連載

嗜好品は家族を超えたつながりを作る──霊長類学者・山極壽一(後編)

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、香味や刺激、覚醒や鎮静を得るための飲食物を、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳すのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」な「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。連載シリーズ「現代嗜好」では、その存在意義や未来を、日本の第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

第1回は、人類学者/霊長類学者の山極壽一を訪ねた。前編では、類人猿の食行動、「農耕と牧畜」の革命が及ぼした変化を題材に、嗜好品の成り立ちを語ってもらった。続く後編では、危険を承知で行われる嗜好品の分かち合い、その際に求められる文化的作法の意味を探りながら、人類が嗜好品を摂取する根源的な意味を語っていただいた。

(取材・編集:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海 写真:佐藤麻優子)

前編 》嗜好品は家族を超えたつながりを作る──霊長類学者・山極壽一

嗜好品は人を非日常へと連れ出し、神との紐帯も生み出す

──栄養摂取が目的でないのに、ヒトはなぜ嗜好品を口にするのでしょうか?

さまざまな理由が考えられますが、まず挙げられるのは、非日常的な感覚を味わうためです。お腹を満たすために日常的に食べるものとは異なり、嗜好品を口に入れると、何らかの覚醒作用、スッキリした感じを味わえる。

たとえば、アフリカの低地では、酒やタバコに加えて、コーラの実が嗜好品として普及しています。この実をしがみながらジュースを飲んだりすると、気持ちが良くなり、高揚感が味わえる。

また、アフリカの東海岸では、「ミラー」と呼ばれるニシキギ科の灌木の葉っぱが、嗜好品として摂取されています。これはとても苦いのだけれど、覚醒効果が強い。トラック運転手などは、ジュースを飲みながらミラーを噛むことで、眠気や空腹感を抑えていますね。

──覚醒作用を得ることは、宗教的な儀式でも必要になってくると思います。たとえば、タバコはもともと、古代マヤ文明をはじめとした南アメリカで、神事祭祀に使われていたことが分かっているそうです。

嗜好品に、人と神をつなげる機能があることは確かでしょうね。嗜好品を摂取することで、いまの自分の状態から離れ、ある種のトランス状態に入ってゆく。そうすることで、死者や精霊と会話できるようになる。

死者との会話は、定住社会である農耕牧畜社会において、必要不可欠な行為だったと僕は考えています。その理由は、自分が住んでいる土地を守るためです。文字がなかった時代に、「先祖代々この土地を使ってきた」と主張しても説得力がない。すると、土地の権利でトラブルになった際、武力での解決を余儀なくされてしまう。

でも、祖先が現代によみがえれば、武力を使わずとも権利を証明できます。そこで死者と話ができる呪術師のような存在が求められるようになり、会話するためにトランス状態に入る手段として、覚醒作用を持つ嗜好品が使われ始めたのではないでしょうか。

人は自分で自分を定義できない

──ただ、山極さんは類人猿も嗜好品的なものを摂取すると語っていました。もちろん類人猿は、神を持ちません。であれば、嗜好品による覚醒作用や鎮静作用が求められる根源的な理由は、また別のところにありそうな気もします。

それは人間が今ある自分を変えたいという欲望を持つからだと思います。現在の身体や精神から解放されることを求め、嗜好品を摂取する。

そもそも、人類は自分で自分を定義できないんですよ。狩猟採集時代から、ヒトは共感力を高め、仲間と連帯して食物を分け合いながら暮らしていく社会を形成してきました。その集団では、仲間が自分を定義してくれます。逆に言えば、一度「臆病者」や「女たらし」と定義されたら、そこから抜けるのは難しく、仲間の言葉でがんじがらめになってしまう。

自分で自分を定義できないことは、ストレスを生みます。周りに決められた「自分」に耐え続けることができなくなり、一時的に違う自分にさせてくれる嗜好品を求めるのだと思います。覚醒することで自分を拡張したり、ストレスのかかった自分を鎮静させたりするんです。

実はこうしたストレスは、ヒトの認知能力が高いからこそ生じるものです。ゴリラやチンパンジーは、自分が参加している場面でしか、状況や相手の感情を読み取れません。一方でヒトは、自分が参加していない場面でのコミュニケーションも理解でき、だからこそ演劇や映画を楽しむこともできる。

もっと言えば、ヒトは自分を認識するとき、他人の目線を意識せざるを得ない。いわば、演技しているんです。たとえば、表情ひとつ取っても、自分の顔をリアルタイムにそのまま見ることはできないので、相手の表情から想像するしかない。他人が全く関与しないかたちでは、自分を認知できないんです。

──人類は他人の気持ちを読み取れる認知能力を持っているからこそ、自らのアイデンティティを他人に依存せざるを得ない。そして、その依存状態から来るストレスから一時的に抜け出すために、嗜好品を摂取するということですね。

はい。ただ、嗜好品にはもうひとつ重要な役割があります。誰かと一緒にたしなむと、仲間意識を高めたり、確認したりできることです。

例えば、先ほど紹介したアフリカ低地では、普及しているコーラの実を握って渡すことが友情のしるしにもなっている。また、狩猟採集民のピグミーは、大麻を分かち合うことで共同体意識を確認しています。

もっと言えば、踊りも同じ機能を果たしますよね。僕は人間の並外れた社会性の根源に、音楽的なコミュニケーションがあると思っています。音楽には、集団の仲間との連帯を高める力がありますから。そして、あわせて嗜好品もたしなむことで、連帯感の醸成がより進んだ面もあるのではないでしょうか。

嗜好品の魔力に溺れないために、文化的作法を身につけよ

──近年では、身体に害を及ぼす嗜好品の、無目的性を批判する声も見られます。AIや脳科学の発達に伴い、ヒトに必要な栄養素や成分が解明され、「これさえ食べておけば大丈夫」と謳う機能性食品も現れ始めている。また、できるだけ自然の素材を活かす形でつくられたオーガニック・コーヒーやビオ・ワインのように、“身体に良い嗜好品”も作られるようになっています。

こうした動きにも後押しされ、「従来の嗜好品は、身体に悪いだけだからやめたほうがいい」といった言説が増えてきています。このように、機能性や目的性を金科玉条に、嗜好品の無目的性を批判する声についてどう思われますか?

そうした近代科学は、「個人」しか見えていないんですよ。嗜好品に限らず、同じ味のものを口にしても、一緒にいる相手によって味が変わることはよくありますよね。人間の五感は、社会的に作られているんです。

たしかに、嗜好品も分解すれば化学式に還元できるので、機能や作用を特定することは可能でしょう。しかし、それをいくら個人に当てはめても、社会性という変数を加えた瞬間、意味をなさなくなってしまう。

──社会性という観点から見ると、嗜好品は「無目的」でもなんでもないということですね。ただ、主に第三世界で生産されることで生じる搾取構造や、受動喫煙による被害、過剰摂取など、嗜好品をめぐって反省すべき点があることも事実でしょう。

「嗜好品」という言葉を初めて使った森鴎外は、「人生に必要な毒」と表現していました。ソーシャルグッドで倫理的な「毒」として嗜好品をたしなむためには、どういった点に気を配るべきなのでしょうか?

まず、子どもの行動については、やはり大人が責任を持つべきでしょう。身体が未成熟な成長期の子どもに、嗜好品が与える悪影響は大人以上に大きい。だからこそ、未成年の飲酒や喫煙は禁じられているわけです。基本的に何かを与えられながら育っていく子どもに、自己責任論を押し付けるわけにはいきません。

そして、何より大切なのは、嗜好品をたしなむための文化的な作法を身につけることです。嗜好品にはつねに、病みつきになって耽溺してしまう危険性がつきまといます。人は容易に、泥酔してしまったり、ヘビースモーカーになってしまったりする。

だからこそ、たしなむための文化的な作法が求められるわけです。先ほど紹介したミラーにしても、一人ではなく誰かの家に集まってみんなでたしなむことで、過剰摂取を避けています。一人で引きこもって摂取し続けていたら、すぐに死んでしまいますよ。嗜好品が宗教的な儀礼と結びついてきたのも、調合に冠する知識と経験が豊富な呪術師だけが、ちょうど良い塩梅でトランス状態に入れるからです。

害があるから、信頼関係を育める

──嗜好品をたしなむ作法は、文化圏によって異なるのでしょうか?

はい。分かりやすい例が、イヌイットやアボリジニ、ブッシュマンといった狩猟採集民と酒の関係です。こうした人びとは、蒸留酒を造る技術を伝統的に持っておらず、強いお酒に触れてこなかった。ですから、未だに酒を飲む作法を知らないんです。

たとえば、アフリカでも、バナナが発酵してできるバナナビールや、ヤシの樹液が自然発酵してできる椰子酒といった醸造酒は長い間飲まれてきました。一方で、蒸留酒は製造に装置や時間が必要なので、定住しない狩猟採集社会では作れない。

ですから、アフリカで飲まれている蒸留酒は、近代になってヨーロッパ人が持ち込んだものです。もともと定住民であるヨーロッパ人はお酒の作法を知っているので、使い分けができます。アルコール度数が比較的低い醸造酒は、昼間のお祝い事などでも振る舞い、度数の高い蒸留酒はじっくり話をするときに時間をかけて飲むと。

でも、そうした文化的な作法を持たない狩猟採集民が、度数の強い蒸留酒に出会うと、ぐでんぐでんに酔っ払うまで飲んでしまい、近年は社会問題にまでなっている。僕がオーストラリアのアデレードに行ったときは、酔っ払って街の中を歩くアボリジニの姿が目立っていました。ゴリラの調査をしていたアフリカのガボンでも、普段は森にキャンプを張っているのですが、給料日になるとみんな村に帰ってしまい、金がなくなるまで飲み続けている。

ノーベル平和賞受賞者のアルベルト・シュヴァイツァーが、20世紀初頭にガボンで病院を建てていたときの日記にも、文化的作法の欠如が伝わってくる描写があります。アメリカから入ってきた蒸留酒が原因で、現地の労働者が給料をすぐに使い果たしてしまったり、泥酔して仕事にならなかったりする様子が描かれている。嗜好品というのは、それだけの魔力を持っているんですよ。

しかし嗜好品は幅が広いんですよ。これは伝統社会でも近代社会でもそうです。初めて会った人に「まあちょっとどうですか」とそれを勧める。その理由としては、こんな危険なものを飲む間柄なんですよというコミュニケーションなんです。酒を飲んだら普段の自分とは違うかもしれないけど、でも普段の自分と違ってもちゃんと受け入れてくれるんですね、といった前提がお互いにあるんです。それも含めて受け入れますよ、というしるしなんですよ、酒を飲むというのは。

──仲間と一緒に嗜好品を摂取することが、なぜ共同体意識の醸成につながるのでしょうか? わざわざ嗜好品をたしなまなくても、ただ同じ場にいたり、食事をしたりするだけで、連帯感は高められる気もします。

嗜好品が仲間意識を強めさせてくれるのは、害があるからです。嗜好品の多くは刺激が強く、身体に悪影響を与えるリスクがあります。その危険を冒してでも、共に口にするという覚悟を決めたとき、相手と同じ方向を見ている気持ちになれて、信頼できるわけです。刺激のあるものを、相手と分かち合うことで絆が強まる。自分は一人ではなく、相手と包み合っている感覚に酔えるわけです。

そもそも、他人に出されたものを口にすることは、動物にとって当たり前の行為ではないんですよ。類人猿やサルは、他人が持ってきたものを一緒に食べることはしません。自分で安全性を確かめたものしか口にしない。

でも、ヒトは危険を承知で、他人に出されたものを口にすることで、信頼関係を高める。食べ物に毒を混ぜるのは、最も簡単な殺人方法の一つです。いまでも毒殺が多いアフリカの奥地では、他人と一緒に食事することは、殺される危険性を知りながら、相手を受け入れる行為としての意味合いを強く持っています。

食物は社会性を高めるために必要なものだったんです。そして、嗜好品はふつうの食事よりも、幅広く関係性を築くのに役立ちます。基本的に家族単位で分かち合う食事とは違い、「ちょっとどうですか?」と気軽にシェアできるので、家族を超えたつながりを構築しやすい。

これも類人猿との比較の問題なんですが、類人猿では自分で確かめたものしか食べない。サルもそうです。でも人間だけは、他人がどこからか持ってきたものを食べるようになったわけです。それは、その人への信頼を表す行為。嗜好品はその延長線上にあるんですね。だから、出されたものを危険と知りながら、あえて飲んだり吸ったり食べたりすることによって、相手との信頼関係を高め、相手を受け入れるという行為なんです。それが、人間社会に起こった最大の革命なんですよ。

前編 嗜好品は家族を超えたつながりを作る──霊長類学者・山極壽一

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