ウェルビーイングではなく「ウェルダウン(well-down)」 Ochillの瞑想室が生み出す、「緊張と緩和」のお点前

Yuuki Honda

京都の玄関口となる京都駅から車で20分ほど走った西陣の住宅街に、薄い灰色の暖簾が際立つ異質な門構えがある。

門の向こうには、横幅一人分の道が10メートルほど続いている。左右は木板で区切られていて、視界がすっと狭くなる。道の先にある引き戸を開けると、中は薄暗い。

「視界から入る情報をなるべく減らしたかったんです」

出迎えてくれたKiruta Wataruさんは、「瞑想室」と名付けられたその場所をこう紹介してくれた。

「実験室」であり、「内面と向き合う空間」であり、「自分らのためにつくった場所」であると。

この瞑想室を拠点とするのは、水タバコの原理によってタバコ葉ではなく、日本茶の茶葉のみを吸うという嗜好品「吸うお茶」や、焚くことで煙草を再解釈した「吸わない煙草」を発表してきたアートコレクティブ「Ochill(オチル)」。

その創設メンバーが、Kirutaさんと、シーシャカフェ「いわしくらぶ」を手がけてきた磯川大地さんの2人。瞑想室は6月から一般公開されており、大地さんが点てるお抹茶や「吸うお茶」を体験できる。

ここで過ごす時間にどう意味付けするのかはそれぞれに委ねているというが、Kirutaさんは「来た人が普段見つめている自分の理想像から落ちてきて、その差分を見つめる場所。何が自分を幸せにするんだろう、ということに少しでも気づけるような場所になれたらいいなと思います」と話す。

この言葉の根底にあるのは、Ochillが「well-down(ウェルダウン)」と呼ぶ思想。

昨今、世界的に提唱されている「well-being(ウェルビーイング)」への違和感から生まれたというそれは何なのか。

(聞き手・文:Yuuki Honda 写真:田野英知 編集:小池真幸)

新たな嗜好体験をつくり出した、「吸うお茶」と「吸わない煙草」

──この瞑想室で体験できる「吸うお茶」は、もともとKirutaさんと大地さんが考案した作品なんですよね。

Kiruta はい。もともと僕がいわしくらぶの常連で、「シーシャなど当時(2018年)日本で広がっていたチル文化を、何か面白く海外で発表できないか」という話を店主だった大地に持ちかけまして。味噌とかお茶のシーシャがあったら美味しそうじゃない? と軽いノリで試作品をつくっていたら生まれたもので、SNSで発信していたら注目してもらえるようになったんです。

2020年のSXSW(編注:サウス・バイ・サウスウエスト、アメリカ・テキサス州オースティンで毎年開催される、映画・音楽・テクノロジーの祭典)で発表する算段もついたんですけど、新型コロナウイルスの影響でイベントが中止になってしまいました。

その後さまざまなご縁から、日本発となる茶葉を使用したノンニコチンのシーシャブランド開発を推進するプロジェクト『TEASHA』として、複数の企業や研究機関と協力し、フレーバーやハードウェアのR&D、身体への安全性分析などを進めていきました。

それと並行して、「吸うお茶」は少しずつ知っていただく機会が多くなり、お茶に関するイベントに呼ばれるようになって。大地が過去に茶道をやっていたこともあり、お茶会を通して「吸うお茶」を発表する活動をはじめたんです。

瞑想室に置かれている「吸うお茶」用の道具「煙小卓」

──Ochillのもう一つの代表作でもある「吸わない煙草」も、その活動の中で生まれたんですか?

Kiruta 京都の円山公園で行われたアートイベント「KYOTO FRAGMENT ART PROJECT」に呼ばれた際に、あえて「吸うお茶」ではないものを出そうとして発表したのが「吸わない煙草」でした。会場には子ども連れの家族が普通にいて、タバコの葉だと伝えたうえで、非喫煙者でも望んで体験していたのは驚きでしたね。

「吸わない煙草」は、煙草はほとんどの場合において “吸うもの” だと認識されがちですが、焚くという所作のもと煙を目で楽しむ嗜好性があるのではないかという仮説から生まれました。

焚くという所作にすることで、“吸わない煙草”のもつ公共性、言い換えれば“吸う煙草”の私事性が明らかとなり、煙草へのネガティブなイメージを解くことができたのだと思います。所作を再構築することで、同じ煙草でもより広く受け入れられる嗜好性を取り戻したんです。

Ochillが考案した「吸わない煙草」

Kiruta 同じように「吸うお茶」も、喫煙という所作に対して嫌悪感を抱いていた人のバイアスを解くことができた手応えがありました。

ウェルビーイングへの違和感、そして「ウェルダウン」へ

──「吸うお茶」と「吸わない煙草」、どちらの体験も煙草のイメージを再構築し、新たな嗜好体験をつくり出すことができたと。

Kiruta そうですね。そして僕らが求めているものが、当時からよく提唱されていた「ウェルビーイング」ではない気がしてしまって。本来、人を幸せにしてきた嗜好品が、科学的な「健康」が明らかになってきたことで淘汰されているような。

アルコールやニコチン、カフェインという、嗜好品を嗜好品たらしめてきたある意味での「毒」がそのままの意味での解釈になっていて、機能性重視によってこれまであった嗜好性が見放されていく未来も見えたし、どこか違和感がありました。

ウェルビーイングが目指す形が「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」であるとして、そのために健康を維持したり睡眠の質を上げていこうとするために、皆がひとつの在るべき姿を目指して頑張ろうととする。Apple Watchから「深呼吸しましょう」と通知が来る。

それはウェルビーイング的には正解なのかもしれませんが、僕はその状況を「つまらない」と思ったんです。

僕は喫煙者だし、お酒も好きです。夜型で朝も起きられない。不規則な生活をどこかで好んでいるし、だらしない人間なんです。そういう駄目なところを正していきましょう、というメッセージをウェルビーイングの思想から感じて、それは生きにくいなと。

──Ochillの思想の根幹には、ウェルビーイングに対する違和感があるのですね。

Kiruta そして、このウェルビーイングという言葉を再解釈して、僕らなりに言葉にしたのが「ウェルダウン(well-down)」です。

「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」をウェルビーイングと定義するなら、私たちは「社会的に欠けていても、精神的に負荷がなく、自然体である自分を認知していく状態」をウェルダウンと再解釈します。

ウェルダウンとは、いうなれば自分の駄目な部分、だらしない部分を肯定して“納得すること”、でしょうか。肩肘張らずに、素直に、ありのままの自分に堕ちていく姿も、人の在るべきひとつの状態として提唱しているんです。

例えば、朝までお酒を飲んで過ごすこと、それは一つの視点から見れば綺麗じゃない部分です。でもそういった自分の綺麗じゃない部分を肯定できない空気に、僕は疲れてしまっているんです。

──ウェルビーイングへの違和感に向き合い、再解釈して出てきた概念が「ウェルダウン」なのですね。

Kiruta はい。承認欲求と自己肯定感は、人として生まれ持っているアルゴリズムなので、それを追い求めるのは当たり前だと考えています。

大切なのは、「自分が承認されるかどうか」ではなく「自分に納得できるかどうか」だと思うんです。承認は自分からは生まれない、外に求めるもの。自分に納得できるかどうかは、自分自身の中でしか起きない。

ウェルビーイング的な社会に生きていると、資本とか名誉とかSNSとか社会的に綺麗かどうかとか、そういうものばかりが目に入るけれど、誰だって自分の嫌な部分はあるし、だらしなくていい、嘘をついてしまってもいい。

極論ですが不倫や離婚、前科とか、その大小はあれど誰だって自分の中に闇というかダークサイドは存在していて。光ばっかりが目にはいる社会に生きていると、そういった自分の影になる部分ばかりが気になって、それから目を背けてしまう。

でも、そういう自分の中にある暗い部分を理解してこそ、真の力を発揮できると思うんです。本当にどうしようもないな自分、って感じでちゃんと向き合えると、とはいえチャンスはまだあるよなとか、まだましかもしれないなとか、闇を受け入れてこそ微かな光がまだあることに気づける。

そういった自分を肯定できるような、自分に納得できる機会や時間や空間や体験が、今の社会には圧倒的に存在しないと感じたんです。だからそれを生み出したいし、それは自分のためでもあって、誰かのためにもなると思ったから、創りつづけるしかないと。

別に僕はウェルビーイングに対して中指を立てたいわけじゃないですし、ウェルダウンを提唱することで二項対立をつくりたいわけでもないのですが。なんとなく喫煙者として、夜更かしなだらしない人間として、過度に綺麗で健康な生活を求め続ける潮流に違和感を感じているだけです。

大地 いや、俺はがっつり(ウェルビーイングに対して中指を)立てていますよ(笑)。

ウェルビーイングは1946年WHO設立の際に初めて言及された言葉で、発想そのものは素晴らしいのかもしれませんが、今はもう形骸化していますよね。

「健康寿命を伸ばして、もっとお金を使ってね」と言っているように聞こえるんです。ものごとの綺麗な部分だけしか見せていないように感じてしまう。かっこいいこと言ってても、お前だってケツの穴は汚いんだろ?本当のこと言えよって思ってる(笑)。

大地 だから、Kirutaの言うウェルダウンという言葉にはめちゃくちゃ共感しています。

仏教書や禅の本が好きな俺の感覚としては、「知足按分(ちそくあんぶん)」(編注:禅の用語で、欲をかかず高望みせず、おのれの境遇の分相応に満足することを意味する)という言葉に近い意味だと理解しています。

──Ochillのチーム内でも、「ウェルダウン」に対する解釈やスタンスが統一されているわけではないんですね。

Kiruta 全く同じではありません。大地さんには大地さんなりの考え方があるでしょうし、それでいいと思っています。

ウェルダウンという造語は、活動する意味や大事にしている視点を上手く伝えようとしているだけで。その考え方は常に更新されていくし人に解釈されていってこそいつか完成するであろうものだと思っています。

その背景には、Ochillは会社ではあるけど、稼ぐためだけにやりたくないというわがままもどこかにあって。それは、企画書で完成したものを再現するといった、自分が今までやってきたクリエイションとは違っていて。

「見せたくて創りたいんじゃない、創りたいからつくる。どう見られたいかよりも、何を与えたいか。おもしろいからやるのではなく、わからないからやってみる」という状態に僕は憧れている。創ることでしか辿り着けない景色があるから、最初から完成はできないし、いくつも創って、その先に “自分たちを超えていく” 何かを生み出したい。

だからこそ、Ochillとしてはスタンスをあまり明確にせず、なんとなく各自でこの言葉を探究しようと話しているんです。

「緊張」と「緩和」のゆらぎ。「靴を揃える」から考える「差分」

──ただ、ウェルビーイングへの違和感は、それぞれが何かしらのかたちで持っていると。

Kiruta そうですね。Apple Watchが気を遣って「深呼吸しましょう」と言っても、それを言われた時点で強制ですよね。「あ、呼吸しないと」となってしまう。

義務的なものは緊張を生みます。ただ僕は、逆に義務的に生きられない自分を肯定できると、楽になれる。

1階に瞑想室がある「落散 京都」の2階にある、控え室であり、Ochillの作品づくりの拠点でもあるスペース。日中でも暗く研ぎ澄まされた雰囲気の瞑想室とは異なり、陽の光がたっぷりと注ぎ込み、リラックスした時間が流れる

大地 義務的うんぬんの話で言うと、俺はKirutaに「靴を揃えたら?」って言ったことがあるんですけど……。

Kiruta あったね。確かに揃えた方が良いのはわかるんですけど、毎回そうはできないだらしない部分ってあるじゃないですか。

だからすぐ「次から揃えます!」とはならなくて。わがままかもしれませんが、なぜその方が良いのかを実体験で納得することが大事だと思うんです。

丁寧な暮らしをするその先に「健康で豊かな生活」がある、みたいな。なぜ揃えたほうが良いのかを説明しないまま、靴を揃えさせるようなところがウェルビーイングの思想にある気がしているんです。

各々の納得感を無視して「部屋は片付けたほうがいい」「運動はしたほうがいい」とか、そういう考えが良いものとして振りかざされ過ぎている気がして。それをすっと受け入れて生きていける人はいると思うけど、僕には難しかった。

──大地さんはどういう意図で「靴を揃えたら?」と言ったんですか?

大地 たまには「緊張」することもやってみたらどう? という意図がありました。瞑想室で提供していることにも繋がる話なのですが、「差分があること」って重要だと思うんです。

瞑想室に来てもらった方には、先に2階の控え室に行ってもらって、そのあと1階の瞑想室に来てもらいます。そのあと、まずお口を水で清めてもらい、お菓子を食べて、お抹茶のお点前を見てもらって、いただいてもらう。

それが基本の流れなんですけど、この過程を通して「緊張」していくわけです。そこから「吸うお茶」で「緩和」というか、リラックスしてもらう。

そのあとに瞑想するのですが、緊張と緩和で生まれた「差分」や自分の中のゆらぎを感じながら、ニュートラルな状態に戻っていってほしいなと。

この流れを体験した方に「精神的なサウナだね」と言われたことがあって。

──サウナにも緊張と緩和があって、だからこそ気持ちの良い“ととのい”がありますものね。

落散に落とし込んだ思考のひとつは、「時間という概念から解放されたい」という想いで、「長い時間の蓄積」を感じることと「懐かしさ(レトリック)」を感じることがそれに寄与すると考えているという。それゆえ2階のスペースには、所々「懐かしさ」を感じさせるものが置かれている

Kiruta 緊張と緩和の話で思い出したのが、コロナ禍でぜんぜん人がいない清水寺に2人で行って、清水の舞台と呼ばれてるお堂で昼寝したんですけど、それがめちゃくちゃ気持ちよくて。

大地 本来あのお堂はすごく整えられた空間だけど、そこでダラっと昼寝できたから気持ちが良かったんだと思う。そういう差分があるから、気持ちいい。

Kiruta 坂を登った後だから身体は疲れているけど、脳内というか心はとても気持ちよくなっていて、その感覚が東京でタクシーに乗りながら常に仕事のことを考えている状態と真逆だと感じたんですよね。

あの時の感覚も瞑想室に再現している気がします。僕はそうやって、自分が求める空間を探しているのかもしれない。

ただ、大地さんはまた違うことを考えているよね?

大地 俺はプロットを持って何かをつくることってないのよ。いわしくらぶもなりゆきでつくったし、京都にいるのもKirutaが呼んでくれたからだし、俺はついてきただけ。

シーシャの限界を、「茶道とのかけ合わせ」で乗り越える

大地 でもなんで京都に来たかというと、単にシーシャに飽きたというか限界を感じたこともあるかな。

──10年以上携わってきたシーシャに飽きた?

大地 シーシャが日本に入ってきて、まあ20年弱ぐらいは経っていると思うんですが、シーシャって僕たちの力では、進化させられる度合いに限界があるんです。

Kiruta シーシャも煙草だから、日本では法律的には自分たちで作ったりできないんです。

大地 そう。で、いまのシーシャって、ぜんぶ甘すぎるんですよ。だからその味をいじれる海外のやつはもっと色々試してみてよって思う。

例えば、食には介入できる余地がありますよね。農家さんと「こういう野菜つくりませんか?」と模索したり。調理法もたくさんある。

だけどシーシャは、こと日本においては遊べる要素がめちゃくちゃ少ない。僕らは試行錯誤の末に「吸うお茶」を試作したけれど、流通させることは難しい。

そこで僕らがやれることの限界が見えてしまった。

大地 だから俺の中でのシーシャの“履修”はいったん終わっていて。

これからやれることがあるとしたら、シーシャの文化自体を前進させること。シーシャにはパイプで吸うという所作性があるから、ずっと嗜んでいると、吸う姿や作る姿がすごく様になってくるんです。

この所作性を共通点にして、キセルなども含む茶道とシーシャのかけ合わせで何かできるんじゃないかと考えています。

それで昔少しだけかじっていた茶道を改めて学んでいる最中です。茶道で学んだことをもって、いつかシーシャをさらに高みへ持っていけたらと思っています。だから瞑想室に茶室としての機能があるのは、俺のわがままなんです。

──瞑想室はお二人それぞれのための場所でもあるんですね。

大地 そうですね。そしてこれは仮説なんですが、だからこそ俺とKirutaの「差分」も、この瞑想室に反映されているんじゃないかと思っていて。

俺は求道者タイプでストイックなので「緊張」の役割。Kirutaは逆で「緩和」の役割。

俺は普段の生活を律していないと、嗜好品を楽しめないと考えています。

普段の生活と嗜好品を嗜む時間の間に、差分が生まれるから楽しいんです。その両側を行き来することで、真ん中を知ることもできる。何事も片側だけではわからない。

Kiruta 外部からの「お金(資本)やフォロワー数(名誉)は多いほうがいい」といった指標がある一方で、自分の内部にある本当の欲求(幸福感)に気づける機会、そういう場所って少ないですよね。だから世間的な理想像(光)にばかりに目がいって、それとの差分である本当の自分(闇)を否定したくなる。

否定せずに肯定できる、そして自分に納得できる機会が必要で。この瞑想室がそうなれたらいいなと思います。

日本人にはもともとあった「足るを知る」って思想かもしれませんが、来た人が自分のなりたい理想像から落ちてきて、その差分を見つめられるような。落ちるとこまで落ちて来られる空間であり、死ぬよりは生きてるほうがまだマシだなって思えるような、黄泉の世界に繋がる一つ手前の部屋にいるような時間。過去も未来も現在もなく、何かを教えてくれる自分に出逢える、そんな高次元空間であり、それぞれの宇宙。

もし何か日常に違和感を感じた方は、ぜひここに一度来てみてほしいですね。何もない部屋ですけど。

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Author
ライター / 編集者

福岡県出身。大学を卒業後、自転車での日本一周に出発。同時にフリーランスとして活動をスタート。道中で複数の媒体に寄稿しながら約5000kmを走破。以降も執筆・編集など。撮影もたまに。

好きなサッカーチームはLiverpool FC。YNWA

Editor
ライター/編集者

編集、執筆など。PLANETS、designing、De-Silo、MIMIGURIをはじめ、各種媒体にて活動。

Photographer
写真家

1995年、徳島県生まれ。幼少期より写真を撮り続け、広告代理店勤務を経てフリーランスとして独立。撮影の対象物に捉われず、多方面で活動しながら作品を制作している。