連載

嗜好品は人類にとって「必要品」である:人類学者・中沢新一

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい、不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外だとされている。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。『DIG THE TEA』では連載シリーズ「現代嗜好」を通じて、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

第4回は、人類学者の中沢新一をたずねた。1983年に刊行した『チベットのモーツァルト』から近刊の『レンマ学』まで、古今東西のあらゆる知をダイナミックに渉猟しながら、心と脳をめぐる探究を繰り広げてきた中沢氏は、東洋的な「レンマ的知性」による人間諸科学の解体と再編成を試みている。前編では、嗜好品が持つ、文化システムの「外にはみ出す」特質を踏まえ、人類誕生と同時に現れた「必要品」としての余剰、そして文化というゲームが喚起する、超越性への欲望について語ってもらった。

(編集・文:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海  写真:佐藤麻優子)

文化システムの「外にはみ出す」嗜好品

──2019年8月に刊行されたご著書『レンマ学』には、1983年のデビュー作『チベットのモーツァルト』以来、中沢さんが探求されてきた思想がギュッと凝縮されていると感じました。西洋で重視されてきた「自分の前に集められた事物を並べて整理する」知性、すなわち「ロゴス的知性」を超えて、東洋的な「直観によって事物をまるごと把握する」知性、すなわち「レンマ的知性」にフォーカスを当て、現代数学や量子論、言語学、精神分析、数学、生命科学、脳科学といった人間諸科学の解体と再編成に挑んだ大著です。今回のインタビューでは、そうした最新の思索の成果も踏まえつつ、ロゴス的知性が世界を覆い尽くしつつある現代における嗜好品のあり方を考えていければと思います。

まず、「そもそも嗜好品とはなにか?」という議論からスタートしましょう。初めてこの言葉を使ったのは森鴎外だと言われていまして、1912年に発表した短編小説『藤棚』の中に、「薬は勿論の事、人生に必要な嗜好品に毒になることのある物は幾らもある」という記述があります。嗜好品の特性を看破した面白い記述だと感じるのですが、中沢さんはこの定義についてどう思いますか?

おおむね正しいことを言っていると思います。でも、「嗜好品」は難しい言葉ですよね。この言葉で、果たしてその意味するところを適切に表現できているのでしょうか。マグロが大好きな人にとっては、マグロも嗜好品だとも言えるでしょうし、「好きなもの」すべてを包摂できてしまう言葉です。

かつてアダム・スミスは消費財を「必需品」と「便益品」に、簡単に言えば生活必需品と奢侈(しゃし)品に分類しました。また古代から、多くの民族が食べ物を、必要なものとそうでないものに分けてきました。そこでまず、嗜好品が食物との関係でどのように位置づけられるかを考えてみたいと思います。ここで参考になるのが、フランスの社会人類学者、クロード・レヴィ=ストロースの『蜜から灰へ』という著作です。

レヴィ=ストロースいわく、人類はナマモノに火を通して調理する技術を獲得したことで、料理という文化システムを作り上げてきました。自然物=ナマモノを、火=文化によって加工していくプロセスなんですね。ところが、このシステムからはみ出してしまう食べ物が二種類あります。

一つは、自然に手を加えずに食べるもので、代表例が蜂蜜です。蜂が作った蜜をナマで食べたり、あるいは水にといて発酵させてお酒にして飲んだりする蜂蜜は、言ってみれば文化に変わる前の手つかずの自然を象徴している。料理の文化システムから、下に外れているわけです。

そして、もう一つがタバコです。世界的には、タバコは「ふかす」よりも「食べる」という表現が使われることが多く、食べ物のカテゴリーに分類されているといえます。火をつけて煙にして吸うだけで、灰となって消えてしまうタバコは、料理の中で「火で調理する」という文化的なプロセスだけを取り出している。料理の文化システムから、上に外れていると取れるでしょう。

──蜂蜜やタバコのように、人間が作り上げた文化システムからはみ出してしまう食べ物が「嗜好品」だということですね。

そうです。もともと、料理の文化システムの内部で日常的に営まれる食事は、家族内で親和性を高める効果があります。家庭内の料理は、鍋の中で煮込んだりと内側に向かっていくものが基本ですよね。これはおそらく縄文時代から変わっていない。非日常な「祝祭」のときだけ、家の外で焚き火に肉や野菜をかざして食べていた。

そう考えると、たとえば、タバコは先ほども触れたように、文化システムの上に外れる、いわば文化過剰な食べ物です。だから、嗜好品には家族の結びつきを強める作用は薄い。つまり、タバコは日常の家族生活のサークルからはみ出て、精霊や超自然的な存在といった、人間の外に向かってコミュニケーションする際に嗜むもの。ですから、食事をしながらタバコをふかしたり、家族のいる場所でタバコを吸ったりすることは、本来は問題があります。

たとえば、ネイティブアメリカンには客人がやって来るとタバコをキセルでふかし合う風習があります。これは精霊との間に人間どうしが一種の契約関係を結び、友達でいることの誓いを立てていることを意味するので、家族内の親密さとは別物であるわけです。

嗜好品の文化過剰性は、ヨーロッパの貴族性とも通底しています。19世紀以降の文学や20世紀の映画には「タバコをふかしている男」がたくさん登場しますが、たいていダンディズムとも関係していますね。元来、ヨーロッパは基本的に男性文化です。男性は装身具、衣服、護身用のピストルなどを身につけ、威厳や権力といった過剰な文化を手にした一方、女性は「自然」な状態で、武力とはあまり関係のない場所で優しく生きることが是とされていた。

ですから、昔のヨーロッパの男性は、部屋に置かれた大きいマホガニーの机と椅子につき、正装でコーヒーを飲みながら、タバコをふかしていたわけです。「男かくあるべし」といった規範がかなり厳格でした。森鴎外はヨーロッパに渡ったとき、こうした光景を目にして、「嗜好品」という感覚を身に着けていったのではないでしょうか。

人類は誕生以来、余剰を求め続けてきた

──嗜好品の文化過剰性を指摘してくださいましたが、このように余剰なものは、人類が誕生したときから存在していたのでしょうか?

そう思いますね。たとえば、装飾品や美の意識は、人類の出現と共に現れました。当時から、身を守るための衣服とは別に、貝殻や硬い木の実に紐を通したジュエリーを身に付けていたんです。

たとえば、死者を旅立たせるとき、日常的な人間の世界の外に出ていく際の身繕いとして必要とされました。また、社会の階層性が少なかった狩猟採集時代であっても、リーダー格の人間は存在していたので、そうした人が亡くなったときには、全身を装身具で覆ってあげていた。ネイティブ・アメリカンはヤマアラシのトゲで作った装身具を重視しますが、それも人間をより「高い」状態に持っていくために存在していました。

──山極壽一さんとの対談本『未来のルーシー』の中でも、中沢さんは認知革命が起こった脳で意味増殖が起こり、それこそが芸術と宗教を生み出したと語っていますよね。

ホモ・サピエンスが誕生したとき、肥大化した脳の中で過剰な活動が発生しました。コンピュータでいえば、情報量がものすごく多くなって発熱している状態です。この過剰をどう処理していくかを模索する中で生まれたのが、余剰なものです。必要ではないけれど、溢れかえったエネルギーの行き場が求められたのです。

するとここで、余剰品というのが生まれてくるわけですね。芸術や宗教だけでなく、例えばお祭りというのは完全に余剰なものです。それから戦争もそうですね。

──一方で、コロナ禍で「essential worker」(本質的な労働者)という言葉が欧米のメディアでよく取り上げられるようになりましたが、コロナ禍に際して「essential」ではないもの、余剰なものは我慢しましょう、といった言説も目立つようになりました。先ほどのお話を鑑みると、余剰なものこそが、ホモ・サピエンスの誕生と同時に生まれた「essentialなもの」であるということでしょうか?

「essential」というより、「necessary」ですよね。それがなければやっていけない、必要品だということです。「essence」を決めるときには価値づけが発生するので、「essential」という言葉には、政治性や宗教的な価値観が含まれてしまいます。たとえば、詩人のオスカー・ワイルドのように、文化的な領域にはみ出して生きる「ダンディ」な人びとにとっては、タバコは「essential」です。

文化というゲームに縛られるがゆえに、超越性を求める

──そもそも、なぜ人間は日常の文化的な領域の外に出ようとするのでしょうか? 

意識を拡大し、日常では見えないものを見るためでしょうね。そもそも人間は、文化の外の領域まではみ出していくものを求めてしまう存在です。神や精霊は、その「外」を言葉にしたものですが、たとえ幻想に過ぎなくても、人間は超越性を求めてしまう。

──嗜好品は主に酩酊と覚醒を促しますが、それも同様の機能を持つのでしょうか? 

はい、文化の外に出るための一つの手段として、嗜好品による酩酊や覚醒を欲するのではないでしょうか。

もちろん現代は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの「神は死んだ」という言葉を引くまでもなく、人間の「外」が物理的に存在するとは考えられていません。でも、ニーチェは「超人(super man)」になるために脳の構造を変えろと言い、いま持っている素材の中で外へ拡張していくことも重視しました。それはある意味で、お酒を飲んだりタバコを吸ったりして、外へ出る幻想を持ちたいと欲してしまう人間の思考を、哲学化したものだといえると思います。

昔は、ポエティックであることとお酒は非常に深く結びついていましたよね。中国の李白をはじめとした大詩人は、朝から晩まで酒を飲んでいる呑兵衛が多いです。お酒を飲むことで言語の重なり合いが自由になり、その隙間からこぼれ出るものが、人間の外へと拡張していく感覚を与えるのです。詩や俳句、和歌や連歌も、宴席で詠まれることが多い。日常的な人間関係から解放されるために、無礼講の宴席が必要なわけです。

──20世紀になると、アメリカの小説家ウィリアム・バロウズは、ドラッグを使って同様のことを試みるわけですね。

バロウズたちの20世紀の試みは、19世紀後半から始まった欧米文化の中の先端部分、アヴァンギャルドの現代版ですよね。ヨーロッパでは、市民社会の常識を強く呪っていた詩人シャルル・ボードレールが、そうした思考から脱出するために大麻を服用していたり、詩人アルチュール・ランボーが酒を好んだりしていました。アメリカは比較的モラルが高い世界でしたが、1950年代にはバロウズたちが現れ、アヴァンギャルドのアメリカ版が始まったというわけです。

──また、嗜好品はアジアなど非ヨーロッパ地域を原産地とすることが多いですよね。そしてヨーロッパは、多大な労力をかけて、インドや中南米を植民地化していきました。これは嗜好品に感じるエキゾチシズムが、歴史を大きく動かすほどのエネルギーを秘めていることを意味すると思います。エキゾチシズムが持つ力もまた、人間が超越性を求めてしまうことと関係するのでしょうか?

そうした面もあるでしょうね。自分が見慣れた世界とは違う味や色彩、立ち振る舞いに対して強く心が惹かれていくエキゾチシズムも、人類の誕生と同時に生まれたものですから。習俗や言葉が違う隣の部族に、エキゾチシズムを感じていたはずです。

文化は言語ゲームのようなもので、特定の素材を組み合わせてかたちづくる、有限で動きの限られたものです。その文化を守るとなると、ゲームの規則はかなり厳格になってしまう。将棋のようなゲームは自由と規則のバランスが取れているので楽しめますが、日常生活のゲームはそうではない。マスクをしない人がいると自粛警察が出てくるように、規則からはみ出ると、人間ではないと言われてしまう。

だからこそ、別の規則でゲームを楽しんでいる人たちを見ると、エキゾチシズムを感じるんです。もちろん、エキゾチシズムを向けられている人たち自身もまた、別の言語ゲームにとらわれているので、これは幻想です。しかし、人間は息の詰まる要素をはらんだゲームのプレイヤーだからこそ、解放を求めてしまうことは、避けられないのではないでしょうか。

また、異国の嗜好品を求めてしまうことには、自分たちの文化を価値づけたいという目的もあります。日本の戦国大名は、朝鮮半島の農民たちが使っていた飯茶碗のようなものを名茶器として珍重し、現代で言えば何億円もの大金を払っていました。

ヨーロッパ人がアジア地域の嗜好品を強く求めたのも、十字軍遠征でアラブ世界の文化的な豊かさを目の当たりにし、自分たちの文化レベルの低さを思い知ったからです。自らの野蛮性を突きつけられたからこそ、ヨーロッパ文化を再構成したい欲望が喚起され、香辛料のような嗜好品を求めてヨーロッパの外に出ていったわけです。

※後編は2/18に公開予定です。

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