連載

遊びに「攻略しない快楽」を取り戻す——「ゲーム」と「飲食」の交点で見出す、世界を豊かにする方法【ゲーム研究者・井上明人×宇野常寛】

連載「『飲まない』大人の暮らし方

飲み物、ことアルコール飲料は紀元前より「嗜好品」として人々に親しまれてきた。日本においては約2,000年前、稲作の定着と共に本格的な酒造が開始されたとされており、現在も嗜好品の一つとして確固たる地位を築いているように見受けられる。

しかし、徐々にその立ち位置は変化しているのではないだろうか。「あえて飲まない」ソバーキュリアスなライフスタイルが普及し、「酒=大人のたしなみ」という構図は少しずつ崩れつつある。現代を生きる私たちにとって、「酒」とはどのような意味を持つのか。また、ソバーキュリアスなライフスタイルの発現の背景には、時代のどのような変化が隠されているのだろうか。

この連載「『飲まない』大人の暮らし方」では、評論家・宇野常寛がさまざまな知見を持つ識者たちとの対話を通して、多角的に嗜好品としての酒の現在地や、「飲まない」大人のライフスタイルについて考えていく。

第2回にお迎えするのは、ゲーム研究者の井上明人氏。ゲームや遊びの研究者である井上氏は、広く親しまれてきた「飲み会」という遊びの現状をどのように見ているのだろうか。ゲームと飲食の共通点、それらの遊びから得られる快楽をめぐる対話から見えてきたのは、「脱攻略」というキーワードだった。

(文:鷲尾諒太郎 写真:田中愛実)

第1回:スマホの向こう側ではなく、目の前のものに誘われる——哲学者・谷川嘉浩と考える「欲望」の見つけ方

お酒とゲームは、「コミュニケーションのモード」を変化させる

宇野:飲み会は大人の遊びの一つとして支配的な地位を占めてきたと思うのですが、昨今あえてお酒を飲まないライフスタイルを選び、飲み会も敬遠する人が増えていると言われています。批評や思想の世界ではボスの機嫌を取るために取り巻きがその敵の悪口をいうような陰湿な文化は今でも繰り返されていて、そこまで極端なものはさすがに他の業界では少ないでしょうけれど、とりあえず「飲み」から入る文化はこの国の人間関係への偏重や、昭和の労働観への信仰を象徴しているように思えて僕はやっぱり苦手です。もちろん、「飲酒」という文化そのものを批判する気はまったくないのですが、ゲームや広義の「遊び」の研究者である井上さんは、この流れをどう見ていますか?

井上:アルコールを摂取して会話すること、つまり飲み会以外の「コミュニケーションのモードを変化させる手段」が増えたということなのかなと考えています。「共にお酒を飲むこと」はコミュニケーションを盛り上げるための手段として、人類史上もっとも成功したものですよね。古今東西、多くの人が「お酒を飲めばコミュニケーションが活性化される」と信じてきたし、実際にある程度はその通りになっているわけです。

一方で、僕たちはこれまでにもお酒以外のコミュニケーションのモードを切り替える手段を見つけてきました。ゲーム領域で言えば、ここ数年で一気にボードゲームを楽しむ人が増えています。ボードゲームって、素性がわからない相手とでも楽しめますし、コミュニケーションの突破口となるツールとしてとても優秀なんですよね。

もちろん、ボードゲーム自体は古くから存在するものですが、その人気が最近になって復活しているということは、お酒を伴うコミュニケーションの現状を考えるにあたって、示唆を提供してくれるのではないかと思っています。

宇野:なるほど。飲み会とゲームは、コミュニケーションのモードを変化させるものという意味で共通していると。

井上:ボードゲームの話ではありませんが、対人コミュニケーションに苦手意識がある方でも、オンラインゲーム上であればスムーズにコミュニケーションが取れるということが指摘されています。というのも、日々の実空間では相手の目線や表情を読み取りながらコミュニケーションを取っているわけですが、対人コミュニケーションに苦手意識がある方々の多くは、目線や表情の小さな変化が読み取れないことが、コミュニケーションに齟齬を来していると言われているんです。一方、相手の実際の顔や身体が見えないゲーム空間であれば、表情や仕草を読み解く必要がなく、コミュニケーションを円滑に進めることができる。

つまり、オンラインゲームとはコミュニケーションをする際の僕たちの身体感覚を変容させるものと言ってもいいと思うんです。また、「一緒に飲むと、相手との距離感が縮まるような気がする」と言う人が多くいるように、お酒もまた僕たちの身体感覚を変えるものだと思います。

そして、テクノロジーが発達したことによって、コミュニケーションのモード、言い換えれば身体感覚を変容させるツールが増えてきた。ゲームで言えば、ヘッドマウントディスプレイを使用するVRゲームがその代表例でしょうし、他の例を挙げればSNSもその一つだと言えるかもしれません。そういったさまざまなツールの出現によって、「飲みニケーション」一強状態が崩れてきたのではないでしょうか。

飲み会よりも、SNSよりも面白い「遊び」を探して

宇野:お酒がコミュニケーションのモードを変化させるツールとして最も優秀だったからこそ、飲み会は人類史上最も支持されてきた遊びとしての地位を築いてきた。しかし、情報技術が進化し、さまざまな代替手段が生み出されたことによって、その地位が脅かされていると。僕もその通りだと思います。

SNSへの言及がありましたが、僕は「ポスト飲み会」はSNSだと思っているんです。特にテキストコミュニケーションが中心になっているSNS上に広がっている光景は、飲み会そのものですよね。つまり、飲み会でもSNSでも「共通の敵」の悪口を言い合うことによって、相互にメンバーシップを承認している。

Xで最も簡単にたくさんの「いいね」を集める方法は、特定のクラスタにとっての、敵に対して過激な悪口をぶつけることです。そうすれば、「特定のクラスタ」からたくさんの「いいね」が集まり、その仲間だと承認されることになる。この構造は飲み会のそれと全く同じだと思います。そういった意味で、ポスト飲み会はSNSなのではないかと。

井上:最近のSNSに感じるつまらなさは、飲み会で感じるそれと近い気がします。

宇野:僕はSNSがここまで普及したことによって、「遊び」に危機が訪れているのではないかと思っています。かつて支配的な地位を占めていた飲み会がその地位を追われ、遊びが多様化するかと思いきや、今度はみんながSNSでのおしゃべりばかりに夢中になっているわけです。

たとえば、本が売れなくなったと言われて久しいですが、それはSNSによって24時間、誰かと無料でおしゃべりができるようになったことと無関係ではないと思います。みんながおしゃべりに夢中になるあまり、本を読む時間がなくなっている。本だけではなく映画などのコンテンツも、SNS上でのおしゃべりとの可処分時間の取り合いという競争に負けてしまっているんだと思います。

たしかに、おしゃべりは面白い。というよりも、もっとも簡単に承認を獲得できる。だからこそ「敵」をなじる快楽に人々は溺れ、それが換金や集票に活用されている。だから、その面白さに対抗できる別の「面白さ」を得られる「遊び」を見つけなければ、世界は豊かになっていかないのではないかと思います。「飲み会」やSNSではない「遊び」が、コミュニケーションのモードを多様にし、そのことによって世界を多様なものに変えていくのではないでしょうか。

「一人遊び」が、飲み会/SNS的な快楽を相対化する

井上:とても興味深い問題提起ですね。

宇野:飲み会やSNSでのおしゃべりといった遊びが僕たちにもたらすのは、「承認の交換」に起因する快楽だとすると、その快楽に抵抗できるのは、「一人の快楽」なのではないかと思っています。僕はランニングや昆虫採集が好きなのですが、基本的にそれらを一人で楽しんでいるんですよね。

もちろん友達と遊ぶことも好きなのだけれど、一人で遊ぶことでしか得られない快楽はたしかに存在しているし、それによって承認の交換から得られる快楽を相対化できるはずだと考えています。しかし、「一人の快楽」が軽視されているというか、コスパが悪いと思われているような気がするんです。

井上:よくわかります。一口にゲーマーと言っても、ゲームの楽しみ方は人それぞれなのですが、僕はオンラインゲームがそれほど好きではないんですよね。2013年、僕はほとんど『Minecraft』の世界に住んでいたと言っても過言ではないくらいプレイしていたのですが、オンラインで誰かとつながるわけではなく、スタンドアローンな状態で楽しんでいました。

それで十分に楽しめたし、僕のように「一人で何の問題もない」という人は少なからずいると思います。でも、逆も然りで「一人遊びはさみしい」という人もたくさんいると思うんです。

宇野:そうですね。だから、多くの人が誰かとお酒を飲んでいるのでしょうし、SNSで誰かとおしゃべりをしているのでしょう。でも、そういった承認の交換から得られる快楽に淫しているだけでは、世界のモードは変わらない。だからこそ、その快楽に抵抗する手段としての「一人遊び」の面白さを知ってもらいたいと考えているんです。

井上:何か特定のものにどっぷりハマって抜け出せなくなることを“沼る”とか”沼にハマる”と言いますよね。僕は長らくキーボード沼にハマっていて、時間があるときはキーボードを改造したり、自作したりしていました。

何かの“沼にハマる”ことによって、一人の快楽を感じられると思うのですが、ある程度のお金と時間を費やさなければ“沼”に至れないという意味で、ハードルは決して低くありません。お酒やSNSほどコストが低く参入でき、それらと同じくらい面白いことってなかなかないですよね……。

宇野:僕は、たとえば「飲み会」やSNSに対抗できるのは「本当の飲食」なんじゃないかなと思っているんです。「飲食を攻略しようとしないこと」と言い換えてもいいかもしれません。

井上:飲食を攻略しない?

宇野:はい。そう考えるようになったのは、井上敏樹さん(脚本家。スーパー戦隊シリーズや平成仮面ライダーシリーズなど、特撮作品を中心に手がける)の言葉がきっかけです。彼は僕の身の回りで最もグルメなのですが、彼と一緒に食事に行くと、料理が出て来た瞬間に食べてしまうんですよね。

そして「どんな料理でも出来たてが一番うまい。だから、絶対にじっくり味わおうなんて考えるな」と。つまり、何も考えず、何もしゃべらずに目の前に出されたものを楽しむことによって、飲食することが持つ本来の快楽を楽しむことができる。そういった飲食の楽しみ方に、「一人の快楽」を知るためのヒントがあるのではないかと思うんです。

飲食に宿る「攻略しない快楽」

宇野:ゲームに結びつけてお話するならば、僕が大学生の頃に最も時間を費やしたのは『三國志Ⅶ』で、これは三國志に登場する武将や君主となり、中国全土の統一を目指すゲームなのですが、ある程度攻略できたなと思ったあと、あえて何もせずに成り行きを見守って楽しんでいました。

そのときに感じたのが、「攻略を優先することによって、失われてしまう快楽がある」ということ。比喩的に言うならば、「ゴールすることを優先するあまり、“Bダッシュの快感”が損なわれてしまう」。『スーパーマリオブラザーズ』でも、「いかに効率よくステージをクリアするか」にフォーカスを当ててしまうと、Bダッシュの気持ちよさを感じにくくなってしまうのではないかと思っているんです。

その感覚が確信に変わったのは、ランニングをするようになってから。やはり目標タイムを定め、そのタイムを切るために走るとランニングそのものの快楽が損なわれてしまうんですよね。

井上:とても重要な論点だと思います。ゲームをつくる側の論理で言うと、なるべく多くの人に楽しんでもらうために、ゲームに攻略要素を入れたくなるんですよ。そういった要素がなければ、大半のプレイヤーは何をすればいいのかわからず、途方に暮れることになってしまいますから。「攻略すること」は、最もわかりやすいゲームを楽しむ方法なんです。

しかし、「攻略すること」がプレイヤーのクリエイティビティを奪ってしまうこともある。というのも、社会学者の稲葉振一郎さんがむかし、「『やりこみ要素』がゲームをつまらなくさせてしまったのではないか」といった趣旨のことを言っていたんです。80年代くらいは、確かに制作側が丁寧に用意した「やりこみ要素」はあまり一般的ではなくて、プレイヤーたちがクリエイティビティを発揮して、さまざまな楽しみ方を見出していた。

だけど、次第に制作側が「やりこみ要素」を用意するようになったことによって、プレイヤーのクリエイティビティが発揮される余地がなくなってしまったのではないか、という旨のことを指摘しています。それと同じように、「攻略すること」だけにフォーカスすることで失われてしまう面白さがある気がしますね。

宇野:「ポスト飲み会」、別の言い方をするならば「ポスト遊び」を考える上で、「攻略しない快感」はとても重要な要素になる気がします。SNSは「いかに『いいね』を集めるか」のゲームだし、このゲームの楽しみ方はどうしても「攻略」になりやすい。

そして、純粋な飲食には「攻略しない快感」があると思うんです。飲食や食べ歩きという行為が「攻略」できるようになったのは、飲食店に星を付けて評価するサービスが登場したからですよね。でも、そういったサービスが登場する以前、「食べること」や「飲むこと」は攻略するものではなく、それ以外の快感を純粋に楽しむための遊びだったのではないかと思います。

飲食を含め、すべての遊びを「攻略することの快楽」から離陸させることが求められているのではないでしょうか。

ポスト飲み会時代を楽しむための「脱攻略論」

井上:面白い視点ですね。実は、かつて僕はグルメサービスが用意した「攻略可能な飲食」を楽しんでいた時期がありました。以前、六本木に職場があったので、徒歩圏内にグルメサービス上の評価がとても高い飲食店がたくさんあったので、順番に攻略していたのです。

すると、当たり前のこととして「グルメサービス上の評価は、必ずしも自分の感覚とはマッチしない」ことの実感が深まっていくんですよね。より具体的には、食べ物のジャンルによって「信頼度」が異なることがわかったんです。たとえば、ラーメンであればサービス上の評価と自分の評価はおおむねマッチするけれど、そばの場合は全く違いました。

そうして、いろいろなジャンルのいろいろなお店を攻略しているうちに、自分の味の好みが明確になっていく感覚があったんです。つまり、飲食店を「攻略すること」が、「自分の味覚と向き合う」という全く別のモードに僕を誘ってくれた。

ずっと「攻略すること」だけに向き合い続けていると、快楽の焦点が攻略の方に向けられてしまうことはたしかなのだけれど、「攻略すること」がこれまで知らなかった面白さや快感を知るきっかけになることもあるのかもしれません。

宇野:飲食の世界って、社会の情報化に先んじてゲーム化が進んでいたように思うんです。たとえばワインの知識を集め、事あるごとにうんちくを語る人たちは、そういった旧来的なゲームを攻略しようとしているように感じます。そこにグルメサービスなどが加わったことで、より一層「ゲーム的な飲食」「攻略可能な飲食」が定着したわけです。

僕たちがいま向き合うべきなのは、いかに飲食を「脱攻略」させるかなのではないでしょうか。そのことが、ソバーキュリアスなライフスタイルや、ポストお酒の食文化、遊び文化を考える上で重要な示唆を与えてくれるのではないかと思います。

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