その日のスープは、美瑛で採れたスイカとメロンが主役だった。メロンの穏やかな橙色とスイカの鮮やかな朱色が寄り添うお皿は、まるで一枚の絵画のようだ。
それは、たわわに実る小麦畑が夕陽に染まっているように見える。
名付けて、「丘スープ」。
2021年9月にオープンした北海道の美瑛にあるレストラン「SSAW BIEI」で、料理家のたかはしよしこさんが旬の食材を使って作る、一期一会のポタージュスープだ。
「メロンは、美瑛牛乳にカモミールを効かせています。メロンが淡い味なので、カモミールで優しく香りづけしました。スイカには在来種の唐辛子を入れています。塩とスイカって合いますよね? 唐辛子もスイカの甘みとよく合うんですよ」
旬のメロンとスイカのポタージュをそれぞれ味わった後、2色のスープをすくって口に含む。それは未知の出会いであり、心溶ける体験だ。
たかはしさんは、丘スープで「美瑛の風景を五感で楽しんでほしい」と語る。
「美瑛は、空と丘のコントラストが本当にきれいなんですよね。丘スープは、私にとって美瑛の風景をそのまま飲んでいるような感覚。美瑛の丘をイメージしたスープで、美瑛の食材の旬の香りや風味を感じて、深呼吸してほしい」
スープが生まれた背景には、同じ敷地内に建つフォトギャラリー「拓真館(たくしんかん)」があった。
徳島県で生まれ、兵庫県で育ち、長らく東京で仕事をしてきたたかはしさんが、大ヒット商品「エジプト塩」を手がけ、美瑛に移住してくるまでの足跡をたどりながら、丘スープが誕生したきっかけや、食と風景を届ける理由を聞いた。
インテリアのバイヤーに憧れて上京
たかはしさんは兄と姉、弟の4人きょうだい。賑やかな暮らしのなかで、「両親の気を引きたくて」料理を始めた。
「5歳のときに弟が生まれて、両親の関心が弟に集中しちゃったのがショックで(笑)。そこから私の戦いが始まりました。料理をしたら褒めてくれることが分かったので、小学2、3年生のときから料理をするようになりました」
「キッチンをぐしゃぐしゃにしたと思うんですけど、うちの親は伸び伸びやらせてくれたんです。特に料理が楽しくなったのは、自分でいろいろできるようになった小学4年生頃からですね。両親も『おいしい!』と喜んでくれました」
中学生になり、母親の友人からお菓子作りを教わるようになると探究心に火がついた。中高生では、料理やお菓子作りが「生活のなかの楽しみ」になった。
料理を仕事にするつもりはなく、あくまで趣味。
子どもの頃、初めて母親と訪ねて以来、何度も足を運んだ兵庫県芦屋市のインテリアショップ「アクタス」に憧れて、海外で家具を買い付けるバイヤーになりたいと思っていた。
1997年、高校卒業後、上京して暮らしはじめた家のすぐ裏に、青山モダンエイジギャラリーがあった。そこでは、のちに家具の製造販売、空間デザインなどを手掛ける「Landscape Products(ランドスケーププロダクツ)」を設立した中原慎一郎さんが働いていた。
雑誌などで中原さんの存在を知っていたたかはしさんは、アポなしで店を訪ねて本人に直接履歴書を渡すという大胆な行動に出た。
それが功を奏したのか「面白いね、きみ。今、新しい会社を立ち上げるところだから、そっちを手伝ってよ」と言われ、ランドスケーププロダクツの最初のショップで働き始めた。
師匠から言われた「天職見つけたんじゃない?」
ところが事情があって、そのショップをすぐに畳むことになり、次のショップをオープンするまでたかはしさんは、ほかの仕事で食いつながなければならなくなった。
たまたま見つけた青山のイタリアンレストランのアルバイトで、再び料理に目覚める。
働き始めて間もなくシェフが店を辞め、アルバイト4人でレストランをまわすことになったという。そしてキッチンに入ったのが、たかはしさんだった。
シェフが残したレシピ帳をもとに、毎日、必死で料理を作った。オーナーはたまに店に来ては味に苦言を呈しながらも、アルバイトたちのむちゃくちゃな運営を黙認してくれた。
最初はプレッシャーを感じていたたかはしさんも、次第に自由を謳歌するようになった。
「子どもの頃に料理を作っていた感覚を思い出して、すごく楽しかった。小学生の頃からトマト料理が得意だったので、『私、トマトソースならいける!』って(笑)。働いたのは半年ぐらいですけど、一緒に働いていたメンバーたちは今でも親友です」
原宿に店を開いたランドスケーププロダクツの中原さんのもとに戻ると、「インテリアの世界は英語やほかのスキルも必要だから、修行に行ってきな」と、彼の知り合いが経営するインテリアショップで働くことになった。
しかし、たかはしさんが好きな世界観とは違い、まったく仕事を楽しめなかった。
その間、よく思い出したのは、アルバイト先のイタリアンで慣れないなりに料理の腕を振るった日々。
修行が2年に及ぶ頃、中原さんのところで働くか、料理の世界へ行くか悩んだ。中原さんにふと「料理すごく楽しかったんですよね」と呟いたら、中原さんが言った。
「天職見つけたんじゃない? 料理やればいいじゃん」
この一言で吹っ切れて、料理の世界に舵を切った。たかはしさんが23歳の時だった。
姉との思い出から誕生した「エジプト塩」
それからは、とにかく料理について学ぼうとイタリアン、インド料理、和食などいろいろな店で働いた。しかし、無理がたたったのか腰を痛めてしまい、長時間キッチンで立ち続けることが難しくなってしまった。
そんなとき、行きつけの器屋さんで知り合った料理家の女性から声をかけられてアシスタントとして働くことに。初めて料理家の仕事に触れたたかはしさんは、見聞きするものすべてを吸収していった。
それから数年後、自身も料理家として活動するようになったたかはしさんを、一躍有名にしたのが万能調味料「エジプト塩」だ。
エジプト塩は野菜やお肉にひとふりするだけで、「劇的においしくなる」、「香ばしいかおりと味わいが楽しめる」と大人気の調味料だ。
これが誕生したきっかけは、たかはしさんの姉の旅の話だった。
料理の仕事をするようになって「塩」に興味をもち、世界各地の塩を取り寄せていたたかはしさんは、塩とほかの素材をブレンドするようになった。そのとき、仲が良かった姉と数年前に交わした会話がふと脳裏によみがえってきた。
「私が高校生のとき、姉が3カ月ぐらいエジプトに行ったんです。帰国した姉から、エジプトには面白い香りのするスパイスがたくさんある、という話を聞きました。それを思い出して、クミンやコリアンダー、アーモンド、白ごまを塩に入れてみたんです」
たかはしさんはエジプトに行ったことがなかったから、「エジプトにトリップできる塩」という意味で、「エジプト塩」と名付けた。
ある日、レシピの連載していた雑誌の撮影現場で、「エジプト塩」を使ったまかない料理を出したらビックリするほど喜ばれて、その場で「これを特集しよう!」という話に発展した。
ブレンドして自分の料理に使っていただけで、「エジプト塩」を商品化するつもりはなかった。
たかはしさんにとっては意外な提案だったが、2010年10月、「エジプト塩大研究」というタイトルで5ページの特集が組まれた後、もっと驚く展開が待っていた。
読者から編集部にこの特集を読んだ感想の手紙やメールが続々と届いたのである。
ひと月に2000個売れる人気商品に
これに大きな手ごたえを得たたかはしさんは、商品化に踏み切った。
おかっぱ頭のイラストが描かれた黄色のラベルは、たかはしさんの夫で、アートディレクターの前田景さんがデザインしたもの。半年もの期間、ふたりで相談しながら、完成させたそうだ。
「ラベルに私の顔を入れるのやめてって言ったんですけどね。夫からは、『野菜に生産者の写真が貼ってあるのと同じように、私が製造しましたって示せば信頼される』と説得されて。イラストか写真の2択で、写真はどうしてもイヤだったからイラストになりました(笑)」
たかはしさんは「調味料等製造許可」を取得し、2012年、東京の西小山に物件を借りて、飲食店兼「エジプト塩」の製造所にした。
最初に作ったのは600個。「もっとおいしくしよう」とピスタチオを加えた。
ピスタチオはアーモンドの5倍ほどの値段で、原材料費が跳ね上がる。それでも「みんながおいしいと喜んでくれたらいい。幸せの種を蒔いてると思おう」と考えることにした。
この600個は、多摩川の河川敷で開催された「もみじ市」に出展して売る予定だった。ところが、大雨でイベントが中止になり、そのまま手元に残ってしまった。
特集を組んでくれた出版社のオンラインショップや、知り合いのお店で売ってもらい、なんとか売り切ったとき「もう二度と作らない」と心に決めた。
ところが、一度購入した人たちから「もうひとつ欲しい」というリクエストが相次いだ。
しかたなく製造を再開すると、口コミでぐんぐん広まり、メディアに取り上げられ、さらに注文が増え、リピーターが続出するという好循環が生まれた。
たかはしよしこ=「エジプト塩」を作った料理家として認知されるようになっていった。「エジプト塩」の人気は留まることを知らず、今ではなんと、ひと月に2000個も売れるそうだ。
写真家・前田真三と拓真館
「エジプト塩」の効果もあって活躍の場を広げていたたかはしさんが、家族で美瑛に移住したのは2020年。
たかはしさんの夫・前田景さんの祖父で、写真家の前田真三さんは、美瑛の「丘」に魅力を見出し、生涯に渡って美瑛の写真を撮り続けて発表した。
それから、美瑛は「丘のまち」と呼ばれるようになった。
真三さんは1987年、廃校になっていた旧小学校の1万平米の広大な敷地を買い取り、体育館をリノベーションして個人の写真ギャラリー「拓真館」を開いた。また、美瑛町と協力して白樺を約2500本植える活動をはじめ、景観の整備にも力を入れた。
1998年に真三さんが亡くなった後も拓真館の運営は続いてたが、経営状態は良くなかった。
というのも、入場料は無料で写真集やポストカードなどを販売しているのみ。それでも最低限の運営経費がかかるため、赤字経営が続いていたのだ。
景さんの父は拓真館を閉めようと考えていた。しかし、拓真館と白樺の森に思い入れがある景さんは手放すことに反対だった。
2010年、たかはしさんと景さんの結婚式は、拓真館で行われた。「ここをなんとかしなきゃ。いつか協力してね。レストランでも開いてよ」と話した景さんに「うん、いつかね」と答えたたかはしさん。
景さんと同じく、結婚前から拓真館と白樺の森のことを気に入っていたたかはしさんは、結婚式の日、「この森のなかでレストランを開きたい」と思ったそうだ。
コロナ禍の移住と想定外の休業
それから数年が経ち、景さんが両親の会社に関わると、思った以上に拓真館の経営が負担になっていることがわかった。「長男として後を継ぐ」と腹をくくった景さんから相談を受けた2018年、たかはしさんも美瑛への移住に前向きになった。
「この10年、料理教室やケータリングで地方に呼ばれることが多くなって、地方で豊かに暮らしている方達とたくさん出会いました。それまでは東京がすべてと思っていたけど、地方で自分の好きな仕事をしながら豊かに暮らすって最高だなって憧れるようになっていたんです」
問題は、どこでレストランをやるのか。
当初は敷地内に新しく建てる計画だったが、予算が足りないことがわかり、最後の選択肢として渋々選んだのが、敷地内にある小学校の職員住宅として使われていた建物だった。
その平屋は1998年以降、放置されていた。たかはしさんと景さんは「もうここしかない」と、改装を決意。「残っているのは、薪ストーブだけ」というほど抜本的に手を入れて、少しずつレストランとしての体裁を整えていった。
迎えた2020年の春、突然のコロナ禍に戸惑いながら移住。
本来ならすぐにでも営業を始める予定だったレストランも開業のめどが立たたず、拓真館は来場者ゼロの日が続き、「私たち、ここで本当に生きていけるのかな?」と不安に思うほどだったという。
「丘スープ」ができた理由
結果的に、2021年9月にオープンするまでの1年半、想定外の休業を余儀なくされてしまったが、たかはしさんは「今、考えたらすっごくよかった」と振り返る。
「時間があったから、地域の人にこんなお店やるんです、これからお世話になりますって挨拶できたんです。結婚式のとき知り合った農家さんを回ったり、その人たちに別の農家さんを紹介してもらったりして、改めてどんな人がいるのか、どんな食材が採れるのかを知ることもできました」
「新型コロナが落ち着いたタイミングで友だちが遊びに来てくれたから、土地の食材を使った料理を振る舞って、感想を聞くこともできた。むしろ、いきなり店を開かなくてよかったです」
この準備期間に生まれたのが、「丘スープ」。
美瑛の食材を使った色鮮やかなポタージュスープを見た景さんから「2色で作ってみて」とリクエストされて試作してみたところ、ふたりはもちろん、スタッフも「最高だね」「かわいい」と盛り上がる出来栄えになった。
実はこのスープ、扱いが楽ではない。鍋に火をかけると、ポタージュはすぐに焦げてしまう。少しでも焦げると焦げの味がするので、湯煎するしかないのだが、そうすると温まるまでにかなりの時間を要する。
さらに火口を2口も占有されているから、ほかの料理が進まないというジレンマがあり、営業が始まると「スタッフ一同、めちゃめちゃ大変だと気づきました」。
それでも、「丘スープ」を作り続ける。
このスープは真三さんへのオマージュでもあるからだ。
「真三さんは、ただ当たり前にあった美瑛の景色を撮って、町が有名になりました。夫は、この町にたくさんあるおいしい食べ物を使って、食と風景をセットにして発信したいと言っていて、私もその想いに共感しています」
この日、用意してもらった「丘スープ」に、スプーンを入れる。
メロンのポタージュは爽やかな甘みにカモミールの穏やかな香りが加わって、ホッとするような優しさ。唐辛子を加えたスイカのポタージュは、ジューシーなのにピリッとスパイシー。ふたつを一緒に味わってみると、それぞれの個性が口のなかで花火のようにパッと広がり、華やかな余韻を残しながら消えていった。
森は一番リラックスできる場所
今のところ、SSAW BIEIの営業時間は10〜17時で、ワンプレートの食事と丘スープを提供している。取材に訪れた日は平日だったにも関わらず、お客さんがひっきりなしにやってきていた。
ワンプレートの料理には、たかはしさんと生産者の関係が現れている。
例えば取材の日には、富良野で作られた古代小麦、美瑛の生産者が栽培したケール、トウモロコシ、ビーツ、白にんじん、紫にんじん、ズッキーニ、こどもピーマン、ジュードべべ(トマト)などが使われていて、「エジプト塩の素材以外、ぜんぶ北海道産」だった。
もちろん、どれもこだわりの生産者が作る逸品。それらをギュギュっと詰め込んだ古代小麦のピタパンを頬張る。それはなんとも贅沢なうま味のアンサンブルで、思わずため息が漏れる。
インタビューがひと段落した後、たかはしさんと森のなかを歩いていると、数種類のキノコが生えていた。それを手に取ったたかはしさんは、「ここを歩いてるときが、一番リラックスしてるかもしれない」とほほ笑んだ。
「せっかく北海道に来たから、根室とか知床とか行ってみたいところはいっぱいあるんですけど、まだどこにも行っていないんですよ。なんでだろうと思ったら、めちゃめちゃ好きなんですよ、ここが」
「森をぐるっと歩くだけで、キノコや山菜が見つかったり、クルミが採れたり、東京じゃあり得ないワクワクが詰まってて。家の中で悶々としていても、ここを歩くと、気分が晴れるんです。冬も寒いけどきれいだし、なにもかもが気持ちいい」
美瑛の美味しい空気を吸い込みながら、たかはしさんは今日もスープを作り続ける。
Text: 川内イオ
Photo: 川しまゆうこ
Edit: 川崎絵美
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントなどを行う。稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。
お茶どころ鹿児島で生まれ育つ。株式会社インプレス、ハフポスト日本版を経て独立後は、女性のヘルスケアメディア「ランドリーボックス」のほか、メディアの立ち上げや運営、編集、ライティング、コンテンツの企画/制作などを手がける。
若いころは旅の写真家を目指していた。取材撮影の出会いから農業と育む人々に惹かれ、畑を借り、ゆるく自然栽培に取り組みつつ、茨城と宮崎の田んぼへ通っている。自然の生命力、ものづくり、人の暮らしを撮ることがライフワーク。