「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
龍谷大学の世界仏教文化研究センターで博士研究員を務めるインド出身のプラダン・ゴウランガ・チャランさんは、鴨長明の『方丈記』との出会いをきっかけに日本研究の道を志した。
今から800年前の鎌倉時代に書かれた『方丈記』は、天災や災害のたびに注目されてきた文学作品だ。冒頭の一文は「無常観」を表した一文として、あまりにも有名だ。
だが『方丈記』は、この世の儚さを説くだけでなく、私たちに「理想の生き方とはなにか」を問いかけているとゴウランガさんは指摘する。
今回は、約50の言語に訳され、時代や地域を超えて、世界的に読み継がれて来た世界文学『方丈記』の普遍性について、ゴウランガさんと掘り下げていく。
(取材・文:吉川慧 写真:木村有希 編集協力:笹川ねこ 編集:呉玲奈)
世界文学としての『方丈記』の魅力
──ゴウランガさんは、鎌倉時代に書かれた鴨長明の『方丈記』(1212年[建暦2年]成立)を世界文学という切り口から研究しています。そもそも世界文学とはいったいなにか、あらためて教えてください。
世界文学とは、翻訳を通じて、他の地域の文化的な空間のなかで読まれる文学です。
文学研究者のデイヴィット・ダムロッシュによれば、世界中で読まれる過程で、文学作品は、多くの点でより豊かになります。
文学作品は、異なる言語文化の空間で流通することで変容します。
変容とは、作品の内容が変容するという意味ではなく、その時代思想や読み手によって新たな解釈が生まれるという意味です。
『方丈記』を世界文学としてとらえて、その読まれ方を研究することは、同時に『方丈記』という作品がもつ魅力を、多面的に深く掘り下げることでもあります。
私が重視しているのは、その解釈についてです。
もっとも、一般的な世界文学の捉えかたは「世界何カ国で読まれている文学作品です」といったもので、流通量をベースに、翻訳して出版された国や言語の数で世界文学を評価されがちです。
でも、私は文学の立場から、流通ではなく作品の解釈の広がりを重視しています。
──ゴウランガさんは、具体的に『方丈記』をどのように捉えていますか。
鎌倉時代に書かれた『方丈記』は、災害についての描写、この世の無常と人の命のはかなさが印象的で、俗世間から距離をおいた「隠者」による文学としても知られています。
400字詰めの原稿用紙で25枚ほどの長さで、『源氏物語』などの長編に比べて短く、翻訳しやすいのが特徴です。
──翻訳しやすいボリューム、というのは面白い指摘ですね。
これまでに50ほどの言語に翻訳されています。英語だけでも約15種類の翻訳があるんですよ。
私は、『方丈記』の解釈が世界でどう変わっていくのかを研究しています。
明治時代、欧米がどのように『方丈記』に注目したのか。特に、夏目漱石が手がけた最初の『方丈記』の英訳に注目し、その解釈が海外にどのように影響を与えたのか。その研究は『世界文学としての方丈記』(法蔵館)にまとめました。
漱石は、『方丈記』を自然文学作品として解釈しているのが大きな特徴です。
実際の『方丈記』は災害に関する内容が半分以上を占めていて、この作品の本来の構造を維持しながら、自然文学作品と解釈をすることには無理があるように思います。漱石の翻訳した『方丈記』では、災害の描写が意図的に削られています。
ただ、この漱石の解釈は、後世の英語圏での理解に大きな影響を与えました。
英語圏では、鴨長明はイギリスの詩人ウィリアム・ワーズワースや、ナチュラリストとして知られるアメリカのヘンリー・D・ソローと比較されるきっかけになっています。
──日本では、『方丈記』といえば「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という無常観が有名です。そういったものの見方は、世界でも共有されているのですか。
はい。無常観は「すべてのものは、いつ、何時でも変化していく」という根本的な考え方です。
「無常」とは「非永続性」という意味で、英語では「impermanence」と訳されます。これは「permanence」(永続性)の対義語ですね。
日本では仏教思想として知られていますが、私の育ったインドのヒンドゥー教にも通じるものがあります。また、仏教思想をたどっていくと、儒教としてもつながっています。
──「無常」は、ヒンドゥー教や儒教ともつながっているのですね。
また、「無常」という考えには、言語を超えた普遍性があります。物質的な見方でいえば、死ぬこと、桜が散ること。すべて無常ですね。
さかのぼれば、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの「万物は流転する」という言葉も有名です。
「変化して留まらないことこそが世界の実相であり、世界にあるすべてのものは、決して二度と同じ状態にはならない」。これはまさに無常に通じるものがあります。
翻訳の変化から浮かび上がる、世界文学『方丈記』
──鴨長明が『方丈記』に残した無常観や自然との向き合い方は、海外文学としてどのように注目され、影響を与えてきたのでしょうか。
社会的・文化的背景が違うからこそ、書いてあることの読み取り方や物事の捉え方も地域によって異なってくる。それでも内容に普遍性があるからこそ、多くの国・地域で翻訳されている。
それが『方丈記』が世界文学たりえる理由でしょう。
先ほど述べたように『方丈記』は、英語で約15回も翻訳されています。
順当に考えれば「一度翻訳すれば、それで意味がわかるからいい」とは思いませんか? でもひとつの作品がなんども翻訳されるのは、次の翻訳者が「世に出ている翻訳では欠けている要素があるので、自分が翻訳しないと」と考えるからこそ。
そう思わせるのが、作品の普遍性です。普遍性がないと、自分こそが翻訳しようとは思わないでしょう。
その翻訳者の意図をとらえることも、私の研究テーマです。翻訳は変わります。その奥深さが世界文学としての『方丈記』の魅力だと思います。
例えば、漱石の後にもいくつか翻訳が出ましたが、民俗学者・南方熊楠(1867-1941)とイギリスの日本文学者ディキンズ(1838-1915)との共同翻訳があります。
熊楠の解釈は、従来通りの「仏教文学」「隠遁文学」としてとらえるものでした。しかしディキンズは、アメリカで自給自足の暮らしをした作家ソロー(1817-1862)との共通点を前面に押し出して、鴨長明を紹介しました。
このようにして西洋的な自然崇拝者として、鴨長明は世界で理解されるようになっていったのです。
ちなみに、世界文学といえば、日本では村上春樹さんの作品が有名ですね。1200年代に成立した『方丈記』は、この130年の間に英語で15回翻訳されました。
さて、村上春樹さんの作品は、130年後までに英語で15回翻訳されるでしょうか? そういった観点に立つと、世界文学の持つ普遍性が見えてくると思うのです。
「インドの昔話にも通じる」──『方丈記』の無常観に魅せられて
──ゴウランガさんはインドのご出身です。なぜ日本の文学や鴨長明の『方丈記』に興味を持ったのでしょうか?
私は東インドのオリッサ州の出身で、地元にある地方の大学で歴史やインド史、日本史を学びました。当時習ったのは明治維新から戦後です。
その後に修士課程へ進みましたが、お金がなく勉強が続けられず、就職。8年ほど、社会人として働きました。そのうち日系企業で約6年、日本とインドに関係するプロジェクトや、IT系の仕事もやりましたが、どれも私にはつまらなかった。
「やっぱり勉強し直そう」と考え、デリー大学の修士課程に進学しました。「古文入門」という必修授業で、日本の古文の読み方などを教わります。
そこで出会ったのが『方丈記』だったのです。
──日本の古典には『枕草子』や『徒然草』、『源氏物語』や『平家物語』などもあります。その中で、なぜ『方丈記』に惹かれたのでしょうか。
『方丈記』に出てくる大災害や仏教的な無常観の話は、幼い頃に親から話してもらったヒンドゥー教の昔話に似ているなと、親近感を感じました。
無常観とは、「いつ何時でも物事は絶えず変わっていく」という思想。それはヒンドゥー教にも通じますし、仏教的な思想でもあります。
そこに惹かれて、修士論文でも『方丈記』を扱いました。
今まで生きてきた時代や積み重ねてきた経験が、自分自身の一部を形作っています。いわゆる「時代効果」ですね。そうした経験をもとに、私たちは人生を選択しています。
自分の経験と重なるものを探し続けるのが人間の一面でもあると思います。それが『源氏物語』でも『徒然草』でもなく、私にとっては『方丈記』だったのでしょう。
──ゴウランガさんご自身の経験と重なったんですね。
哲学的な観点から「方丈記」で描かれる「無常とは何か」が心にひっかかりました。「移ろいゆく儚さ」の「儚さ」とは何かを考えるきっかけになったんです。
つまり、変わっていくことはなんなのだろうか、と。
物事は絶えず変化し、変わらないものはない。私たちは皆、それを知っています。そして、人はいずれ死を迎える。
それなら、なぜよい暮らしをしようと無理をしてまで、がんばってしまうのか。
この問いに対して、もちろん正しい答えがあるはずはないし、答えられるわけでもない。がんばること自体が悪いわけでもありません。
ただ、当時はなんとなく「無常」が心にひっかかったんですね。
今は、『方丈記』が現代の私たちライフスタイルのモデルになりうると考えるようになりました。
鴨長明の「嗜好体験」を考察する
──DIG THE TEAは、「時を溶かす」嗜好体験や嗜好品を探求しています。『方丈記』を嗜好体験の視点からとらえると、どんなことが見えてくるでしょうか。
「嗜好品」という言葉を作ったのは森鴎外だったと言われていますね。
嗜好品は、「時を止める」「時を溶かす」「自分自身を超える」もの。でも「一瞬間でも自分を忘れる」ものでもあります。そういったものが「嗜好体験」と言えるかもしれません。
今回の取材のために調べてみたのですが、「嗜好体験」と同様の言葉は、他の言語ではあまり見ないように思います。概念としても、あまりピンとこない。
たとえば、英語の「healing」と「嗜好体験」は似ていますが、意味としては物足りない感じがします。「嗜好品」が必ずしも身体に良いものとは限らないという意味でも、その翻訳では矛盾を感じてしまう。
私は翻訳論も研究してきましたが、英語で「嗜好体験」をそのまま伝えることは難しい。では、「嗜好体験」をどうとらえればいいのか?
人間は、生きていくために、なんらかの形で仕事をしています。その中にあって、一時的に現実から逃避できたり、自分自身の存在を忘れさせたりしてくれる存在。それが「嗜好体験」と言えるのではないでしょうか。
──鴨長明の暮らしぶりから、「嗜好体験」と感じられるところはありますか?
『方丈記』の記述からは、仏の道に帰依しようとした鴨長明が、自分の心を慰めるために、風の音や水の音に合わせて一人で琵琶を奏でていた。
時に身体を動かすことを楽しんでいた様子が読み取れます。
周囲の森へ散策に出かけたり、山登りや寺社を参拝したり。歌人のゆかりの地や墓参りにも行っている。
意外に思われるかも知れませんが、鴨長明はアクティブでした。身体を使う、自分の心を慰めるための「癒し」、つまり嗜好体験を実践していたように思います。
──身体性を伴う「心の慰め」は、嗜好体験といえるかもしれませんね。鴨長明は、肩の力が抜けている印象も受けます。
『方丈記』には、「怠けて念仏を唱えない日がある」といった人間らしい記述もあります。鴨長明は決して「聖人」ではありませんし、本人もそれは自覚していました。
私たちの時間は、常に流れている。人生に一時停止ボタンはありません。身体の細胞も日々死んでは生まれ、入れ替わっている。世の中に不変のものはないのです。
そんな無常の世で、理想とする「生活」と自分の「欲望」とのバランスをどう取るか。そういった点が記されているのが『方丈記』の大切なポイントであり、普遍性を持つゆえんだと思います。
私たちはみな同じ社会で暮らしていますが、その暮らしぶりは人によって異なります。変化し続ける世の中をどう捉えるか。それぞれの状況で自分の「生活」や「欲望」と向き合いつつ、どのように心を癒せばいいのだろうか。
時代を超えて、そういったことを問いかけてくれるのが、『方丈記』の普遍的な魅力の一つだと思います。
──ゴウランガさん自身は、どんな嗜好体験を大切にしていますか。
よく近所を走ったりしますね。何も考えないで、ただ走るのが好きです。ペースを上げると、次第に走ることだけに身体が集中します。頭を空っぽにして、身体を動かすことに没入する体験は非常に良いものです。
私たち研究者は、毎年論文を出さないといけなかったり、書かないといけなかったりします。論文や本を書かないと仕事に就けなかったりする。
でも、時には自分の研究分野とは関係がなくても、興味があるものを読んだりします。明確な目的や結果を期待せずに読む本や論文もある。そこで思いもしない学びや発見があるとうれしくなって、一人で「フフッ」と笑ったりする。
私の場合は、それが「時を溶かす」体験。現実を一瞬だけ忘れられる「癒し」の瞬間のような気がします。
もっと言えば、自分と嗜好対象が一体化する瞬間かもしれません。
──身体を使った、自分の心を慰める時間。お聞きしていると、今から800年前を生きた鴨長明の生きかたが、現代の日本を生きるゴウランガさんに、しっくりなじんでいる様子が伝わってきます。
古いものなのに新しく感じるのは、作品に普遍性があるからでしょう。
時代が変わり、読み手が変わると、新たに発見があるのが『方丈記』です。
鴨長明が記した無常観やライフスタイルは、私にとっては今も飽きることのない研究対象です。
日本には他にも、世界文学として読まれているにもかかわらず、光が当てられていない作品があります。その普遍性を、これからも掘り下げていきたいと思います。
Business Insider Japan記者。東京都新宿区生まれ。高校教員(世界史)やハフポスト日本版、BuzzFeed Japanなどを経て現職。関心領域は経済、歴史、カルチャー。VTuberから落語まで幅広く取材。古今東西の食文化にも興味。