孤高の孔雀たれ 

「時代とともに移り変わる嗜好」「現代の嗜好をめぐる論考」「嗜好の生成メカニズム」をテーマに、大学生を対象にして2023年に初開催されたエッセイコンテスト(主催:日本たばこ産業株式会社(JT)エッセイコンテスト実行委員会)の受賞作品を掲載します。「DIG THE TEA」は、哲学者・國分功一郎さんと入賞者ら学生との座談会と受賞作品の掲載に協力しています。

エッセイコンテスト入賞作品
最優秀賞「孤高の孔雀たれ」潮亮太郎
優秀賞「嗜好品の構造」諏訪優介
特別賞「布団の中の定まらない私」髙木咲織
特別賞「『如雨露』としての嗜好、『こぼし』としての嗜好」内藤広武

【座談会】
前編:「人間は、全員が軽度の依存症である」哲学者・國分功一郎、若者と嗜好を語る
後編:マッチングアプリで恋愛は嗜好的になったのか。哲学者・國分功一郎が、大学生と「嗜好」について語り合ったこと

孤高の孔雀たれ

孔雀の羽は何故美しいのだろうか。この問いの答えは科学が教えてくれているようだ。 どうやら孔雀のオスは、綺麗な羽を広げて踊り、メスに求愛するのだが、はるか昔から、 メスが美しいオスを選ぶものであるから、今の孔雀の羽は美しいらしい。しかしそれで も、何故「美しさ」で選ばれるのかは分からない。他のオスを蹴散らす力強さや、いい家を作ってくれる要領の良さならばいざ知らず、美しさに何の意味があると言うのか。

この問いの答えとして、面白い一説を聞いた。曰く、「美しさ」とは「無駄遣い」であり、優秀な個体は生きるリソースを美しさに割くことができるゆえに優秀であるのだ、と。なるほど納得である。これが本当ならば、オスは自分がいかに無駄遣いできるくらい余裕があるかをメスにアピールしていることになる。こうしてモテるべく無駄の塊を身にまとった孔雀を思うと、メスの前で踊る姿は、少し滑稽にも見える。ふと、人間の「嗜好」も、この孔雀の羽と同じところがあるような気がしてくる。

嗜好など結局は無駄なもの、と自虐的にも言われることがある。残念ながらその通りである。そもそも嗜好とは、生きるのに必要のないものだからだ。すると当然、 「嗜好が無い人生はつまらない」「嗜好が人生を豊かにする」と月並みな反論が飛んでくる。至極もっともである。「食事にお金をかけるのは全く理解できない」とのたまって毎日同じものを食べている知人(東大生にはこの手の輩が多いのだ!) を思えば、たまにでも嗜好品を楽しむ自分の生活に多少彩りがあることを思い出せる。

しかし、嗜好は無駄だがそれでよい、などとまとめてしまえばそれでお話が終わってしまう。問題は、孔雀がメスの前で踊るために綺麗な羽を持っていることだ。

思えば、昔から人間は嗜好を孔雀の羽のように使ってきた。ひとりで楽しんでいるものでも、いつしか他人と比べたり差をつけたりするようになる。例えばお茶はどうだろう。最初にお茶を飲んでいたのは、健康に良いなどの理由であったのに、あれよあれよと洗練され、お茶の道を知っていることが社会的ステータスになった。

お茶を嗜む人の、背筋の伸びた立ち居振る舞いはやはり素敵に感じられるかもしれないが、どれだけ自分が卓越しているかをアピールするために茶器を握るその姿は、まるで踊る孔雀そのものではないか。もしかしたら、人間が他の人間と一緒に社会を作って生活する以上、そうならざるを得ないのかもしれない。孔雀が子孫を残すためなら、人間は心地良く生活するために、他人を意識せざるを得ないということだろう。

タバコが嗜好品なら、好きなようにやれば良いのだ。ところがタバコの種類が社会的ステータスのシンボルになってしまったものであるから、高い葉巻を吸ってみたりしたくなる。逆にいつしか、高い葉巻を吸っている人間が成金ギャングの親玉に見えるようになってしまった。もう、安くて簡単なタバコを吸えば良いではないか!

今の嗜好はそういうしがらみからは自由だ、と言う人もいるかもしれない。確かに、余暇をどのように過ごすか、人それぞれ色々ありすぎるくらいあるのが現代である。もうロックミュージックじゃなくてクラシック音楽を聴いたり、映画じゃなくて演劇に観たり、そういったことをしても、「だからなんなの?」という時代だ。身分や歳によって相応の嗜好がある、とは全く言えない。そもそも嗜好は他人にマウントをとるためのものではないのだから、良い時代になったと言わねばなるまい。 

しかし、やはり私はそうとも言えないと思うのだ。というのもそれは、インターネットの発展した昨今の世間を見てそう思うわけだ。確かに嗜好で優越をつけるのが無意味になって、自分がどれだけ洗練されているかをアピールしたりすることは無くなっている。しかし代わりに、SNSなどを通じて人々は自分の好きなように、好きな人と密接になって生きている。

人と人が容易に繋がれるようになったおかげで、多くの人が自分のフォロイー・フォロワーと自分の嗜好を分かち合っているようである。ちょっとした贅沢、休みのゆったりとした時間……そんな嗜好はすぐ写真や文章になって、もはやひとりだけのものではなくなる。誰かから生まれた嗜好がシェアされて、皆のものになっていく。それが今の嗜好の姿ではないだろうか。 

人が他人と手を取り合って、社会を作って生きていけることは、しばしば人間ならではの良い面であると称えられる。しかし、こと嗜好においては、必ずしも美徳とは言えないと思うのだ。かつて我々を身分相応の振る舞いに縛っていた嗜好は、今は我々を他人との繋がりに縛っている。

他人の嗜好も自分の嗜好も、お互いの目線の先にある。ややもすれば、流行や他人の振る舞いによって自分の嗜好が変わったりすることもあるだろう。そんな時代に、嗜好を楽しむ時間が本当に自由だと、一体どれだけの人が胸を張って言えるだろうか。

そんなことを考えると、一体どう嗜好を嗜めばいいか分からなくなってくる。孔雀はこの答えも知っていた。昔住んでいた家のそばに、孔雀が放し飼いにされている動物公園があった。孔雀はよく公園の外まで羽を伸ばしてやってくる。

ある日、庭に一匹の孔雀が来てーーこれも随分と稀有な体験だがーー羽を広げているのを見た。メスもいないのに何をしているのだか、と思ったが、その姿は殊の外綺麗であった。誰にも踊って見せびらかさない孔雀の羽の、その美しさが、孤高の美学を私に示してくれたのだ。 

そう、孤高だ。人と手を取り合って生きる人が、それでも手放してはいけない心、それが孤高だ。孤独ではない。ひとりだが、気高く、心は自由で平穏である。まさにこの孤高こそ、嗜好を嗜む精神であるべきではないか。

嗜好が無駄なものであるのだから、自分自身でそれを力強く肯定してやらねばならない。孤高にはその力強さがある。そう、葉巻を嗜むのは、他人への誇示ではなく、その過程と重厚さを楽しむためである。簡単で安い煙草にはないその無駄な時間は、自分だけの部屋で過ごす時間でこそ、輝かせることができる。 

本当は……あの庭に来た孔雀が羽の日干しでもしていたのであろうことは分かっている。トリに孤高の精神が本当は無いことも知っている。我々も、完全に孤高でいることは不可能かもしれない。広告や流行から全く目を逸らし、誰の意見も聞かずにたどりつける嗜好品など、この世に存在すらしないかもしれない。だがやはり、人生にあの羽の彩りをもたらすのは、孤高なる嗜好であると考えるからこそ、私は孤高であろうとすることが大切だと思うのだ。 

今後も、人はより強く繋がっていくだろうし、SNSには人々の嗜好が溢れ続けることだろう。嗜好を分け合い楽しむこともあるだろうし、流行に乗って嗜好品を嗜んでみることもある。しかし、それを楽しむときばかりは、どうか心が孤高であろうとして欲しいと思う。誰もが羨む素敵な時間も、自分のものであることを忘れてはならない。

明日、突然インターネットもSNSも消えてしまっても、また誰とも会えなくても、その一日が素敵な一日になるものを持っているなら、それがきっと本当の嗜好だ。きっといつしか、真の孤高の輝きへと連れて行ってくれる。

エッセイコンテスト入賞作品】(主催:日本たばこ産業株式会社(JT)エッセイコンテスト実行委員会)

最優秀賞「孤高の孔雀たれ」潮亮太郎
優秀賞「嗜好品の構造」諏訪優介
特別賞「布団の中の定まらない私」髙木咲織
特別賞「『如雨露』としての嗜好、『こぼし』としての嗜好」内藤広武

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