連載

意味が定まってないものが欲望や希望を生み出す:記号論研究者・石田英敬

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。DIG THE TEAでは本連載シリーズ「現代嗜好」では、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、日本の第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

第2回は、記号論・メディア論研究者の石田英敬をたずねた。前編では、「嗜好品」をセマンティクス(意味論)の観点から分析したうえで、近代が失った「オティウム(自由な時間)」を取り戻させてくれる役割、そして資本主義や生政治とのかかわりを考えた。続く後編では、茶道や能といった日本文化に見出すオティウムの可能性、スティーブ・ジョブズと西田幾多郎のかかわり、さらにはコロナ禍のいま求められる、消費資本主義のモデルチェンジについて語ってもらった。

(編集・文:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海  写真:佐藤麻優子)

「自己の技法」のはらむ両義性

──前編では、20世紀にオティウム(=自由な時間)が失われていったプロセスをお話しいただきました。ただ嗜好品を摂取するだけでは消費資本主義的なネゴティウムに包摂させられてしまう危険もあります。それでは21世紀を生きる私たちは、オティウムを取り戻すための「自己の技法」をいかにして身に付けることができるのでしょうか?

肝心なのは、人工知能が急速に普及する21世紀だからこそ、「自己の技法」の重要性が高まっているということです。人工知能に置き換えられないためには、それぞれの個人が自由な時間を確保し、精神を自己のもとに置くように努めることで、クリエイティビティを再生・維持させる必要がある。すべてをインターネット上の記号空間で処理しては、自己の元に精神を維持することはできませんから、それとは異なる次元を能動的に作り出す必要があるんです。

ただし、「自己の技法」と言っても必ずしも解放につながるわけではありません。テクノロジー誌『Wired』の創刊編集長であるケビン・ケリーは、2000年代に「Quantified Self(定量化された自己)」という概念を提唱し、個人が自らの身体データを計測・管理することでより自律した個人になることができると主張しました。しかし、いまや「Quantified Self」は日常的な光景となりました。誰もがApple Watchのようなデバイスで健康状態や運動記録を計測し、自己管理しています。

こうしたカリフォルニア型のテクノロジーは、生政治と相性が良い。つまり、一見すると自律的な個々人によるセルフコントロールはネオリベラリズム的な統治と結びつき、結果的に政治権力によるハイパーコントロール=監視社会へとつながっていく。管理する側にとっても、個人が自己管理してくれた方が統治としては最も効率的なわけです。

これは、シカゴ学派の経済学者ゲーリー・ベッカーの「人的資本(human capital)」の概念ともつながります。企業の資本は一人ひとりの従業員の資本によって作られている。だから個々人が教養や能力を高めて人的資本を増幅させることは、企業の資本を拡大することにもなるという考え方です。つまり、従業員は労働者としてではなくて、自分自身に対する資本家として、時間と労力をかけて自らの資本=労働力を高める必要があるわけです。自己啓発セミナーが人気なのも、こうした考え方が支配的だからです。

同様の議論は、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「文化資本」にも通じます。彼は学歴や文化的素養までもを「資本」と捉え、社会階層によってその質が異なることを指摘しました。もともと彼の理論は、家庭環境によって偏りのある「文化資本」を学校制度によって是正するという、ネオリベラリズム的なものに対する対抗として出てきたものですが、「目に見えないものを価値化する」という意味では、似たような説明原理で成り立っているわけです。

つまり、オティウム(=自由な時間)の実践が、実際はネゴティウム(仕事)的、ネオリベラリズム的な文脈に回収させられる危険性は十分にある。つまり「自己の技術」は必ずしも解放にはつながらないんです。その両義性には注意する必要がある。

──それでは現代における「自己の技法」には、具体的にどのようなものがあるのでしょうか?

そこで重要な役割を果たすのが、嗜好品だと思うんです。タバコやコーヒー、お茶をたしなんでいる時間は、物理的な時間に対して、主観的な体感時間が長いんです。禅の経験者はみな「時間が延びる」という表現をしますが、同様に時間と身体の感覚が研ぎ澄まされる状態こそ、オティウムなのではないでしょうか。

僕は石庭が好きなのですが、あれもまさに自己の技法のデバイスだと思います。石庭に面して座っていると、木の葉の音や鳥の声など、聞こえるものがどんどん広がっていく。ネゴティウム=ビジネス的な時間をタブラ・ラサ(何もない状態)にしてくれて、感覚と時間のレートが変わる。こうした時間こそが、さまざまなことに気づき、アイデアを生み出す素地になるわけです。「自己の技法」は、自分自身の精神の広がりを捉え返し、蘇生させる技術であり、嗜好品はその媒質なのだと思います。

「自己の技法」としての「日本的スノビズム」

──いわゆるわびさびの考え方、室町時代の文化には現代の「自己の技法」へのヒントが隠れているということですね

ロシアの哲学者アレクサンドル・コジェーヴに「日本人のスノビズムについての注」という有名な文章があります。内容は賛否両論ありますが、あの注で「日本的スノビズム」として語られている華道や茶道、能といったものは、「自己の技法」の一種だと思うんです。これらの文化が発明されたのは、豊臣秀吉が日本の内戦を終結させ、国を統一した頃ですよね。今まで多くの人を殺してきたうえに、常に明日死ぬかもしれない緊張を強いられている戦国大名は、日常的に強いストレスに晒されていた。そうしたストレスに対処するために生まれたのが、華道や茶道といった「日本的スノビズム」と括られる文化なのではないでしょうか。

これらは自分自身の心の安定を取り戻すための、「自己の技法」の核心的装置なんです。たとえば、お茶は精神分析と似た効果がある。精神分析医が患者をカウチに横たわらせるのと同様に、狭い場所に入って、しばらく黙ってもらう。そして、栄養分も甘みもなく、ただ苦いだけの逆説的な飲み物を飲みながら、内省してもらう。ある意味で、ストレスの極限から心を解放する、セラピー装置であるわけです。

能も同様です。能は、殺した人が戻ってきて、恨みを晴らしていくといったプロットの話が多い。つまり、時間の流れを変えることで、今までのトラウマに満ちた思い出や不安な現実を払いのけるセラピーになる。また、コジェーヴは触れていませんが、石庭もロールシャッハテスト(被験者にインクのしみを見せて何を想像するかを述べてもらい、その言語表現を分析することによって被験者の思考過程やその障害を推定する性格検査の手法)のようなかたちをしていますよね。固着した記憶から解き放たれ、さまざまな連想に身を任せて心をほぐすための、記号学的装置であるわけです。

──僕はコーヒーが好きで、バリスタや焙煎の仕事をしている友人が、国内外にたくさんいます。面白いのは、初めからコーヒーのビジネスを手がけていた人はほとんどおらず、なにか他のビジネスを手がけていた人が、あるときガラッと職種替えしたパターンが多い。その人たちに「なぜコーヒーの仕事を始めたのか?」と聞くと、いま石田さんが指摘された点に近いことを言っていて。コーヒーを淹れたり飲んだりしているとき、「自分は自分だ」「いま自分は生きている」と強く感じるそうなんです。これも「自己の技法」だと言えるのではないでしょうか。

そうでしょうね。21世紀の「自己の技法」は、禅のようなものに近づいていく可能性が高いんじゃないかと思っているんです。最近、西田幾多郎の哲学を手がかりに、スティーブ・ジョブズを読み解けないかと考えていて。ジョブズが日常的に禅を実践していたことは有名ですよね。一方で、西田の「純粋経験」は、基本的に禅を哲学にしたものだと僕は思っているんです。また、西田の存在論は無の存在論である一方、ジョブズが作ったコンピュータはライプニッツ起源の有の存在論が基盤となっている。つまり、ジョブスの創造的なインターフェイスデザインというのは、コンピュータの有の存在論と、禅的な無の存在論の出会うところで生まれたものだということができるんじゃないかと思うのです。

なぜ日本人はエコロジーへの意識が弱いのか

──ジョブズと西田哲学がつながるんですね。面白い! ただ、嗜好品が難しいのは、中毒性もはらんでいる点ですよね。中毒を回避しながら、オティウムを獲得していくための方法を考える必要がある。そこで参考になりそうなのが、石田さんが以前から提唱されている「意味のエコロジー」という概念です。

「意味のエコロジー」とは、今までお話ししてきたように、資本主義のロジックに従って、他律的な欲望にもとづく消費を強いられるだけだとクリエイティブになれないので、自律性を手放さないよう、自分の時間を持つことが重要なのではないか、という考え方です。

この概念を提唱しはじめたのは15年ほど前なのですが、2020年現在、「意味のエコロジー」はもはや、ただの“エコロジー”の問題になっていると思います。人間の心的活動に接続し、リアルタイムで消費資本主義の中に記入していくデバイスが発達したことが原因です。15年前とは比べものにならないほど、時間が他律的なものにどんどん組み込まれていき、自分自身の欲望を持てなくなってしまっています。結果として、抑うつ剤の消費量や精神疾病の患者数がどんどん増えている。

そして、これは環境問題も同じです。今までは資本主義とは違う次元として考えられてきた「環境」や「意味」の次元が、急速にグローバル資本主義のシステムの内側に入り込んできている。デジタルな仕事に人びとが移行していくと精神のエコロジーは人びとにとって自然環境のエコロジーと同様に死活問題になっていきます。

伝統的な経済学は地球温暖化や異常気象を考慮に入れてきませんでしたが、もはや環境への負荷の大小がSDGsのように経済に動機を与えるようになっています。

同じようにデジタル資本主義を持続可能にし、人間が価値を生み続けうるための精神のエコロジーとは何かを考えないといけない。これはまさに人新世の議論に直結するわけです。

──デジタル・アディクション(デジタル中毒)の問題にもつながりますね。日本のメディアではそこまで話題になりませんが、欧米では、とりわけ子供のアディクションの問題を中心に、かなり議論が進んでいます。

人新世の問題も含め、日本人はエコロジーに対する意識が弱いと思います。政治的勢力において、こうした問題は全く言説化されませんし、企業の意識もまだ薄い。世界的には、環境問題が大きな政治的イシューになっていたり、SDGsに配慮していないと企業の株価が上がらなかったりするじゃないですか。

その原因は、エコロジー問題を作り出したのがヨーロッパ人だからだと思います。たとえば、人新世の問題は、もとをたどれば産業革命に行き着きます。19世紀に産業資本主義に嫌々編入された立場である日本人には、生みの親のロジックがよくわからない。デジタル・アディクションの問題も同じです。17世紀のライプニッツから続く一貫したコンピュータのロジックが、日本人には捕まえられないので、いま起きていることへの洞察力が高まらない。根本的に不利な立場に置かれているんです。

いまこそ必要な、資本主義のモデルチェンジ

──コロナ禍で「不要不急」という言葉が流行りました。そのおかげで、嗜好品やファッションといった「不要不急」の産業は打撃を受けているわけです。一方で、人間にはどうしたって、こうした余剰的なものに惹かれてしまう性質がある。先進国であればあるほど、余剰的なものの方が、必需品よりも大きなマーケットを形成していることも事実です。人間はなぜ余剰的なものを求めてしまうのだと思いますか?

前編で、初期近代の商業資本主義において、嗜好品は商品として重要な位置を占めたとお話しました。その理由は、嗜好品というのがもともとヨーロッパ人にとって馴染みのないもの、何の役に立つのかも究極的にはわからないものだったからなんです。これを記号論的に言うと、シニフィアン(記号表記)だけでシニフィエ(記号内容)がないもの、あるいは「浮遊するシニフィアン」と言います。意味が定まっていないもの、という意味です。

この「浮遊するシニフィアン」こそが、欲望や新しい意味を生み出すマナ(力)を持つわけです。これがないと、欲望も希望も生まれませんし、新しいものを考え出すトリガーもなくなってしまう。それがなければ、意味が固定化した世界になり、面白いものはなにも生まれないわけです。

「不要不急」が排除された、決まりきったものだけの生活になると、いまいる世界の中に閉じ込められることになる。コロナ禍で家庭内のさまざまな問題が起こっているのも、そうして閉じ込められることでストレスが増えているからです。したがって、必ずしも高級品でなくてもいいですが、やはり「意味のわからないもの」は必要だと思うんです。

「エキゾチック(exotic)」の語源は「外(exo-)」、つまり「世界の外」という意味です。ここで生まれたわけではない謎なもの、「ex-」なものこそが、共同体を外側に開いていく。資本主義は、差異を生み出すものがないと止まってしまう。未知のものがなくなると、閉鎖的で、寂しい世界になってしまうと思います。

──ただ、これだけ環境問題が深刻化してくると、余剰的なものの立場はどうしても弱くなってしまう。特にコロナ禍のような危機的状況では、「余剰なんて言っている場合ではないのでは?」といった言説が強くなりますよね。

たしかに、産業資本主義的なスキームでの「余剰」は、なくてもいいと思います。たとえば、すでに車を2台持っていて足りているのに、もう1台買う、といった意味です。そもそも現代は、20世紀型の消費資本主義が崩れ始めている。今の若い人は、「消費は良いことだ」といった価値観はもはや持っていませんよね。

一方で、資本主義自体が悪だとは言いませんし、別の消費スタイルもありえると思うんですよ。それは、「自分で作る」ことを包含した消費行動です。一時期、「ファブラボ」的なものが注目を浴びたり、サブカルチャー消費のスタイルとして「二次創作」が流行ったりしました。そうした参加型の、ボトムアップでの消費行動が、いまこそ見直されるべきだと思うんです。

コロナ禍でも、飲食店が大きな打撃を受けた一方で、自炊のニーズやリテラシーは底上げされましたよね。電気のようなインフラだって、それぞれの地域でまかなう分散型のシステムが可能だと思います。「作る」ことが組み込まれた消費を基調とした、よりエコな資本主義のモデルに変わっていくべきなのではないでしょうか。たとえば、服だって昔はみんな自分で作っていましたよね。

──はい。戦前は、日本人の9割が自分たちで服を作っていました。

だから、何かのきっかけで、再びハンドメイドな服作りが基調になる可能性も、十分ありえるわけですよ。もしくは、カスタマイズを前提としたキットの形で売られるかもしれません。コロナ禍を、そうした変化のきっかけにできると良いですよね。

働き方の問題も同様です。フィンランドが週休3日制を導入しようとチャレンジしていたり、マイクロソフトも似たような取り組みをしていたりと、従来のネゴティウムから脱する動きがありますよね。特にIT産業は、オティウムが生み出す創造性が不可欠なセクターなので、それぞれが休暇の取り方やオティウムの作り方を組み合わせ、自分自身の働き方をデザインしていく必要があります。

──コロナ禍をきっかけに、ファブラボや二次創作ブームで注目されたような、「手を動かして作る」形での消費行動を捉え直すべきだと。

大きなパースペクティブで語ると、直立二足歩行が始まって以来、人間の手と脳はリンクしているんです。しかし、産業資本主義の時代になると、労働と手が切り離されてしまった。フォード主義(注:アメリカでヘンリー・フォードが自社工場で行った大量生産手法)とテイラー主義(注:アメリカの経営学者フレデリック・テイラーが提唱した科学的労働管理法)が合体し、ベルトコンベア上で職人は決められた作業を繰り返す、合理的な生産と労務管理システムが誕生しました。これによって、今まで全ての工程に関わっていた職人は自分の担当する一工程しか担えなくなり、自分の手で車や家を作ることができなくなりました。もちろん、それによって生産コストは下がりましたが、同時に職人の手にあったノウハウも失われてしまった。

また、メディアの問題もあります。アナログ・メディアが普及すると、絵や文字を手で書かなくなり、メディアという機械が、映像や文字を「書く」ようになったわけです。ここでも、人間は手を失いました。確かに「手を取り戻せるかもしれない」と思われる瞬間も何度かありました。最も直近のタイミングがデジタル化です。コンピュータに手の代わりをさせて、写真や映画、テレビを「書き」写せるようになれば、メタ言語を人間の手に取り戻せるかもしれない、そんな希望がありました。しかし、人間には関係なく駆動するアルゴリズムというものが出てきて、一気に希望がかき消されてしまった。これが、GAFAによる支配や人工知能ブームが問題視される現状です。

もちろん、近代以前に完全に戻ることはできません。それでも、テクノロジーをうまく活用して、少しは手を取り戻したほうがいいのではないか、というのが僕の提案です。均質化したものを大量生産する産業資本主義の時代が終わり、一人ひとりにフィットした個別化されたものが求められる時代状況にも見合った提案だと思います。部分的にでも手を動かして作ることで、より自分に合ったものが手に入る。また、作るためには対象について考えて理解を深めなければいけないので、想像力も培われる。

コンピュータだって、ジョブズが起業した初期は自分たちの手で作っていたわけですが、いまや「コンピュータとはなにか?」といった全体的な想像力を持っている人は稀ですよね。しかし、ラズベリーパイのような手作り型コンピュータもブームになりつつあり、子どもたちがプログラムを書くようになると手が戻って来ます。もう一度、手を呼び戻すことこそが、人間の条件を取り戻すきっかけになると思います。

(了)

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