連載

嗜好品は、各々が生きる世界に埋め込まれている。ヒマラヤと東北の山々、東京郊外をつなぐ:神話学/芸術人類学研究者・石倉敏明(前編)

石田哲大

一口に「嗜好品」と言っても、土地や文化が違えば、そのあり方は大きく変わる。

わかりやすい例を挙げれば、日本では煎茶や抹茶が親しまれてきた一方、近代以降のイギリスやインドでは紅茶が主流。飲み方も、国や地域によって大きく異なっている。

なぜ嗜好品のあり方は、こうまでも多様なのだろうか。

「嗜好品は、人間が生を営んでいくうえで大事にしている、目に見えないものとつながっている」

そう語るのは、神話学/芸術人類学を研究する、石倉敏明さんだ。

石倉さんはインド・ネパールや日本の東北地方を中心に、国内外の各地をフィールドワークしながら、「山の神」研究をはじめとした神話学を研究してきた。

さらには、アーティストとの共同制作などを通じて芸術を実践しながら、自然と文化の垣根を越えて「人間とはなにか」を研究する芸術人類学にも取り組んでおり、2019年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館では美術家・建築家・作曲家と共に「Cosmo-Eggs | 宇宙の卵」を制作・展示した。

神話学および芸術人類学の見地から、嗜好品という存在は、いかにして捉え得るのか?

石倉さんが准教授を務める秋田公立美術大学をたずね、嗜好品と文化、自然とのかかわりについて聞いた。

#連載「生きることと嗜好」

現代における私たちの嗜好品や嗜好体験を探究するために、文化人類学や歴史学者など様々な一線の研究者に話を聞く、連載「生きることと嗜好」。

嗜好品には、体をつくる栄養があるわけではない。生命維持に必要不可欠ではないのにもかかわらず、全世界で嗜好品はたしなまれている。

 嗜好品は、人間らしく生きるために、なくてはならないものなのかもしれない。

(文:石田哲大 写真:今井駿介 編集:小池真幸)

ダージリンで出会った、土着化された紅茶文化

──今回は石倉さんのご専門である神話学や芸術人類学の見地から、嗜好品について話を伺っていきたいです。

実は僕はもともと北インドの少数民族の研究をしていまして、90年代後半に初めてフィールドワークした場所が(インドの北方ヒマラヤ山脈の麓に位置する)ダージリン、お茶の生産地だったんです。その時は約半年間、毎日茶畑を歩きながら、お茶を飲んで暮らしていました。

──「ダージリンティー」は言うまでもなく、ウバ、キームンに並ぶ、紅茶における世界三大銘茶の一つですよね。

ええ。そして僕がフィールドワークを始めた1990年代は、ネパール系移民による独立運動が盛り上がっていた時期でした。

ダージリンには、インドがイギリス東インド会社による植民地支配を受けていた時代に作られたプランテーションが広がっています。

18世紀以降、イギリスでは紅茶がよく飲まれるようになり、嗜好品としての茶葉の需要が高まった。そこでダージリンでは、紅茶を大量生産するために中国からチャノキを持ち込み、さらに19世紀末から20世紀初頭にかけて、隣接するネパールから高地に順応した少数民族たちを移民させ、北インドの標高2,000メートル地帯に農園が作られたんです。

ダージリンの茶農園は、インド独立後も重要な地域産業になっていきました。お茶は現地の人々にとって、大きな収益をもたらしてくれる、重要な生産物です。

しかし、平地にあるインド政府、西ベンガル州政府はそれに目をつけて、重い税金を課している。せっかく高地のネパール系移民が汗水垂らしてお金を稼いでも、政府にごっそりと持っていかれてしまう。そんな状況に対する、ネパール系移民の不満が高まっていた時期だったんです。

彼らはグルン、タマン、シェルパ、ライといった民族のルーツを持っていましたが、「グルカランド」という移民たちの集合体を作って西ベンガル州からの独立を模索したり、自治政治組織を作って自分たちの権益を守ろうしたりとしていました。

──不安定な政情の中、石倉さんはどのような人々へのフィールドワークをしていたのですか?

ダージリンには州政府に自治権を要求するネパール人の集団がいくつかあったのですが、僕は穏健派のグループに属する人々と一緒に生活をしていました。彼らは銃を持って武装していましたが、それは急進派のように襲撃のためではなく自衛のためでした。

僕は、中でもヒンドゥー教徒が篤く信仰するクリシュナ神の転生者、つまり「生き神」とされているグルン族の聖者に興味を持って、彼と一緒に一台のジープで丘陵地帯の旅を続けたり、儀式や法話を手伝ったりしていました。

彼は平野部のヒンドゥー教徒からはクリシュナ神の生まれ変わりだと認識されていました。一方、山間部の仏教徒たちは彼を仏教の「活仏(トゥルク)」と信じていました。彼はそうしたバラバラな少数民族たちの信仰を束ねる存在で、子どもの頃にチベット仏教の寺院に預けられて「活仏」として認定されて、地元ではチベットのダライ・ラマのような「活仏」と信じられてもいたのです。彼はそうして南方のインドと北方のチベットをつなぐ少数民族の世界に自信と誇りを与えていました。

実は、僕の恩師はチベット仏教の研究でも知られる人類学者・中沢新一先生で、もともとは僕もチベット仏教を研究するつもりだったのですが、先生が経験したような厳しい前行には耐えられずに修行を挫折してしまったんです。そんな挫折の中で、ヒンドゥー教とチベット仏教という異なる宗教を併せ飲んだ「聖者」を、ダージリンの地元の人たちはどんなふうに信仰しているのか、という関心を持って、フィールドワークを続けていました。

※参考:嗜好品は人類にとって「必要品」である:人類学者・中沢新一

この聖者も、実は子ども時代にチベット仏教の寺院から逃げ出してきた人で、そのアウトローな風貌に惹かれたのかもしれません。

僕自身は、研究がうまくいかない悩みを抱えながら、自治グループの若者たちや丘陵を移動し続ける聖者の一団と一緒に、毎日お茶を飲んで暮らしていた。彼らと過ごすお茶の時間はとても楽しく、癒しになったんですよね。

──ダージリンで暮らす中で、どのようなお茶を飲んでいたのでしょうか?

インドのミルクティー、チャイのことをネパール語では「チヤ」と言いますが、これは紅茶を温かい牛乳と、さまざまなスパイスで煮出したものです。チベット系の家や寺院では、茶葉を固めた「たん茶」(紅茶や緑茶などを蒸して型に入れ、圧縮して干し固めた、固形のお茶)にヤクのバターを攪拌してたっぷり溶かしたバター茶をよく飲んでいましたね

もっとも、一般的なチャイの茶葉自体は、イギリスで愛飲されている紅茶と同じものです。ただ、彼らの飲み方は、イギリスの上流階級が昼下がりにスコーンなんかを食べながら楽しむ「アフタヌーンティー」とはかなり異なっていて。

彼らの文化では、早朝から濃いミルクティーを飲みます。朝起きたらすぐに鍋でお湯を沸かして現地産の茶葉をグツグツと煮出し、新鮮な牛乳と砂糖、スパイスを加えて味を整えた紅茶を飲む。インドは暑くて体力を消耗するので、熱々で砂糖がいっぱい入った甘いお茶を、一日に何度も飲んで疲れを癒やす習慣があるんです。

そして、時にはブラックティーとか、チベット仏教寺院の儀式に参加する時には、チベット式の「バター茶」を何杯も飲んでいました。

ダージリンでは、生姜やカルダモンを加えたマサラチャイが一般的です。「紅茶」という文化は、イギリスの植民地時代を経て近代以後に入ってきたもので、もともとダージリンの少数民族の文化にあったわけではありません。しかし、彼らはイギリスで飲まれるはずの紅茶を、自分たち自身が楽しむ土着の文化につくり変えていったんです。

身近な先産物を自らの生活に取り入れる、少数民族のしたたかさや知恵のようなものが、とても現代的で面白いと感じました。言うなれば、“土着化された紅茶文化”。僕はその文化に、大きな魅力を感じたんですね。

「山の神の信仰」、インドやネパールと日本の共通点

──ダージリンでフィールドワークをしながら、どのような研究をされていたのでしょうか?

僕が研究していたのは、ダージリンに住む移民たちの宗教観でした。

ダージリンには、異なる言葉、宗教、文化を持つさまざまな少数民族が数万人暮らしています。この地域は、さらに北方のシッキム州、そしてチベットやブータン、ネパールとの国境地帯への入り口になっていました。一方で高地を下ると、インド南部のコルカタには、いわゆるインド亜大陸らしいサンスクリットやヒンドゥーの宗教文化がある。

そうした状況を踏まえ、平地に住むインド人に対して、高地のネパール系移民や山間部の先住民がどんな暮らしをしていて、いかなる神話や信仰を持っているのかを調査していたんです。

そしてインドから帰国後、日本のお祭りについて調査していると、日本とヒマラヤには深い共通性があることに気づいたんです。わかりやすい例を挙げると、地域の周辺コミュニティの背後に「山の神の信仰」があること、それが女神であることなどでしょうか。

それは決してある時代の権力者や特定の修行者がでっちあげたものではなく、歴史的な記録以前にまで遡るような古い来歴を持っていました。自分がそれまで触れてきたインドやネパールの文化と、日本古来の文化が深い地下水脈でつながっている。その発見に驚き、「こんなに面白いことがあるのか」と思いました。

それから20代後半から30代にかけては、ヒマラヤの山の神と、日本の東北との比較研究に没頭していきました。

──東北に興味を持たれたのはなぜだったのでしょう?

まず、僕の父が東北生まれなんですね。祖母が宮城出身で、幼い頃に一度だけ宮城に行ったことがあって。そこで見た大きなトンボや田んぼ、川で竿や網を使って魚を採って食べた記憶が、ずっと脳裏に残っていました。

そして東北に興味を持つ直接のきっかけになったのは、大学院の指導教授だった中沢先生が、僕たち東京の学生を山形や秋田に連れて行ってくれたことでした。学部生と一緒に山間地で農業を手伝ったり、お祭りに参加したり、山岳信仰を調査したり、大日堂舞楽という祭礼の映画を撮りに秋田に通ったりして。それがもう楽しくてしょうがなかったんですよね。

東京郊外で育った僕は、「こんな場所が日本にもあったのか」と驚きました。僕にとってインドやネパールに行く経験と、山形や秋田に行く経験には、あまり大きな違いがなかったんです。

石倉さんが所属するアーツ&ルーツ専攻の研究室には蔵書のほか、クマの剥製がいくつか置かれていた。この専攻の卒業生には、東北地方を中心に伝統的なしきたりを守りながら集団で狩猟を行う「マタギ」に弟子入りし、自ら狩猟するアーティストもいるという

芸術を通して、人類そのものを問い直す

──そうして国内外でのフィールドワークを重ねながら、神話学の研究に取り組んできたのですね。

はい。大学院の博士課程までは神話の研究を中心に研究していました。

一方で僕は、2010年頃から芸術人類学の研究・実践として、ものづくりをしている人たちと一緒にリサーチしたり、作品を制作したりする活動にも取り組むようになっていきました。

──石倉さんは、どのような経緯で芸術人類学に関わるようになったのでしょうか? 「芸術人類学」とは、「人類史の長大なスパンにおいて過去・現在・未来へと進むあらゆる『表現(リプレゼンテーション)』を、自然と人、人と物、人と人の『関係性において刻々に生成するもの』としてとらえ、そこから人の有機的な心身のはたらきを明らかにしていく行為」とあります(参考)。既存の人類学の枠組みにとらわれない学問のスタイル、とも捉えられるでしょうか。

やはり、中沢新一先生を所長とする研究所が多摩美術大学に創設されたこと、その立ち上げの仕事に助手として加わった経験が僕にとっては大きかったと思います。

博士課程の大学院生の時に、中沢先生から「多摩美術大学に新しい研究所をつくるので助手として来てくれないか」と誘われて、「芸術人類学研究所」(2023年に「アートとデザインの人類学研究所」に改名)の立ち上げに関わりました。僕にとっての初めての就職先は、美大だったんです。

この研究所の設立にあたっては、壮大なビジョンを掲げました。

従来の文化人類学では、芸術を文化の中の一部分として捉えていました。しかし、この研究所では「芸術を通して人類そのものを問い直す」ことを目指していました。いわゆる「文化人類学」や「社会人類学」といった欧米の二十世紀的な人類学を踏まえつつも、細分化された人文諸科学を再構築するために「芸術人類学」というジャンルそのものを立ち上げていったんです。

芸術人類学研究所の特別研究員は映像人類学者の川瀬慈さんや分藤大翼さん、以前から芸術人類学の研究を続けていた中島智さんなどユニークな研究者やアーティストばかりでした。そして、コミッションワークとして、アーティストやキュレーターとの共同プロジェクトを行ったんです。

とりわけ僕にとって重要だったのは、ミュージシャン・映像作家の高木正勝さんとの出会いでした。

高木さんとは2008年に芸術人類学研究所との共同プロジェクトで《Homicevalo》という映像作品を作ってもらいました。その後、高木さんがある時十数曲の楽曲についてのメモと一緒に制作中の音源を送ってきてくれたんです。

そして、「それぞれの曲のテーマに合った神話を世界中から集めてくれませんか?」という無茶振りを受けまして(笑)。「いや、それは流石に無理だよな……」と思いながら探してみたら、意外と曲想に近い神話が見つかったりして。

それが、僕が高木さんと一緒に制作したCDブック作品『Tai Rei Tei Rio』(2009年)のはじまりでした。高木さんが曲とCDをつくり、僕は「タイ・レイ・タイ・リオ紬記」というCD付属の神話集の文庫本をつくった。

最初の曲のアイデアには、高木さんが見た夢のビジョンとか、曲想となった世界観とか、詩的なイメージが色々と書かれていました。そのメモのような文章と、実際に送ってくれた音源を聴きながら、僕はじっさいに世界中の神話集から響き合うようなものを集め、編集しました。

僕としてはその経験が、神話についての論文を書いて発表するのと同じくらい刺激的だったんですよね。高木さんと一緒に長野や京都でリサーチしていく中で、アーティストは感覚的にすごく研ぎ澄まされていて、独自のリサーチの眼を持っていることを知りました。

現在、石倉さんは秋田公立美術大学准教授を務め、芸術から人類学までさまざまなバックグラウンドを持つ学生たちを指導している

──アーティストとの出会いによって、新たな研究のスタイルがひらかれていったのですね。

はい、その通りです。アーティストの視点と自分の視点を掛け合わせることで、予想以上の成果が得られることに気づいたんです。それからは僕も神話学や山の神の研究に加えて、アーティストと一緒に展覧会をつくったり、新しいプロジェクトを立ち上げたり、作品化したりすることを何度も経験しました。

そうして研究と制作を行き来することが、楽しくて仕方がなかったですね。

「狩猟採集的な嗜好品」と「お金で買える嗜好品」

──神話学や芸術人類学に取り組まれてきた石倉さんは、研究の中で「嗜好品」とどのように出会ってきたのでしょうか?

フィールドワークでさまざまな土地の文化を経験していくうちに、さまざまな「土地の文化に埋め込まれた嗜好品」と出会いました。

たとえば、北インドのシッキム州では(香辛料の)カルダモンの木がたくさん生えています。日本ではグミやガムを買って食べる人が多いと思いますが、僕のフィールドワーク先ではそれと同じように、地元の人たちがお寺や道の近くにあるカルダモンの実を拾って食べていました。あるいは、売店で赤い染料で煮たビンロウ(ヤシ科の植物で、熱帯アジア圏では嗜好品として「噛みたばこ」のように噛む習慣がある)を買って、それを葉っぱでくるんで、いろんなスパイスを混ぜてガムみたいに噛むわけです。

そうするうちに、僕の子どもの頃の経験を再発見することにもなりました。

たとえば、僕が育った八王子には、かつて養蚕業が盛んだった名残で桑の実がたくさん生えています。いわば自然から与えられる嗜好品である桑の実を、妹や近所の仲間たちと一緒に食べたり、「ここに行けば桑の実が食べられるぞ!」と教えあったりしていたんですね。

他方で、「コミュニティに埋め込まれた嗜好品」もある。僕が育った70年代から80年代はまだ近所に駄菓子屋があって、10円や100円でお菓子を買い、嗜好品としてみんなで一緒に食べていたんですね。

──桑の実と駄菓子が、幼い頃の石倉さんにとっての嗜好品だった。

ここで重要なのは、幼い頃の僕や近所の仲間たちにとって、それらが同じ“地図”の中に存在していたということです。

──地図、ですか。

桑の実、河原に生えた食べられる植物、吸うとおいしい花の蜜、祖母が草餅の材料にしていたヨモギの葉。それらが東京郊外の生活圏にある「狩猟採集的な嗜好品」だとすれば、100円で買える駄菓子のような「お金で買える嗜好品」もある。昔の僕が桑の実と駄菓子を同じものとして食べたように、インドの人たちにとっては、カルダモンを拾って食べる経験と、ビンロウを買って食べる経験にはそんなに違いがないわけです。

その土地の自然や生態系から与えられているものと、マーケットや社会から与えられているものが、同列に存在している。自然と文化はつながっているんです。

嗜好品は、生の営みの背景とつながっている

──拾って食べるカルダモンと、買って食べるビンロウ。それらが別々ではなく一緒になって、嗜好品の“地図”を形成しているのですね。

少し抽象的な表現をすれば、嗜好品は「定住する空間」つまりギリシア語で「オイコス」といわれる次元に埋め込まれている、とも言えるでしょう。

──どういうことでしょう?

たとえば「経済」を意味する“Economy”という言葉の語源は、ギリシャ語で「オイコノミア」と言います。

この言葉には、“家”や“住んでいる生活の場所”を意味する「オイコス」が含まれている。エコノミーは「家」を意味する「オイコス(oikos)」と、「法律・法則」を意味する「ノモス(nomos)」という二つの概念を組み合わせたものです。経済や市場といった概念の根拠は、実は自分の半径50メートルの生活圏である「オイコス」の世界にあるんですね。

そして、自分の半径50メートルの領域には、同時に地域の自然である「エコロジー」の世界も存在している。“Ecology” という概念もまた、「オイコス(oikos)」と「理性・研究」を意味する「ロゴス(logos)という二つの概念からできています。

たとえば、インドには発酵酒を自分で作る風習があります。ヤシの木に傷を入れると樹液が出てきて、それを置いておくと自然発酵してお酒になる。そこから、地元の若者たちが0円でお酒を作ったり、それを友達に飲ませてもらいながら語り合ったりする文化が立ち上がるわけですね。

──なるほど。先程の対比で言えば、「買って食べる嗜好品」は「エコノミー」として、「拾って食べる嗜好品」は「エコロジー」として、どちらも「オイコス」に埋め込まれているとも言えますね。

インドに生きる彼らは、「あの場所に行けば、これが手に入る」という、土地の自然や文化と結びついた「オイコス」の“地図”を、 嗜好品を通じて頭の中に構築しているわけです。

同じ素材でも、人間が暮らす土地柄や生態系によって、捉えられ方が大きく異なる。それは嗜好品のあり方にも影響しますし、何より、神様や仏様など目に見えない超越的なものにも影響を与えます。

たとえば、日本の仏教はお茶の味や線香の香りと深く結びついていると思います。京都のお茶文化と仏教が古くからつながっているので、京都や奈良で仏像を見ると、お線香の匂いや抹茶の味が一緒に想起されるわけですよね。

一方で、チベット仏教の寺院に行って仏像を見ると、今度はバター茶の味が強く想起される。チベット人の僧侶たちは、一日中続く儀式の間にバター茶を飲むのでその香りや味といった感覚的な要素が、現地の仏教には不可分な経験として埋め込まれているのです。

マテリアルとしては同じお茶ですが、日本では煎茶・抹茶の風味になり、チベットではバター茶の風味になる。インドのヒンドゥー教寺院では、チャイの風味として存在している。

──嗜好品は、その土地ごとの自然と文化のつながりの中に埋め込まれているのですね。

嗜好品は、自分たちが生きる世界に埋め込まれて存在している。人間が生を営んでいくうえで大事にしている、目に見えないものとつながっているんです。

後編>> 「必需」と「余剰」が不可分なこの世界をどう生きるか。注目すべきは、「ヴァナキュラー(土着)」な嗜好品:神話学/芸術人類学研究者・石倉敏明
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ライター/編集者

国際基督教大学(ICU)卒、政治思想専攻。ITコンサルタント、農業用ロボットのPdM、建設DXのPjMを経て独立。関心領域は人文思想全般と、農業・建築・出版など。

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編集、執筆など。PLANETS、designing、De-Silo、MIMIGURIをはじめ、各種媒体にて活動。

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