「頭」と「身体」の風通しを良くする。依存せず、ポジティブに嗜好品と付き合うために:医師・稲葉俊郎

高城 つかさ

嗜好品としてよく挙げられるお酒や煙草は、「健康」の観点から批判されがちだ。しかし、身体に害のあるものを考え出したらキリがないし、楽しみまで奪ってしまうことにもなりかねない。それは果たして健康といえるのだろうか。

「健康とは何か」「これからの嗜好品はどのようにあるべきなのか」……。そんな問いを抱えて訪ねたのが、軽井沢病院の院長である稲葉俊郎さんだ。

稲葉さんは、西洋医学が中心となる日本において、「健康」を「調和」と言い換え、伝統医療や東洋医学、さらには芸術や伝統芸能など、カテゴリーの垣根を越えて活動している。

稲葉さんが探究・実践してきた「医療」や「調和」の観点からみると、嗜好そのものや嗜好品という存在はいかにして捉えうるのだろうか。嗜好品との付き合い方はどうしたらいいのだろうか。

軽井沢にて、稲葉さんに話を聞いた。

(聞き手・文:高城つかさ 写真:田野英知 編集:小池真幸)

(撮影協力:軽井沢星野エリア ハルニレテラス)

芸術、文学……「医療」のカテゴリーを拡大する

軽井沢駅に降り立ったとき、筆者は自然と全身の力が抜けるのを自覚した。開けた、と思った。そして同時に、この移動中ははっきりと閉ざしていた、とも思った。

東京駅で行き交う人々の波に飲み込まれないように、充満する焦燥感に引っ張られないように、無意識に守っていた数時間前の自分を、開けた自分が見つめていた。

そんな自分の頭に浮かんだのが、医師・稲葉俊郎さんが2020年に出版した『いのちは のちの いのちへ』の一節だった。

食事も生活も、人との温かい交流も、芸術も音楽も、本来は「あたま」ではなく「からだ」全体で感じ、受け止めるものだ。だからこそ、“全身の毛穴”を開くように、まず体の感覚を開く必要がある。外界と内界を繋ぐ通路として。

『いのちは のちの いのちへ ーひとのこころとからだ』

軽井沢病院の院長として働く稲葉さんは、「医療」のカテゴリーを拡大し、西洋医学のみならず伝統医療、民間医療など幅広く取り組むほか、「伝統芸能」「芸術」「文学」などを横断し、つなぎ合わせながら、講演や執筆を行う。

稲葉さんが現在の活動をはじめたのは、小さな違和感の積み重ねによる結果だった。

「医学生だったころから、西洋医学の『病』を敵とみなす考え方や、身体の声に耳を傾けない方針に違和感を抱いてきました。日本では西洋医学を中心に学びますが、医療の歴史や、西洋医学よりも長い歴史を持つ伝統医療にはあまり触れられない」

「原点に立ち返ろうと東洋医学や伝統医療を学ぶなかで、それらの『自分』が主体となるあり方に共感し、西洋医学だけにとらわれない医療に興味を抱いたんです」

「しかし、次の課題となったのが巨大な医療システムでした。西洋医学に偏った現在の医療のあり方を変えていくためには『医療』というカテゴリー自体を拡大していかなければいけないと思い、『芸術』や『文学』など垣根を越えた活動をしています。……といっても、私にとっては医療も芸術もすべてがつながっていて、参加者の方から『これも医療とつながっているんですね』と言われて驚かれることが多いのですが(笑)」

「一杯のコーヒー」はなぜ飲める?  組織を大切にする理由

カテゴリーを横断したり拡張したりする活動を進めるひとのなかには、個人で動く場合も多い。けれど稲葉さんは、軽井沢病院という組織に属しながら働いている。その理由を聞いてみると、稲葉さんは組織における意思決定プロセスの重要性を挙げてくれた。

「個人事務所を立ち上げたり、私立病院を作ったり、ひとりでなら、あるいは好きなひとだけを集めた場所を作れば、自分の理想を早く叶えられます。ですが、自分の理想や幸福をただただ追求するのは、私がやりたいことではないんです」

「私はむしろ、いろんなひとが目を通して、しっかりと意思決定をしていくことに重要性を感じています。分断が進んだりして、自己実現に目を向けられがちな世界だからこそ、『興味がないひとたちを含めた他者とどうしたらわかり合えるか』、そして、『どのようにして先に進んでいけるか』というプロセスを大切にしたいと思うんです」

2017年に刊行した稲葉さんの著書『いのちを呼びさますもの』は、“個のいのち”に焦点をあてた一方で、コロナ禍に刊行した『いのちは のちの いのちへ』は、“個と場の関係”について書いた。

なぜ“場”について記したのか。その根底には「“個”と“場”がともに生きられる世界を目指したい」という想いがあるという。

「たとえば、蛇口をひねれば水が出てくるのは、誰かが水を運んでくれているから。いま飲んでいるコーヒーもそうで、誰かがコーヒー豆をつくって、輸入してくれて、コーヒー豆を挽いてくれているから、飲めている。そんなふうに、たくさんのひとの力や関係性によって今の自分がいる」

「にもかかわらず、『自分や自分たちだけさえよければいい』という発想になりがちなひとが多いのではないかと疑問に思うことがあります。自分の居心地の良さだけを求めたり、理想の実現だけに目を向けたりするのは、その瞬間は良くても、長期的に見ると、必ずしもいいこととは思えないんですよ」

「個」の嗜好品と 「場」の嗜好品

コーヒーは丸山珈琲 ハルニレテラスブレンド

稲葉さんは、お酒も煙草も嗜まないというが、「個」でも「集団」でもない、嗜好品との付き合い方をしている。それは、無理して摂取しなくとも、嗜好品をコミュニケーションのなかだちとして用いることで「ともに嗜む」方法だ。

「妻とは毎日のように『きょうは何を飲みたい気分?』と話します。コーヒーが飲みたいのか、紅茶なのか、緑茶なのか。それを聞くと、なんとなく、お互いの身体の状況がわかるんです」

「天候や前日までの過ごし方など、あらゆる要因が絡んでいるので、飲みたいものが同じこともあれば、違うこともあります。『コーヒーの気分のときにはちょっと疲れている』と具体的な言語化はできないのですが、お互いが感覚として理解しあっている部分がありますね」

そこで、稲葉さんがよく嗜む「嗜好品」をたずねると、少し間を置いて、「ホットの麦茶、ですかねえ」と答えた。

「私はよく、意識を切り替えるための手段として、お茶を飲んでいます。お茶を飲むと、1回リセットをして自分自身のあるべき居場所に戻れる感覚があるんです」

「月に一回ほど東京にいくのですが、そのときには必ずといっていいほどコーヒーが飲みたくなるのがおもしろいところで……。われわれは無意識に引っ張られている『場』の力に『個』である自分を適応させるための動きをしているんだなと実感します」

稲葉さんは、意識的に嗜好品を取り入れることによって、自らにいい作用を起こそうとしている印象を受けた。一方で、「ひどく落ち込んだときに酒の力で忘れた」「やってられないから煙草を吸う」といった話を聞くこともある。

稲葉さんは、どのような意識で嗜好品を嗜んでいるのだろうか。

「お酒でも、煙草でも、お茶でも、その行為に対してどういう風な意味付けをしているのかは、頭以上に身体がわかっている気がします」

「たとえば、校庭を10周走るとしますよね。それが、自ら『マラソンをしたい』『体力をつけたい』と思って走るのと、先生からの罰でいやいややらされるのとだと、同じ校庭10周でも身体にあらわれるものは異なると思うんです。嗜好品もそうで、どのような意味付けのもとでなされた行動なのかで、その人の身体に起こる反応はまるで変わると思うんですよ」

「もちろん、物質の力を借りて強制的に人体を動かすのは、ある種の生活の知恵だとも思います。たとえばお酒も、もともとは儀式的な場において日常の枠組みを解体するものとして用いられていました。身分や序列を全部なくして、『カミ』のもとに対等な立場になるという意味付けがあったんです。それは時にポジティブにも作用したでしょう」

「一方で、現代は『辛いことから逃れたい』『傷ついたことを忘れたい』といったように、ネガティブな要素が嗜好品と強く紐づいている場合が多くあります。ネガティブなものに対抗するための嗜好品は、どうしてもその範疇から出られない気がします。わたしは、ポジティブな意味付けの中で嗜好品は摂取するべきだと個人的に感じています」

ドイツ語の「Genuss-Mittel(楽しみの手段)」を「嗜好品」と訳し、最初に使ったのは、文豪の森鴎外ともいわれている。彼は短編小説『藤棚』(1912年)において、嗜好品についてこのように書いた。

薬は勿論の事、人生に必要な嗜好品に毒になることのある物は幾らもある。

『藤棚』

森鴎外の一節を稲葉さんの言葉に当てはめるのなら、「薬」にするのも「毒」にするのも自分自身ということになる。その行為は、あくまで「個」が主体となっている。

その嗜好品は、本当に身体が欲しているのか?

ここまで「嗜好品」と「個(私)」との間にあるものを探って話を聞いてきたが、次第に「嗜好品を欲する私自身」へと関心がうつっていった。

私たちは嗜好品を欲する自分自身と、どのように付き合っていく必要があるのだろうか。そこで「嗜好品」を嗜む前の「個」は、そもそもどのような存在なのか、聞いてみた。

「嗜好品に限らず、あらゆるところで私たちを待ち構えているのが中毒です」

そう、稲葉さんは話す。

「嗜好品というとアルコールやカフェインといった成分が含まれた飲み物が浮かびますが、SNSや食べ物もそのひとつです。中毒とどう向き合うかは、人間である以上、避けられない問題だなと思います」

「脳が快楽を覚えたときに『その快をもう一回味わいたい』という回路が入ってくる時点で、中毒症状が起きているんです。ノンカフェインやノンアルコールも選択肢のひとつですが、それらを選択したとしても中毒症状が出ていないかというと、それは異なります」

では、私たちは中毒とどのように向き合っていく必要があるのだろうか。

「人間の構造上、中毒症状はなかなか避けられないものかもしれないけれど、もし身体に違和感があったり、心がSOSを発したりしたときに、それを自覚し、きちんと回避できるかどうかが、嗜好品とうまく付き合うための一番のポイントになるんじゃないでしょうか」

話を聞いていると、稲葉さんは「立ち止まる」ことを大切にしているように思える。

自分の欲求は本当に心から湧き出ているものなのか。どのような意味付けを持って嗜好品を摂取しているのか……。ささいな身体の違和感も見逃さず、自分に問い続け、考えることをやめないということだ。

「嗜好品のなかでも、身体が本当に欲しているわけではなく、『頭が求めているから取っている』ときがあると思うんです。コーヒーの看板を見かけたら条件反射で『コーヒーを飲みたい』と思ったり、『〇時にはかならずコーヒーを飲む』と決めていたり……」

「でも、本当に身体がコーヒーを求めていたなら、目の前に出された瞬間にがぶ飲みするように身体が動くはずです。大半の場合は、そうではないですよね。そういうときに『〇時にかならずコーヒーを飲まないとやっていけないと頭で思い込んでいないか』『頭だけではなく自分の肉体は何を求めているのか』といったように、頭と身体、それぞれに目を向けるのが大切なのだと、私は思うんです」

そんな稲葉さんも、日々気づき、立ち止まり、反省しているのだという。

「私自身も、なんとなくコーヒーが飲みたいと思って淹れた後に『やっぱり身体が求めていなかった』ということがあって。そういう日は『頭と身体が乖離していた日だったんだな』と小さく反省します」

「嗜好品を欲する私」──頭と身体と区分けする方法

話はさらに、「嗜好品を欲する私」そのものへと向かっていく。

中毒症状に陥っていることを自覚するためには、「嗜好品を欲している」と認識した段階で立ち止まれる、俯瞰する力が必要なようだ。

しかし、自分のことを客観視するのは難しい。

そんな不安にも似た疑問に、稲葉さんは「日頃から頭と身体のあいだに窓を開けて、風通しを良くしておけば、中毒的な状況を把握しやすくなって、適切な距離を測れるようになる」と話してくれた。

「抽象的なイメージになりますが……。まず、頭と身体のあいだに窓があると想像してみてください。『頭』と『身体』は、『書斎』と『寝室』といったように、ひとりの人間のなかで異なる空間があり、区分けされている、と。ドアがなく、すべてがつながり続けていると、いろんなストレスを受け取ってしまうので、開閉できることが重要です」

「もう少し俯瞰してみると、『ひとつの身体』という意味ではひとつの家でもありますよね。私は、実際の家と同じように、頭と身体のドアを開けて換気をする感覚を忘れないようにしています」

たしかに、同じ家でも書斎で仕事をするときと、寝室でゆったりくつろぐときだと、同じ家でも体感は異なる。私たちは自然と移動することで気持ちを切り替えている。

抽象的な喩えのようだけれど、私たちが日々の生活で体感していることを「私」自身に向けることを、稲葉さんは日々実践しているのだった。

「多くのひとは、頭(書斎)と身体(寝室)が完全に切り離されていたり、ドアを閉めたまま鍵を失くしてしまっているなと、私はいつも思っているんです」

「嗜好品や物欲と向き合う前に、そもそも頭で考えていることと身体が求めていることが分離していると、これは『欲しい』と思わされているのか、純粋に身体が求めてるのかがわからなくなってしまう。それに慣れてしまうと、中毒症状にも気づかず、身体の悲鳴にも耳を傾けづらくなります」

だからこそ、「安心して開ける場所で換気させる必要がある」と稲葉さんは語りかける。

「自宅でも、美術館でも、カフェでもいい。頭と身体とで会話させることを日常的にやっていくと、だんだんと開閉の感覚が身についてきて、嗜好品はもちろんのこと、自分自身ともうまく付き合えるのではないでしょうか」

「身体のなかでも『腹』に意識を向けてみると、理解しやすいかもしれません。『腹を括る』『腑に落ちる』といったように、身体のなかでも『腹』にまつわる言葉が多く残されていますよね。もしかすると昔のひとも、『頭で考えるといろいろな邪念や嘘が入ってくるから、むしろお腹でどう思うかを考えたほうが、身体から声や言葉が出る』と考えていたのかもしれません」

「頭と身体の関係性がしっかりしていると、中毒状態になって頭(脳)が侵されそうになっているときに分離に気づくことができると、稲葉さんは繰り返す。

それだけではない。「頭」と「身体」に意識を向けることを繰り返していれば、本当に「欲しいもの」がわかるようになる。それは、あらゆる情報やモノであふれ、常に選択を迫られている現代人が身に着けるべきものなのかもしれない。

嗜好品から考える「個」と「社会」、そして「他者」との関係

軽井沢病院の「おくすりてちょう」。表紙には障害のある方々の手描きによる、一つひとつオリジナルな絵が描かれている。処方箋のシールを貼る通常のお薬手帳としても使えるが、「自分にとってのくすりはなんだろう」「大切なあなたのくすりはこういうものではないか」と、身近に「くすり」を考えるきっかけにしてほしいという思いで、あえて中身は白紙にしている

今回稲葉さんの話を聞いて印象的だったのは、「嗜好品」と「私」というミクロな存在の話をしていながら、「場」や「環境」など、どんどん「個」から「全体」へと広がり、そしてまた「個」に立ち返っていくことだった。

稲葉さんは、「個」という土台があってこそ、嗜好品に依存せず、飲み込まれず、ポジティブな意味付けで“嗜む”ことができると教えてくれた。

一方で、稲葉さんは競争社会のなかでの嗜好品との付き合い方に疑問を抱いていると話す。

「効率化や競争が当たり前となっている現代では『速さ』や『高さ』に価値がおかれることもありますよね。それらを求めるひとたちのなかには、身体がどう感じるかを無視して自分のなかのブレーキを取っ払い、走り続けるためにアルコールやカフェイン、ドラッグに依存するひとが多いような気がしています」

「その積み重ねが、自分の頭と身体のドアを閉めっぱなしにしてしまいがちな今の流れにもつながっているんじゃないか、と思うんです」

「速さ」や「高さ」を求め、走り続けるひとたちのなかには、嗜好品そのものを活力に変えているひともいるかもしれない。しかし、実際は「速さ」や「高さ」を重視する社会に無意識的に最適化しようとしてしまっているのかもしれない。

「むしろ、どれだけのものが犠牲になるのかと、マクロな視点で考えることが必要だと感じています」

自分たちが何に飲み込まれ、何を飲み込もうとするのか考えるとき、「私」の視線は世界へと向けられる。

「誰よりも速く一点突破していく姿は派手で目立つし、一見すると良さそうに見えますが、共同体社会を作ってきた人類の歴史をたどると、社会と調和することも人間が学ぶべき課題の一つでもあり、そうした共同体の原点を忘れたくないと思う自分がいます」

「『個人の幸福を追求していく』ことにとらわれすぎてしまうと、『場のなかで揉まれて、制限がかかる』ことが失われてしまいます。制限されることをデメリットのように思うひともいるかもしれませんが、これだけいろんなひとが共生している世界ではある程度のブレーキがかかって当然ですし、むしろエゴが暴走しない安全装置として大事なことなのかな、と思います」

「人類全体で歩調を合わせながら進んでいくことのほうが、私にとっては大切なんです。それは妥協とは違います。遠くの目標を共有しながら、自我を脱皮しより大きな自己へと成長していくプロセスです」

「『人類全体(場)』としてどう在るべきかを課題として抱え続けることが、『私』と『世界』のささやかな『調和』です。『個』のことだけ、『場』のことだけを考えるのではなく、ミクロとマクロの両方を往復しながら生きていくことが、大切なのだと思います」

稲葉さんは、「個」に立ち返る瞬間も常に「他者」の存在を忘れていない。

調和』のためには、『個』の在り方と同じくらい、『良き友』が必要だと思っています」

「『自分(たち)だけが幸福だったらいい』という発想を周囲がもてはやしすぎることは、結局そのひとをだめにしてしまうと思うんです。それよりも、頭と身体が分離しているときにそれを指摘して気づかせてくれるひとのことを大切にしたいな、と私は感じます」

「ひとによっては、耳の痛いことをいうひとを『うるさい』と跳ね返したくなるかもしれません。ただ、他者の存在は、自分が見たくない影を照らしてくれる鏡のようなものだとも思います。影の意識を忘れてしまうと、どんどんブレーキを外して、嫌なことは忘れて、自分を肯定するために嗜好品を消費し、依存する生活から抜け出れなくなってしまいます。まずは自分自身を調律して、『場』や『他者』に意識を向けていきたいですね」

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Author
Writer

1998年生まれ。2018年よりライターとして活動をはじめる。2021年より社会人大学生として放送大学に入学し、文化人類学や博物館学を履修。趣味は読書、散歩。

Editor
ライター/編集者

編集、執筆など。PLANETS、designing、De-Silo、MIMIGURIをはじめ、各種媒体にて活動。

Photographer
写真家

1995年、徳島県生まれ。幼少期より写真を撮り続け、広告代理店勤務を経てフリーランスとして独立。撮影の対象物に捉われず、多方面で活動しながら作品を制作している。