連載

仕事よりも「自由な時間」が重要だ:記号論研究者・石田英敬

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。『DIG THE TEA』は連載シリーズ「現代嗜好」を通じて、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。


第3回は、記号論・メディア論研究者の石田英敬をたずねた。記号論という19世紀以来の学問を、最新の脳科学の研究を踏まえてアップデートしようと企図する石田は、メディア技術や資本主義のパースペクティブから、20世紀の広告、そして21世紀におけるAIやデジタルテクノロジーの影響を読み解いている。前編では、「嗜好品」をセマンティクス(意味論)の観点から分析したうえで、近代が失った「オティウム(自由な時間)」を取り戻させてくれる役割、さらには資本主義や生政治とのかかわりを考えていく。

(編集・文:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海  写真:佐藤麻優子)

「嗜好品」のセマンティクス(意味論)的理由

──石田さんはご著書『記号の知/メディアの知』の中で、「人間とは『意味する動物』であり、その生のあらゆる領域は『意味の問題』として考えることができる」と書かれています。僕はこのフレーズが好きなのですが、今回は嗜好品の「意味の問題」を解きほぐせたらと思います。

まずは、「嗜好品」という言葉についてお聞きできればと思います。この言葉は日本語に特有で、的確な訳語がないとされています。初めて文献に登場するのは森鴎外が1912年に発表した短編小説『藤棚』と言われていて、その中に以下のような記述が見られます。

「人生に必要な嗜好品(シカウヒン)に毒になることのある物は幾らもある」

(『鴎外全集』第十巻、岩波書店 昭和47年8月22日発行)

一方で、英語でよく使われる訳語を見ても、「luxury goods」は服や雑貨、宝飾品が想起されますし、「article of taste」は非日常的な高級品を指し示すニュアンスが強く、しっくりきません。

まずは、「嗜好品」という言葉のセマンティクス(意味論)を考えていきましょう。国会図書館のデジタルコレクションで初出を調べてみると、厳密には1900年に出版された『稿本 化学語彙』が資料としては初出であるようです。

英語の「stimulant」とドイツ語の「ゲヌスミッテル(Genußmittel)」(Genuß「味わうこと、享楽」とMittel「手立て、手段」が組み合わさった言葉)の訳語として「嗜好品」が掲載されています。ただ、英語、ドイツ語、そして日本語の訳語という、単語どうしの対応関係しか載っておらず、「嗜好品」が何を意味するのかが説明されているわけではありません。

鴎外の『藤棚』も読みましたが、やはり鴎外は「嗜好品」を、ドイツ語の「ゲヌスミッテル」、に近い感覚で使っているように見える。さらに面白いのは、幾つもの言語でWikipediaを見てみると、「嗜好品」にあたる項目はドイツ語版Wikipediaの「ゲヌスミッテル」だけしかなくて、英語やフランス語のWikipediaでは嗜好品にあたる項目は存在しないんです。しかもドイツ語版Wikipediaにはドイツ語の「ゲヌスミッテル」には他の言語と違って文化的なニュアンスが含まれていると書かれている。それに対して、例えば、フランス語の訳語「stimulant」だと薬学的なニュアンスが強いというわけです。

だからドイツ語の「ゲヌスミッテル」は、同じく文化的なニュアンスを感じ取れる日本語の「嗜好品」と、かなり近い感覚の言葉として使われていると考えてよいでしょう。厳密な初出ではないにせよ、4年間のドイツ留学を経験して帰国した鴎外がそういう訳語として「嗜好品」という言葉を発明したという説には納得感があります。

──「嗜好品」という言葉が持っている文化的なニュアンスは、ドイツ語のゲヌスミッテルに由来する可能性があるということですね。それにしても、「嗜好品」はなぜ、こんなにも翻訳が難しいのでしょう?

人間の「テイスト(好み)」にかかわる言葉だからだと思います。言い換えると、ある社会階層の人がある事象に対してどういった趣味判断をするか、つまりフランスの社会学者ピエール・ブルデューの「社会的判断力批判」の問題だからです。

テイストは、さまざまな文化的条件が歴史的に積み上がっていくことで成立します。「嗜好品」は、その複雑な絡み合いをうまく束ねている言葉。それゆえに、少しでも違う言葉で言い換えようとすると、すぐに束ねていたものが霧散してしまう。単一の言葉では代替できない、複雑なセマンティクスのもとで成り立っている言葉なんです。

たとえば、嗜好品について鴎外が言うように「毒にも薬にもなる」と聞くと、ギリシア語の「ファルマコン」という言葉が想起されます。ファルマコンは英語のファルマシーの元の言葉で、ギリシャ語では薬であると同時に毒でもドラッグという意味です。嗜好品にファルマコンとしての側面があることはたしかですが、だからといって両者は同値ではありません。「毒にも薬にもなる」両義性を持ったものは、嗜好品の他にもたくさんありますから。また、先ほども触れたように、嗜好品は歴史的に形成された概念ですが、ファルマコンは通歴史的な概念です。

近代化が失わせた「オティウム(自由な時間)」を取り戻す

──「嗜好品」という言葉で束ねているものが、別の言葉にした瞬間、バラバラになってしまう。このセマンティクス(意味論)の問題は、とても本質的だと思います。たとえば、昨今のファッション業界では、コロナ禍を受けて「『luxury』という言葉を使うのをやめたほうがいいのではないか」といった議論が起こっています。でも、石田さんにお話しいただいたセマンティクスの議論を踏まえると、それは問題をバラバラにして、その言葉が持っている歴史的で重層的な意味を無視することにしかならないと思うんです。

このアポリア(注:難問)を認識したうえで、「嗜好品」のもつ意味を捉え直すには、どういった手続きを踏めばいいのでしょうか?

まず、現代における嗜好品のあり方を検討するためには、4つの問いを経由する必要があると私は思います。

1つ目は、人類学の問い。嗜好品を、栄養摂取や生存維持を目的とした「食べ物」を超越するものとして捉え、薬物や植物との関係、さらには宇宙と人間の関係といったテーマで考えていく。あるいは、僕が専門としている記号学の観点で考えると、クロード・レヴィ=ストロースが提唱する「料理の三角形」(※)のどこに位置づくか、といった議論も可能ですね。

(※)料理の三角形:「生もの」「火にかけたもの」「腐ったもの」を通して、文化の構造を探っていくモデル。『食卓作法の起源』で示された。

2つ目は、初期近代の商業資本主義の問いです。商業資本主義の時代になると、お茶やコーヒー、タバコなどが新大陸やアジアから輸入され、西洋のマーケットに流通するようになりました。その結果、「嗜好品」というカテゴリーが形成されていった。つまり、嗜好品は商業資本主義が生み出したプロダクトと捉えることができるんです。タバコや唐辛子はあっという間に世界中に広がりましたが、嗜好品はそうした遠くからもたらされるエキゾチックなものに「夢」を見出す商業資本主義のロジックと、相性が良かったのだと思います。

3つ目は、公共圏の問いです。嗜好品は民主主義のファクターともリンクしており、啓蒙や公共圏といった問題とも結びつきがあると思うんです。コーヒーショップが民主主義を加速させたことは有名ですよね。また、森鴎外は日本における「近代文学」という公共圏を、発明して成立させた人物の一人です。その意味では、「文字の共和国」、つまりメディア圏を成立させるためのアイテムとして、「嗜好品」という言葉を生み出したとも取れるのではないでしょうか。

そして4つ目は、消費資本主義の問いです。20世紀型の消費資本主義が普及していくプロセスは、コカとコーラの絶妙な配合で生み出された嗜好品、コカ・コーラ抜きには語れません。また、消費資本主義の基本技術である「マーケティング」を発明したエドワード・バーネイズは、当時タブー視されていた女性の喫煙を一気に普及させた、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ社のキャンペーンにかかわっていました。コカ・コーラとブリティッシュ・アメリカン・タバコ。この二つの嗜好品は、消費資本主義がメディアを通して浸透していくうえで、重要な役割を担ったわけです。

──人類学から商業資本主義、そして公共圏、消費資本主義へ。これら4つの問いを経由して、はじめて「現代における嗜好品とは?」という問いにたどり着くわけですね。

そうです。ただ、僕が専門にしている記号論は、主に2番目の商業資本主義より後の時代を扱う学問なので、今回は近代以降の議論をメインとさせてください。

さて、そこでまず出てくる問いは、「嗜好品を『食べ物』や『薬』の問題として捉えるのは適切なのか?」というもの。僕の答えは「否」です。結論からお話しすると、嗜好品は「時間」の問題として捉える必要があると思うのです。

タバコもコーヒーもお茶も、仕事の時間を中断して、「一服」するために嗜みますよね。古代ローマの言葉で、「オティウム otium」と「ネゴティウム negotium」があります。オティウムは「free time」あるいは「leisure」と訳されることが多いのですが、要するに「自由な時間」です。その対立概念を、「otium」を否定して「negotium」と言います。このとき「neg」は否定辞で、オティウムの否定的な対語が「negotium」です。 オティウムの自由時間を否定するとネゴティムになる、つまり、英語で言う「negotiation」、つまり、ビジネスのための時間です。

ローマの自由人にとって、オティウムつまり自由な時間がデフォルトでネゴティウム=ビジネスは「仕方なくやっている」ネガティブな時間でした。残念ながら僕たちはビジネスがデフォルトだと思っていますが、本来はその逆だったんですね。 

ネゴティウムがデフォルトになってしまった近代人は、嗜好品を摂取することで、失われつつあるオティウムを取り戻そうとしてきたのだと思います。近代化が進めば進むほど、あらゆる生活時間がネゴティウムに組み込まれていく。そんな中で、オティウムを再発見できる数少ない時間が、嗜好品を嗜むひとときだったわけです。言い換えれば、嗜好品を摂取することは、人が自由になるための条件、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの言う「自己の技法」につながる思うんです。

近代においては、嗜好品を消費する時間は限られたオティウムを再発見するためのひと時という性格を持たされてきた。これがいかに歴史的に展開されてきたかを捉えていくことによって、現代人は「自由である条件」を考え直すことができると思うのです。

消費資本主義と生政治のはざまで

──「あらゆる生活時間がネゴティウムに組み込まれていく」という指摘は、昨今の情勢に鑑みても納得がいきます。中国・深圳のテック起業家たちを取材したことがあるのですが、ほとんどが中国共産党を支持していて驚きました。中国共産党のおかげで、経済的に豊かになっているから、何の問題もないと言うんです。人権を無視した管理体制が敷かれていても、ビジネスに良い影響さえあれば、誰も疑問に思わないわけです。

全てがビジネスになり、計算化されたネゴティウムの世界に組み込まれているわけですよね。そのことに、アディクティブにさえなっている。ビジネスを拡大してより大きな「成功」を得ることにしか快楽を得られないわけだよね。フロイトの言う「死の欲動」とも通じますが、このままだと欲望を他律的なものに任せすぎた結果、自我というものがバラバラになってしまうのではないか。これは大きな問題だと思います。

──ここまでネゴティウムが席巻する状況になってしまったのは、なぜなのでしょう?

さまざまな要因がありますが、僕は20世紀という非常にパラドキシカルな時代に起こった変化を考えることが重要だと思います。一見すると、コカ・コーラやブリティッシュ・アメリカン・タバコは、オティウム的な「レジャーの時間」を生み出したように見えますよね。しかし、実際にその時間をオキュパイしたのは、消費資本主義でした。

産業資本主義が切れ目を迎えた1900年頃、写真、映画、電話、レコード、ラジオといったアナログ・メディア技術が人びとの生活を囲い込んでいく「アナログ・メディア革命」が起こりました。こうしたメディア技術は、映画、ラジオ、テレビ放送、広告といった、人びとの意識を生産する「文化産業」を生み出した。その結果、記号消費が普及し、20世紀型の消費資本主義が生まれたわけです。

消費資本主義が生み出したレジャータイムは、実際にはネゴティウム的なものであり、フィクショナルなものです。つまり、オティウムが資本主義のロジックの中に組み込まれていったんです。「もともと自由の商品であった嗜好品は、本当に人を自由にしたのか?」「コカ・コーラを飲んで、みんな自由になったのか?」と問うと完全にイエスとは言えない。

メディアと消費資本主義の結びつきをよく象徴しているのが、サンタクロースです。20世紀に最もメディアを牽引したアイコンの一つであるサンタクロースは、コカ・コーラがコマーシャルに起用したことで世界化したんですよ。20世紀最大のメディアアイコンが、20世紀に生み出された嗜好品によって生み出された事実は、消費資本主義の本質を突いていると思います。

──20世紀は、オティウムが取り戻されたかのように見えて、消費資本主義が生み出したネゴティウムが席巻していった時代だったのですね。

それから、20世紀の嗜好品は、健康問題、フーコーが言うところの「生政治」(注:国家が国民を統治する際に、監視や処罰の法制度を課すだけでなく、衛生や治安、健康や福祉など住民の生活全般を管理することで人びとの生をコントロールしていく政治)の問題とも接しています。統治の生政治化と、消費資本主義が発達させてきた嗜好品が出会ったのが、20世紀という時代だったわけです。

生政治的統治には、大きく分けて2つのかたちがあります。為政者が社会をコントロールする制御型の統治権力と、ネオリベラリズム化に伴って普及した個人による自己の統治の2つです。

たとえばタバコは、統治権力からは国民の健康管理の観点から高額な税をかけられ、一方で個人からは自己の健康管理の一環で摂取を控えられるようになった。つまり、2つの生政治権力の間に挟まれることになったのです。これこそが、タバコ産業を衰退させている原因だと思います。

生政治と出会った消費資本主義は、嗜好品の毒性を馴致(じゅんち:なじませること)する方向に変わりつつあります。近年、ヨーロッパやアメリカを中心にマリファナを解禁する動きが見られるのも、その一環でしょう。それほど毒性が強くないマリファナを解禁したほうが、社会的に良い影響があるのではないかと考えられているわけです。時代によって嗜好品のクライテリア(基準)は変わっていくので、数十年後には、現代におけるタバコのポジションを、マリファナが占めている可能性さえあるでしょうね。


※後編は1月28日に公開予定です。

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