寿司や刺身、蕎麦に欠かせない香辛料、わさび。
ツーンとくる清涼な辛味は、世界的にも他に類をみない食品だ。日本人の食生活に深く浸透する、日本固有の素材のひとつである。
北アルプスの雪解け水が伏流水(地下水)となり、豊富な湧水の流れる長野県安曇野で、100年以上わさびを栽培している「藤屋わさび農園」。
その4代目として、従来の枠にはまらないユニークな活動で、安曇野のわさびの魅力を世界に発信している専務の望月啓市さん。
知っているようで知らなかったわさびの特性と栽培について、そして東洋の高級ハーブとして安曇野の「わさび」の世界展開を手がける活動について話を聞いた。
(取材・文:江澤香織 写真:江藤海彦 編集:川崎絵美)
安曇野のわさび栽培、地面全体から水が湧き出る無二の土地
暑い夏の真っ盛り。汗だくになりながら、藤屋わさび園のわさび田を訪ねると、目を見張るほどに透き通った水が足元をさらさらと流れ、なんとも涼やかで心地よい。
長靴を履いていても、ひんやりと水の冷たさが足に伝わってくる。
「飲んでも大丈夫ですよ」という望月さんの言葉に、思わず手のひらですくってゴクリ。冷たくておいしい水がカラカラの喉を潤し、生き返ったような気分になる。
こんなに透明できれいな水が、当たり前のように豊富にあることに驚く。
「地面をよく見てください。あちこちでぶくぶく泡が立っているでしょう。どこかから水を引いて来ているのではなく、地下水を利用しているからです。安曇野は、この土地全体から水が湧き出てくるんですよ」
わさびの栽培には、軟水の澄んだ水が豊富に必要である。水温も12〜13℃くらいが望ましい。
わさびといえば静岡も有名だが、わさびの栽培は「畳石式」と呼ばれる方法が一般的で、傾斜地に段々畑のようになったわさび田の山上に湧く湧水を上方から下方へ流し、河川へ排水する。
一方、長野の安曇野は「平地式」と呼ばれる栽培法を行う。周りを険しい山々に囲まれ、地面の下を雄大なアルプスの伏流水が流れている安曇野の大地では、2メートルほど掘るとどこでも水が湧き出てくるそうだ。
このように地下の湧水を利用したわさび栽培は、この地域だけだという。
辛味成分を洗い流せる、安曇野の湧き水
「わさびは、どの時期が美味しいとか、特に旬はないんです。だいたい2、3年くらいかけて成長し、収穫期を迎えます。1本が年層みたいになっていて、過ごした全ての季節がわさびに含まれているんです」
「私たちがすりおろして食べる“芋”と呼ばれる部分は、茎の一部で『根茎』と言います。茎は下ではなく、上に伸びていくので、芋の下の部分が古く、上が一番新しい部分になります。だから一本の中で食べる部分によって味の違いがあるんです」
わさびの根に近い下の方は辛味がしっかり強く、上の方はみずみずしくフレッシュさがある。
わさびは、自分で辛味成分を出しながら育ち、その辛味で自らが弱ってしまうため、湧水で常時“洗い流す”ことが不可欠。
特に根っこの部分に辛味成分が溜まってしまいがちなのだが、安曇野のように地面の下からこんこんと清冽な水が湧き出ると、その辛味はきれいに洗い流される。
安曇野の特殊な環境が、わさび栽培に最適だったのだ。
「この土地の水の良さは本当に大きいと思う。わさびは硬水では育たないし、温度も重要です。でも、人間の手で環境を丁寧に整えてあげないと、わさびは育たない。山には野生のわさびもたまにありますが、こんなに大きくはなりません」
藤屋わさび農園(or安曇野のわさび農家)では、わさびは全てその個体の旬になる時期に出荷している。わさびは一年中植えられるので、いつでも旬のわさびを食べることができる。
“本物のわさび”を食べたことがある日本人は2割?
「もしかしたら本物のわさびを食べたことがある人は、日本人の2割くらいしかいないかもしれない。ほとんどは本物のわさびを知らずに死んでいくかもしれないんです」
驚くようなことをさらっと話す望月さん。一体、どういうことなのか。
安曇野は、静岡に並ぶわさびの二大生産地だが、年間のわさびの生産量は株全体でおよそ800トン。他の野菜と比べると、1日の生産量にも満たない。芋部分だけを見ると200トンにも達しない。国産わさびの生産量は、国内の消費量より少ないのが現状だ。
「安曇野のわさびは、150年前から開拓が行われていますが、現在でも当時と全く生産量は変わっていません。これ以上増やしたくてもなかなか増やせない。栽培できる土地が限られていて、そこでしか作れないんです」
一方、日本に出回る加工品のわさびは、そのほとんどが輸入されたホースラディッシュ(西洋わさび)を主原料にしてつくられている。わさびの茎などを混ぜることはあるが、すりおろす芋(根茎)の部分はほぼ使われていないそう。
わさびの辛味成分アリルイソチオシアネートは、茎や葉にも含まれている。「日本人がわさびを日常的に使うために、加工品は大事な技術」と望月さん。
わさびの芋の部分は希少な高級食材として、寿司屋や料亭、高級レストランなどへ卸される。
このように茎や葉、根のすべてが加工品に使われ、実際に捨てられるところはほとんどないのもわさびの特徴だ。
古くから日本で愛されてきたわさび
日本の食文化に欠かせない存在でありながら、意外と知らないわさび。
わさびはアブラナ科の多年生の植物で日本が原産。水のきれいな山の渓谷、渓流などに自生するが、野生のものは珍しい。
わさびの歴史は古く、飛鳥時代の宮廷庭園の遺構から出土した木簡に「委佐俾三升(わさびさんしょう)」と記されたものが発見されている。平安時代に書かれた日本最古の薬草事典「本草和名(ほんぞうわみょう)」にも、「山葵」と記載がある。
昔から薬草として大切に用いられていたことが伺える。
わさびの栽培が始まったのは、江戸時代初期といわれている。
健康に気を使い、自分で薬を配合するほど薬にくわしく美食家でもあった徳川家康が、駿府城で晩年を過ごしていた頃に献上された有東木(現在の静岡市)のわさびを大変気に入り、門外不出にしたという逸話が残っている。有東木はわさび栽培発祥の地とされている。静岡がわさびの一大生産地に発展したのは、徳川家康の影響が大きいようだ。
一方、長野県の安曇野も静岡と並ぶ全国有数のわさび生産地だが、その歴史はあまりはっきりしておらず、150年ほど前から始まったらしい。
その頃、安曇野で盛んだ梨畑の排水用の水路にわさびを植えてみたところ、非常に良いわさびが育ったという。
最初は自家用に栽培されていたそうだが、1902年(明治35年)に電車が開通し、東京へ出荷すると梨以上の相当な高値で売れ、次第にわさびの栽培が増えていった。
安曇野は複合扇状地(複数の河川による扇状地が連なってできたもの)であり、その先端に位置するエリアは、北アルプスの伏流水が湧き水となって地下から湧き出している。「安曇野わさび田湧水群」は、環境庁の「名水100選」にも選ばれている。
日量70万トンという豊富な水が湧き、真夏でも水温は15℃を超えることなくほぼ一定だ。
この特殊な地形のおかげで、古い時代は稲作が困難で住民の苦労が絶えなかったようだが、わさびの生育にとってはまたとない恵まれた環境だったのだ。
農学部進学で気づいた、家業わさび栽培の魅力
望月さんはわさび農家の4代目として生まれ育ったが、子どもの頃はわさびに関する家業は何も手伝わず、好きなように過ごしていたという。
「すごく甘やかされて育ちました。むしろ贅沢させてもらってました」
大学生になり、居酒屋でアルバイトをしてみたら、かなり忙しく汗水流して働いても、思ったほどのバイト代を得られなかった。
「そのとき父親に、『わさび農家だったらもっと贅沢ができるぞ』って言われて、まんまと手中にハマった感じです。すんなり素直に家業に入りました。もし子どもの頃から手伝わされていたら、たぶん反発して継がなかったと思いますね(笑)」
大学は農学部だったが、わさび農家出身は珍しく、同級生たちにも興味を持たれた。大学で学んだことで、わさびは限られた環境でしか作れない凄いものだと気付き、もっとその価値や魅力を発信したいと思った。
安曇野のわさびの魅力を世界へ発信
望月さんはわさび農家の慣習を知らなかったおかげで、独自のアイデアを次々と試し、わさびを新たな世界へと導く。
今までわさび農家は、どちらかといえばクローズドで、農園へもあまり人を招き入れなかった。「安曇野の人でさえ、わさびをどのように栽培しているか、ほとんどの人が知らないんです」
望月さんは、わさび業界の常識を変えた。料理人などの訪問を歓迎し、わさびとは一体どんな植物なのか、分かりやすく丁寧に伝え、お互いに意見を交換しあう。
望月さんも、わさびを使ってくれる料理人の店には必ず食べに行くという。
「プロの料理人は、生産者やそのストーリーを大切にしてくれる。栽培の現場に来て見て学び、それをお客さんにちゃんと伝えてくれるのはとても嬉しいことです」
望月さんはメディアにも積極的に出演しわさびを紹介。海外にアピールするために始めたSNSも話題を呼び、拡散されている。
海外の人がわさびを食べたときの独特な辛味へのリアクションはSNS動画などでコミカルに描かれることも多いが、それもきっかけのひとつとなって注目を浴び、人気は高まっているそうだ。
現在は、わさびの海外輸出が伸びており、さまざまな国から訪問客が安曇野に訪れるという。
東洋の珍しい高級ハーブという認識で、フレンチやイタリアンの料理のアクセントにも使われるようになった。
イギリスやフランスでわさびをカクテルに使い、スペシャルドリンクとしてプロモーションしたこともあった。
「すりおろしたわさびでモヒートのようなカクテルを作りました。ドリンクに使うとあまりツンとせずスーッとした爽やかな感じになって、かなり評判が良かったです」
「お寿司屋さんにそのエピソードを伝えたら、日本酒にわさびを入れて、『泪酒(なみだざけ)』っていうのを作ってくれたこともあって。わさびは刺身や蕎麦など用途が限られたイメージがあると思うんですが、そこからどう広げて行こうかと。ドリンクへの活用には大いに可能性を感じています」
わさびのためのオリジナルおろし金を開発
望月さんの発案で、新しい商品も開発した。わさび専用のおろし金を造ったのだ。
諏訪の精密機械工場と一緒に、通常わさびに使われる鮫皮おろしを徹底的に研究し、高性能なオリジナルのおろし金を完成させた。
「鮫皮の一番きれいに擦れるところを研究して、それを全面に施しました。鮫皮は場所によって多少ムラがありますし、日々使っていると目が詰まってきてしまい、1年と持ちません。このおろし金ではどこで擦っても均一に詰まりがなく擦りおろせて、ずっと使えます」
「鮫皮は海外へ輸出できない国もあるのだけれど、これならOK。実はこの目のきめ細やかさは鉄の加工会社が見てもびっくりするような技術なんですよ。わさびがとてもふわふわでクリーミーになります」
擦りたてのわさびをひと口食べさせてもらった。わさび特有のツンと爽快な辛味が最初に来るが、さっとキレが良く、後にふわっとフルーティーな甘みが残る。
望月さん曰く、柿のような甘みだという。わさびは糖度がなんと16度くらいあるそうだ。
安曇野の自然の風景を思わせる、清々しく澄んだ味わいだった。
「安曇野のわさびはほとんどが直接飲食店やメーカーなどに卸されるので、市場に出回りません。豊洲市場に行っても見ないと思います。静岡に比べると一般的にはあまり知られておらず、地域のブランド力もまだまだ弱い。もっと市場価値を上げたいと思っています」
「長野県でもわさびを栽培できるのは安曇野だけで、しかもこのような平地式の栽培方法は全国でもここだけ。このすごく恵まれた唯一無二の環境をもっとしっかり生かして、安曇野の魅力を伝えていきたい」
豊かな湧水を生かした新たな挑戦「国産キャビア」
近年の望月さんのさらなる新しい挑戦は、チョウザメの養殖である。いきなり意外な展開だが、わさび田から来る湧水を利用し、チョウザメを育てている。
「あるときお寿司屋さんでキャビアが出てきたんです。それでチョウザメについて調べてみたら、自分でも養殖できるんじゃないかと思って。卵を持つまで8年かかるので大変ですが、今ようやく5年目です」
「キャビアもですが、このチョウザメ自体が鯛みたいな風味があって、刺身にするとすごく美味しいんですよ。安曇野の湧水のおかげです。サメってよくアンモニア臭と言われるけれど、それは腎臓がないから。その点、チョウザメは古代魚なのでアンモニアの分解ができてアンモニア臭もありません。歯もないから噛まないし、すごく優しい魚なんですよ」
自身で育てたわさびとチョウザメ、キャビアで安曇野産のお寿司を作るのが次なる目標。
安曇野の土地の力を最大限に生かして、高級わざびを作り、チョウザメの養殖にも挑む。世界を舞台にした望月さんの挑戦は、まだまだ止まらない。
》特集「ボタニカルを探求する」すべての記事はこちら
フード・クラフト・トラベルライター。企業や自治体と地域の観光促進サポートなども行う。 著書『青森・函館めぐり クラフト・建築・おいしいもの』(ダイヤモンド・ビッグ社)、『山陰旅行 クラフト+食めぐり』『酔い子の旅のしおり 酒+つまみ+うつわめぐり』(マイナビ)等。旅先での町歩きとハシゴ酒、ものづくりの現場探訪がライフワーク。お茶、縄文、建築、発酵食品好き。
お茶どころ鹿児島で生まれ育つ。株式会社インプレス、ハフポスト日本版を経て独立後は、女性のヘルスケアメディア「ランドリーボックス」のほか、メディアの立ち上げや運営、編集、ライティング、コンテンツの企画/制作などを手がける。
ひとの手からものが生まれる過程と現場、ゆっくり変化する風景を静かに座って眺めていたいカメラマン。 野外で湯を沸かしてお茶をいれる ソトお茶部員 福岡育ち、学生時代は沖縄で哺乳類の生態学を専攻