「喫酒幾星」は、京都・祇園の白川近くにあるバーだ。蒸留酒にさまざまな植物の香りを溶かし込んだ薬草酒(薬草リキュール)を専門としている。
薬草リキュールは、カンパリなどの一部の銘柄を除けば、日本ではまだ馴染みの薄いお酒だ。筆者自身、はじめて客として喫酒幾星を訪れたとき、民芸のニュアンスを感じる内装に心地よさを覚えると同時に、バックバーに並ぶお酒のボトルが見知らぬものばかりであることにすこし緊張した。
何を飲もうか悩んでいると伝えると、店主は普段のお酒の好みをこちらに尋ねた上でいくつかのリキュールのボトルを手にとり、その香りを1本ずつ試させてくれた。すると、「まだ土のついた木の根の青々とした匂い」「花束に顔を埋めているかのようなバラの匂い」など、そのどれもが違った芳香を持っていることに強く驚かされた。
それらの香りをヒントに飲みたいものを伝え、出していただいたカクテルやリキュールは絶品で、丁寧な接客と所作のうつくしさに背筋が伸びる思いがした。それからしばらくは、何をしていても喫酒幾星でいただいたお酒の香りを思い出してしまうほどだった。
薬草リキュールは「飲む香水」の異名を持つという。その世界の奥深さの一端を知ることは、嗜好品や嗜好体験についての探求を深める手がかりを私たちに与えてくれるかもしれない。
喫酒幾星の店主を務めるほか、ノンアルコールスピリッツ専門のバー兼蒸留所「幾星 京都蒸溜室」を2022年京都市内にいち早く開くなど、薬草リキュールを軸にしたさまざまな実践を続けるバーテンダー・織田浩彰さんに話を聞いた。
(聞き手・文:生湯葉シホ 写真:江藤海彦 編集:小池真幸)
「癖の強いものを」というオーダーの意味。“taste”と“flavor”の違い
まだ夏らしさの残る9月某日。取材チームで喫酒幾星を訪れ、織田さんにカクテルを1杯つくっていただいた。
「ウッディな香りのロングカクテルが飲みたい」というこちらの希望を聞いて、もみの木の新芽を漬け込んでつくられるサパンのリキュール(原産国:フランス)を薦めてくれる
加えて、杉やヒノキの香りが好きであること、以前飲んだサパンを使ったギムレットが美味しかったことを伝えると、織田さんはすこし考え、サパンをベースに2種類の自家製ビターズで香りを効かせたカクテルを出してくれた。
サパンとビターズを除けば、フレッシュライムジュースとトニックウォーター、ソーダで構成されているというシンプルなカクテルだ。
装飾のない、ソーダ水のようにクリアな見た目をしているのに、グラスに口をつける前から深い木々の香りが漂ってくる。カクテルを飲み込んでいるまさにその瞬間にもとろりとしたサンダルウッドの香りが感じられ、飲み終えたあともしばらく喉の奥に残り続ける。
織田さんははじめて訪れたゲストに飲み物を提供する際は、この“香り”を手がかりにすることが多いという。
「もちろんケースバイケースですが、はじめていらした方には、普段飲まれるお酒のほかに、どんな香りがお好きかをまず尋ねることが多いです」
「気をつけなくてはいけないのが、日本語では『味』という言葉が、英語の『flavor』と『taste』両方を意味すること。つまり日本語においては、味のなかに香りの概念が含まれてしまっているんです。ですからお客様にはまずそのふたつを分けて考えていただくようご説明します」
日本のゲストに香りの好みを尋ねると、85%以上の人が「柑橘」と答えるという。
「『柑橘の香りが好き』と言うときに、多くの方が想像しているのは柑橘の『香り』ではなく『味』です。いわゆるさっぱりした酸味のことを柑橘と呼んでいる。けれどそれはどちらかというと、tasteであってflavorではない。ですから、化粧品とか香水のように、直接口には入れないもののなかから香りを想像していただくとわかりやすいです、とご紹介することが多いです」
大まかな香りのイメージを聞いたあとは、花、グリーン、シナモンやバニラ、と好みをさらに細分化して聞いていくこともある。
香りの印象はあくまで属人的なものなので、「癖の強いもの」というよくあるオーダーにも注意を払う必要があるという。
「漢方薬のような苦味のあるリキュールは、『癖が強い』と感じる方が多いものの筆頭です。けれどなかにはセロリのような香りを『癖が強い』と感じる方もいるでしょう。じつは『癖』というのは、人によってかなり解釈が分かれる概念なんです」
「であれば、癖を感じる方が比較的多いものを素直に出せばいいのかもしれません。でも、それだとあまり楽しくないし、印象にも残らない。お客様がご自身で好みを探り当てられるようアシストした上で、その方にとってこれはおもしろいとピンポイントに感じられるような一杯を提案したいと思っています」
美味しいカクテルの「方程式」と、その限界
織田さんのカクテルの創作方法は独特だ。
多くのバーテンダーは、その言葉どおりお酒の“魂”であるスピリッツ(ウォッカ、ジン、ラム、テキーラなどに代表される蒸留酒)を中心にカクテルを組み立てる。
主眼にあるのは「どのようなスピリッツをどう使うか」であり、リキュールはスピリッツを引き立たせるための脇役として用いられることが多い。
しかし織田さんの場合はその逆で、スポットライトが当てられるのはあくまでリキュールだ。スピリッツはあくまでも、リキュールを引き立たせるために選ばれる。
「これは薬草酒に限らずリキュール全般に言えますが、砂糖によってのみ引き出される香りの世界を持っていることが大きな魅力です」
「リキュールのもとになるスピリッツに果実や植物を加え、そこにすこしずつ砂糖を入れていくと、果実や植物が本来持っているえぐみや苦味がある地点でピタッとおさまり、その代わりに香りが前面に出てくる瞬間がある。これは砂糖の力によって引き出される、リキュールのなかにしか存在しえない香りの世界だと思います」
繊細な香りを味わってほしいリキュールには、さっぱりとした香りのジンを合わせる。また、強い香りを持つローズマリーのようなリキュールを使う場合は、その香りだけが浮かないよう、同じく特徴的な香りを持つテキーラやメスカルといったスピリッツを合わせることもある。
「美味しいカクテルをつくるためには、ある程度『味の方程式』を知っておく必要があると思います」
「特におもしろいのは、本来であれば相性の悪い味同士の組み合わせにほかの要素を加えることによって、想定外の調和が生まれるケースです。たとえば、タンニン分の強い赤ワインと酸味の強いレモンジュースを混ぜると普通は美味しくありませんが、そこにシロップの甘みを加えると、相反するふたつの味がはじめて共存できるようになる。そういった原理を応用したカクテルはたくさんあります」
味の組み合わせを考える際は、「材料に含まれる物質同士がどのような反応を起こすか」という化学的な知識を用いることもあるが、あくまで補助として使うに留めているという。
「カクテルは分析機に乗せるのではなく人間の舌で味わうものですから、こういう組み合わせなんだから美味しいに決まっている、という態度でカクテルを出すことは、私がいちばんやりたくないことです。もしかしたらもっとできることがあったんじゃないか、と疑問の余地が残っているくらいの状態でお客様に出すほうが、人間関係としてはいいんじゃないかと」
俳句を詠むように、カクテルをつくる
では、そのようなカクテルをつくる際のインスピレーションのもとはどこにあるのかといえば、自然の風景や日常的なワンシーンがきっかけになることが多いという。
「琵琶湖に沈む夕日から着想を得ることもありますし、雨のなかを落ち葉が流れていって排水口にぽとんと落ちる、といったごく日常的な景色をもとにすることもあります。ただ、イメージする風景に材料の色や風味をリンクさせようとはあまり思いません。たとえば、美しい水の流れに着想を得たとしても、あえて真っ黒なリキュールを使うこともある」
「同じ水の流れを目にしていても、それを綺麗だと思う人もいれば恐ろしいと思う人もいますよね。水の流れというもの自体が、いくつものイメージを内包している。そういった景色から自分が感じたひとつではない印象みたいなものを、どうカクテルに落とし込めるか、いつも考えています。つくり方に決まった順番があるわけではないので、言葉では説明しづらいのですが……。強いていえば、俳句を詠むようなイメージが近いかもしれません」
「俳句を詠む」ようにカクテルをつくるという織田さんのスタイルは、なかなか個性的に感じられる。しかし時代を遡れば、初期のカクテル文化はむしろ文学や芸術と分かち難く結びついていたのだという。
「近年はInstagramやGoogleマップのおかげでバーへのアクセスが格段によくなり、より多くの人がバーを訪れるようになりました。情報が広く行き渡ったことはもちろん素晴らしいことです」
「ただ一方で、店の評価だけを頼りにバーを選ぶ人が増えたことで、かつてのカクテルカルチャーが持っていた色気のようなものが失われつつあると感じることもあります」
「現代ではそういう飲み方をされる方はほとんどいませんが、かつては、小説の登場人物が飲んでいたお酒の味やシーンを追体験したくてバーに来るお客様が多かったそうです。そうした色気をどのように現代のバーのなかに取り戻すことができるかは大きな課題ですね」
14世紀から続く歴史。薬草リキュールの深淵なる世界
「喫酒幾星」のオープンは2014年。
喫酒幾星を開業する前の織田さんは、京都の大学を卒業してから20代後半まで、複数の飲食店で働きつつ法律家を目指していたという意外な経歴の持ち主だ。スペインバルでのアルバイトをきっかけにバーの世界に足を踏み入れ、さまざまな店に足を運んだ。
その際、特に興味を引かれたのが薬草リキュールだったという。
「京都市内のあるバーでシャルトリューズやイザラ(フランスのバスク地方で生産されている薬草リキュール)を飲ませてもらい、こういった美味しいお酒があるのならもっと探求してみる価値がありそうだ、と感じたのが独立を考えるようになったきっかけです」
「みんなが飲まないような変わったものをあえて飲みたい、という自分の性格もありましたね(笑)。15年ほど前のことですが、当時は薬草酒を飲む人が日本ではほとんどいなかったこともあって、薬草酒専門のバーというのはまったくなかったと思います」
ウイスキーやワインなどに比べると薬草リキュールは種類が限られるため、手が出しやすかったという理由もある。当時は国内で流通していた薬草酒はわずか30から40種類ほどだったため、そのほぼすべてを1年ほどで飲みきることができた。
「現代ではこれほどまでに多くの人々に愛されているワインでさえ、ほんの50年ほど歴史を遡れば、日本では安酒としてさほど飲まれていなかった不遇の時代が見えてきます。その時代にあっても懸命にワインの魅力を伝えてきた先人たちによって、徐々に文化が切り拓かれてきた。私も薬草リキュールを通じて、同じことをしたいんです」
しかし、種類の少なさに反して非常に長い歴史を持つところが薬草酒のおもしろさでもあると織田さんはいう。
「近代リキュールは、記録に残っている最初のアルコール蒸留が行われた11世紀以降にヨーロッパで誕生し、14世紀ごろから修道院を中心に広まっていった歴史を持ちます」
「蒸留酒自体の特性がまだ謎に包まれており、神秘的な『火がつく水』として捉えられていた14世紀ごろは、修道院がお酒の研究機関的な役割を兼ね備えていた。そこでつくられる蒸留酒に薬草を漬け込んだリキュールは、なんらかの霊的な力を持つと信じられていたんです」
「その後、17世紀に入り近代科学が発展してくるに従って薬草リキュールの研究はしだいに衰退していきますが、さらに時代が下ると、薬効成分の入ったリキュールが健康によいものとして重宝されはじめる」
新興のリキュールメーカーが乱立したのもこの頃。現在のリキュールメーカーの創業年代も1800年代半ばから後半に集中しているという。
「けれど19世紀末から20世紀初頭になると今度はカクテルブームが起こり、薬草リキュールはしだいに飽和していく。長い歴史のなかで幾度ものブームと衰退を繰り返してきたお酒だからこそ、現代に残っている薬草リキュールはそれらを乗り越えたものたちなんです」
ノンアルカクテルの必要条件とは
そして織田さんは2022年12月、京都の菊浜エリアに喫酒幾星に続く2店舗目をオープンさせた。
この「幾星 京都蒸溜室」は、ノンアルコールスピリッツ専門の蒸溜所を有するノンアルコール&カクテルバーだ。店内では、オリジナルのノンアルコールスピリッツ「miatina」を使ったカクテルをはじめ、さまざまなノンアルコール飲料を味わうことができる。
オープンのきっかけはコロナ禍で営業が制限された際、喫酒幾星を訪れるゲストにノンアルコールスピリッツを提供したところ、「アルコールを飲んでいるのと変わらない高揚感を楽しめた」という感想を多く耳にしたことだったという。
私たちはときおり、美味しいノンアルコールカクテルを飲んでいてアルコールに近い高揚感を味わうことがある。これはどうしてだろうと尋ねると、織田さんはノンアルコールカクテルをカクテルたらしめるものについて語ってくれた。
「それは『濃縮した香り』と『苦味』ではないかと思いました。このふたつの要素が入っていないと、ノンアルコールカクテルは美味しいジュースや単なるソフトドリンクになってしまう。ですからノンアルコールスピリッツで濃縮した香りに、自作したノンアルコールビターズで苦味を加えることによって、アルコールにより近い印象のノンアルコールカクテルをお出ししています」
「『濃縮した香り』と『苦味』というふたつの要素を足すことで何が変わるか。一杯を飲み終えるまでにすこし時間がかかるんです。ソフトドリンクのように、5分で一気飲みはできない」
「概念的にいえば、カクテルとは時間を生み出すことのできる飲み物だと捉えています」
「すぐに飲み終えることができないから、じゃあその間は一緒にいようね、という時間が生まれる。ノンアルコールカクテルは、本来なら5分で済むはずの時間を40分や1時間くらいまで延ばせるような飲み物であるべきだと思っています」
「究極に美味しいカクテル」は存在しない
織田さんのカクテルのつくり方や接客の姿勢、そしてバーという文化そのものについて語る言葉の端々には、ロジカルな部分とアーティスティックな部分の両方がバランスよく共存しているように感じられる。
それは、ほかのお酒ではなく薬草リキュールだけが持つ魅力やおもしろさがあるとしたら何か、という問いに対する答えからもよくわかる。
「薬草リキュールには薬草ならではのメディテーション的な効果があって……というような方向でお答えするのが正解だとは思うのですが(笑)、個人的には残念ながらあまりそうは思わない。目の前のお酒が薬草リキュールであるのかワインであるのか、はたまたウイスキーであるのかは、その時代を生きている人たちの目線で切りとるからまったく別のものに見えるだけで、実際にはあまり変わらないんじゃないかと思うんです」
「その中身が何であれ……という言い方は、本当ならあまりしてはいけないのかもしれませんが、バーカウンターを通しているからこそお客様とのバーテンダーのあいだに独特な緊張感が生まれ、そこでお出ししたものを通じての対話が生まれる。たぶんこの時間にこそバーというものの意味がある」
「提供するお酒が美味しいことは当然、最低限の礼儀として必要です。けれど絶対指標として『究極に美味しいカクテル』みたいなものは存在しないと思うんですよ」
「もしそういうものがあるとしたら、それはお客様との関係のなかにあるだけでしょうね。そのためにはお客様にも残念ながらある程度、コミュニケーションという犠牲を払っていただかないといけないし、店主も当然それにきちんとお答えしなければいけない」
「絶対的な美味しさはコミュニケーションのなかにしか存在しえない」と織田さんは言い切る。だからこそ、「自分の暮らす街や好きな街にいいバーを見つけたなら、できるなら数年そこに通ってみてほしい」とも言う。
新しいゲストと常連客がカウンターでのひとときを共にする経験は、新しいゲストばかりが連日訪れる有名店では得がたいからだ。
街の連続性のなかでバーを楽しんでほしい。そう語る織田さんの姿を見ていたら、筆者がこれまでに通ったことのあるいくつかの好きなバーの様子が頭をよぎった。同時に、このバーが祇園のうつくしい街並みのなかにひっそりと存在していることの幸福を思わずにはいられなかった。
東京在住。フリーランスのライター/エッセイストとして、Webを中心にエッセイやインタビューなどを執筆している。『別冊文藝春秋』に短編小説「わたしです、聞こえています」掲載。『大手小町』にてエッセイ連載中。
編集、執筆など。PLANETS、designing、De-Silo、MIMIGURIをはじめ、各種媒体にて活動。
ひとの手からものが生まれる過程と現場、ゆっくり変化する風景を静かに座って眺めていたいカメラマン。 野外で湯を沸かしてお茶をいれる ソトお茶部員 福岡育ち、学生時代は沖縄で哺乳類の生態学を専攻