嗜好品には、体をつくる栄養があるわけではない。
生命維持に必要不可欠ではないのにもかかわらず、全世界で嗜好品はたしなまれている。
嗜好品は、人間らしく生きるために、なくてはならないものなのかもしれない。
嗜好品や嗜好体験を考えることは、人間が生きるためには何が必要か、ひいては「人間という生き物とは何か」に迫ることでもある。
現代における私たちの嗜好品や嗜好体験を探究するために、文化人類学や歴史学者など様々な一線の研究者に話を聞く、新連載「生きることと嗜好」。
今回は「不便益」を提唱する京都先端科学大学教授の川上浩司さんのもとを訪れた。
前編の「システム工学者がたどり着いた“無駄ではないムダ”。「不便益」がもたらす人間らしさ」では、「不便益」の見地から「世の中には『無駄なムダ』と『無駄ではないムダ』がある」と教えてくれた川上さん。この視点は、嗜好品が持つ意義にもつながると指摘する。
若き日の川上さんが体験した嗜好体験と合わせて、不便益と嗜好品が私たちの日々の暮らしを豊かにしてくれる可能性について、川上さんの研究室で話を聞いた。
(取材・文:吉川慧 写真:木村有希 編集協力:笹川ねこ 編集:呉玲奈)
「便利」が「豊か」とは限らない
──前編では、世の中には「無駄なムダ」と「無駄ではないムダ」があるというお話がありました。ともすれば、便利さや効率が求められる現代の世の中をどう考えますか。
僕が子どもだった時代、日本はまさに高度経済成長期でした。広告などで「便利で豊かな社会」という言葉を1日に何度も目にした覚えがあります。
ただ、それを21世紀の今でも求め続けるのか……?とは思います。
──今もなお「便利さ」と「豊かさ」はイコールで結ばれがちな言葉かもしれません。
必ずしも「便利=豊か」とは限らないとも思うのです。
前編でお話したベルトコンベアー生産方式がそうですが、効率化や高機能化が進めば進むほど、人間が主体的にコミットできる要素は減っていきます。
──便利であっても、人間が主体的ではないシステムに、川上さんは違和感があるんですね?
機械システム工学、その中でも人間機械系の世界には「人間中心設計(HCD=Human Centered Design)」という言葉があります。
これのエポックの一つは1980年代にドナルド・A・ノーマンという人が提唱した「ユーザー中心設計」 (User-Centered Design)という考え方によるものです。
要は、何かを作ったりデザインする際には、人間の使いやすさを第一義に考えて設計する考え方です。
ところが、ノーマンさんは2005年に、「人間中心設計は害悪だと思う」という主旨の論文を発表したんですね。
──まったく逆の意見ですね。
私も驚きました。ただ、よくよく論文を読んでみると、ちょっと話が違ったんですね。
そこにはこんなことが書かれていました。
今の時代は「人間中心設計」が、まるで天動説かの如く人間が宇宙の中心にあり、その周りをデザインされた物事が回っているようだ、と。
人間は何もやらなくていい、道具が何でもやるから動かなくていい……そんなことを人間中心設計と考えている人々が多すぎる。
人間が行動して、何かを学習したり、習熟したりする機会が失われているという苦言でした。
──ノーマンさんの考え方は、「不便益」と同じ考え方といえそうですね。
人間がコミットメントすることに意味がある。そんな物事をデザインすることが、本当の意味での人間中心設計なんだとノーマンさんは書いています。
なぜ人間の行動や動作が中心にあることが大事なのかというと、それによって人間が幸せを感じるからです。
「便利さ」が人間から奪っていくものがある
──いくら便利になっても、「何もするな」と言われたら人生はつまらなくなります。
「便利さ」は「自由」という言葉とも一緒に語られがちです。便利になれば、人はより自由になり、幸せになれる、と。
ただ、この場合の「自由」とはどういう意味なのでしょうか。「何もしなくていい」自由なのか、それとも「何をやってもいい」自由なのか。
──難しい問いですね……。
「できなかった」が「できるようになった」という便利さは、不便益の観点からみて、とてもよいことなんです。
不便益は「便利になること」のすべてを否定するわけではありません。無論、「昔のほうがよかった」という単なる懐古主義でもないのです。
ただ、「できるようになった」がさらに便利になって「もう何もやらなくていい」となることが不便益的にNGなんですね。
なぜなら、そこには人間が介在できる要素がないからです。
道具と人間との関わり合いを考えると、今の時代は「適応型」の道具がはびこってしまっていると感じています。
──「適応型」の道具とは、どういう意味ですか?
身近なところでは、スマホやパソコンの予測変換もそうです。車の自動運転や、ドラえもんに登場する『ほんやくコンニャク』のような自動翻訳機も「適応型」です。
人間は何もしなくていい、何も変わらなくていい。機械がやってくれる。
そういう「便利さ」には違和感があります。
たとえば翻訳機の場合、その訳が本当に正しいかどうか機械を信じるしかありません。
いまはまだ細かいニュアンスまで伝えることは難しいですが、ゆくゆくは完璧になっていくでしょう。
将来的には、僕が日本語で何かギャグを言って、それを翻訳機が訳し、海外の人を笑わせることが可能になるかもしれません。とっても便利ではあるのですが、考えてみてください。果たしてそれは、僕が笑わせたいネタで本当に笑ってもらえているのでしょうか?
僕がギャグを言ったら向こうは笑っている。それは翻訳機が完璧に翻訳したということでしょう。しかし、自分が伝えたい意味やニュアンスが想定通りに伝わっているのかどうか、それを確認する方法はありません。
僕はそこに「気持ち悪さ」を感じます。思った通りに伝わったと信じるしかないのですから。
でも、翻訳機が完璧になれば、そんなことは考えなくなり、やがては「笑ってくれてよかった」と違和感なく思うようになるのでしょう。
「不便益」という考え方は、それを「気持ち悪い」と感じてほしいというメッセージでもあるんです。
──便利になることは、実は怖い一面もあるという感覚を、不便益は教えてくれる。
「便利なことはいいことだ」「便利だったら何でもいい」とは言うけれど、本当にいいのかなと。立ち止まって考えてほしい。
そうでなければ、究極的に人は自分の能力を習熟させたり、能力を発揮させたりする場面がどんどん奪われていくのではないかと危惧しています。
無駄を「無駄」と思わず、手間を楽しむ
──手間を楽しむ点も、不便益の特徴というお話がありました。
手間を楽しむこと、これは「プロセスを楽しむ」と言い換えることができ、嗜好品の魅力にも通じる要素だと思います。
──ちなみに、川上さんが好きな嗜好品はありますか?
お酒ですね。いまも毎日嗜んでいます。
出張があれば前日には現地に入り、宿までの道の途中で良さそうなお店を探して、その土地のお酒と食べ物を楽しむようにしています。
僕はスマホを持っていないので、もちろんグルメサイトは見ません。自分の嗅覚で探しています。
お金がなかった学生時代には、1週間に1本だけと決めて瓶のキリンラガービールを飲んでいました。すっごくおいしかった思い出がありますね。
週に1本の瓶ビールを待つワクワク感や、瓶ビールを1本だけ買って、冷蔵庫で冷やして、瓶の蓋を開けて、グラスに注ぐ……。
そうか……。今思えば、あの頃に飲んでいた瓶ビールこそ嗜好品でしたね。
「飲む」というより「嗜む」ものでした。
いざ飲もうとしたら栓抜きが見当たらず探すこともありました。
ビールを口に含むまでの時間も含めて、不便さや制約が、あのおいしさにつながっていたのかもしれない。これは缶ビールではなく瓶ビールだったことも嗜好の要素に絡んでいる気がします。
──少し手間をかけたぶん、おいしく感じるというのはわかる気がします。
お茶もそうですよね。のどを潤すという「機能」として考えれば、ペットボトルのお茶でもいい。
しかし、ペットボトルを買ってきて飲むのと、急須で淹れて飲むのとでは、味はもちろん充実感も違ってきます。のどを潤す「機能」だけではない点に、嗜好品としてのお茶にポジティブな意味がありますよね。
コーヒーもそうです。飲むまでには「豆を挽く」という動作が必要です。もっと言えば、豆を選ぶところから始まっているかもしれない。
実際にコーヒーを「嗜む」までに、その周辺にやるべきことが多い。コーヒーの豆や道具を揃えたり、様々な動作が必要です。
一見すると面倒くさいですよね。でも、やってみると楽しい。手間がかかるけど、簡単には実現できないような要素が嗜好品には必要だし、そこに魅力があるのかもしれない。
無駄を無駄と思わず、手間を楽しむこと。
そこが嗜好品と不便益の接点という気がします。
「効率」が、余暇や嗜好体験を侵食している
──昨今、「タイパ」や「コスパ」など、効率やパフォーマンスがよいものを追い求める言葉が流行語になっています。不便益の視点から、こうした風潮をどうとらえていますか?
タイパやコスパといった言葉を口にする世代は、不便益的なことをどうとらえているのでしょうね……。推測に過ぎませんが、効率を求める動きと、不便益的な価値を大事にする動き、同時に受け止めているように見受けられます。
今の若いデジタルネイティブ世代は、生まれたときから便利なものに囲まれています。映画もスマホの画面でいつでもどこでも楽しめる時代ですし、それさえ1.5倍速で観る人もいる。
そういう意味では、「余暇や嗜好体験が、効率に侵食されている」と言えそうです。
「タイムパフォーマンスやコストパフォーマンスがいいことが善だ」という空気がある。
短い時間のなかで何かを楽しむことが当たり前になり、人間がTikTokに代表されるような「速い時間感覚」に縛られるようになっています。
ですが、そういった動きだけではない。
その一方で、不便益なものを心の底で楽しんだり、感じている人が増えている感覚もあります。
──不便益を楽しんでいる若い世代もいる、と。
たとえば、最近では、若い人のあいだでレコードがブームになっていますよね。
彼らはiTunesで聴ける音楽を、あえてお金と時間と手間暇をかけてレコード盤で聴くという選択をしています。
レコードやカセットテープって、彼らが生まれた時代にはもう消えつつあったものです。ゆえにノスタルジーとか懐かしいという感覚とはまた別の「不便だからこそ価値がある」と見出しているのかもしれません。
──実は、今日は不便益の専門家である川上さんにせっかくお会いするので、東京から京都までスマホは使わず、あらかじめプリントアウトした時刻表と地図を頼りにやってきました。
おもしろい! 実際やってみてどうでしたか?
──移動中に見た街の風景が強く脳裏に残っています。ここまで来るのにどんなことがあったのか、詳細に話せる感覚がありますね。
スマホに目を向けずに歩くように心がけると、どの路線に乗って、どこ行きの電車に乗ればいいのかを覚えるようになりますよね。
実は「不便益」と「旅」って、とても相性が良いんです。
以前、京都の老舗が販売しているおみやげを紹介する本に携わったことがあります。あえて京都駅ではなく本店まで足を運んで買うことを仕掛けたものでした。
かつては知る人ぞ知る京都みやげだった満月の「阿闍梨餅」も、今や京都駅で買えてしまう。でも、京都にはお店の本店や限られた店舗で買うからこそ得られる体験がまだまだあります。
時間や手間はかかるけど、本をきっかけに「これを買いに行きたい」と思う動機になるし、そうして買ったおみやげを誰かに渡したら、もらった側もうれしいと思うんです。
──手間暇をかけただけ、思い出話を付け加えることもできそうです。
その通りですね。「本店まで行こうとして違うバスに乗っちゃった」「想定どおりに行けなかったけど、途中で休憩した喫茶店のコーヒーがおいしかったんだ」とかね。
日々を忙しくしていると、目的地にむかって「より速く」と考えがちですよね。でも、旅では目的地に行く過程を楽しむことも醍醐味の一つです。
無駄を無駄とは思わない、そんな心の余裕が持てるといいですよね。
もっとも、不便益という考え方は、決して万能なものではありません。あくまで物事の考え方や視野を広げる方法のひとつです。
ですから「なんでも不便にすればいい」と考えてしまうと、それは「便利だったらなんでもいい」と言っているのと同じ穴のムジナになってしまいます。
ただ「便利さ」が行き過ぎた今の時代、不便益の考え方を身につければ、せわしない日々も少しは気が楽になるかもしれませんね。
Business Insider Japan記者。東京都新宿区生まれ。高校教員(世界史)やハフポスト日本版、BuzzFeed Japanなどを経て現職。関心領域は経済、歴史、カルチャー。VTuberから落語まで幅広く取材。古今東西の食文化にも興味。
Editor / Writer。横浜出身、京都在住のフリー編集者。フリーマガジン『ハンケイ500m』『おっちゃんとおばちゃん』副編集長。「大人のインターンシップ」や食関係の情報発信など、キャリア教育、食に関心が高い。趣味は紙切り。
『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。