オーストラリアに生まれ、子供の頃から多様な食文化に触れ合ってきたというシェフの石坂秀威さん。
「QUAY」「Bennelong」など世界的に知られるファインダイニングレストランで修行を積み、オーストラリアでU30(30歳以下の若手料理人が対象)の料理コンテスト「Appetite For Excellence Young Chef of the Year」にて優勝。来日してレストラン「INUA」の立ち上げからスーシェフ及び料理開発に携わった後、海藻の栽培を行う「シーベジタブル」に参画。未知なる海藻の探究を続けながら、「noma Kyoto」での料理開発や、大阪・関西万博の小山薫堂プロデュース・シグネチャーパビリオン「EARTH MART」に気鋭のシェフとして参画するなど、多方面での輝かしい活躍は今更ながら言うに及ばない。
石坂さんの類稀なる独創的なアイデアや表現、料理への情熱はどこから生まれてくるのか。幼少時の原体験から現在までの歩み、そして“おいしい”の在り方や今後の展望について聞いた。
(取材・文:江澤香織 写真:川しまゆうこ 編集:笹川ねこ)
かつて体験したことのない一杯、未知の味覚に震える
石坂さんは目の前に材料を並べ、今回の取材のために用意してくれた、輝くようなルビー色の液体をグラスに注いだ。

一見ロゼワインやベリー系ジュースのような優しい雰囲気があるのに、飲んでみると程よい薫香と複雑に広がる奥深い旨みが感じられ、心地良い余韻が静かに長く喉に響く。見た目と味のギャップにいい意味で裏切られる。

「赤はハスカップの色、そこに北海道の花として知られるバラ科のハマナスの香りを移したコンブチャ、それから味噌ウォーター。これは水に溶かした味噌を一度凍らせて濾したエキスです。あとは“カボチャ節”を削って出汁をとったもの。カボチャ節とは、カボチャを燻(いぶ)し、鰹の荒節の製法で特別に作ったものです。鹿児島の枕崎で伝統製法の鰹節をつくる金七商店の瀬崎祐介さんに、野菜でもできないかと色々試していただき、カボチャがダントツでおいしかったんです」

想像を超えるクリエイションに、その場にいた一同が興奮してどよめく。
「僕の場合、飲み物として作っているのではなく、液体料理として作っています。例えば、僕にとってはお茶と出汁は同じ。陸の植物で抽出するか、海の植物で抽出するかの違いです」
お茶やハーブをはじめボタニカル素材や土を探索してきたDIG THE TEA編集チームにとっても、深掘りする世界が、海洋や海藻へと一気に広がる一言だった。
筆者は2023年、伊勢丹新宿店で毎年行われる「サロン・デュ・ショコラ」という世界中のチョコレートが集まる催事で、驚異的な味わいのデザートを食べたことがあった。

彩りも豊かな緑の海藻を使った、見たことのないようなデザート。海藻の可能性を探求し、水質資源の価値創造を目指す会社「シーベジタブル」が出店していたのだ。一口食べて、言葉が出なかった。同席していたフードジャーナリストの友人と顔を見合わせ、目を丸くしてお互い身震いした。味覚に頭が付いていかず、不思議な未知の味わいと、陶酔するおいしさの狭間で圧倒され、思考が吹っ飛んでしまったのだ。
このときにキッチンにいたのが石坂さんだった──。はたして、石坂さんはどれだけの素材と向き合い、どんな発想と調理法で、どれほど手をかけて探求し、表現しているのだろうか。
料理好きな両親と多文化な環境で、様々な料理に触れた幼少期

多民族国家のオーストラリアは歴史的に移民が多く、特に都市は多様な人種が入り混じり、レストランも多国籍だ。メルボルン出身の石坂さんはシドニーで育った。両親は日本人だが、幼少時から多文化な環境に身を置き、それらを自然に吸収していった。
「歴史が浅いので、オーストラリア料理と聞かれると返答に困ることがあります。でもその代わり、いろんな国の料理を本格的なローカルの味で食べられる機会が多かった」
学校でお昼に毎日食べていたお弁当も、食を通じて異文化と繋がる時間だったという。
「僕は、親が作ってくれたお弁当を持って現地の学校へ通っていたのですが、周りの友人たちのランチを見せてもらうと様々な違いがあって面白かった。ホカホカの炒飯を保温容器に入れて持ってくる子もいれば、ピタパンに焼いた肉を挟んでいる子もいたりして。『それおいしそうだね』『一口ちょうだい』とか言って、自分のおにぎりと交換してみたり。文化の違いを肌で感じていましたね」
「近所には幅広いジャンルの飲食店がありましたし、よその家庭に呼ばれて、いろんな国のご飯を食べることも子供の頃から日常でしたた。そういう意味では、小さい頃から食べているものの種類は、一般の人より幅広く経験しているかもしれません」
両親は料理が好きで、カレーやパスタにはじまり様々な国の多様な料理を作り、和食もよく作ってくれたという。朝食には味噌汁とご飯、焼き魚が並ぶこともあった。日本にいる親戚から昆布や鰹節などの調味料を送ってもらい、日本的な家庭料理を食べることも多かったそうだ。

「自分はそれが普通だと思っていましたが、今考えると代え難い経験で、両親には本当に感謝しています」
石坂さんは、子供の頃から食べることが大好きだったという。8歳の時、シドニーに初めてできた回転寿司に行き、そのおいしさに夢中になって、「大きくなったら寿司を作りたい」と言っていたそうだ。
とはいえ、最初から料理人を志したわけではなく、学生時代はサッカーに夢中になり、スポーツ選手を目指していたと振り返る。成長するにつれ選手になることは現実的に難しいことに気付く。それなら選手をサポートできる仕事に就きたいと考え、スポーツに特化した栄養士の勉強を始めた。
オーストラリアでは、専門の栄養士は医師に並ぶような難関な資格とされている。栄養士になるために今自分ができることは何か。将来を考えた石坂さんは、まずは料理を作ることから学ぶことにした。栄養の専門学校に通い、レストランの現場で修行したのだ。
両立するのは大変ではあったが、いつの間にか料理をするのが楽しくなっていた。それまで自分で料理をすることはあまりなかったが、昔から両親が料理する姿をよく見ていたせいか、どんな食材をどう調理すればいいか、無意識に感覚的に理解していたようだ。
生産者と繋がり、現場を体感することで広がる料理の可能性
石坂さんにとって、料理人は進む道が明確だった。
昨日より、今日の料理はよくなっているか──。自分の中で日々の評価を付けやすく、努力がそのまま成果に反映される。石坂さんは、どんどん料理を任されるようになった。
オーストラリアには、日本の飲食業界のような長く厳しい修行や師弟関係はなく、自分の働きが良ければ、年齢や経験年数は関係ない。自身の現在地と、さらに成長するために次にやるべきこともはっきりしていた。飲食業界は常に人手不足で、できる人はどんどん責任あるポジションを任せてもらえる環境なのだ。
「オーストラリアのレストランは日本と比べると規模がひと回り大きいことが多く、100席、200席と回していかなければならない。料理人だけでも20人くらいの比較的大きなチームで動いていました。必然的に多様な国籍のいろんな考え方を持つ人たちと毎日を過ごすことになるわけで、彼らと話し合うのは刺激的でした。多様な文化を持つ人々と常にコミュニケーションを取っていたことは自身の成長にも繋がり、良い経験だったと感じています」
オーストラリアは食材も豊富だった。土地はずっと広いが日本と少し似ていて、南北に長いため、北と南で全く気候が違う。その土地土地に合った、良質な食材と出合えた。時間があるときは自身も生産者に会いに行き、生産者が直接店に届けてくれることも多かった。
石坂さんが働くレストランのシェフは、生産者との繋がりを非常に大事にしていた。
「日本のようにきっちり正確な日時に届く物流じゃないので、生産者本人が届ける方が安全で確実だったんです。彼らは来たついでにレストランで食事をしてくれたり、一緒にコーヒーを飲みながら打ち合わせしたり。物流があまり良くないおかげで、直接会って話せるコミュニケーションがあったのは、ある意味大きなメリットだったかもしれません」

U30の料理コンテストへの参加は、最初は友人の料理人が挑戦するのを影で手伝っていたそうだが、友人が結果を出せずに苦悩する姿を見ながら、何がいけないのか自分でも納得のいく答えに辿り着けず、それならと自らもチャレンジしてみることに。
地区予選も含めて何段階もの審査を経て、石坂さんは決勝に進出。オーストラリアでトップレベルといわれるレストランで働いていた石坂さんには、店に泥を塗るわけにはいかないという大きなプレッシャーもあった。
こうして、初挑戦で見事に優勝を掴んだ石坂さん。
「自分では特別なことをやったとは思ってなくて、決めたからにはやれる限りのことを全力でやっただけ。どういう食材が課題に出るのか分からなかったので、できる限り知らない食材や苦手な食材を無くしたくて、家でひたすら料理をつくり続けました」
「いろんな未知の食材を買ってきて、時間を決めていろんな調理法でつくる、というのをできるだけ数多く繰り返していました。最終的には優勝して賞金をもらえたけれど、それでも実際は赤字でしたね(笑)」
優勝者には世界中のどこでも好きな場所で料理の研修が受けられるという特典があり、石坂さんが選んだのはアメリカだった。
石坂さんの料理人人生において大切にしたい要素のひとつと言える、生産者との繋がり。アメリカにはそのお手本となる先進的な取り組みをしている注目すべきレストランがいくつかあった。
「素晴らしい体験でした。お店の造りも料理の内容も提供の仕方も、もちろんすごく面白かったのですが、それ以上に、食材との向き合い方を改めて考えさせられ、この経験から自分の作る料理が大きく変わりました」

農園で、五感を使って生きた素材の状態をよく知ることができれば、料理の幅は格段に広がる。
「僕らは通常、収穫後の、いわば死んでしまった野菜を調理する。でも畑に行ってまだ生きて成長を続けている野菜を見せてもらうと、その成長過程や個々の熟成状態によって味や香りや食感が違い、それをいつどんな風に収穫するかでも違ってくる」
「本来は食べない茎や葉などが思いがけない素材として使えることもある。食べてみて、一見おいしくないと思う素材でも、味の個性として捉えれば、料理人の発想次第で無限の可能性があることに気付かされました」
赤く熟したトマト、まだ青い未熟なトマト。良い悪いではなく、どちらも料理によって全然違う生かし方ができ、素材の一生のすべてが料理になる。石坂さんはアメリカでの経験を経て、生産者との繋がりがなかったら絶対に生まれないような新しい発想で、面白い料理を作ることができると改めて学んだ。
日本の食文化に惹かれ、探求に情熱を注ぐ
U30で優勝すると独立して自分の店を持つ人が多いが、偶然にも石坂さんの次なる挑戦は日本から白羽の矢が立った。
世界の美食シーンに異次元の革命を起こしたデンマークの伝説的レストラン「noma」のフィロソフィーを受け継いだレストラン「INUA」が東京にオープンするというタイミングで声がかかったのだ。
いきなりよく知らない土地で、一度も会ったことのない凄腕のシェフのトーマス・フレベルと一緒にレストランの立ち上げから関わることは大きな賭けであったが、石坂さんに電話をかけてきてくれたnomaで働く友人は言った。
「彼は100年に一度現れるかという類い稀なる料理人で、彼の元で料理をするのは間違いなく大変だが、間違いなく面白い」

石坂さんはこの言葉を信じて、この未知の挑戦に挑むことにした。
「いつか日本で働いてみたいという思いはありました。でも日本の料理業界は長く厳しい修行を経なければ一人前になれない、というイメージがあったので、普通に働くことは難しいと思っていました。INUAは東京のど真ん中にあるけれど、一緒に働くシェフのトーマスさんはドイツ生まれで、職場のカルチャーはグローバルだった。これはまたとない面白いチャンスだと思ったんです」
INUAのテストキッチンで料理開発を進めるうちに、石坂さんは日本の食材にどんどん興味が湧き、魅力を感じるように。
現在シーベジタブルの顧問を務める海藻研究者の新井章吾さんとの出会いも大きかった。50年近く国内外の海に潜り、海藻を研究している新井さんのおかげで、INUAでは日本でも突出して多種類の海藻を料理に使うようになったのだ。
こうしてオープンしたINUAは、大きな反響を呼び最速でミシュラン二つ星を獲得。
しかし、未曾有のコロナ禍に直面し、惜しまれながらクローズせざるを得なかった。最後までINUAに残った石坂さんだったが、新井さんとのご縁から、シーベジタブルの料理開発として新たな道を歩み始めることになった。
シーベジタブルでは、海藻に特化した料理開発を担当。日本各地へ出かけ、海にも潜った。海藻はまだまだ未知の部分が多く、とれたての海藻を海で実際に見て触ることは石坂さんにとって新鮮な体験だった。
「日本は島国としてユニークな形をしています。海岸線が複雑に入り組んでいて湾が多いので、多様な種類の海藻が育ちやすい。日本の海には1500種類以上の海藻が生息しているといわれます。沖縄と北海道では気候が違うので、全く違う種類の海藻が育つ。これだけ多くの海藻に出合えるのは貴重な経験でした」

日本には知られざる食材が数多くある。日本の食材を探求し、広く深く掘り下げていくことがとにかく一番面白い、と石坂さんはいう。来日した当初は都道府県も分からなかったので、自宅の壁に子供用の日本地図を貼っていたという。そこには全国各地の特産物のイラストが描かれていた。
「その土地その土地に、風土に根ざしたおいしい郷土食があるんだと知りました。日本の歴史的な食文化、保存食や発酵食文化も独特で興味深い」
「発酵は食料を保存して人類が生き延びるために発達した文化ですが、日本ではそれ以上に食材をよりおいしくするために発酵の力を使ってきたのが特徴的です。その発想を現代にどうアップデートして料理に落とし込むかを考えるのはとても楽しいです」

「幸せな料理人は、幸せな料理を作る」
石坂さんの考える、“おいしい”の基準とは何だろうか。
「僕の考えでは、生産者さんは、ひとつの正解、ひとつの“おいしい”を目指さなくていい。“おいしい”の基準は時と場合で変わるので、自分が思う確固たる“おいしい”を見つければいい。その場所だから、その人だからこそ作れるもの。そこに惹かれて人が集まってくる、というのが僕の思う正解です」
「万人に向けて、普遍的なおいしさというのはない。100人みんなが食べて、みんながおいしいというのは絶対にないと思う。だからこそ料理人は、ブレない芯みたいなもの、この人の味というか、自分自身のアイデンティティをしっかり持つべきです」
「それでいて、矛盾するように聞こえるかもしれないけれど、僕自身は自分の中の“遊び心”を失くしたくない。料理は面白い、楽しいと思うから新しい発想が生まれてくるので、僕は一生職人にはなれないんだと思う。それがある意味自分の芯といえるかもしれない」

石坂さんは料理の技術はもちろん、料理人としての在り方にも目を向ける。そして、「料理人は料理をしていない時の姿にその人の本質が問われるのではないか」と口にした。
「今の時代、料理人はただ料理をするだけの人ではなくなった。一緒に働く仲間との接し方、生産者とのやり取りなどにもその人の姿勢が現れる。どんな考え方で、どのように人と関わり、どんな志を持っているか。その人となりを磨いていくことが大事だと思う」
「英語には“Jack of all trades”(よろず屋、ジェネラリストのような意味)という表現があって、これを料理人に当てはめると、料理では常にトランプでいうキングやエースを目指さないといけないのだけれど、ジャックのレベルでなんでもできるようにもするべき、という心構えです。例えば厨房の機械が壊れたら、なんとか自分で直してみるとか、ホールの人が急に休んでしまっても代わりができるとか。いざという状況の時にさっと動ける人はかっこいいなと思います」
石坂さんはチームで動くことも多く、その物理的マネジメント以上に、個々人の心理状態、精神的ケアまで気を配ることを心がける。まるでサッカーのコーチのように、マネージャーのように、プレイヤー一人ひとりのコンディションを把握し、その人を最大限に活かすには、どんな環境を作るのがいいか考える。
チームの人間関係を大事にすることは、最終的には料理に反映されると感じている。
「昔、先輩が言った言葉に、“happy chefs make happy food”(幸せな料理人は幸せな料理を作る)というのがあって、逆にいうと、幸せじゃない料理人は、それが味に出てしまう。だから直すのは料理ではなく、料理を作る人間が変わっていくことが非常に重要です。目に見えないところなんですが、その環境作りもすべて含めて料理です」

シーベジタブルを経て、石坂さんの次なる目標は、自身の店を作ること。
日本に来た当初は、INUAで7、8年働いたら再びオーストラリアへ戻るつもりだった。コロナ禍によってその計画は壊れたが、思いがけない縁が繋がり、シーベジタブルでは海藻と向き合う唯一無二の経験を得られた。日本で多くの尊敬できる生産者と出会い、日本の歴史や文化を深く学んだ。それらを全部置いてオーストラリアへ帰るのはもったいないと感じている。
「自分がレストランを作るなら、今こそ日本でやりたいと思っています。僕が来日してやってきた料理は、結局全部日本での知識や人との繋がりによるものなので、それらを総動員して生かしたい。今後はそのチャンスを積極的に追っていきたいと思っています」
石坂さんの言葉の端々には、今までに繋がりを持った人々への誠実な思い、敬意と感謝が滲み出ている。日本で培った多くの知識と経験、そして人の繋がりが、石坂さんの飽くなき探究心と自由なアイデアと創造力によって、今後どんな料理に表現されていくのか。
異文化を知る石坂さんが向き合う日本の食文化。次なる挑戦を応援せずにはいられない。
石坂秀威 Instagram
EXPO 2025 大阪・関西万博・シグネチャーパビリオン「EARTH MART(アースマート)」
フード・クラフト・トラベルライター。企業や自治体と地域の観光促進サポートなども行う。 著書『青森・函館めぐり クラフト・建築・おいしいもの』(ダイヤモンド・ビッグ社)、『山陰旅行 クラフト+食めぐり』『酔い子の旅のしおり 酒+つまみ+うつわめぐり』(マイナビ)等。旅先での町歩きとハシゴ酒、ものづくりの現場探訪がライフワーク。お茶、縄文、建築、発酵食品好き。
『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。
若いころは旅の写真家を目指していた。取材撮影の出会いから農業と育む人々に惹かれ、畑を借り、ゆるく自然栽培に取り組みつつ、茨城と宮崎の田んぼへ通っている。自然の生命力、ものづくり、人の暮らしを撮ることがライフワーク。
