連載

人類の死滅を防ぐために必要な「うずくまり」:人類学者・中沢新一

酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。

そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい、不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外だとされている。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。『DIG THE TEA』では連載シリーズ「現代嗜好」を通じて、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。

第4回は、人類学者の中沢新一をたずねた。1983年に刊行した『チベットのモーツァルト』から近刊の『レンマ学』まで、古今東西のあらゆる知をダイナミックに渉猟しながら、心と脳をめぐる探究を繰り広げてきた中沢氏は、東洋的な「レンマ的知性」による人間諸科学の解体と再編成を試みている。前編では、嗜好品が持つ、文化システムの「外にはみ出す」特質を踏まえ、人類誕生と同時に現れた「必要品」としての余剰、そして文化というゲームが喚起する、超越性への欲望について伺った。後編では、アメリカ発のピューリタニズムが「象徴性(サンボリック)」を排斥している現状と、その先にある人類死滅の危機、そして対抗宗教改革としての「うずくまり」の必要性に話が及んだ。

(編集・文:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海  写真:佐藤麻優子)

前編 》嗜好品は人類にとって「必要品」である:人類学者・中沢新一

アメリカ発のピューリタニズムが、「象徴性(サンボリック)」を排斥している

──タバコをはじめとする嗜好品は、現代において、主に健康上の観点などから忌避されつつもあります。これは健康と引き換えに、人間にとって「necessary」なものが失われつつあるということでしょうか?

そう思います。そもそも、食べ物には健康を維持する機能がありますから、そこからはみ出る嗜好品は、もちろん健康と対立します。前編では、フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースの『蜜と灰』の議論も参照しながら、人間が作り上げた文化体系からはみ出してしまう食べ物として蜂蜜とタバコを取り上げましたが、これらは毒になりうる点でも共通しているんです。

蜂蜜は多量に摂ると毒性を発揮します。また、宗教的な儀式では、タバコを水に溶かしたものを飲ませ、嘔吐して気絶させるケースがあります。

確かに伝統的な医学では、吐くということは、身体の中に溜まっている悪いものを外に出すという意味を持つので、タバコは薬のような効果も持っているとされました。ただ過度な分量を調合すると、気絶を引き起こすなど、毒の働きをする。フランスの哲学者ジャック・デリダが「ファルマコン」という言葉で論じたように、薬になるものは毒にもなるんです。

しかし、毒性ばかりに目を向けて、嗜好品の持っているさまざまな心理的・生理学的な利点に蓋をしてしまうのは、不健全だと僕は思いますね。人類史においてどのように扱われてきたかが無視され、ただの悪者にされてしまっている。

──嗜好品の毒性が糾弾される背景には、アメリカ的な健康志向が見え隠れしている気がします。「とにかく身体に害のあるものをやめましょう」という圧が、かなり強くなってきているように思うのです。コーヒーですら叩かれることもありますし、テレビの刑事ドラマにも一切タバコが出てこなくなりました。

アメリカの宗教の根底にある、ピューリタン的な精神が先鋭化してきているのだと思います。デカフェが増えていますし、映画の中でも、以前のように紫煙であふれる部屋はあまり見なくなりましたよね。

この嗜好品を排斥する、ピューリタン的精神の背後には、「象徴」や「言語」の豊穣さを禁止しようという動きと連動していると思います。人間の言語というものは、本質的に、二つの違うものを重ねることで、意味が多重化され、第三の意味が派生してくるというところに魅力があります。

ネイティブアメリカンの社会では、「タバコ」はその煙と興奮作用から「精霊」との結びつきを象徴するものでした。ヨーロッパでは、舶来品という意味合いから「ダンディズム」と結びつきました。単純に薬草としての「タバコ」は言語体系によって異なる意味を付与されるようになるのです。詩というのが成立する根本的な理由も同じです。

言い換えれば、言語というのは絶えず意味が変化していく可能性を孕んでいる。つまり、それ自体が、日常生活の言語体系の「外」に向かっていく動きをもっているんです。これは確かに魅力的ですが、一方で、居心地のよい世界を破壊してしまう危険性をもつ、ファルマコンと言ってもいいでしょう。だから、言語は、世界のことを一切の矛盾なく、論理的に表現することができないのです。

人類がホモ・サピエンスにジャンプできた能力の根源は、この言語にあります。芸術や宗教といった、一見無駄にみえる人間の創造活動の根本には、象徴的言語というホモ・サピエンスの能力が関わっている。

でも、世界のアメリカ化が進み、ピューリタン文化が支配的になるにつれ、そうしたサンボリック(注:象徴界)の働きがどんどん排斥されているわけです。「健康を害するもの」=「タバコ」というふうに嗜好品のもつ両義的なものを敵としてみなし、その意味を人間の「内」で確定しようとする動きは、同時に、人間の「外」を志向する象徴的で豊かな言語性を禁止する運動につながってしまうのではないでしょうか。

また、ハイパーテクノロジーの発達も背景にあるでしょう。フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが『象徴の貧困――ハイパーインダストリアル社会』という本を書いていましたが、インダストリアルなハイパーテクノロジーの論理を突き詰めていくと、象徴的なものは「悲惨な状態」に追い込まれていってしまいます。タバコのような嗜好品は、現代において圧倒的な劣勢におかれつつある、サンボリックなものの代表でしょう。

ロゴス的知性が暴走した果てに、人類は死滅する

──このままサンボリックなものが排斥されていくと、人類社会はどうなってしまうのでしょう?

サンボリックなものの死滅は、人間の死滅に結びついています。人間には、そもそもコンピュータ的で、インダストリアルな思考法と、そうではない思考法が混在していて、それらのバランスをうまく取ってきたわけです。サンボリックなものは、人間がホモ・サピエンスであり続ける限り、消えずに脳の中で活動し続ける。ですから、このままサンボリックなものを絶滅させると、自分の存在を消すことになってしまいます。

──以前、中国の深圳とアメリカのシリコンバレーのテック起業家たちを取材したとき、少し怖くなってしまったんです。深圳は人口1400万人の世界最大のテック都市として、すさまじい経済発展を見せている。そして、全員の個人情報が政府に丸見えでも、みんな「それで何か悪いことはある?」と言うし、若い人もほとんどが中国共産党を支持している。彼らは超監視社会のもとで経済的に豊かになっているからです。

シリコンバレーも経済的に成功しているし、みんな本当にシンギュラリティ(技術的特異点)が来ると思っていて、実際にそのために数十兆円の投資マネーが入ってきている。「シンギュラリティは絶対に来るし、AIは賢くなる。そのどこが悪いの?」と言われたときに、うまく反論できない怖さを感じました。

「シンギュラリティは来ない」と言い続けるしかないですね(笑)。コンピュータの能力が人間の計算能力を超えていく事態は必ず起こると思いますが、それでは地球上に生きている人間という生物体のバランスは維持できない。シンギュラリティが本当に起こったら、人間の死滅が加速されます。

僕がレンマ学という、西洋的なロゴスとは異なる知性を提唱しているのも、そうした事態に陥らないよう、サンボリックなものを可視化させたいからです。しかし、簡単な道のりではありません。そもそも、現代のハイパーインダストリアル社会の起源である西洋形而上学が、ロゴス的な思考法を取っていますから。

もっと言えば、人間の中にロゴス的な思考法が発生してしまうのは、脳の中枢神経の構造的な要因もあります。脳のシステムを見ていると、パルスが神経組織の中を通ってきて、ニューロンとシナプスを通過していく。そうすると必ず、電気信号の「前の部分」と「後ろの部分」が出てきてしまう。

これは似たような大脳組織を持つサルも同じです。大脳の神経組織の中で「前の部分」と「後ろの部分」で必ず違うものが出てくることで、時間の意識が生まれる。一方で、サルにはそれしかありませんが、人間にはもう一つ、サンボリック的な思考ができるという特徴がある。ロゴスとそうではないもののせめぎ合いが形作る微妙なバランスこそが、人間の本質です。

このままロゴス的世界を実現しようとすると、サンボリックなものを摘発する究極の相互監視システムが出てきてしまいます。そうならないように、ロゴスを出発点にしない思考方法を探るべく、レンマ学を探求しているわけです。

──経済的な視点で、「それで儲かるのか?」「AI化する社会と拮抗できるのか?」と聞かれたときは、どのように反論すればいいのでしょうか?

経済的に勝つことはできないですね。いまの資本主義が、ハイパーインダストリアルの原理と一体になって恐ろしい力を持って展開している。

ただ、ヨーロッパを中心に環境問題が真剣に議論されるようになったことは、一つの突破口になるかもしれません。昔の左翼的な論理ではなく、もっと深刻な段階に突入してしまっている。シンギュラリティを盲信して突き進んでいる人たちも、これだけ地球環境が破壊されていると、自分が稼いだお金から少なくない額をエコロジーに投入するようになりました。これは結果的に、ロゴス的知性の暴走を止める効果を発揮するでしょう。ですから、グレタ・トゥーンベリさんのような活動を、僕はとても肯定的に見ています。

コロナ禍も、ひとつのきっかけになるとは思います。これまでの経済学は、感染症のような自然要素を「外部要因」として排除していましたが、それが経済の内部に入り、経済活動を停止させてしまった。これを機に、今までの経済学が遂げていた発展のおかしさが、自覚されていくといいのではないでしょうか。

対抗宗教改革としての「うずくまり」が必要

──ピューリタン、インダストリアル的なものから、サンボリックなものに対する排斥が増していることは、トランプやその支持者たちのように、両義的なものを嫌悪している人が増えていることにも通底します。

やっぱり、面倒くさいのでしょうね。さっさとまとめてほしいのだと思います。こうした流れに抗するには、ある種の「対抗宗教改革」を進めるしかないでしょう。「こんな世界知らないよ」と、自分ができることだけを粛々と進めていく。成長の野心さえ持たなければ、地球上で生きてはいくことはできますから。

たとえば、アメリカのシンガーソングライターのビリー・アイリッシュさんの歌は、ものすごくサンボリックですよね。周りの世界がビュンビュンと前に進もうとしているのに、流されずにうずくまっている。うずくまったその場所でこそ、見えるものがたくさん出てきます。

そうした人がいっぱい出てくることを、僕は期待しています。自動機関のように動いていく社会を、まずは小さいところでもいいから、うずくまってしまって止めてみることが大切です。19世紀の労働者がおこなったデモやストライキはその先駆者ですが、現代では別のやり方が必要です。『レンマ学』で探求していることも同じで、バーっとものすごい勢いで流れている社会に、くさびを打っているのです。

──話を嗜好品に引きつけると、僕はコーヒーが好きで、バリスタや焙煎の仕事をしている人たちに「なぜコーヒーの仕事を始めたのか?」と聞くと、自己言及的なコメントが多いんです。特にエスプレッソを淹れたり飲んだりしているとき、「この瞬間は自分がいる」と強く感じるそうです。これはある意味、日常の中にくさびを打つ「うずくまり」の時間とも言えるのではないでしょうか。

茶道もそうですよね。流されないよう、うずくまる技法の一つです。ただし、先ほども議論に上がったように、タバコやお酒といった嗜好品は、主に健康上の理由から、今後はますます劣勢に立たされていくでしょう。それらが持っていた、意識を拡張し、外に出ていかせる効果を、いかにして代替するか。下手をすると覚醒剤に向かっていきかねないですが、これは使わないでおこうとするルールですから、別の手段を考えなければいけません。

タバコやお酒のように、もともとは自然物でありながら、調理した食物とは違う特殊性を持っているものはなにか。VRゴーグル、もっと言えば脳の神経組織に接続して意識を拡張するような方法も考えられますし、タバコやお酒が目指していたものと非常に近いとは思いますが、やはり自然物なしに脳を操作するだけでは少し寂しい。電子タバコのように自然物でないものは疑似体験にすぎず、ある意味LSDなどに近いものだと思います。だからこそ、自然界に向かって、別の「うずくまり」の手法を探しに行く必要があるでしょう。現代的な社会観の中に位置付けて、新しいエチカ(倫理)を作っていかなければならない。

──21世紀には、嗜好品にもある種の倫理性を考慮することが求められますものね。「自分だけ気持ち良ければいい」「資源を消費してでも美味しいからやる」だけでは、許されない段階に来ています。

ちなみに、霊長類学者の山極壽一さんにインタビューしたとき、嗜好品の本質として「覚醒作用」を挙げてくれました。ただ、嗜好品の倫理性に鑑みると、飛びすぎてはいけない。

僕が修行していたチベット密教の世界でも、瞑想のときに幻覚性植物を使ってはいけないと言われていました。外に向かうときに薬を使うと、完全に意識の外部に引っ張り出されてしまう。そうではなく、自分でコントロールしながら、「自然状態」という外に出ていかなければいけない。僕はアジア的な知性を司る人たちから、瞑想の本質をそう学びました。

人間は言語や意識、仏教的に言えば「分別」を持つことで、自然な心の動きを鈍くしたり、雲がかかったようにものを見えなくしたりしています。この曇りを取れば、人間の心の自然そのものが、人間を超えていくものを持っていると分かる。ですから、先ほども触れたように、嗜好品が「自然」物に由来している点が重要なんです。

(了)

前編 》嗜好品は人類にとって「必要品」である:人類学者・中沢新一

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