酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。
そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。『DIG THE TEA』では連載シリーズ「現代嗜好」を通じて、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。
第7回は、思想家の東浩紀氏をたずねた。1998年のデビュー作『存在論的、郵便的』から20年以上、サブカルチャーから情報技術、政治まで幅広い領域を渉猟しながら、「誤配」の哲学を作り上げてきた東。2010年に株式会社ゲンロンを創業してからは、経営者として、思想を実践に落とし込む活動も重ねてきた。前編では、ノンエッセンシャルなものが持つ価値、人間の生における「間違い」の必要性をとおして、嗜好品の存在意義に迫っていく。(取材:2020年9月25日)
(編集&取材:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海 写真:佐藤麻優子)
エッセンシャルなものだけでは、社会は成立しない
──コロナ禍に際して、「essential/エッセンシャル」ではない余剰なものは、どんどん排除されていきました。嗜好品は、そうした「nonessential/ノンエッセンシャル」なものの代表例に思えます。
昨今の世界は、20年くらいまえの流行語でいえば「清貧の思想」に傾いていますね。その背景には、冷戦崩壊後、人類が調子に乗りすぎていたことに対する反省もあるのでしょう。僕の考えでは、これは良くない傾向です。なぜなら、じつはノンエッセンシャルな部分こそが、社会を支えているからです。エッセンシャルなものだけでは、社会は成立しないんですよ。
たとえば、観光客はノンエッセンシャルですが、実際は世界平和を後押しする役割も果たしている。観光客の本質は、政府がコントロールできない大量の人びとの行き来、つまり草の根の市民交流です。政府が特定の国に対するネガティブな政策を打ち出したとしても、「この前訪れたけれど、悪い国ではなかった」と知っている観光客がクッションになってくれる。観光客が世界中から消えてしまったら、政府がモンスター化した際に人びとを操作しやすくなり、長期的には、政治にも負の影響が出てくると思います。
──短期的にはノンエッセンシャルに見えても、長期的にはエッセンシャルなものは少なくない、ということですか?
おっしゃる通りです。要不要の判断は、短期的な軸でなされることが大半です。でも、今この瞬間は要らなくても、あとあと効いてくる可能性があるものは少なくありません。僕たちの世界はいま、全体的に、欲望を抑制することを正義とみなす流れになっていますよね。勢いで買ったりするのはやめよう、といったふうに。でも、勢いで買わないと、ほとんどのものは買う必要がないんですよ。そうすると、だんだんと生活全体が貧しくなっていく。たとえば、僕自身の話をすると、最近はまったく服を買っていません。もちろん、明日着る服がないわけではないので、それでも当面は問題ない。しかし、長期的に見ると、だんだん貧相になっていくわけです。
僕がかつて専門としていたジャック・デリダの哲学、ひいてはポストモダニズムの哲学全般においては、「エッセンシャルとノンエッセンシャルは区別できない」という共通了解がありました。そして、僕はゲンロンを10年間経営してきた中でも、同じような感覚を身をもって実感してきた。たとえば、ゲンロンスクールで開催している『SF創作講座』がうまくいっている要因は、エッセンシャルな授業のクオリティだけではなく、一見ノンエッセンシャルな、講座を通じて形成されるコミュニティの充実度にもあります。先輩と後輩、講師と生徒の関係によって形成されるコミュニティそれ自体が、受講生に刺激を与えている。受講生たちは、SF作家志望者たちのコミュニティに入ることで、継続的にさまざまな賞に応募するようになり、5年間ほど経つと実際に賞を取りはじめるようになるわけです。
これをオンライン開催にしてしまうと、飲み会などを通じたコミュニケーションの部分が消えてしまうので、コミュニティの力が弱まり、結果的に授業の効果も薄くなってしまうわけですよ。これはトークイベントでも同じです。壇上のトークというエッセンシャルな部分だけでなく、客席での会話、イベント前後での壇上と客席のコミュニケーション、登壇者が連れてきた関係者との出会いといったノンエッセンシャルな部分も、じつは大きな価値を持っていたわけです。
オンライン化は、ノンエッセンシャルなものの排除を加速させる
──ノンエッセンシャルなものこそが、エッセンシャルなものの価値を最大限に発揮するためには、じつは必要不可欠であったと。
そうです。ですから、「不要不急」を理由にノンエッセンシャルなものを排除していくと、長期的にはクリエイティビティが落ちていくと思います。先ほどのゲンロンスクールの例でいえば、客層の広がりがなくなり、売り上げも下がっていくでしょう。もちろん、僕たちがビジネスとして責任を取れるのは授業だけです。飲み会はあくまでも「勝手にやってください」という位置づけにすぎません。しかし、そのノンエッセンシャルな部分の余裕がないと、結果的に商品の競争力が落ちてしまうんです。責任を取れない外部があることで商品価値が担保されるという、奇妙な関係が成立している。必要な部分と不必要な部分は、相互依存の関係にあるわけです。
僕はゲンロンを経営してきた中で、人間を相手に商売をするときは、ノイズや勢いの部分をオーガナイズすることが大事だと学びました。ただ良い商品を作って、真面目に売るだけでは、すでにその商品を知っている人にしか買ってもらえない。全く知らない人を振り向かせるためには、何らかのノンエッセンシャルな部分が必要なんです。
そして、その余剰を実現するためには、オフラインの空間が不可欠です。エッセンシャルなものをオンラインで提供するだけで稼げる人は、じつはすでに顧客がいる人に限られています。たとえば、僕がいきなりオンラインで音楽を配信しても、誰も聴きに来ないですよね。だれもが無名から始めるわけだけど、これまではそこは路上で演奏したり、友達にチケットを売ったりと、地道な努力でカバーしていた。ところがこれがオンラインでは再現できない。
──オンライン化が進むことで、ノンエッセンシャルなものを提供する機会が、ますます減っていってしまうのですね。
いくらAmazonが普及しても、依然として本屋が必要である理由も同じです。実は僕自身は、本屋には年に数回行くかどうかなんです。50歳にもなってくると、自分が買いたい本をしっかり把握できるようになるので、Amazonでこと足りますから。でも、たとえば僕の15歳の娘が、最初から全部Amazonで本を買うようではダメだと思うんです。確かにオンライン空間は、こちらの目的がはっきりしていれば一気に答えを返してくれますが、知らないものには出会いづらい。一方で、本屋に行くと「いろんな本がある」ことがわかりますよね。これがすごく大事なんです。
Netflixも同じです。いま振り返ると、TSUTAYAの空間は非常に重要だった。Netflixでは現時点でのおすすめしか出てきませんが、TSYTAYAに行けば「いろんな映画がある」とわかるじゃないですか。この「いろんなものがあるとわかる」という体験が、オンラインではまかなえないんですよ。
──オフラインにおけるノイズという意味では、嗜好品は完全にノンエッセンシャルなものですよね。
嗜好品は「外す」確率を高めてくれます。人間はふだん、相手が喜ぶことしか喋ろうとしません。でも、お酒が入って酔ってくるといつもとは違うことを喋るようになる。もちろんそれが当たることもあれば、外れることもある。
その毒にも薬にもなる部分が重要なんです。ノンエッセンシャルなものによるノイズは、コミュニケーションを悪化させる可能性もある。とはいえ、こうした予測不可能な部分がないと、コミュニケーションは同じことの反復になってしまい、文化も社会も死んでしまうと思います。
人生は間違いだらけ。だからこそ、豊かで良いのである
──失敗するリスクを冒してでも、ノンエッセンシャルなものを志向していく必要があると。
僕は、誤配、すなわち「間違う」ことは人間の本性であり、それこそが多様性を生み出していると。人間は常に間違い続けているし、僕の人生も間違いだらけです。そもそも愛や信仰など、人間にとって最も尊いとされるものは、じつは間違いによって支えられている。正解を探すように愛する相手を探しても、結局理想の相手には出会えません。だれかを愛するためには、「間違う」ことを受け入れないといけない。そのことを、ヨーロッパの哲学者たちは「パラドクス」とか「不可能な経験」といったキーワードで言い表してきました。でも、そんなに神秘化させる必要はありません。単に「愛は間違いから生まれる」んです。
他にも、デリダは「正義とは不可能な経験である」と言いましたが、これは要するに「正義とは間違うことを受け入れることだ」ということです。正義とは法の外にあるものですから、最終的には法律ではなくて、根拠なく善悪の判断を決めざるを得ないケースは少なくない。根拠がないので、結果的には間違ってしまうこともあります。だけれど、そのようなリスク自体をポジティブに受け止めることができなければ、正義そのものがなくなってしまうわけです。
卑近な例を挙げれば、ゲンロンカフェは最初はまったく採算が取れず、失敗かなと思っていました。でも、万策尽きて試しにイベントのニコニコ生放送をはじめたら、これが大当たり。いまではゲンロンの大きなアイデンティティの一つになっている。10年間、ゲンロンの経営者として活動していく中で、経営判断というのはそういうものだということに気づきました。間違うことを認め、ポジティブに受け入れながら、前に進んでいくしかないんです。
そもそも、正解ばかりを求めていたら、僕は哲学もやっていなかっただろうし、子どもを作ることもなかったでしょう。いまの世の中、経済合理性だけを考えるなら、子どもを作ることはリスクとコストが高すぎますよね。でも、そうしたリスク回避を突き詰めると、最終的には病気や事故を恐れて家に閉じ篭もるしかなくなる、そんなの本末転倒じゃないですか。人生は間違いだらけだからこそ、豊かで良いのである。これが僕の人生観です。
──東さんはよく「ゲーム的」という言葉を使って、ゲームのルールを決めるのは観客であるのだから、プレイヤーだけでなく何らかの外部性が必要だと論じています。「間違いを受け止める」というのも、そうしたゲームの外部性を受け入れる必要があるということですか?
ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の話ですね。自分のアイデンティティは、じつは自分ではなく周りの人が規定するというのが、言語ゲーム論の肝だと思います。人は誰でも自分の観客を持っていて、観客の見方が変わると自分も変わっていく、フィードバックループでしかない。だから、自分の中で「俺はこういう人間なんだ」と決めてもしょうがない。世間から求められるものがどんどん変わっていく中で、どんどん自分が変わっていく。そういうなかでなんとなく一貫性があるかのように振る舞うしかない。それが、「間違いをポジティブに受け止める」ということです。
──最初から一貫していた“ふりをする”ということでしょうか?
そうです。悪い言葉でいえば「捏造」です。「ゲンロンは最初からゲンロンカフェをやりたかったんだ」という物語を、後ろから捏造していく。でもそのことで自分の新しい可能性が見えてくる。そうした遡行的なかたちでしか、アイデンティティは作れないと思うんですよ。
少し話が逸れますが、日本のリベラルに欠けているのは、こうした「間違い」をベースとしたアイデンティティ構築だと思います。保守は間違いに寛容で、さまざまな過ちをパッチワーク的に補修しながら、アイデンティティを作り上げていきます。けれど、もともと設計主義的な発想のリベラルは、効率の良い国や社会のかたちを設計するので、間違いを許さない。それが単純なかたちになると、「戦前は完全に間違っていたけれど、戦後、新生日本に生まれ変わりました」という、いわゆる「自虐史観」になるわけですね。
でも、人間や国家が一気に生まれ変わるなんて無理な話なので、結局は保守の議論に負けてしまう。「古来いろいろと間違ってきた。しかし、そのなかで一貫したものがあり、それこそがリベラルの理念なのだ」というロジックでアイデンティティを作ったほうがよいと思います。
誤りを認めることで、はじめて自立できる
──東さんは1998年に刊行された『存在論的、郵便的』でデビューしてから、サブカルチャーから情報技術、政治など様々な分野を横断して論じていらっしゃいますが、その背後には「誤配」の哲学という一貫性、つまり、東さんの思想の根底には、「間違い」に対する肯定があるということでしょうか?
はい、理論的なバックグラウンドはデリダの哲学です。もともと僕は「固有名論」に取り組んでいました。たとえば、「夏目漱石」を論理学的に定義するには、「夏目漱石はXである」「Xは『坊ちゃん』を書いた」「Xは松山で先生をやっていた」「Xは男性である」と並べていくことによって、あるXという個体を指定し、そのXを夏目漱石とみなす、というやり方があります。
しかし、この方法論には大きな弱点がある。僕たちの日常会話では「夏目漱石は実は『坊ちゃん』を書かなかった」という議論も成立しますが、今述べたような論理学的な定義では、「Xは『坊ちゃん』を書いた」と「Xは『坊ちゃん』を書かなかった」という二つの矛盾する命題が並存することは認められません。つまり、X=夏目漱石という文字列は何も意味を持たないということになってしまいます。でもぼくたちは、日常で普通に「じつはXは○○ではなかった」という表現をよく使っているのですね。これこそが固有名の謎で、僕が『存在論的、郵便的』で論じた中心的なテーマの一つです。
そこで僕は『存在論的、郵便的』で、「固有名は訂正可能性によって定義すべきだ」という議論を展開しました。「夏目漱石」という名前にくっついた命題はたくさんあるけれど、それらは常に訂正可能で、その訂正可能性こそが固有名の本質だという議論です。「夏目漱石は『坊ちゃん』を書かなかった」「夏目漱石は実は女性だった」「夏目漱石はそもそも日本人ですらなかった」と言ったとしても、「夏目漱石性」は存在しうるということです。「夏目漱石」という言葉の本質は訂正可能性にある。それこそが、僕の哲学の出発点で、それがいまの実践の基礎にもなっています。
「ゲンロンは東浩紀が起業した」は歴史的な事実ですが、仮に後年「ゲンロンはじつは東浩紀が起業したわけではなかった」と言われても、「ゲンロン性」は残る。そして、きわめて具体的に、じっさいにそうなってはじめて「ゲンロン」はブランドとして自立したといえると思うんです。ある単語が固有名として自立するとは、命題の集合から固有名が離脱しても、それ自体で存続可能であるということ。その離脱は、「固有名にくっついた全ての命題に対して、遡行的に訂正可能である」という力を持ったときに起こる。つまり、「ゲンロンは東浩紀のものではなかった」とみなしても大丈夫になったとき、「ゲンロン」は本物になる。それは理論の問題であるとともに、いまぼくがゲンロンの経営で目指していることでもあります。
(後編は5/27に公開予定です)
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