薬草文化を守り、遺すために。日本でたったひとりの“チベット医”が学び伝える「森のくすり塾」

川内イオ

「これはトウキです。匂いを嗅いでみて」 

薬草畑から抜かれた細長い植物の根っこに鼻を近づけると、セロリに似た、セロリよりも強烈な香りがした。

「掘り出したばかりのトウキを嗅ぐ機会はなかなかないでしょう。香りにインパクトがありますよね。この根を乾燥させたものが生薬の『当帰(トウキ)』で、煎じて飲みます。お茶に混ぜてもいいし、韓国ではサムゲタンにも入れますよ」

こう話すのは、日本で唯一のチベット医(アムチ)の資格をもつ小川康さん。

この植物には、いったいどんな効果があるのだろう?

「当帰は血管を開く効果があって、体がすごく温まります。薬草の効果はさまざまですが、当帰は野球に例えると間違いなくメジャーリーガーですね」と小川さん。

ただし、トウキは医薬品として認定されているため勝手に売買することはできないという。「もし僕がこれを『薬』として売ったら薬事法違反で捕まりますし、『薬膳料理』として料理に入れて売るのも犯罪です。でも、これは僕が個人的に育てている分には問題ありません」

育てるのはいいけど、売買は禁止……?

「以前、奈良の道の駅でも売られていました。“植物”として販売するのは大丈夫なんです。個人で栽培して、個人で食べるのも大丈夫です」。そういうと、小川さんはほほ笑んだ。

身体の感覚を通して、学びを伝える私塾

東北大学薬学部を出て、薬剤師の資格を持つ小川さんは2001年、チベット圏以外の外国人として初めてメンツィカン(チベット医学暦法学大学)に合格し、6年間、現地でチベット医学を修めて、チベット医(アムチ)の資格を得た。

チベット医学は中国、インド、イスラムの伝統医学と並んで東洋四大医学と称され、アムチは脈診、尿診によって患者を診察し、自ら薬草を収穫、鑑別し、調合して薬を作る。日本唯一のアムチである小川さんは、200種類もの薬草に精通している薬草マスターだ。

小川さんは、平安時代から栄え、「信州の鎌倉」とも称される長野の別所温泉から車で10分ほどの集落に薬房「森のくすり塾」を構える。

この薬房の薬草園にはトウキのほかにも、抗炎症や皮膚再生作用が高い生薬として知られ、野生種では絶滅が危惧されている稀少なムラサキや、古くから胃腸薬として重宝されてきたキハダ(黄柏)の樹などが植えられている。

生薬となるキハダ(黄柏)の樹。小高い崖の上に天敵の鹿から守るため囲いをし、2本のキハダを栽培している。薬になるまで、20年もの歳月がかかるという。

これらの薬草を煎じて売るのが、商売ではない。小川さんは今、アムチとしての知識と経験を活かし、戦後の資本主義と経済成長のなかで徐々に薄れ、今や消失の危機にある「日本の薬草の歴史」を発掘、研究し、遺そうとしている。

その一環として、さまざまな講座を主催し、参加者と一緒に山を歩き、薬草を探し語らうことで身体の感覚を通した学びを伝え、いつもと違う視点でモノゴトを考える「目」を育てようとしているのだ。イメージは、江戸時代に吉田松陰が開いた「松下村塾」のような私塾である。

しかし、もともと高い志を抱いてアムチになったわけではない。小川さんがチベットに向かったのは、ほとんど偶然の産物だった。その歩みを振り返ろう。

なぜインドへ渡ったのか

「化学が得意だし、薬剤師の資格をもらえるから」という理由で、東北大学の薬学部に入った小川さん。弓道部の活動に熱中しすぎて最後に燃え尽き、就職活動はしなかった。

卒業後は、仕事を転々。朝の5時から10時まで農場で働き、11時から17時までドラッグストアで働いていた時、たまたま書店で『チベット医学』という書籍が目に入り、手に取った。

もともと宗教学者・中沢新一さん監修のドキュメンタリー「チベットの死者の書」を観ていた小川さんは、『チベット医学』がきっかけでチベットに興味が募り、1991年、仕事を辞めてチベット亡命政府があるインドのダラムサラに向かった。

当時はまだインターネットが普及する前で、ダラムサラの町並みや暮らしは日本の昭和30年代のような雰囲気だったという。それを無性に気に入った小川さんは、チベット語の勉強を始めた。

それがあまりに楽しくて、3カ月の旅の後、日本に帰国してからもダラムサラをたびたび訪れ、およそ2年半勉強を続けた。その集大成として受験したのが“チベットの東大”といわれるメンツィカン(チベット医学暦法学大学)。

小川さんは、チベット語による入学試験を受けた史上初の外国人受験生だった。はたから見れば記念受験だが、全力で試験に臨むと10倍の倍率を突破し、見事に合格。2002年3月より、メンツィカンの学生となった。

独特すぎる、チベット医学のカリキュラム

メンツィカンは、入学前の準備期間が1年あり、その後、6年間、同級生25名とチベットの伝統医学を学ぶ。そのカリキュラムは独特だ。

「教科書は、『四部医典』という687ページあるぶ厚い医学書一冊だけ。その起源は8世紀にさかのぼるほど古く、わかりやすくいえば日本の古事記、万葉集の頃に作られたものです。文体も含めて、完璧な古典ですね。歴史的には恐らくインドの経典の翻訳で、インドでのさまざまな意見や考察をまとめたものだと思います」

不思議なのは、この教科書に「しゃっくりの止め方」という記述があり、「その人に知られず相手を怖がらせる」と書かれているそうだ。日本で伝わる「ビックリさせる」とそっくり。もしかしたら、インドから日本に伝わったのかもしれない。

1年に1度の試験では、『四部医典』の5分の1を暗唱し、卒業試験の際、希望者は全編の暗唱に挑戦する。母国語の本だとしても678ページを暗記するなど至難の業で、ましてや外国語で書かれた本など想像もつかない。

しかし、自ら立候補した小川さんは、4時間半をかけて暗唱に成功。ほかの成功者は7名しかおらず、難易度の高さがうかがえる。暗唱の様子はスピーカーで学校周辺にも流され、皆が聴き入り熱狂するのだという。それはさながらスポーツ観戦のようだった。小川さんは一躍有名人になった。

もうひとつ、学生に課される強烈な課題がある。

年に一度、25人全員でチベットの山中に1カ月間こもり、標高3300メートの地にベースキャンプを設営して薬草を採取するのだ。この時にチベットの医院で1年間に使用する薬草の量を採取しなければならないため、ノルマを達成しないと下山できない。

断崖絶壁を這い登ったり、荷物を頭の上に載せて川を渡ったりする命がけの日々を送る。実際に小川さんの後輩は、この課題の履修のため山で命を落とした。それでも中止にならないことからも、チベットにおける薬草の重要度がわかるだろう。

「本当にゼロベースから医療を志そうと思ったら、まずは山に行かなければならない。それを実感しました。ここまで根本から教育される機関って、ほかに聞いたことがない。チベット医学の体験から学ぶ力は、世界でもトップレベルじゃないですかね」

命にかかわるものなのに、薬を学ぶ機会のない日本

6年間の学生生活を終えた小川さんは、1年間の研修期間を経て、2009年に帰国。同年7月、長野県の小諸に富山の配置薬を扱う「小川アムチ薬房」を開店し、講演をしたり、ワークショップを開催したりするようになった(後に移転)。

そのうちに「伝えること」に興味を持つようになり、早稲田大学文学学術院に入学した。

「ちゃんと理論化しないと、正しく伝えられないと思ったんです。そのためにも大学に入り直さなければいけないと思って、早稲田大学に行きました。論文を書いたことで、こうやっていろいろ説明できるようになりました」

私塾的な教育に興味を持ったのも、大学院に通ったのがきっかけだ。日本では医薬系の大学以外では薬に関する教育が一切行われておらず、成分も効能も理解しないまま、処方された薬をただ飲んでいる人がほとんどだ。それが、なにかのきっかけで、「不安」となって噴出する。

そのカウンターとして東洋医学や漢方に注目が集まるが、決して相反する存在ではない。薬剤師として化学の結晶である薬についても、アムチとして薬草や生薬についても精通している自分だからこそ伝えられることがある——。そう感じた小川さんは、西洋医学と東洋医学という対立軸ではなく、共通点を伝えることで異文化理解を進めようとしているのだ。

薬草文化が廃れていくことへの危機感

かつて日本に根付いていた薬草に関する知恵が消えかけていることにも、危機感を募らせている。1961年に国民皆保険制度ができて、薬の量産と安定供給がスタート。1971年に薬事法が改訂され、医薬品と食品が厳密に分けられて、医薬品は勝手に売買してはいけないという法律ができた。このふたつの制度によって、日本の薬草文化が深刻な打撃を受けた。

1950年代までは簡単に薬が手に入らず、特に日本の地方では当たり前のように薬草が使われていた。その時に活躍していたのが、冒頭に記したトウキ、ムラサキ、キハダのほか、滋養強壮成分に優れたチョウセンゴミシ、整腸、抗菌作用を持つオウレン(黄連)など、効果が「メジャーリーグ級」の薬草だ。

これらが軒並み医薬品に指定され、流通しなくなったことで、効能が弱く穏やかなハーブや薬草が「おしゃれなモノ」として広まり、古来より連綿と受け継がれてきた薬草の歴史が風前の灯火になっている。

例えば、小川さんの薬草園にあるムラサキも忘れられた存在だった。

「あるワークショップで、ムラサキの話をしました。そうしたら受講生のおばあちゃんが、『うちの裏に似たようなのがあった』と言うんです。ムラサキはとても稀少なものなので、まさかと思っていたら、おばあちゃんが自宅から『これかい?』と持ってきたのが本当にムラサキで、驚きました」

「おばあちゃん曰く、小さい頃から『大切なものだから』と言われていたけど、それが絶滅を危惧されているムラサキだと知らなかったそうです。うちのムラサキは、そのおばあちゃんがくれた種を埋めて育てたものなんですよ」

絶滅危惧となっているムラサキ

またこんなこともあった。兵庫県丹波篠山市で開催した薬草ワークショップで、オウレンの話をしたときのこと。おじいさんが頭のなかをタイムスリップするようなポカンとした表情を浮かべた後に、「ああ、オウレンかい!」と言った。

「懐かしいなあ。子どもの頃は毎日、オウレンを掘ってたんだ。まだあるかもしれない」。おじいさんの言葉に従ってワークショップの参加者とともに後をついていくと、そこにはまさにオウレンが茂っていた。そしておじさんは、目にもとまらぬ速さでオウレンを掘り始めた。身体が覚えていたのだ。

日本の薬草文化を守るアイデア 

本来なら大切に扱われてきた薬草が、すごいスピードで忘れ去られそうになっている。薬草をひとつの日本の文化、そして有用な資産として捉えれば、それは大きな損失だ。

文化であり、資産でもある日本の薬草を守るためになにができるのか。小川さんはひとつのアイデアとして、「薬草を使ったまちづくり」ができないかと考えている。特区制度などで規制を緩和し、しっかりと管理したうえで、道の駅で販売したり、町の料理店で薬膳料理を出す。

こうして薬草に再び注目が集まり、「売れる」ということがわかれば、薬草の栽培や販売という新しい仕事が生まれ、それを目当てに訪れる人も増えるだろう。なにせ、日本では薬事法によって本物の薬膳料理を食べられる場所がないのだ。

小川さんは、まちづくりをする上で、町と薬草の歴史を掘り起こしてほしいと語る。例えば、江戸幕府は日本各地で「甘草(かんぞう)」の栽培を命じた。甘草は消炎効果の高いグリチルリチン酸を多く含み、古代から薬草として広く使用されてきた。

古文書を紐解くと、小川さんの薬房の近くでも当時、甘草の栽培に挑戦し、栄養価の高いため池の底の汚泥に植えたものの、失敗したと記されているという。甘草は主に中国のウイグル地方の砂漠に生えているのだが、江戸時代にその情報を得る術がなかったのだ。

ちなみに現在、中国の経済成長によって中国国内での漢方薬の消費量が増えた結果、甘草を輸入するのが難しくなっている。そこで日本の大手漢方薬メーカーが鳥取砂丘などで甘草の栽培を始めたところ、なんとか根付いたのだが、有効成分の濃度が中国産よりも薄くて、使い物にならなかった。

そこで甘草をゲノム解析し、「グリチルリチン酸」の生成に成功したのが2011年。しかし、それから10年経っても量産化に成功したという報道はない。結局、江戸時代から今も変わらず、甘草は中国産が頼りなのだ。こうした歴史を踏まえたうえで、町をあげて甘草の生産に挑む地域が出てきても面白いのではないか。

答えを求めない学びの場

小川さんは、座学だけではなく山を歩いたり、薬草園で薬草の匂いを嗅いだり、実をかじったりしながら、ここに記したような話をすることが生きた学びになると考えている。

コミュニケーションを大切にしているから、薬房では小川さんもどんどん参加者に問いかけ、常に会話が生まれている。最近、日本の学校で導入が始まったアクティブラーニングのようなイメージだ。

今回のインタビュー中、小川さんが大量の赤い実の入った瓶と、巨大な根っこが入った瓶を持ち出してきて、なかに入っている液体を振る舞ってくれた。

赤い実が入ったものはチョウセンゴミシを入れた焼酎で、もうひとつは朝鮮人参を入れた焼酎だった。チョウセンゴミシの焼酎は、ひと口飲むと一瞬で胃のあたりがカッと熱くなった。

チョウセンゴミシの実。

「もし僕が『風の谷のナウシカ』に出てくる赤い木の実を実写化するならこれですね。山梨のある地域で自生していて、採ってきたんです」と小川さん。チョウセンゴミシ=『朝鮮五味子』は、甘味、酸味、辛味、苦味、塩味の5つの味を持つことから名付けられた。確かに、乾燥した実を口に含むと、噛むごとに甘味、苦味など複雑な味とその変化を楽しめた。

朝鮮人参を入れた焼酎は、のどを通ると体の隅々まで滋養が行き渡るような感覚があった。日本でも朝鮮人参を作っているエリアがあり、名人からもらったものを漬け込んだそうだ。

ひとつの答えを求めるのではなく、思考の広がりや新たな気づきを楽しむ小川さんとの会話は尽きることがなく、あっという間に日が暮れた。

「学問はスポーツだ」と楽しそうに語る小川さんは、机上だけの“お勉強”とは無縁。小学校の講演で、毒のある実を実際に食べて見せて口が回らなくなったこともあるが、「あれが最高の教育です」と笑う。彼にとって、それが身体を通した本質的な学びなのだ。

森のくすり塾の扉は、誰にでも開かれている。そこには未知の体験がある。

(写真:川しまゆうこ)

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Author
稀人ハンター / ライター

1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントなどを行う。稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。

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お茶どころ鹿児島で生まれ育つ。株式会社インプレス、ハフポスト日本版を経て独立後は、女性のヘルスケアメディア「ランドリーボックス」のほか、メディアの立ち上げや運営、編集、ライティング、コンテンツの企画/制作などを手がける。

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