連載

「必需」と「余剰」が不可分なこの世界をどう生きるか。注目すべきは「ヴァナキュラー(土着)」な嗜好品:神話学/芸術人類学研究者・石倉敏明(後編)

石田哲大

「嗜好品」は言うまでもなく多様である。

素材はもちろんのこと、加工法から嗜み方まで、土地や文化が違えば、そのあり方は大きく変わる。嗜好品は人の暮らしの数ほどある、と言っても言い過ぎではないだろう。

一方で嗜好品は、栄養の摂取そのものが目的ではない、「余剰なもの」のようにも思われがちだ。

多様で一見すると余剰な「嗜好品」は一体、人類にとってどのような存在なのだろうか。

嗜好品は「生活」そのものであり、その「ヴァナキュラー(土着)化」は抵抗運動である──そう語るのは、神話学/芸術人類学を研究する、石倉敏明さんだ。

石倉さんはインド・ネパールや日本の東北地方を中心に、国内外の各地をフィールドワークしながら、「山の神」研究をはじめとした神話学を研究してきた。

さらには、アーティストとの共同制作などを通じて芸術を実践しながら、自然と文化の垣根を越えて「人間とはなにか」を研究する芸術人類学にも取り組んでおり、2019年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館では美術家・建築家・作曲家と共に「Cosmo-Eggs | 宇宙の卵」を制作・展示した。

神話学および芸術人類学の見地から、嗜好品という存在は、いかにして捉え得るのか?

嗜好品と文化、自然とのかかわりについて聞いた前編に引き続き、後編では「生活」そのものであるという嗜好品の本質に迫り、「ヴァナキュラー(土着)化」をキーワードにその未来を考える。

#連載「生きることと嗜好」

現代における私たちの嗜好品や嗜好体験を探究するために、文化人類学や歴史学者など様々な一線の研究者に話を聞く、連載「生きることと嗜好」。

嗜好品には、体をつくる栄養があるわけではない。生命維持に必要不可欠ではないのにもかかわらず、全世界で嗜好品はたしなまれている。

 嗜好品は、人間らしく生きるために、なくてはならないものなのかもしれない。

前編>> 嗜好品は、各々が生きる世界に埋め込まれている。ヒマラヤと東北の山々、東京郊外をつなぐ:神話学/芸術人類学研究者・石倉敏明

(文:石田哲大 写真:今井駿介 編集:小池真幸)

「必需(Needs)」と「余剰(Wants)」は切り分けられない

──前編では嗜好品について、土地ごとの自然や文化、人々が生きる世界に埋め込まれているものだと指摘していました。一方で、嗜好品は栄養の摂取そのものを目的とせず、本来的には「なくても生きていける余剰なもの」と思われることも少なくありません。

いま振り返ると、僕がフィールドワークを経て学んだのは「“Needs”と“Wants”を分けない」ということだったのだと思います。

僕たちは商品で埋め尽くされた世界で、「生活必需品」と「余剰なもの」を分けてしまう習慣が身についていると思います。

たとえば、僕たちは知らないうちに、労働や勉強は必要なことで、遊びは余計なものだと思い込まされています。嗜好品、趣味、お祭り、余暇。これらは“Wants”ではありますが、“Needs”ではない。つまり、時に「要らないもの」として扱われてしまうわけです。

しかし、そもそも労働と遊びが分割されてない世界では、人間を取り巻く環境の中で、“Needs”と“Wants”が人間の身体と社会を結びつける多種多様な回路をつくり出しています。それが自然と文化を結ぶ複雑なレイヤーを形成しているのだと思います。

僕たち日本人は「九時五時で働いて、その後に余暇を楽しむ」という考え方を持っている人が多いかもしれません。一方で、インドの人たちはビンロウ(ヤシ科の植物で、熱帯アジア圏では嗜好品として「噛みたばこ」のように噛む習慣がある)を噛みながらプランテーションで働いたり、バスやタクシーを運転したりしているわけです。

──「生活必需品」と「余剰なもの」を切り分ける考え方は、決して万国共通のものではないと。

そもそも人間が持っている過剰性というのは、とてつもないものです。

たとえば、子どもたちは放っておいても勝手に遊び始めますよね。大人は「遊ばなくたっていい」と思うかもしれませんが、子どもにとって遊びは“Needs”と“Wants”の合致そのものであり、それこそが「生きる」ということなのだと思います。

生きている間は、必要なことだけを分刻みでやっているわけではありませんよね。ボーっとしたり、ダラダラしたり、ゆったりリラックスしたり、休んだりということも含めて、「生きる」ということであるはず。

同じように、嗜好品で心を少し休めたり、体の疲労を取ったりということも、すごく昔から行われてきました。子どもたちにとっては、食事よりも駄菓子が必要な時だってあるわけです。

「Well-Becoming」をもたらす嗜好品とは

──嗜好品を嗜むことは、“Needs”と“Wants”の合致、すなわち「生きる」ことそのものでもあるのですね。

それから「生きる」にプラスアルファで、「活かす」という思考も嗜好品の背景にあります。

それが「生活」という次元の厚みに結びつきます。身の回りにある自然を活かして、その味を快楽として味わったり、時間つぶしや楽しみに変えていったり。

自分の生を営む、すなわち「生きる」こと。そして、与えられた環境の中にある使えるものを「活かす」こと。これは芸術や工芸という実践に直結します。

「生」と「活」、この二つが合致したところに、“Needs”と“Wants”の世界が生まれていくわけです。

──嗜好品は「生きる」と「活かす」、つまり「生活」と切り離せないものであると。

「生活工芸」というムーブメントもありますが、近年は工芸作家の中でも「生活の中で使える美しいものをつくろう」という動きが強まっていますよね。

そして民藝、農民、秋田のマタギ、先住民であるアイヌの人たち……そうした世界がいま再発見されるようになってきています。

彼らは「生きる世界」だけではなく、「生きられる世界」あるいは「活かされる世界」を生きているということが重要だと考えています。自分の生活のためだけでなく、マテリアルやエネルギーを介して他者と関わり、複数の他者とお互いに絡まり合いながら、新しい現実を生み出している。つまり、人間と資材の新しい関係性、新しい世界そのものをデザインしている。

現代の生き難い社会をサバイブするために、そうした知恵をつないでいくことが求められています。最近は「Well-Being」つまり「よりよく生きること」に注目が集まっていますが、僕は「Well-Becoming」、つまり「よりよく他者と一緒に変化していく」ことがもっと大事になってくると思います。

こうした大きなトランスフォーメーションの中で、いかにして自分の欲望に耳を傾け(を自覚し)、その欲望をデザインしていくか。これからの嗜好品には、そうした考え方が求められるのだと思います。

“持たざる者”こそが、土着の嗜好品を生み出してきた

──ここまでのお話で、嗜好品がいかに人間の「生活」そのものと不可分であるか、よく伝わってきました。

それから嗜好品には「嗜む」という要素があり、何の準備もなくいきなりそれが楽しめるわけではない、という点も重要でしょう。

タバコを吸うにしても、お酒を飲むにしても、健康を害さないで適度に楽しむためには作法や技術が必要です。薬と毒は本来同じもので、それを見極めて使いこなす、ということ。この生きた技芸というものは、人類共通のアートだと僕は思うんです。

おそらく、これから必要になるのは、「嗜み」や「好む」ということを、もう少し真剣に受け止め、探求していくことでしょう。

これまで軽く扱われてきた嗜好品も、もとは先住民の儀礼や生活世界に根拠があった。そこから切り離して楽しむだけではなく、彼らが持っている「生きた技芸」や自然世界との接点から、僕たちはたくさんの知恵を学ぶことができます。

そうすれば、人類の文化が、なぜここまで多様性に溢れているのかが見えてくると思います。

──人類の文化の多様性、ですか。

もともと嗜好品は、土地の自然から与えられた恵みでした。しかし、ある時から工業製品として嗜好品が出回るようになった。

最初のきっかけは砂糖とお茶ですよね。植民地主義の歴史の中で、抑圧された人々がサトウキビやビートなどを栽培し、支配国へと輸出する構造が生まれた。それが強い嗜好や依存を生み出すもので、儲かるからですね。

言い換えれば、かつて嗜好品は、明らかに植民地主義や西洋中心主義と結びついていたわけです。チョコレートを食べられない子どもたちがカカオ豆を育て、コーヒーを飲まない人たちがコーヒー豆を育て、砂糖の恩恵を受けない人たちがサトウキビやビートを育ててきたわけですから。

しかし、前編でお話ししたように、僕がフィールドワークをしてきたダージリンの人々は、そうした資本主義や植民地主義の歴史を色濃く受けてきた嗜好品を、ヴァナキュラー(土着)化した。イギリスで飲まれるはずの紅茶を、自分たちの土着の楽しみ方で、自分たち自身が楽しむ文化をつくったんです。

植民地主義や資本主義の回路に巻き込まれ、収奪されるだけでなく、そこにいくつもの迂回路や欲望の出口をデザインし直してゆくこと。これは広い意味で脱植民地化の運動であるとも捉えられるでしょう。

──嗜好品と脱植民地化には、強い関連性があったのですね。

どちらも自分の身体と精神に深く関係することです。

「自分で自分自身の楽しみを作っていく」という営みは、奪われた人たちの中にこそあるはずです。お金持ちの“富める者”の楽しみではなく、どちらかといえば“持たざる者”たちの嗜みの中に、これからの嗜好品のヒントがあるのではないかと思います。

──どういうことでしょう?

たとえば、コロナ禍では音楽ライブなどで人が集まる機会が奪われました。芸術や余暇などは「なくてもいいよね」と、権力によって最初に潰されてしまうわけです。

しかし、僕は音楽が好きなのですが、ポピュラーミュージックを作り出したのは誰かというと、嗜好品を「つくっている」側の人でした。たとえば、サトウキビやコーヒーを栽培しているような人々です。

米国ではプランテーションで働く黒人たちが、過酷な綿花畑の労働環境でブルーズという生活に根ざした歌の形式を発明した。あるいは、日曜日しか休みがない中で教会に集まってゴスペルという教会音楽を生み出した。さらにそこから、ジャズやロックといった多様なポピュラーミュージックが生み出されてきた歴史があるわけです。

そう考えると、僕たちが楽しんでいる音楽は、決して余分なものではないとわかります。満たされた人ではなく、むしろ“奪われた”人こそ、嗜好品を必要としている。

だから、やはり僕たちは嗜好品、あるいはそれらを取り巻く文化や芸術について、真剣に考えなければいけないのだと思うんです。

嗜好品によって見えない世界とつながり、身体や脳の境界を超える

──他方で、お酒や煙草、あるいはカフェインをめぐる社会状況は大きく変わりつつあり、従来の嗜好品はいま世界的に大きな変化の中に置かれていると思います。

これからは、地方の人々が土着の楽しみ方で、自分たち自身が楽しむ嗜好品のあり方や文化を考えていくことが大事だと思います。

その視点から見ると、いま僕が暮らしている秋田でも、面白いチャレンジが起こっています。

たとえば、いままで大衆酒を中心に製造していた「新政」という蔵元が、お米づくりにこだわって田んぼから自分でつくり出す。「新しい蔵を作れない」という法律的な参入障壁を変えるために、男鹿市で「稲とアガベ」という新しいクラフトサケ醸造所ができる。

あるいは、「NEXT5」と呼ばれる5つの蔵元が手を組んで発酵技術を共有し、共同醸造する。日本酒イベントにDJが来て、クラブイベントを開催する。もちろん、お酒を飲まない人たちも地元で焙煎されたコーヒーを飲み、いちじくやりんごを使ったスイーツや料理を楽しむ。

村境や道端に見られる、民間信仰の神様「人形道祖神」。秋田では多くの地域で、その地域ごとの人形道祖神がつくられる。秋田公立美術大学には、さまざまな人形道祖神が保管されていた

こうした嗜好品をめぐるさまざまな動きが、古いタイプのお祭りや生活文化と、新しい文化を結びつける役割を果たしています。地元に根付く生きた技芸を、次の段階へとアップデートする試みが、秋田では次々に生まれているんです。

秋田のような東北の農村地帯はかつて、都心部にお米や酒、女郎、兵隊を送り出す貧しい土地だと考えられてきました。でも、今は違います。

かつてのように、富める者と貧しい者、抑圧する人と抑圧される人が分断されていく世界から、より混ざり合い、自分たちの楽しみを自分たちでデザインしていく世界へと移行してきている。

そうした「世界制作」の新しい変化の中で、新しい嗜好品への態度が生まれてきています。

──地方から生まれる土着の嗜好品が、世界をより豊かにしていくのだと。

いわゆる「移住ブーム」を経て、ローカルにおける暮らしの豊かさや多様性が、いよいよ真剣に問われる時代になってきたのではないかと思うんです。

以前、東北でお祭りに参加した時に、日常的な光景がガラッと変わって、世界がカラフルに見える瞬間がありました。たとえば、秋田には「かすべ煮(エイの干物を煮た料理)」のように特定のお祭りの時期に食べる「特別食」がありますが、そういった嗜好品的なものに触れた時に、自分の中での時間的・空間的なコードが変わっていく感覚があるんですね。

嗜好品の価値は単なる消費物にはとどまりません。僕たちは嗜好品を通じて、目に見えない世界とつながっていく「シフトチェンジ」の感覚を経験することができる。

日常生活(ケ)の中に小さな非日常(ハレ)の体験を持ち込んだり、お祭りの時に現実感覚を丸ごと変えてしまうような大きなシフトチェンジをもたらしたりするのも、嗜好品の役割なのです。

──嗜好品は、その土地ごとの仕方で、空間や時間の「シフトチェンジ」をもたらしてくれると。

さらに嗜好品には、個人の身体や脳の境界を超えて、人間をつなげてくれるものでもあります。

たとえば、僕は山伏(編注:山中で修行をする、修験道の修行者)の修行を体験したことがあるのですが、そこでは空腹のまま山の中の聖地を歩きまわったり滝に打たれたりした後、山を降りてきてから全員でいただく、いわば修行明け(直会)のための特別な料理とお酒がありました。

古くから行われてきたように、みんなで一緒にご飯を食べて、大盃でお酒を回しながら飲むのがとても楽しい。個人の皮膚や精神の境界を越えて流れていく、贈与交換の感覚が心地よいのだと思います。

みんなでお茶を楽しむ、シーシャを吸う、盃を回してお酒を飲む。お盆に「送り火を見よう」と集まって、ビールを飲みながら火を眺める。子どもたちがラムネやジュースを飲んでお祭りを体験する。お年寄りが集まって茶飲み話をする。こうした時に、媒介となるマテリアルが必要とされ、嗜好品はその本領を発揮します。

みんなで余剰な時間、リラックスする時間を共有すること。これも今後再発見される嗜好品の価値だと思いますし、「余裕のある文化」の再構築につながっていくはずです。

前編>> 嗜好品は、各々が生きる世界に埋め込まれている。ヒマラヤと東北の山々、東京郊外をつなぐ:神話学/芸術人類学研究者・石倉敏明

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国際基督教大学(ICU)卒、政治思想専攻。ITコンサルタント、農業用ロボットのPdM、建設DXのPjMを経て独立。関心領域は人文思想全般と、農業・建築・出版など。

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編集、執筆など。PLANETS、designing、De-Silo、MIMIGURIをはじめ、各種媒体にて活動。

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