連載

とめどない欲望とどう付き合えばいい? インド出身の『方丈記』研究者が語る「なにもしないことの価値」

吉川 慧

「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」

龍谷大学の世界仏教文化研究センターで博士研究員を務める プラダン・ゴウランガ・ チャランさん。

デリー大学の修士課程で出会った鴨長明の『方丈記』に魅せられたゴウランガさんは、これまでに50近くの言語に訳されてきた『方丈記』が持つ普遍性について研究してきた。

晩年に都を離れ、山中の庵に身を置き、世の儚さと向き合った鴨長明が記した『方丈記』。書かれたのは今から800年前の鎌倉時代ながら、天災や災害のたびに注目されてきた作品だ。

鴨長明の姿勢は、グローバル資本主義における個人のライフスタイル、己の中に潜む欲望やとの向き合いかた、不確かな現代での生き方のヒントになり得るとプラダンさんは語る。

心の慰めを大切にした『方丈記』から、現代の嗜好体験を探ってみよう。

#連載「生きることと嗜好」

現代における私たちの嗜好品や嗜好体験を探究するために、文化人類学や歴史学者など様々な一線の研究者に話を聞く、連載「生きることと嗜好」。

嗜好品には、体をつくる栄養があるわけではない。生命維持に必要不可欠ではないのにもかかわらず、全世界で嗜好品はたしなまれている。

 嗜好品は、人間らしく生きるために、なくてはならないものなのかもしれない。

前編:身体を使い、心を慰める。世界文学『方丈記』から読み解く嗜好体験、インド人研究者に聞いた

(取材・文:吉川慧 写真:木村有希 編集協力:笹川ねこ 編集:呉玲奈)

私たちは、モノに追われていないか? 

──インド出身のゴウランガさんは、日本文学や世界文学を研究されていますが、鎌倉時代に書かれた鴨長明の『方丈記』(1212[建暦2年]成立)が、いまの私たちのライフスタイルのモデルになりうると考えているそうですね。

『方丈記』の中身は、大きく前半と後半の2つに分けられます。

前半は、都を襲った災害について写実的に記されたもの。後半は、都から離れた鴨長明が実践した仏道修行や自然、芸術との向き合い方に関するものです。

鴨長明は、もともと京都・下鴨神社の神職、禰宜(ねぎ、宮司に補佐する役職)・鴨長継の次男でした。ただ、若い頃に父が亡くなってしまい、希望していた禰宜職につけなかった。

それでも歌の才能があり、琵琶も学び、のちに後鳥羽上皇とも交流したり、歌壇のメンバーの一人になった。しかし、都での人間関係や出世がうまくいかず、50歳で出家して遁世(とんせい)の道を選びました。

つまり、エリートの家系に生まれ育った鴨長明は紆余曲折があった末、この国で最も豊かであった都という場所から距離を置き、客観的な視点で都を眺めるようになります。

そして念仏を唱え、自然を愛でつつ、和歌や琵琶といった芸術と向き合いながら自分自身と向き合う。質素ながら自由な暮らしの中で、本当の幸せとはなにかを考えるようになったのです。

──もともと震災後や天災などの後に、読み継がれて話題になることが多かった『方丈記』。現代社会に置き換えると、どんなメッセージが読み解けますか?

鴨長明は、小さな庵での質素な生活の中で、仏の道に邁進したいという思いを抱きつつ、散策や詩歌や管絃を楽しみ、自然を愛でる暮らしを送っていた。

理想を抱きながらも、質素な生活と自分の欲望のバランスをどう測ればいいのかと思案したのでしょう。

これは現代に生きる私たちにも通底するテーマだと思うのです。

いまの私たちは、科学技術の発達によって便利な暮らしを享受しています。

科学の発達や技術の進歩、それ自体は悪いことではありません。問題は、効率性と生産性の過度な追求です。

例えば、スマートフォンは生きていく上では欠かせないツールになりました。これがない生活に戻るのは、現実的には難しいでしょう。 ただ、新しい機種のスマートフォンが発売されるとして、前日から店の前で行列を作る必要はあるのでしょうか。

いま、私たちはモノ(物質)を追うのではなくて、モノに追われているような気がしています。

──「モノに追われている」ですか。

市場経済の世の中では「作って、売る」に終わりはありません。私たちは、いつしか時計に管理されたスケジュールに身を置き、常に細切れの時間に追われている。

生きる上で何が大事なのか。それは人それぞれ違います。もちろん、そんな日常に違和感を抱かない人もいるでしょう。

でも『方丈記』や鴨長明の生活は、尽きることのない「欲望」と、持続させるべき「生活」のバランスを考える上でヒントにはなるのではないでしょうか。

それは身の回りの暮らしだけではなく、気候変動や環境問題など地球規模の課題にも活かせると思います。

──身近な「生活」だけでなく、グローバルな環境課題にも活かせるのですか?

消費社会のアンチテーゼとして「反成長」という言葉もあります。

反成長は、決して「何もしない」という消極的な、ネガティブな意味ではありません。成長の限界を考え、生産と消費のバランスをどうとるか。自分だけじゃなく他者や社会全体と一緒にどう生きていくのか。私たちの生活をどう変えていくかという視点でもあります。

『方丈記』は、市場経済中心の、グローバル資本主義において、個人としてどう生きるかが書かれているとも読めます。

経済成長と人口増加がこのまま続けば、地球の資源は枯渇していきます。

私たちは何かを変化させないといけない。

そんな時代を生きる上でのライフスタイルとして、『方丈記』にはヒントが詰まっていると思います。 

鴨長明が実践した、持続可能なライフスタイル

──鴨長明のようなライフスタイルに憧れつつも、なかなか自分の欲は消えません。私たちの生活のために「もっと出世したい」「給料を上げたい」と仕事の効率を上げようとして、気づけばいつもコスパやタイパを考えてしまいます。

市場経済に生きている私たちは、常にモノにとらわれてしまっていて、それが普通だと思ってしまっている。

ただ、海の外を見渡せば、そうではない生活スタイルもあり得ます。

たとえば、私の故郷インド(南東部)のオリッサでは時間の流れがゆったりしています。

みな農家ですから、仕事の量は季節に応じて変わる。暇な時には何もやることがないし、何もやらなくていい。たまに山に出かけたりしますが、別に何をするわけでもない。

私たちは、出かけるのであれば行動に目的や結果を定めようとしがちですよね。でも彼らは、ただ行くだけ。何も目的を持たず山に行く。行って何かあったらいいし、なかったら天を仰ぐ。それだけです。

今の私たちの気づく範囲では、鴨長明が実践した晩年のライフスタイルと、私の地元のように都市から離れて暮らす人々のライフスタイルには共通点があるように思います。

私たちの未来の姿が、そこにあるかもしれない。

持続可能な暮らしをするためには、そういう暮らし方が必要かもしれないと思うこともありますね。

──持続可能な暮らしのヒントが、晩年の鴨長明の生活にあると。その目線で『方丈記』を読み返してみるのはいいですね。

鴨長明は、幾多の天災や遷都、都での体験をふまえて、都を離れ世を捨てて遁世することを選びました。

人間の欲望にはキリがありません。

鴨長明は、それを「執着」と書いています。

欲望は満たされることを望まないとも言います。ならば欲望の果てを目指すよりは、むしろ欲望を手放すことが必要かもしれません。

「目的」や「成果」を求めない、自分の時間をつくるために

──鴨長明の生き方は、具体的にどのような特徴がありますか?

鴨長明は、身体性を重んじていたのではないでしょうか。身体を使った癒しを実践していたように思います。

山を歩きながら木の実を取ったり、天気のいい日には山に登ったり、時には遠くに出かけて神社を参拝したり、三十六歌仙の一人(で友人)の猿丸太夫の墓を参拝したり。

遠出の帰りには、花の咲いた木の枝を手折って持ち帰ったりもしています。これもまた、身体性を生かしたある種の「嗜好体験」のようにも思えてきます。

──鴨長明は、風の音や水の音に合わせて、琵琶を一人奏でていたそうですね。

そう、誰かを楽しませようとするものではありません。たとえ上手でなくても、自分で楽しんで、心を慰めるためでした。

「目的」を持たず「成果」も生まれないことをする楽しさには、安らぎがあり得ると思うのです。

たしかに、成果主義の世界ではまったく評価されないでしょう。塾に通い、良い学校に行き、出世して、エリートになることが至高とされる世界では、なかなか考えにくいことかもしれませんが。

でも結局、私たちはいつか人生の終わりを迎えます。

効率主義の行き着いた先には、あえて自由に何もしないことの価値自体が見直されるときが来るかも知れない。

のんびりすること。

それこそが私たちの人生に対する価値観を変えるタイミングになり得るのではないか。そんなことをふと考えてしまいます。

龍谷大学のキャンパス

──鴨長明が実践したように、欲望を手放し、対象から距離をとって、自らが楽しむ「時間」をつくること。自分の時間を取り戻すことは鍵になりそうですね。 

自分自身を知るために必要な行為だと思うのです。

私たちは「自分のことを知っている」と思っているけれど、必ずしもそうとは限りません。

自分の身体を使ったり、頭を使ったりして、物事を考えることが、周りの環境や技術の進歩と向き合う時間になり得るのではないでしょうか。

いまの私たちには、難しいことを考えるための時間と余裕が必要なのです。

それが最終的には気晴らし、心を慰めること。『方丈記』でいう「自ら情をやしなふばかりなり」につながると思うのです。

生成AIの隆盛が、人間に問いかけるもの

──先ほど「科学の発達や技術の進歩、それ自体は悪いことではない」とお話されましたが、例えば生成AIのように進歩のスピードに、人間や、人間の心がついていけないことはありませんか。

たしかに、今の技術的進歩のスピードは非常に速い。進化の変わり目がわからないうちに訪れて、また新たな進化が起こっています。

私もChatGPTを使います。便利なので使わない手はありません。

技術自体は一つの現象に過ぎません。技術的な進歩が起こることに問題はないのです。日々の暮らしが便利になること、それ自体は良いことだと思います。

問題は、その技術を使う私たちが、技術をどうとらえて、どう向き合うのか。

そもそも、私たち全員がすべての技術を使いこなすことはできないのですから。

人間の主体性が問われている時代なのだと思います。

逆に言えば、技術の悪影響を受けないように何をしたらいいのかを考えることも重要です。最終的に影響を受けて悪さをするのは人間。くり返しますが、技術が悪いわけではありません。

──「自分はどう生きるのか」を考える。その助けになる視点はありますか?

私たち一人ひとりが、人生の価値観を変えることを意識する必要がありますね。

生産性を高めることが、いいこととは限りません。

たとえば、地球全体を環境保護の目線でみるならば、風力発電のシステムをつくるために森林などの自然を破壊して建設しようと考える人もいるでしょう。

でも、「そもそもの電気を使う量を減らす」という選択を視野に入れてもいいのです。

そういった視点を持つためのヒントは、私は「比較」だと思います。

ナチュラリストとして知られるアメリカの詩人ヘンリー・D・ソローと鴨長明の共通点は、都会で生まれたあとに、人里離れた場所にいって過ごした経歴です。

これが都会暮らしだけだったり、あるいは田舎暮らしだけだったら、気づくことも多くないでしょう。

かくいう私自身も、インドの農村と日本という比較軸を持っています。

インドから離れて日本で文学の研究をしていると、インドの哲学が見えてくる。それがおもしろいのです。そんなつながりを感じるのは、日本で勉強してみて初めてわかったことです。

もし、一生インドから出ずに研究をしていたら、インド哲学について気づけなかったことが多いでしょうね。

今の時代、鴨長明のように、都市部から離れた自分の視点、比較軸を持つことは大事だといえるでしょう。

Follow us!  → Instagram / Twitter

Author
記者

Business Insider Japan記者。東京都新宿区生まれ。高校教員(世界史)やハフポスト日本版、BuzzFeed Japanなどを経て現職。関心領域は経済、歴史、カルチャー。VTuberから落語まで幅広く取材。古今東西の食文化にも興味。

Editor
編集者 / ライター

Editor / Writer。横浜出身、京都在住のフリー編集者。フリーマガジン『ハンケイ500m』『おっちゃんとおばちゃん』副編集長。「大人のインターンシップ」や食関係の情報発信など、キャリア教育、食に関心が高い。趣味は紙切り。

編集者

『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。

Photographer