酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。連載シリーズ「現代嗜好」では、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

第2回は、哲学者の國分功一郎をたずねた。前編では、人間が人間らしく生きるため、そして生に不可避なストレスを解消するために必要な嗜好品が排斥されている現代社会の状況を検討したうえで、人間の思考に不可欠な「孤独」を生み出す嗜好品の役割を語ってもらった。後編では、「依存先が極端に少ないこと」という依存症の本質を捉えたうえで、サードプレイスが消えて「時間の余裕」がなくなりつつあり、「白黒つかないもの」を認めなくなっている現代における嗜好品のあり方を探っていく。

(編集・文:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海  写真:佐藤麻優子)

前編 》嗜好品は思考に不可欠な「孤独」を生み出す。哲学者・國分功一郎

依存症とは、依存先が極端に少ないこと

──「嗜好品」という言葉の産みの親である森鴎外は、嗜好品を「人生に必要でもあり、且つ毒でもあるもの」と説明していました。國分さんは長い間、スピノザ哲学を研究されていますよね。スピノザの「善悪は物事の組み合わせで決まり、それ自体として善いものや悪いものはない。『活動能力を増大』させる組み合わせが善いものである」という議論も紹介されていますが、これは嗜好品にも当てはまるでしょうか?

そう思います。組み合わせの話として、僕はよく鼻水の薬の例を挙げます。鼻水の薬は、目や鼻に行き渡る水分をストップさせることで、鼻水を止めているわけです。ですから、鼻水で困っている人にとっては善ですが、鼻水に困っていない人が飲むと、水分が来なくなってやたら喉が渇くので悪になる。

嗜好品も同じではないでしょうか。たとえば、僕はコーヒーが好きですが、コーヒーに含まれているカフェインは、人によっては悪にもなりうる。でも僕にとっては、頭をスッキリさせて、気持ちをゆったりさせてくれる善であるわけです。

──嗜好品が「悪」になる要因として、中毒性の問題は常につきまとうと思います。

言い換えると、依存症の問題ですよね。実は依存症で問題なのは、依存そのものではありません。というのも、依存していない人間などいないからです。誰もがいろいろなもの、いろいろな人に依存している。ただ普段はあまりにも多くのことに依存しているから、依存しているという事実に気づかずに済んでいる。

依存症の状態にある人は、むしろ依存先が極端に少なくなっている人のことなのです。たとえばアルコールがないともはや日常生活が送れないような状態。依存先が多い人なら、アルコールに頼る代わりに、人に話を聞いてもらうとか、実際に助けてもらうとか、そういうことができる。そういう風に様々なものに依存できなくなって、もう一つか二つにしか依存できなくなってしまった人が依存症なんですね。

たとえば、僕はけっこうお酒を飲むのですが、読書や研究など、他にもいろんなものに依存しているから、依存症にはならないで済んでいます。でも、たとえばもし研究活動が禁止されたら、アルコールに依存してしまうかもしれません。いろんなものに依存できるということは大事で、嗜好品はその中の一つとしての位置を占めるのがいいと思うんです。

──ただ、適度な依存を保つことは、なかなか難しいですよね。

そうですね。僕もだんだん精神が荒廃していくと、同じ銘柄のビールばかり飲むようになるんですよ。余裕があるときは、「ウィスキーにしようかな」「赤ワインにしようか」といろんな選択肢を思い浮かべるのですが、たまに、何も考えずに同じ銘柄のビールを毎日コンビニで買って帰る日が続いていることに、はっと気づくんです。心の余裕がなくなって、依存度が高まっている状態かもしれません。

そういったときは、お酒自体をあまり楽しめなくなっているんですよ。タバコも同じですよね。余裕があるときに吸うと「美味しいな」と感じるけれど、急いでスパスパとたくさん吸っても、まったく美味しくない。

サードプレイスが消え、「時間の余裕」がなくなった

──嗜好品をたしなむはずの場所に、最近は余裕がなくなっている気がするんです。コーヒーでいえば、世界中に「サードプレイス」を標榜するスターバックスができましたが本当の意味でのサードプレイスは減ってきている気がするんです。もともとカフェや喫茶店はサードプレイス的な場所だったと思うのですが、最近のスターバックスは疑似労働空間のようになってきている印象を受けるんです。

スターバックスは、もはやオフィスになっていますよね。その意味で、サードプレイスというのはオフィシアル(正式)なものからはずれた場所のことを指していたはずなのに、サードプレイスがオフィシアルになりつつあるのではないか。そもそもオフィシアルから外れたものが、どんどんなくなっている。教室でも職場でもない、でもオフィシアルな活動に欠かせないエネルギーや情報が得られていた場所が消えつつある。それが人々から心の余裕を奪っているように思えてならない。新型コロナの感染者やスキャンダルを起こした芸能人への過剰なバッシングを見ていると、本当に日本社会は心の余裕がなくなってきているのだなと気が滅入ります。

──心の余裕がなくなり、サードプレイスのように無目的な時間を過ごせる場所が、どんどん消えていると。

90年代から、社会学者の宮台真司さんが言い続けてきたことですよね。たとえば、学校の屋上。昔の学園ドラマを観ると、やたらと屋上に行って喧嘩しているじゃないですか。屋上は先生たちの目が届かない、ちょっとしたサードプレイスだったわけですよ。でも、屋上や踊り場が潰され、そうした場所がなくなってしまった。宮台さんが言ったのは、だから若者が道ばたに座りはじめたんだということです。

小中高生の行動場所について、しばしば、「ここがたまり場になっていて良くない」と言われるのを耳にしますよね。でも、たまって何が悪いだよって思います。たまらなければ、話したりできないでしょう。子どもたちはたくましいもので、いろいろとたまり場を見つけてくるのですが、大人がそれを見つけては潰していく。その結果、子どもたちの間のつながりが作りにくくなった面が確実にある。それなのに大人は「絆が大事」などと偉そうなことを言っている。おかしいですよね。

──サードプレイスがなくなっていく中で、どうすれば心の余裕を持てるようになるのでしょう?

具体的にどうすべきかを言うのは難しいんですけど、目指すべき方向性は明らかで、それは時間の余裕だと思います。時間の余裕は心の余裕にとって必要不可欠だからです。すこし極端な話になりますが、政治をもっとまともにするために必要なのも時間だと思うんです。たまに「國分先生、民主主義を根付かせるためには何が必要ですか」って聞かれるんですけど、とにかくみんなが時間的余裕を持つことだと答えるんです。時間がなかったら、考えることも、社会に参加することも、選挙の投票先を吟味することもできない。

日本にも「切断する権利」が必要だ

──時間の余裕、ますますなくなっていますよね。リモートワークが普及したことで、通勤の時間が節約できたはずなのに、逆に24時間仕事中のような状態になってしまって、時間がなくなっている気がします。

日本人は本当に長く働きますよね。イギリスの出版社と仕事をしていて驚いたのは、木曜までしか働かないんですよ。たまに金曜日にメールを送ってしまうと「I’ll be back in office in Monday」と返ってきて、「あぁ、今週は連絡が取れなかった」と諦めることになる。でも、それくらいで良いのではないでしょうか。金土日は連絡が取れなくたって、たいていの仕事は回りますよ。

フランスも昼休みを2時間取りますね。2017年には、就業時間外でメールをチェックしなければいけないかどうか、労働者と雇用者の間で協定を定めなければならないという法律もできました。これによってフランス人は「切断する権利」を獲得したと言われていますが、日本でも同じことをやったらいいと思いますよ。

──以前パリで、ファッションブランドのクリスチャン・ディオールの本社と、『VOGUE』のコンデナストのオフィスに行ったことがあります。どちらもすごく忙しそうなイメージがありますが、意外にそうでもないし、ランチタイムもすごく長くて驚きました。

「なぜ少ない時間でも仕事が終わるの?」と聞いたら「会議がないから」と。メールかプリントで報告が来て、部下はボスにアドバイスするけれど、決めるのは全部ボスだから、会議がほとんどないそうなんです。なるほどな、と思いました。

責任者がきちんと決定に関して責任を取るということですよね。フランスの大学に通っていたときに気付いたんですけど、事務から来る手紙に必ず「●●係の◯◯」と個人名が書いてあるんですよ。日本だと「教務課」といった、誰でもない、アノニマスなところから来るじゃないですか。それをフランスの友達に言うと、すごく驚いていました。

つまり、組織原理が全然違うんですよ。責任の主体をアノニマスにするためには、会議して決めなきゃいけない。だから、決定の仕方も曖昧で、だらだらして時間もかかってしまう。政策についても同じで、誰かがきちんと責任を取るのであれば、もっと慎重に判断を下したはずだと思える事例は少なくない。もちろん、名前が出るということは、失敗したら首を切られることにもつながります。でも、そこまで厳しくはやらないにしても、そうした組織原理を参考にすることも大切だと思うんです。

ただ気をつけないといけないのは、日本ではしばしば、会議で決めることの反対はトップが独断的に決めることだと思い込まれている点です。リーダーというのは、人をうまくリードする人のことですよね。部下の状況に配慮して根回ししたり、要望を聞きつけてそれに応えるかたちで決めていったりするのは当然その仕事の中に含まれている。リードすることはルール(支配)することではない。組織原理について考える時にはこの点がとても大切だと思います。

人生を楽しむには、楽しみ方を「勉強」する必要がある

──最後に、これからの嗜好品について、うかがわせてください。一見すると余計なものである嗜好品は、無目的なものに対する「余裕」がなくなるにつれ、今後もますます排除されていってしまうのでしょうか?

多くの人の心の中には、余計ものが必要という気持ちはあると思うんです。ただ最近は、エビデンス主義や「公で語られるものしか認められない」といった考えが広がり、「公共性の領域に入らないものが存在しうる」という事実すら認めない風潮ができはじめている。ですから、心の中ではみんな余計なものの必要性を感じてはいても、その考えを共有していくことが、非常に難しくなっているんじゃないかなと思うんですよ。

でも、説明不十分なまま、公の正しさの基準に収まらないものを排除するというのは、考える自由を奪っていることと同義だと思います。白黒つけられないものへの感性を失っているのは、目を閉じている状態に等しい。目の前に白でも黒でもないものがあっても、どんどん見なくなってしまう。

──そうした状況で、どうすれば曖昧なものを社会の中に保持できるでしょうか。

個人的にできることは、まず社会からある程度の距離を取ることでしょうね。白黒つかないものを認めない風潮が出てきた要因には、メディアが発達しすぎてしまったこともあると思います。少しでも落ち度があるとすぐにSNSで炎上してしまうので、曖昧なことを非常に語りづらい世の中になっている。ですから、ちょっと冗談みたいに聞こえるかもしれないけれども、5Gを使わないとか、たまにインターネットを切るとか、そういった心がけが必要かもしれない。

そうして時間の余裕を得たうえで、やはり、『暇と退屈の倫理学』の結論でも書いたように「勉強」することが大切だと思います。「勉強」と言ってもテスト勉強のようなものを意味しているわけではありません。人生を楽しむには、楽しみ方を「勉強」する必要がある。

コーヒーだって、最初は苦いだけだから誰も飲まないと思うのですが、だんだんと味がわかってくる。食も同じで、ジャンクフードばかり食べていると、たとえば白身魚の刺し身を食べても「なんだか味がしないね」としか思えなくなってしまいます。文学だって言語が読めなければ楽しめないし、スポーツや音楽も技術を高めるとより面白くなる。ですから、広い意味で「勉強することが大事」というのが、僕の結論です。そのためにも、インターネットを切って、時間を確保しましょう、と。

とはいえ僕は、結局は政治がきちんとしないといけないと思いますよ。たとえば、ほっといたら経済活動は休まないのだから、法律で休みを課さなければいけない。また社会保障を充実させて、人々が常に自分の身の安全について気を揉んでいなければいけないような状態をなんとかしなければならない。働き方改革も空転しています。時間的な余裕を持つことが心の余裕をもつための第一歩というのは間違いないのだから、政治にもそれを目指していって欲しいと思います。

(了)

前編 》嗜好品は思考に不可欠な「孤独」を生み出す。哲学者・國分功一郎

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  • 著者:
    菅付雅信
    編集者/株式会社グーテンベルクオーケストラ代表取締役。1964年生。編集とコンサルティング。英語のカルチャー・マガジン『ESP Cultural Magazine』編集長。著書『はじめての編集』『物欲なき世界』等。アートブック出版社ユナイテッドヴァガボンズ代表も兼任。『コマーシャル・フォト』で連載。「編集スパルタ塾」「東京芸術中学」を主宰。NYADC賞銀賞、D&AD賞受賞。
濁流のように去りゆくこの時間を、心が溶けるひとときに。