パンケーキにたっぷりかけて食べると、優しい甘みが心を癒してくれるメープルシロップ。
メープルシロップといえば原産国、カナダをイメージする人が多いかもしれない。しかし、メープルシロップは日本でも生産されている。
メープルシロップとは、サトウカエデなどの樹液を濃縮した甘味料のこと。
希少な国産のカエデを使って、本場カナダから輸入した製造機で、メープルシロップを製造・販売をしているのが、埼玉・秩父ミューズパーク内にある「MAPLE BASE(メープルベース)」だ。
国産メープルシロップ、すなわち「和メープル」は、どのようにして生まれたのか。MAPLE BASEを運営するTAP&SAP代表の井原愛子さんに、外資系企業を経て和メープルの製造をはじめたきっかけや、20年後の林業を見すえ、環境保全とビジネス活性化を両立させる挑戦について聞いた。
すっきりとした甘さ、黒糖のような深い味わいの和メープル
MAPLE BASEは、埼玉・秩父盆地の西側、長尾根丘陵の上に広がる、南北約3キロメートル、広さ375ヘクタールの広大な公園・秩父ミューズパーク内にある。秩父ミューズパークは、秩父盆地を一望できる絶景スポットとしても知られる場所だ。
公園内の一角にある、ゴルフコースのクラブハウスとして使われていたログハウスをリノベーションし、カフェ&ショップとしてオープンしたのが2016年。
メープルシロップの製造・研究を手がける店内では、メープルシロップはもちろんのこと、煮詰める前のカエデの透明な樹液を瓶詰めした「MAPLE WATER」のほか、カエデの樹液からつくられる「メープルサイダー」などを販売している。
カフェでは、カナダ産と秩父産のメープルシロップの食べ比べができるパンケーキや、カエデの樹液で淹れる紅茶も人気だ。取材に訪れたのは平日の午後だったが、観光客や地元の人と思しき女性のグループ、カップルなどで賑わっていた。
秩父産のメープルシロップの味はというと、カナダ産よりもどこか和風。あっさりとした甘さの中に黒みつのようなコク深さが広がる。メープルの味は土や水で変わるそうで、国産ならではの和メープルは、日本人好みの味に仕上がるというから不思議だ。
IKEAを経て「故郷の豊かな自然を守りたい」と秩父へ
MAPLE BASEを運営するTAP&SAP代表の井原愛子さんは秩父市出身。イギリス留学を経て、北欧インテリアブランドのIKEA JAPAN(イケア・ジャパン)に就職し横浜で働いた。IKEAでの8年間に、物流から販売、マーケティングや販売プロモーションなど、さまざまな部署で経験を積んだ。
井原さんは、IKEAに勤務していたころに、日本の山に放置林が増え、災害時にさまざまな危険をもたらすことが問題になっていると知ったという。故郷である秩父の山林も例外ではなかった。
「気になって調べてみると、秩父市では、自生しているカエデの木から樹液を採取する取り組みが行われていることを知りました。それが新しい林業の形として注目を集めはじめていたんです」
それを知った井原さんは、さらに情報を集め、NPO法人「秩父百年の森」が主催する森林観察のエコツアーに参加した。そこから商品開発をする秩父観光土産品協同組合や山の持ち主たちによる秩父樹液生産協同組合に話を聞く中で、ますますこの活動に興味を持つようになった。
「当時はメープルのつくり方も知らず、採算がとれるかどうかなどはあまり考えずに、何かに突き動かされるかのように会社を辞め、秩父にUターンしました。環境大国スウェーデンの会社であるIKEAで働いたことで、当時からサスティナブルなビジネスの考え方が当たり前になっていたので、この時も『秩父の森林を守りながら、経済も活性化できるような新たなビジネスをつくり出したい』と強く思ったんです」
国産のメープルシロップを一から開発するまで
秩父百年の森の活動に参加して、初めて経験したカエデ樹液の採取。しかし、秩父での樹液採取は、想像以上に過酷だった。
樹液を採取するのは真冬の2月ごろ。カナダでは、木から工場までパイプで繋がれていて、ほとんど自動で樹液を集める。
一方、秩父の森では、あらかじめ樹液採取をするカエデの木を条件を決めた上で選んで、ポリタンクをセットするところからはじまる。ポリタンクにカエデ樹液が溜まったことを確認してから、その重いタンクを持って傾斜の大きい斜面を歩いて運ぶ。近くまで車で行くとはいえ、場所によっては雪が残っていたり、結構な距離を歩いたりすることもある。
収穫できるのは1年のうち、雪解けの頃の約1カ月間だけ。2022年の樹液の採取量は9トン。本場カナダとは比べ物にならないほどの少量ではあるが、この樹液を50分の1にまで煮詰めて濃縮し、1400本限定のメープルシロップができた。樹液採取のピーク時には、井原さんはMAPLE BASEに泊まり込んで製造作業をするという。
林業の20年後、新たな収益化の仕組みを思い描く
時に過酷ともいえるメープルシロップの製造。井原さんがひたむきに情熱をかけられるのはなぜなのか。
「私は、メープルシロップが大好きだったからつくりはじめたわけではないんです。メープルシロップはひとつのきっかけ。日本の林業は立ち行かなくなってきていると言われて久しいですが、木を切り倒さなくても、そこから利益を生み出せる新たな仕組みをつくり出したかったんです」
だからこそ、MAPLE BASEの事業だけでなく、NPO法人秩父百年の森に協力して、カエデの植林活動を進めることも大事な取り組みだ。
「木を植えてから、樹液が採れるようになるまでに育つのは20〜30年後ですが、木の恵みをわけてもらえて、かつ、秩父の森も豊かになる。そんな未来を描くための仕組みづくりができたらと思っています」
井原さんがつくるメープルシロップは、カナダ産に比べて気軽に買える値段ではない。しかし、丁寧につくられた国産メープルのおいしさと、豊かな森を育てたいというビジョンが重なり、賛同する人が次々と購入していくのだ。
環境保護とビジネスを両立させるメープル
メープルの産地として知られるカナダは、国策によりカエデの木をたくさん植えた歴史を持つ。国の産業として成立しているのは、古い木が枯れても、また次に新しい木が生えるように、森が新陳代謝を繰り返していく仕組みができ上がっているからだ。
一方、日本は、戦後の拡大造林で大量に木を切って木材として使ったあと、国の政策として杉の木を大量に植えた。杉は早く育ち建材として使いやすいという理由からだった。当時は、山を持っている人は「材木の売上で一生食べていける」と言われたほどだった。
しかし、木材の輸入が自由化されると日本の林業は一気に衰退することになる。
外国の木材は国産材と比べて安く、かつ大量ロットで安定的に供給できるため、需要が高まった。現在も一部のブランド木材を除いては、国産材の人気は低迷している。
木材を収穫する林業の場合、一定の大きさまで木が成長したら、伐採して新たな木を植えることで循環が生まれるが、国産材が低迷している現在、新たな木が植えられることは少なく、ますます森の新陳代謝は生まれにくくなっている。
「森は健全に新陳代謝が行われてこそ生態系が保たれ、土砂災害の防止、河川への水量の調整など、さまざまな機能を果たしてくれます。林業が低迷しているいま、杉などの針葉樹を間伐し、カエデなどの保水力の高い広葉樹を植えて、針葉樹と広葉樹が共存する森をつくることで、自然に新陳代謝が行われる森にしていきたい。
メープルシロップづくりを通じて、木材を伐採するだけでない新たな林業を成立させて、環境保護とビジネスの両立をさせることができたらと考えています」
森を育てて、それをビジネスとして成立させるのは簡単なことではない。しかし、そのバランスを保ちながら企業としての社会的責任を果たしていくことの重要性をIKEAで学んだと井原さんは言う。
「最近では、SDGsを意識したビジネスの考え方が浸透し、行政や他の企業からも応援してもらえるようになりました。また、私がIKEAで経験してきた、ブランディングやマーケティングのスキルを生かせば、より多くの人に商品を知ってもらえるようになるのではないかと思っています」
最近では、メイトー(協同乳業株式会社)と「秩父 和メープルプリン」というコラボ商品を発売。秩父産のメープルシロップを素材として使ってもらい、さらに植林活動にも協力してくれる心強い味方になってくれたという。
自然と生活をつなぐ、和メープルの紅茶を淹れる時間
秩父の森をフィールドに活動する井原さんは、旅行業の資格も取得したそうだ。
「今後はエコツアーなどを通じて、もっと多くの方に私たちの活動を知って応援してもらいたいですね。観光的なツアーというよりは、学校や企業向けに、カエデの樹液を採取している場所や植林した場所を見てもらったり、植林活動を体験してもらうなど、多角的、長期的に応援してもらえるきっかけとなるツアーにしていきたいと考えています」
「秩父の木々を見ていると、四季の移り変わりが手に取るようにわかる」と井原さん。彼女にとって、秩父の自然はかけがえのない時間を生み出してくれる存在だ。
音楽を聴きながら、メープル樹液を温めて淹れた紅茶を楽しんだり、メープルホットミルクでひと息ついたりするのが、自然を感じながらくつろげる豊かなひとときだ。
「ちょっと贅沢なのですが、お米をMAPLE WATERで炊くと、つやつやモチモチのごはんになって、最高なんですよ」
何十年も先の秩父の森、日本の林業のために、一歩をふみ出し、道をつくる井原さん。おいしい国産メープルづくりの探求は、森と人の暮らしをつなぐ大きな挑戦でもあった。
写真:阪口 克
ライター、ビューティープランナー。ルミネtheよしもとにて、吉本新喜劇の女優として活動する傍ら、小学館『美的』で美容ライターとしてデビュー。長男出産後に、ベビーマッサージ講師の資格も取得。TVショッピングQVCでは、化粧品会社アルマードのPRとしてゲスト出演中。特技は中国語(HSK5級)。
合同会社ディライトフル代表。1976年、埼玉県秩父市出身。早稲田大学第二文学部在学中より、制作会社にて編集者、ライターのアシスタントとして雑誌などの制作に携わる。2004年よりリクルートにてフリーマガジン『R25』の創刊に携わり、編集を担当。2010年に独立し、雑誌、書籍、ウェブメディア、企業や自治体が発行する冊子、オウンドメディア等の企画、編集を手がけている。