「日本草木研究所」に注力するんでしょうか。

そうですね。

──「日本草木研究所」の成り立ちについて教えてもらえますか?

土地ごとの名産品を使ったご当地クラフトコーラを「ともコーラ」で作っているんですけど、そのために全国の里山を回っていたら「和ハーブ協会」に教えてもらった日本のシナモンや胡椒に巡り合ったんです。

──例えば、どんなものだったんでしょう?

いま手元にあるのはこれですね。アオモリトドマツっていうんですけど、乾燥させると最初はカボスの香りがして、いったん香りが消えて、そのあとベリーの香りになるんですよ。色も変わっていくし、面白いですよね。

──カボスがベリーに。そんなに極端に変化するんですね。

これ幻の香木なんですよ。いまは東北の一部の高山地にしかなくて。昔は山形の蔵王町にもあったそうなんですが絶滅したみたいです。

そんな植物に出会うと「お〜これが!」って毎回すっごいテンションが上がるんですが、これを別にコーラにしなくても良いなって。コーラだと、どんなスパイスもテイストがコーラになるんですよ。それにコーラはもともと西洋由来のものだし、日本産の原材料を生かすという意味で、日本の里山版「SB食品」(※)みたいな構想が湧いてきて……。

それで友人でもあるクリエイティブディレクターの木本梨絵さんと一緒に、今年の6月に「日本草木研究所」を立ち上げました。「木(食)人」を発表したのが8月です。

※SB食品は、新創業の年と位置付けた2000年に「SPICE&HERB」を掲げている。

Photo: Eichi Tano(写真はイメージ)

先人のいない“木の食用化”を行く

──「木(食)人」は木の食用化を目指すという意欲的な試みですよね。第1弾としてソーダとシロップを発売していますが、反応はどうでしたか?

みなさん自分で色々試して見たいのか、意外とシロップが売れたなという印象がありますね。

木の爽やかな旨みを凝縮したストレートタイプの微炭酸飲料「FOREST SODA」

──未知のシロップだけに、自分でも手をかけて色々と作ってみたくなるのかもしれませんね。ほとんど前例がない試みだと思うので、開発も大変だったんじゃないでしょうか?

木は多かれ少なかれ、虫を避けるためにフィトンチッドという成分、揮発性物質を発散していますが、この管理には苦労しました。これら木の成分は、森林浴をしたり手にとって香りを嗅いだりするぐらいなら逆に良い効果があるんですが、たくさん摂取すると危険なんですね。これを人体に無害なかたちで食用化するために、どれぐらい摂取すると危険なのかというデータを探したんですがなかったんですよ。

だから安全性を検証してデータ化するところからはじめました。実際に、私たちの商品には定めた基準値を大幅に下回る成分しか入っていません。他には、ある大学と一緒に木の成分を調べて、鎮静効果があると言われている成分を科学的に証明しようと試みたりもしています。

Photo: Eichi Tano(写真はイメージ)

──まさに研究所ですね。そうした苦労を経て作られているソーダやシロップはノンアルコール飲料ですが、今後の「木(食)人」では酒類も視野に入っているんですか。

私はあまり飲めない方なんですけど、ずっとお酒は作りたかったんです。ノンアル飲料とお酒では香りの出方が違っていて、お酒にしたほうが抽出したときのフレッシュさが残るんです。お酒は基本的に殺菌する必要はないんですが、ノンアル飲料は殺菌のために火入れをしなければいけないので、香りがそこで飛ぶんですよ。ノンアル飲料の方が対象者は広いんですけど、より嗜好品に適しているのはお酒だと思います。

料理をする時間が生む「心の空白」

──木から作られるお酒、発表が楽しみです。仕事に、新たなプロジェクトに、日々忙しいと思いますが、古谷さん自身はどんな嗜好品、嗜好体験でリフレッシュしているんですか? 

お香やエッセンシャルオイルのお風呂に入ったりすることかな。あと嗜好品とはズレますが、無心になれるのはやっぱり料理を作るときです。何を入れたら美味しいかなあって考えているとき。だからしんどい日は料理を作ってます。昨日と一昨日は料理しかしてないな……料理の合間に仕事してました(笑)。

料理は、自分ですべてをコントロールできるし、食べる楽しみもあるので、一番身近な娯楽ですね。あとは地方に行っているときはあらゆるものと関係性が切り離せるから、心に空白が生まれるのが良いですね。東京にいる必要もないのかなと最近は考えたりします。

──地方の拠点もいいですね。それこそ「日本草木研究所」で関わっている軽井沢とか。

そうですね。「日本草木研究所」の活動拠点でもあるので、軽井沢ではリアルな場で何かしたいと思っていて、地元で採れた食材を使ったメニューを出す森のレストランのようなイメージを考えています。

私はよく外食をする方ですが、素材をリスペクトしている料理を出すお店が好きなんです。素材との向き合い方、自然や食材の扱い方、何を考えて作っているのか、そうしたところから影響を受けていて。彼ら料理人のこだわりが詰まった一皿はアートに近いもので、本当に感銘を受けるんですけど、私はそれを「日本草木研究所」や「木(食)人」の活動を通じて、もう少しだけ間口の広い形で世に広められたらいいなと考えています。

写真:Eichi Tano

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Author
ライター / 編集者

福岡県出身。大学を卒業後、自転車での日本一周に出発。同時にフリーランスとして活動をスタート。道中で複数の媒体に寄稿しながら約5000kmを走破。以降も執筆・編集など。撮影もたまに。

好きなサッカーチームはLiverpool FC。YNWA

Editor
編集者

『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。

Photographer
写真家

1995年、徳島県生まれ。幼少期より写真を撮り続け、広告代理店勤務を経てフリーランスとして独立。撮影の対象物に捉われず、多方面で活動しながら作品を制作している。