フランス・パリに拠点を構えて半世紀。黒田アキさんは、世界を舞台に第一線で活躍を続ける現代アーティストの巨匠だ。
頭角を表したのは1980年。36歳でパリ国際ビエンナーレのフランス部門から出品し、高い評価を得る。ヨーロッパのアートシーンをリードする老舗画廊・マーグギャラリーとの契約を勝ち取り、その名は一躍世界で知られるようになった。
日本国内では1993年、東京国立近代美術館にて当時最年少で個展を初開催。2020年には現代アート分野における国内外での活躍と実績が認められ、京都市文化功労者に選ばれた。
78歳になった現在もなお、黒田さんは精力的に作品を発表し続けている。
ドローイング、彫刻、写真、インスタレーションと作品ジャンルは実に幅広い。建築家の安藤忠雄、作曲家のリチャード・ロジャースほか、作家、振付師、天体物理学者など様々な分野のフロントランナーともコラボレーションを成功させてきた。
その領域横断的な創作スタイルから、フランス語で「Passage」── 「間の人」「通路の男」などとも称される。
さて、そんな黒田さんのキャリアを辿ると、転換点は「カフェの時間」にあった。
出会いは偶然と言えば偶然。しかし、黒田さんは「事件はカフェで起きるもの。昔からそう決まっているんですよ」とその舞台装置の重要性を強調する。
ピカソにヘミングウェイ、サルトルもボーヴォワールも。「パリのカフェに集う人々と場の相互作用によって文化がかたちづくられた」とはよく聞く話だが、人生を変える事件は、なぜこうもパリのカフェで起きるのか。
生まれ故郷・京都、MORI YU GALLERYでの個展初日。さあ、黒田さんの「お茶の時間」を紐解こう。
終戦直後の京都、その「散策的な」生い立ち
黒田さんは1944年、終戦間近の京都に生まれた。
祖父は芸術家のパトロンを務めた呉服商。父の従兄弟は洋画家の黒田重太郎。父親は経済学者だが、趣味としてやはり絵画を嗜んだ。
自身が絵を描くきっかけになったのは、その父がフランスから持ち帰ったシュールレアリズムの芸術誌『ミノトール』だった。
ミノトール(ミノタウロス)はギリシャ神話に登場する牛頭人身の怪物。創刊号の表紙はピカソの筆によるミノタウロスの絵が飾った。当時4歳の黒田少年はその美しさに衝撃を受け、すぐに自分でも油絵を描くようになった。
「終戦直後の何もない“灰色の京都”で育った僕にとって、絵を描くことは唯一の逃げ場所だったんです。窓から比叡山を覗く部屋で、ひとり黙々と絵を描いていました」
由緒正しい家柄に生まれ、幼いころから絵画に没頭。そう聞くとアーティストとして一直線のキャリアが思い浮かぶ。だが、実際は大きく異なる。
ここから続く黒田さんの半生は実に「散策的」だ。
「通っていたのは国立のスノッブな小学校。東本願寺の息子とか表千家の次男とかがみんな友達だったわけ。で、家へ帰ってくるとちょっとガラの悪い地区で、外へ出ると倶利伽羅紋紋(くりからもんもん)のお兄ちゃんたちが喧嘩ばかりしている」
「そういうところを行ったり来たりしていたのが僕の幼少期。当時の京都にはアメリカ人の、ビートジェネレーションの詩人とかもいっぱいいたから、中高生になるとそういう人たちと一緒に遊んだ。英語もろくに喋れないのにね」
芸大には進まず、1970年にパリへ
高校卒業後は周囲が薦める芸大には行かず、同志社大文学部へと進学。
学生運動が盛んな時期だったが、京都大・西部講堂の屋根をペンキで青一色に塗り替えたり、他大学の学生と消火器片手にやり合ったりと、演じたのはもっぱら「掻き回し役」だった。
1970年にパリに渡ったのも、明確な意思を持ってというより「日本での生活が嫌になったから」。
縁あって彫刻家の助手の仕事を始めるが「カチンカチンという石を打つ音が頭に響き、パラパラと舞い落ちる埃ばかり被る毎日。気が狂うと思って、すぐに辞めた」。
このころシュールレアリストのコミュニティに出入りし、荒川修作、工藤哲巳ら、その後一時代を築く日本人アーティストとの付き合いが始まる。
だが、先立つものがないから自分では小さな絵しか描けなかった。
アーティストとしての本格的な物語はなかなか始まらない。気づけば海を渡って8年が経っていた。
キャリアの転機は、カフェでの出会いから
パリのアパートは15区にあった。エッフェル塔の南に位置し、セーヌ川の流れる15区は人気の住宅街。
向かいの建物の1階にはカフェがあり、そこで一杯のエスプレッソを飲むのが日課だった。何をするでもなく佇み、道ゆく女性を眺めたりして「お茶の時間」を過ごしていた。
そうすると、隣り合った者同士で自然と会話が始まるのが当時のカフェ。土地柄、常連には文化人も多く、その中には哲学者のミシェル・フーコーもいた。
「口八丁手八丁で彼の著作に対して思うところをしゃべったりね。向こうも遠く日本からやってきた僕に興味があるようだった」
黒田さんのキャリアを大きく切り拓くことになる事件もそのカフェで起きた。
パリでの生活に見切りをつけ、アパートを引き払うべく身の回りの整理も始めていたある日。常連の女性の一人にパーティーに誘われたのだ。
「パーティーに行けば当然、何をしている人なのかと尋ねられる。絵を描いていると答えると、見に行きたいという人が二人いた。一人は美術評論家の女性、もう一人はピーター・クラッセンという名のあるアーティストだった」
「僕の絵を見た評論家の女性は個展の開催を薦めてくれた。そこから翌年のパリ国際ビエンナーレ出品、マーグギャラリーとの契約にもつながっていったんです」
個展の評論を書いてくれたのは『ヒロシマ・モナムール』『愛人 ラマン』などの作品で知られる脚本家、映画監督のマルグリット・デュラス。彼女もまた別のカフェで出会った顔見知りだった。
停滞していたように見えた黒田さんのアーティストとしての物語は、カフェでの出会いを起点に突如動きだした。
「事件はなぜカフェで起きるのか。それは喫茶店が街にとっての抜けた空間、無駄な空間だからです。余白、無駄……そういう時間であり空間があるから、“こと”は起こる」
「都市が機能的、目的的な空間ばかりで占められていては、こうした事件や出会いが生まれる余地はなくなってしまう」
ここに至って、黒田さんが「flaneur=遊歩者」と評する、自らの散策的な生き方にも重要な意味があったことがわかる。
都市におけるカフェが非機能的な「無駄な空間」だとするのなら、見方によっては、黒田さんの散策的な生き方は、「無駄な時間」に溢れている。
時間的にも空間的にも無駄を恐れない黒田さんの人生は、だからこそ事件や出会いに満ち満ちているのだと言えるだろう。
ノイズを立てよ。カオスを作れ
黒田さんは、アーティストでありながら、自らが編集主幹を務めて新しい美術文芸誌を創刊した。
ジャック・デリダやミシェル・セールといった哲学者など、寄稿者には錚々たる顔ぶれが並ぶ。1985年創刊の文芸誌、タイトルは「NOISE(ノワーズ)」だ。
英語の「noise」同様、「雑音」「ノイズ」などと訳すこともできるが、古いフランス語に倣って「口論」「口喧嘩」といったニュアンスを込めたという。硬直化した世間や業界に、口喧嘩を仕掛けるように一石を投じたのがこの雑誌というわけだ。
黒田さんは、アートの社会的な役割もまさに同じものとして捉えている。
「波風のないところにあえてノイズを掻き立て、カオスを作り出す。アートとは、そうやってできたカオスの中から宝物を拾い出すこと」と言う。
「例えば、京都のお茶の世界にはノイズがない。左足から入るのか右足から入るのか、そういう話ばかりで、そこからちょっと外れようものなら怒られる。僕だったらそんな時、『なぜお茶を立てると表面が膨らむのか』と先生に問うでしょう」
「答えはサポニンという成分の働きだが、ルールを守ることを大切にする彼らはうまく答えられない。そうやってノイズを立て、カオスを作り出す。そうするとカチコチだった世界に突然、抜け道が生まれるわけです。僕らアーティストは常にそういうことをやっている」
「Passage」硬直した世界を抜け出す方法
私たちは当初、黒田さんが「間の人」「通路の男」などと称される理由を、ジャンル横断的な創作活動の数々に見出していた。もちろんそれも大いに関係しているだろうが、それは幾分浅はかな見方だったのかもしれない。
凝り固まった世界にノイズを立て、あえてカオスを作り出すことで、そこから抜け出す「道」を示す——。
それを生業として表現し続けてきたのがアーティスト・黒田アキなのだろう。
ノイズ、あるいはカオスな状態は、どうしたって受け入れ難い。そこにあるのは、ゴールに向かって一直線で走るコースではなく、行き先のわからない、無駄とも思える回り道なのだから。
だが、それを経ることでしか辿り着けない境地が確かにあるのだろう。
黒田さんが手がけるアート作品こそ、カオスを受け入れて、「無駄」にも思えるプロセスを積み重ねて、ようやくこの世界に立ち現れてくるものだった。
「一度は綺麗な絵が描けたと思っても、一晩経てば面白くないもののように映ってしまう。それで手を入れるのだけれども、うまく行かず、失敗したと思ってパニックに陥るんです」
「でも、もう一晩経って『どうにかするぞ』と思い、また筆を取る。それを繰り返しているうちにどんどん強くなって、失敗の怖さなんてなくなってしまう。passage(抜け道)というのは、その先に見えてくるものなんです」
余談だが、黒田さんは取材中、私たちの質問に対してなかなか直接的な“答え”をくれなかった。
あえて核心を避けるように、そしてタコの足のように、どこまでも緩やかに話は広がっていく。
「奥さんにもいつも言われるんですよ。あんたの言ってることは訳がわからないって。でも仕方がない。僕はそういう人間なんだから。こういう喋り方しかできないんです」
そう言って悪戯っぽく笑う黒田さん。
気づけば時間に追われる日々、そうした散策的な話法は、私たちの時間感覚を心地よく揺さぶった。
取材協力:MORI YU GALLERY, Tea Pairing Lab
写真:望月小夜加