連載

認知科学が“解剖”する、嗜好する身体:渡邊克巳インタビュー

森旭彦

嗜好品を、最先端の科学はいかに分析し、創造することができるのか。

この連載では、認知科学、脳科学、心理学など一線で活躍するサイエンスの研究者が読み解く「嗜好を科学する」をお届けする。

初回は、早稲田大学理工学術院の渡邊克巳教授をたずねた。

渡邊教授は、ひとの認知行動を可能にする顕在的・潜在的過程の科学的解明を目指して研究している。その研究は、ひとの知覚や好みにおける意思決定の「ブラックボックス」を解体することにある。

認知科学の最前線で研究をする渡邊教授は、嗜好体験をどのように読み解くのか。前編は、「認知科学が“解剖”する、嗜好する身体」と題し、嗜好体験がいかにしてひとの中で生まれるのかを探究する。

嗜好品:栄養分として直接必要ではないが、ひとの味覚。触覚、嗅覚、視覚などに快感を与える食料。飲料の総称。

茶、コーヒー、たばこ、酒、漬物、清涼飲料、氷などがこれで、有機酸、カフェイン、タンニン酸、コカイン、アルコール、苦味物質、揮発油成分を含むものが多い。広い意味では菓子類も含む。

(ブリタニカ国際大百科事典)

(取材・文:森旭彦 編集:笹川ねこ 写真:西田香織)

愉しんでいる自分を愉しむ。認知科学からみた「嗜好体験」

ーー 渡先生の専門である「ひとの認知行動を可能にする顕在的・潜在的過程の科学的解明」から見たときに、嗜好品を愉しむ、という行為はどのようなものに映るのでしょうか?

認知科学においては、ひとは「結果」を意識することはできるが、その結果にいたる「過程」の多くを意識することができない、という考え方があります。

たとえば購買行動は、私たちは「この商品を買った」ということを意識することは得意ですが、購入に至るまでに脳内で起きている認知的な過程をすべて意識下に置くことは不可能です。つまり私たちは、頭の中で何が起きて行動しているか、じつはよく分かっていないということです。私の研究はこの不思議に、実験心理学や認知科学、脳科学などを総動員して挑む、という分野ですね。

認知科学的に考えると、ひとが嗜好品を愉しむとき、いわゆる嗜好体験をしているときにも、同じことが言えます。私たちはお酒を飲んだり、コーヒーを飲んでくつろいだりする、という嗜好体験の「結果」は意識できても、その結果がどのようにしてもたらされているのかは意識できませんし、現在の科学でも良く分かっていません。

ーー認知科学の観点から見て、嗜好体験のどのような部分が、興味の対象になりますか?

嗜好体験は、単純な「美味しい」や「気持ちいい」といった感覚とは、明確に違うものであることは明らかですよね。

なにより異なるのは、嗜好体験をしているとき、ひとは「愉しんでいる自分」を眺めていることを愉しむ、という入れ子構造の認知をしていることです。「メタ認知」などとも呼ばれる視点です。

たとえば、しっとりとしたジャズが流れているような、オーセンティックなバーにひとりで行って、マスターの勧めに従ってウイスキーを注文し、グラスを片手に物思いにふけっているような状況を想像してください。

そうしたとき、ひとは「自分は大人になった」と感じ、「大人の愉しみを味わう」自分を嬉しく感じていたりします。こうした状態で自分の本質を発見したり、その発見を共有するという行為が、嗜好体験を生み出している、というのが私の考え方です。

私としては、こうした非常に特殊な感覚が他の動物には存在するのか。また、ひとの子どもは、いつ頃からこうした体験に価値を感じ始めるのか。それがひとの社会活動においてなぜ重要なのかに興味がありますね。

「嗜好品」と「嗜好体験」の関係

ーー お茶やお酒などの嗜好品は、どのようにして嗜好体験の創造に結びつくのでしょうか?

嗜好品と嗜好体験の関係性として、「薬理作用がある物質が入っているので、このような精神的体験ができる」といった説明がされがちですが、それは誤解かもしれません。

実際の嗜好体験においては、薬理作用は一部の役割を担っているだけだと思います。むしろ薬理作用以外の部分、さまざまな心理学的要素の複雑性にこそ、嗜好体験の本質があるのだと思います。

たとえば、「コーヒーを飲むと目が覚める」「バナナを食べると力がつく」と信じられているところがありますが、コーヒーを飲んでもすぐに目が覚めるわけではなく、バナナを食べてすぐにパワーが出るわけでもありません。カフェインやバナナの栄養素が体内に取り込まれて効果が出るまでには時間がかかるはずです。でも、すぐに効いている気がしますよね。

これらは薬理作用というよりも、事前に「コーヒーを飲むと目が覚める」「バナナを食べると力がつく」という知識が与えられている効果だと考えられます。

さらには、実際には薬理作用がない偽薬でも、適切な情報さえ与えられれば、ひとはあたかもその薬理作用を得ているような錯覚を持ってしまう「プラセボ効果」もあります。薬理作用(と思われてるもの)は事前の知識や、摂取する環境によって大きく変わる要素であるということです。

ーー たしかに、薬理作用だけではなく、嗜好体験は儀式的な部分など複合的な要素によって実現していますよね。たとえば「茶の湯」は、場としての茶室を設えること、客を招き、茶会を行うこと、そして茶を点(た)てること、という一連の作法があって初めて成立している。

そうですね。体験全般に言えることですが、何かひとつの感覚や知覚情報でひとつの体験が作られているということはありません。しかし一般的に、何か体験をしたとき、その感覚が複数にまたがるものだとはあまり考えません。

たとえば、レストランで料理を食べると、たいていは「美味しい」とだけ感じてしまいます。実際は料理の味による味覚情報、お店の雰囲気などの視覚情報、目の前で料理人が調理をしている音による聴覚情報など、複雑な情報によって体験が構成されているはずです。

どうしてこういったことが起きるかというと、脳が異なった感覚からの情報を統合して処理しているからです。目や耳などにある感覚細胞はそれぞれ異なりますが、脳は、視覚情報も聴覚情報も、すべて同じ機能をもった神経細胞で情報処理をしています。だから、知覚情報すべてを統合した体験として「美味しい」と感じるのです。

このように、脳内で個別の感覚が統合される際、それらは互いに影響し合い、補完し合うことが知られています。これを「クロスモーダル現象」と呼びます。

このクロスモーダル現象を利用した、ある種の錯覚を生み出す実験があります。

その実験は、視覚情報がどれだけ嗅覚情報に影響を与えるかというもの。ワインの色が、香りの識別にどれだけ影響を与えるかを定量化するものでした。

被験者は2種類のワイン、すなわち白ワインと、同じ白ワインを赤く着色したワインの香りを識別しました。すると被験者は、赤く着色した白ワインを、赤ワインの香りがするように感じたのです。この結果から、ワインの色は、香りの判断を誤らせる重要な情報であることが示唆されました。この誤認は、被験者がワインの色を見た場合のほうが、見なかった場合よりも高頻度で生じたのです。

この実験は、脳の情報が、視覚を優先して統合処理される傾向があることを如実に示しています。

私たちが「美味しい」「美しい」と判断している嗜好体験というものも、もしかするとこうした錯覚によって生み出されているのかもしれません。クロスモーダル現象の分析によって、嗜好体験をより詳しく理解することができるかもしれません。

ひとの「好み」とは何か。認知科学の視点から捉え直す

ーー 仮に錯覚があったとしても、さすがにひとの嗜好品の「好み」は揺るがないものではないでしょうか? 嗜好品の「好み」は認知科学的にはどのように生まれるのでしょうか?

「好き」という意思も、自分にとっては絶対的な意思決定のように思えますが、やはりひとは結果を意識できても、過程を意識するのは難しいものです。実験心理学の世界では、意思決定の根拠は案外曖昧なものとして捉えられています。たとえ、それが「好き」という意思決定であっても。

意思決定に関する有名な実験があります。この実験では、被験者は顔写真を2枚ずつ提示され、「どちらの顔が魅力的ですか?」と試験官に尋ねられます。自分の好みの顔を選べということです。

このセッションを何度か繰り返した後、被験者は自分が「魅力的だ」と評価した写真をもう一度見せられ、「どうしてこの顔が魅力的に感じたのですか?」と尋ねられます。しかしこのとき、数枚に一枚、被験者が実際には選んでいなかった写真が提示されます。

すると、ほんの数十秒か数分前には自分で「魅力的だ」と判断しなかった写真が目の前に提示されていても、被験者の多くは、その事実には気づかずに写真に写っている人物について、「自分がその人物を選んだ理由」をもっともらしく語り始めるのです。

ーー え! 自分が選んでいない人物の魅力を語れる、ということですか。

この奇妙な現象は「チョイス・ブラインドネス(選択盲)」と呼ばれています。こうなってくると、嗜好品の「好き」というのは、本当に自分が意思決定した「好き」なのか、怪しくなってきますよね。

さらには、心理学では「単純接触効果」というものもあります。これは、言ってみれば「見れば見るほど好きになる」現象です。ひとは、もともと興味がなくても、複数回接触をしたり、見たりしていると、自然と興味を持つようにできている、ということです。

たとえば、会ったことがない政治家と、会って会話したことのある政治家であれば、ひとが投票するのは後者になる傾向がある、ということです。

ーー どうしてそんなにひとの「好き」は不確かなのでしょうか?

実は私たちは、日常的に「起きた過去を予測(ポストディクション:postdiction)」しながら生きているのです。※編注:未来の予測は「プレディクション(prediction)」

過去に起きたことを予測する、というのは奇妙に聞こえるかもしれませんが、案外身近なものです。たとえば、くじ引きで当選したとき、ひとは「あの日はラッキーでね」などと、何の関係もない直前の「いい出来事」を、くじ引きの当選に関連づけてもっともらしく説明したりする。

現代のヒトの認知というものは、偶然起きた出来事を放置できないようにできているのではないかと考えています。現代人は何らかの理由をつけ、過去に偶然起きた出来事を予測しながら生きている。

私の個人的な考えですが、現代人のこうした振る舞いは、心理学的な側面よりも、近代からの歴史的・社会的背景もあるのではないかと考えられます。近代以降のひとは、何でも理由を欲しがります。理由のないことを喜んだり、好きになったりすることが難しいのが現代人なのではないかと。

このように私たちは、平然とやってもいないことをやったことにしていたり、好きではないものを好きになったりして生きているのです。そして実験室でやってみると気づきますが、現実だと誰も気づかない(そして誰も困らない)。この奇妙な日常を生きているのが、私たち現代人なのです。

今の自分が好きな嗜好品というものは、本当に自分が確固たる意思決定をして選んでいるものではなく、案外これら心理学的な要因による結果なのかもしれません。

※10/7公開の後編はこちら:認知科学が読み解く、嗜好する未来:渡邊克巳インタビュー後編

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Author
サイエンスライター

テクノロジー・サイエンスと人間性に関係する社会評論がテーマ。WIRED日本版、美術手帖などに執筆。ロンドン芸術大学大学院、メディア・コミュニケーション修士課程修了。

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編集者

『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。

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