スコッチウイスキーの6大産地のひとつとされるスコットランドのスペイサイド地方。その中でもウイスキー好きにとって聖地とも言えるのがクライゲラヒ村だ。
ここに、世界中からウイスキー愛好家が集まるバー「ハイランダーイン」がある。
オーナーは日本人だ。
ハイランダーインは、なぜこれほどウイスキー通の心を掴むのか。
オーナーバーテンダーの皆川達也さんが日本に一時帰国すると聞いて向かったのは、ハイランダーインの支店である「ハイランダーイン秩父」。
バーテンダーの皆川さんがつくり出す上質なひとときの秘密に迫った。
ウイスキーファンを魅了するスペイサイド地方
スコッチとはスコットランドで生産されるウイスキーの総称である。
カナディアン、アイリッシュ、アメリカン、そしてジャパニーズと並んで世界の5大ウイスキーの1つに数えられるが、その中でも存在感は出色だ。なにしろ世界のウイスキーの全消費量のうち、6割近くをスコッチが占めると言われているのである。
なぜスコッチがこれほど支持されるのかといえば、とりわけ長い伝統を持つことに加えて、環境要因が大きいだろう。
スコットランドの多様な自然環境は、バリエーション豊かで上質なウイスキーを育む条件に満ちており、長きにわたって世界の愛好家たちを楽しませてきた。
スコッチの産地は6つに分類され、それぞれの風土により様々な個性を発揮している。
本稿でスポットをあてるスペイサイドは北東部のスペイ川流域を指し、バランスの良いエレガントな名酒を多数送り出してきた地域として知られている。
そんなスペイサイドでバーを経営する皆川さんは、この地の魅力について次のように語る。
「スコットランドの中でも、他のエリアより断トツで蒸留所の数が多いのがスペイサイドです。今も50以上の蒸留所が存在し、最近ではこの地域では珍しい、ピーティー(泥炭を焚いてスモーキーな風味をつけること)なウイスキーもつくられるようになり、ウイスキーの多様性を体感するのにこれほど良い地域はないでしょう」
ちなみに、単一蒸留所の原酒だけを使うシングルモルトに限れば、世界の売上の上位3社はすべてこのスペイサイドにある。
スペイサイドはまさに、スコッチの本場中の本場と言っていいだろう。
高校卒業後、京都でバーテンダーの仕事と出合う
もともと山形県で生まれ育った皆川さんが、バーテンダーとしてのキャリアをスタートさせたのは18歳の頃のこと。場所は京都だった。
「高校を出てすぐに向かった先が京都だったのは、本当に何となくでした。修学旅行で訪れたとき、情緒のあるいい街だなと感じたのがきっかけといえばきっかけで、住むところと仕事さえあれば、どこでもよかったんですよ」
あてもなく気ままに飛び込んだ京都で、最初に勤めたのは理髪店だった。住み込みで働けるというのがその理由だったが、この仕事は長続きせず、わずか2週間で辞めてしまったという。
ただ、生来の人懐っこさが幸いしてか、その2週間の間にすっかり街に溶け込み、早くも界隈には行きつけの店が複数あった。
飲食の世界へ飛び込むことになったのも、そうした縁によるものだ。
「顔なじみの飲食店でとりあえず下宿を紹介してもらい、しばらくはその日暮らしをしていました。すると、あるバーがスタッフを募集していると聞き、働かせてもらうことにしたんです。山形の実家が飲食店を営んでいたこともあり、飲み食いする場所は好きでしたから、これは渡りに船でしたね」
結果的にこれが、皆川さんの人生を決めることになる。
一度は本場で働きたい。軽い気持ちでスコットランドへ
直感していた通り、バーテンダーの仕事は肌に合っていた。
サービスの基本やカクテルのレシピを1から学び、日々訪れる客との会話を楽しんだ。きっと、まだ東北訛りが残る18歳の皆川さんは、常連客から大いに可愛がられたことだろう。
20歳を過ぎてほどなくした頃、勤務先のオーナーから思いがけないプレゼントがあった。
「飲みに連れて行ってもらった先で、『お前の誕生祝いだ』とウイスキーのボトルを1本入れてくれたんです。今でもよく覚えているのですが、スコッチのブレンデッドウイスキー、『バランタイン』の17年物でした。このとき初めてウイスキーを心の底から美味しいと感じました」
40種類以上の原酒をブレンドした「バランタイン」は、奥行きのある香りと味わいで、今も多くのファンを持つ名酒である。
当時は関税や酒税の関係から、若者がおいそれと手を出せない高級酒だったこともあり、これが皆川さんの嗜好を直撃した。
以来、ウイスキーの魅力にどっぷりとハマった皆川さんは、バーテンダーとしての研鑽にいっそう没入する。やがて本場スコットランドでさらなる勉強に励みたいと考えるようになったのも、自然な流れだったと言える。
「バーテンダーとして生きていくなら、やはり本場を知っておきたいじゃないですか。何より、1年でも向こうで働けば、『スコットランドで働いていました』と言えるわけですから、箔が付きますよね。当初はそのくらいの軽い気持ちでした」
かくして20代も終わりに近づいた頃、皆川さんは京都に別れを告げ、スコットランドへ旅立つことになる。もっとも、結局はそのままスコットランドに移住することになるのだから、やっぱり運命はわからない。
エジンバラからクライゲラヒへ。運命を変える出会い
本場のバーは街の社交場として活況を呈していた。
昼下がりからちらほらと近隣住民や行きずりの旅人が集まり、誰ともなく会話が生まれ、ほろ酔い気分を楽しみながらお互いに奢り合う。
ウイスキーにかぎらず酒という嗜好品を共通言語に、肩肘張らずに思い思いの時間を自由に過ごす憩いの場なのだ。
そんなざっくばらんなムードがさぞ心地よかったのだろう。皆川さんは渡英後、最初の4年をスコットランドの首都エジンバラのバーで過ごすことになる。
ある日、運命的な出会いがあった。欧州のウイスキー愛好家の間では知らぬ者のいない、クライゲラヒホテルのオーナー、ダンカン・エルフィック氏だ。
「ダンカンは当時、ウイスキーの知識に長けたスタッフを求めていて、クライゲラヒホテルで働かないかと、熱心に私を誘ってくれました。本当はクライゲラヒのような片田舎へ行くのは気が進まなかったのですが、周囲の誰もが『素晴らしいチャンスだ』、『絶対に行くべき』と口をそろえるので、ひとまず2~3カ月の約束でこの話を受けることにしたんです」
ところが、クライゲラヒを訪れたその瞬間から、皆川さんはこの街の虜になってしまう。
「周囲の自然は美しいし、ホテルのスタッフもいい奴ばかり。併設のウイスキーバーも、ダンカンのこだわりが感じられる充実のラインナップで、これは良いところへ来たなとワクワクしたのを覚えています」
結局、短期で働く約束はどこへやら、気がつけば2年が経っていた。
やがてダンカン氏はクライゲラヒホテルを手放す決意をするが、皆川さんをはじめとする数名の雇用を守ろうと、すぐ向かいにあった小さなホテルを買い取った。これが「ハイランダーイン」である。
「ハイランダーインに移ったのが2005年。自分も30代半ばになっていて、バーテンダーとしてそれなりのキャリアを積んでいましたが、人手が足りないので掃除やベッドメイクなど、雑用を何でもこなさなければなりませんでした。でも、今にして思えばそれも決して悪い日々ではなかったですね」
行き交う人々が思い思いのひとときを過ごす場を、1から準備して整える経験は、あらためてサービスマンとしての基本に立ち返らせてくれた。
7年ほどハイランダーインで過ごしたあと、皆川さんは一度その職を離れる。
そして、その間はジャンパニーズウイスキーのブランドアンバサダーとして欧州を飛び回りながら、ウイスキーのプロモーションに携わった。
この時期は時折、ハイランダーインに立ち寄ってダンカン氏と一杯やるのが何よりの楽しみだったという。ダンカン氏と近況を交わすのはもちろん、外側から見るハイランダーインは、1人のウイスキーファンとして魅力にあふれた憩いの空間だった。
バトンを受け継ぎ、フリークたちの憩いの場を守る
やがてブランドアンバサダーの仕事に一区切りついた頃、皆川さんの耳にハイランダーインが売りに出されているとの噂が飛び込んできた。これは寝耳に水の情報だった。
「ハイランダーインはデスティネーション(旅の目的地)になれる稀有な場所でしたからね。居ても立っても居られなくて、その日のうちにダンカンに会いに行きました」
しかし、高齢で持病もあるダンカン氏の決意は固かった。
そこで皆川さんは、「だったら俺がハイランダーインを買うよ」と、自分でも予期せぬ言葉を口にしたという。
ちょうどブランドアンバサダーを辞してフリーになったタイミングであったのも運命的だった。幸い、融資もスムーズにおり、ハイランダーインというバトンを受け継ぐ状況が、完璧に整ったのである。
ビールを出して、ウイスキーを出して、フィッシュ&チップスを出す。そしてダンカン氏がやっていた時代と同じように、すべてのお客さんをフレンドリーに迎え入れ、ホテルでくつろぎのひとときを過ごしてもらう。
そんな空間をそのまま残したいと皆川さんは考えた。
「とはいえ、改善を重ねる意識は大切です。内装や調度品なども古くなれば新調しますし、お客さんにできるだけ良い体験を提供し、良い時間を過ごしてもらうための努力は続けなければなりません。もちろん、意識せずともオーナーが変わることで自然に生まれる変化もあるのでしょうけど」
その点、自分が日本人であることを、「ラッキーだった」と皆川さんは表現する。
「日本人特有のおもてなしの心というのは、世界でも群を抜いています。私自身、今日まで特別なことをやってきたつもりはなく、実家で両親がやっていたように、普通にお客さんをお迎えしてきたつもりです。でもそれが、向こうでは評価されるんです」
たとえば、お客さんに大きな声で『いらっしゃいませ』、『ありがとうございました』と自然に言えるのは、もはや体に染み付いた習性のようなもの。しかし、こうした些細なことの積み重ねが、訪れるすべての人々の居心地の良さに繋がっている。
「ハイランダーインを継いだばかりの頃は、スタッフが無愛想な接客をしているのを見て、よく叱りつけたものです。でも皆、こちらが元気に笑顔で対応していると、その場がすごく楽しく、良い空間になることを肌身で知ってくれて、自然にもてなしの心が根付いていきましたね」
職場のムードが良くなれば、客だけでなく自分たちも得をする。
スタッフがそんな気づきを得たことにより、ハイランダーインは誰もが最高の時間を過ごせる場として、いっそう認知されていくことになる。
グラスを通して提供する、一人ひとりのための物語
気がつけば、「スペイサイドに皆川達也あり」と広く知られるようになり、ハイランダーインはウイスキーの聖地をして、「スペイサイドの心臓部」と評価されるまでになった。
今も世界中からリピーターが訪れ、中にはダンカン氏の時代から親子2代で通う客もいるという。
サービスの品質はもちろん、皆川さんがセレクトするウイスキーのラインナップを求めて、わざわざ他国から足を運ぶ客も少なくない。
「でも、気ままな空間であることを大切にしたいので、数百円で飲める大衆酒をたくさん用意しています。逆に、せっかく来たのだから良いウイスキーが飲みたいという富裕層もいるので、グラス1杯で数千円から数万円するような酒も用意していますけどね」
ちなみに、店の開店記念日や店主の誕生日を常連客が祝う光景は世界中の酒場で見られるが、ハイランダーインのそれは、ことさら盛大だ。
「顔なじみも一見客も一緒になって祝ってくれるのは、なんとも言えず幸せな時間です。すると、ついつい酒が進んで気持ちが大きくなってしまい、市場で数十万円の値がついているようなレアなウイスキーを開栓して、その場にいるみんなに振る舞ってしまうことも珍しくありません」
自身の商売っ気のなさに頭をかく皆川さんだが、プレミアがついた酒よりも、誰もが笑顔で酌み交わす空間にこそ価値があると考えている。
「勝手に値上がりした酒で稼ごうとは思っていません」というのが、バーテンダーとしての矜持(きょうじ)だ。
「お客さんが私のくだらないジョークに笑ってくれるだけで、なんだかすごく幸せな気持ちになるんです。何であれ、他人に共感してもらえるというのは嬉しいものですからね。思えばこれは、18歳のときから感じていたこの仕事の醍醐味ですよ」
共感に対する喜びという意味では、自分が勧めた酒に対して、「これ、すごく美味しいですね」「次は何を飲めばいいですか」とポジティブなリアクションが返ってくるのも同様だ。
「1つの酒を気に入ってもらえたら、次はそこから少し路線をずらした別の酒を提案します。そして、それに好意的な反応が見られたら、またそこから次の酒へと広げていく。こういうお客さんとのセッションが、私にとってはたまらないひとときなんです」
言うなれば、グラスを通してその客ごとのストーリーを組み立てていく仕事。
皆川さんはバーテンダーという職業を、そう理解している。
ジャパニーズウイスキーの名所、秩父との共通点
気がつけばスコットランドに渡って四半世紀になる。その間、日本人らしい丁寧な手仕事の結晶であるジャパニーズウイスキーが、世界中で高く評価されるようになった。
2019年にはそんな趨勢に呼応するかのように、埼玉県秩父市にハイランダーインの別邸を開業した。
秩父といえば、世界のウイスキーシーンを席巻するイチローズモルトのお膝元で、いまや世界中から愛好家が集まる場所だ。
「スペイサイドの本店と同様に、秩父でも地元のお客さんと旅行客が意気投合して酒を酌み交わす姿がよく見られます。地域に根付いたお店の役割というのは、そういうことだと私は思っています。訪れる誰もが分け隔てなく、日常の憂さを忘れて楽しく酔っぱらえる場であることを、今後も大切にしていきたいですね」
訪れた一人ひとりの客にオリジナルのストーリーを届け続けてきた皆川さん。ウイスキーに魅せられた1人の男が織りなすこのストーリーには、まだまだ先がありそうだ。
写真:西田香織
取材協力:ハイランダーイン秩父
フリーライター・編集者。主にルポルタージュを中心に、雑誌やWEBメディアなどに寄稿中。主な著書に『日本クラフトビール紀行』、『物語で知る日本酒と酒蔵』(共にイースト・プレス)、『作家になる技術』(扶桑社文庫)、『一度は行きたい「戦争遺跡」』(PHP文庫)ほか多数。また、東京都内でバーを経営するほか、プロボクサーライセンスを持つボクシングマニアでもある。
合同会社ディライトフル代表。1976年、埼玉県秩父市出身。早稲田大学第二文学部在学中より、制作会社にて編集者、ライターのアシスタントとして雑誌などの制作に携わる。2004年よりリクルートにてフリーマガジン『R25』の創刊に携わり、編集を担当。2010年に独立し、雑誌、書籍、ウェブメディア、企業や自治体が発行する冊子、オウンドメディア等の企画、編集を手がけている。