「時代とともに移り変わる嗜好」「現代の嗜好をめぐる論考」「嗜好の生成メカニズム」をテーマに、大学生を対象にして2023年に初開催されたエッセイコンテスト(主催:日本たばこ産業株式会社(JT)エッセイコンテスト実行委員会)の受賞作品を掲載します。「DIG THE TEA」は、哲学者・國分功一郎さんと入賞者ら学生との座談会と受賞作品の掲載に協力しています。

【エッセイコンテスト入賞作品】
最優秀賞「孤高の孔雀たれ」潮亮太郎
優秀賞「嗜好品の構造」諏訪優介
特別賞「布団の中の定まらない私」髙木咲織
特別賞「『如雨露』としての嗜好、『こぼし』としての嗜好」内藤広武

【座談会】
前編:「人間は、全員が軽度の依存症である」哲学者・國分功一郎、若者と嗜好を語る
後編:マッチングアプリで恋愛は嗜好的になったのか。哲学者・國分功一郎が、大学生と「嗜好」について語り合ったこと

はじめに 

研究対象が多岐に渡り社会生活にあまりにも密着していることが仇となっているのか、嗜好品研究には浩瀚なものが少なく、さまざまな論客がさまざまな対象について私見を述べるというのが嗜好品研究の現在地であるように思われる。

実際、嗜好品についてさまざまな論客が小論を寄せたアンソロジー形式の書籍である『嗜好品文化を学ぶ人のために』(世界思想社、2008年)を紐解くと、嗜好品の例としてコーヒー、煙草といった全世界で嗜まれているものに加えてポリネシアのカヴァのように特定の地域でのみ消費されるものも嗜好品の一例として扱われている。

しかし、このようにあらゆる「嗜好品」をひっくるめて捉えることを許容する風潮にはやや注意を要する。ひとくちに嗜好品といってもその担う機能は時代や場所により大きく異なるからである。 

嗜好品の代表選手、煙草を例に取ろう。煙草はまさに世界中で消費される最もユニバーサルな嗜好品と言って良い。しかし、煙草の受容形態は地域、歴史によって大きく異なる。すなわち、煙草の原産地である北米において、先住民は嗜好品というより儀式や医療の用に足すものとして煙草をみなしていたようである。

煙草がいわゆる「嗜好品」として扱われるようになるのは、大航海時代を経て煙草がヨーロッパに伝来して以降である。それに対し、ポリネシアのカヴァは今なお儀式・呪術との関わりが強い。山本真鳥「カヴァからサモアが見える」(講談社選書メチエ『嗜好品の文化人類学』2004年、所収)によると、カヴァは首長制を支えるために欠かせない要素であり、これを無造作に「嗜好品」と呼んで片付けてしまうのは誠実な態度とは言えまい。 

さらに、いわゆる「嗜好品」の中にも、少し毛色の違うものが存在する。例えば、一部の人にとってコーヒーや紅茶のようなカフェイン飲料は「快感を求めて飲むもの」ではなく「飲まずには生活が立ち行かないもの」となっているだろう。また、お酒を楽しみのためではなく社交のために半ば嫌々飲むという人も少なくない。こういった場合において、嗜好品は本人の嗜好とは関わりなく消費される。 

以上から明らかなように、「嗜好品」なるものを一枚岩として捉えるのは不正確と言わざるを得ない。そこで、本稿では、現代の一般的な意味で用いられる嗜好品(すなわち実益よりも快感を求めて消費される嗜好品)と区別して、儀式・呪術などに役立てられる嗜好品を「原-嗜好品」と呼び、二つ目のイレギュラーな嗜好品(すなわち否応なく消費される嗜好品)を「後期嗜好品」と呼ぶことにしよう。 

嗜好品の変遷①「原-嗜好品」から「嗜好品」へ

「原-嗜好品」が「嗜好品」に変質するまでには、どのような段階が踏まれるのか。定義からしても、両者を分つ最大の要素は儀式性・呪術性の有無である。してみると、儀式や呪術の文脈を破壊される瞬間が鍵である。そのような瞬間の例としてまず挙げられるのは、当然、場の移動である。真面目一徹だった生徒が転校した途端に剽軽に化けるように、厳粛な場で使われていた「原-嗜好品」は環境の変化に伴って重苦しい仮面を剥ぎ取り軽やかに舞い始める。

先ほども言及した煙草が好例である。古くは「超自然的な力を持った重要植物」(1)として北米先住民に珍重されていた煙草は、大航海時代のさなかに儀式・呪術の文脈を大西洋に散逸させてヨーロッパに渡り、あらゆる階層の欧州人を虜にした。果たして煙草は「誰に対しても、またどんな時も、同じ快楽を与える」存在に転換したのである。多くの嗜好品において同様の現象は観察されるが、それを踏まえるに、「原-嗜好品」が嗜好品に転化するありようはキッチュの誕生として捉えることもできる。

つまり、シガレットや瓶ビールなどの画一的で大量生産可能な商品の登場によって、煙草や酒は儀式や呪術といった古代の伝統の桎梏から真に解放され、消費される状況を選ばない嗜好品として人口に膾炙するに至るのである。

ここでベンヤミンの複製技術論を引くのはあまりに安直すぎるだろうか。「複製においては束の間のものであることと反復可能であることが密接に結びついている」(2)というベンヤミンの指摘は、嗜好品の事情にもぴたりと当てはまる。しかし、それと同時に、同じ論文の中でベンヤミンが「芸術作品の本来の使用価値……は儀式のうちにあった」と述べていることを見落としてはならない。

まさに、嗜好品の場合においても、どれほど通俗的な存在になったとしても、また我々消費者がどれほど無自覚であっても、その根底には肩肘張った儀式の遺伝子が脈々と受け継がれる。この点については後にまた検討することにする。 

嗜好品の変遷② 「嗜好品」から「後期嗜好品」へ

続いて、「嗜好品」が「後期嗜好品」に変遷していく様を観察する。「後期嗜好品」は、必ずしも嗜好していなかったとしても消費される嗜好品のことであった。嗜好しているわけでもないのにお金を払ってまで消費するという一見して著しく不合理な行動を取らせるファクターは果たして何か。

まずは冒頭の議論に則りコーヒーの場合について具体的に検討するのが筋であろう。コーヒーもまた、古くはスーフィズムなど儀式・宗教との関わりを持った嗜好品であるが、いつしかもっぱらカフェインのもたらす覚醒効果を楽しむようになり現在に至る。いや、今日ではむしろ、少なからぬ人にとってコーヒー(およびそのもたらすカフェイン)は楽しむ対象ではなく欠かすべからぬ存在になっている。彼らにとって、コーヒーのない朝はあり得ず、コーヒーを飲むことが重い腰を上げ仕事を始める契機なのである。

果たして、こういった変質を遂げた嗜好品はまだなお「嗜好品」か否か。

嗜好品を考えるにあたりもっとも重大な問いの一つだが、これには力強く「イエス」と答えるべきである。というのも、「毎朝コーヒーを飲む」行為はまさに儀式であり、先ほど引いたベンヤミンの指摘を援用することで一層明らかになるように、嗜好品の根底には儀式的要素が断固として存在しているからである。拡張すると、このように言えるだろう。

「嗜好品」も「後期嗜好品」もさらには「原-嗜好品」も、嗜好品という厄介な塊の別の面にそれぞれ光を当てているだけにすぎず、根底に儀式の要素が断固として存在しているその限りにおいて、どのような様態を取っていたとしても本質は共有されているのである。ここに至ってようやく、これら三つを引っくるめて「嗜好品」と呼びならわすことに対し妥当な言及をできる。

つまり、いずれも儀式を根底に抱く点で確かに同質だが、その表出される姿はあまりにも異なっており、慎重さを持たない安易な同一視はまったくのナンセンスである。 

三者の循環構造 

「原-嗜好品」、「嗜好品」、そして「後期嗜好品」を儀式という糸で束ねてみると、この三者の循環の構図が見て取れる。「原-嗜好品」から「嗜好品」、また「嗜好品」から「後期嗜好品」への遷移のありようはすでに描いてあるから、問題は「後期嗜好品」と「原-嗜好品」の遷移にある。キッチュとしての「嗜好品」がその表層を快楽で飾り立てることによって舞台から追放した儀式の要素が、後期嗜好品においては、爛熟し腐乱を始めた快楽を突き破ってふたたび浮き上がってくるのである。

これは先ほどのコーヒーの例からも明らかであるが、酒についても同様である。酩酊によって集団の絆を深めるという儀式的性格が、酩酊そのものに快楽を覚えることで一旦失われるが、飲酒習慣があまりにも定着した現代の社会では、酩酊の快楽よりも酒がもたらす「制約からの解放」が重視される。

つまり、口に出すのも憚られる話題―上司の悪口から下世話なゴシップまで閉じる、それもタブーの意識を覚えることなく興じるための最良の隠れ蓑である「飲み会」を提供するのが酒であり、また、人間関係のもつれや離別の悲しみといった精神を束縛し硬直させる諸状況をしばし吹き飛ばしてくれるのが酒である。制約を取り払うという機能を飲酒が果たすのであれば、酒は儀式の道具に他ならない。

このようにして、一度は失われたかに見えた儀式の要素が復活し、後期嗜好品は後期嗜好品であると同時に萌芽状態の原-嗜好品としての性格も持ち合わせることになる。

もう一点注目すべきは、ひとくちに儀式と言っても原-嗜好品と後期嗜好品では性質が異なることである。ならば、この三者を循環の図像で捉える場合、原-嗜好品と後期嗜好品を同じ視座で平面的に捉えてはいけない。むしろ、360度回転してもスタートとゴールが必ずしも一致しない螺旋状の循環として捉えるべきである。儀式という長い背骨の周囲を時とともに自由に昇降するのが嗜好品の内実といえよう。 

嗜好品の価値とは 

ともすると、ここまでの内容を嗜好品に対し否定的なものと捉える向きがあるやもしれない。それは誤っていることをここで示そう。

第一に、「嗜好品」をキッチュと呼んだことが嗜好品への冷たい視線の表れだという考えについて。現今、キッチュを「俗悪なるもの」としてのみ捉えることが無効であることは周知の通りであり、本論でも、キッチュという言葉はいわゆる美醜、善悪といった価値基準を回避して嗜好品の本来の姿を少しでも精確に近似しようという試みの一環で使用された用語である。また、より本質的なのは、嗜好品を儀式に関わる事物の一時的な様態として捉える私の見方が嗜好品を軽んじているという考えである。

しかし、実のところ、嗜好品の諸相のうち私がもっとも評価している点こそ、この流動性である。というのも、嗜好品の様態の遷移は嗜好品を取り巻く環境のありようの変化を機敏に反映するからである。

すなわち、「原-嗜好品」から「嗜好品」へ、あるいは「嗜好品」から「後期嗜好品」への変化がめまぐるしく起こるような環境は、それだけ変化に富み活力に溢れた社会であり、その逆―変化に富み活力に溢れた社会において、嗜好品の様態変化はめまぐるしく発生する―もまた真なのである。

実際、煙草やコーヒーといった世界を代表する嗜好品が「原-嗜好品」から「嗜好品」へと変化した15、16世紀ごろは、新大陸探検のみならず文芸分野におけるルネサンス運動などによってさまざまな社会的な変動がもたらされた時代である。

そして、我々の生きる21世紀もまた、疑いの余地なく変動の時代、それも未曾有の大変動が次々と起こる時代であり、それを反映するかのように多種多様の嗜好品が浮き沈みを繰り広げている。最後にその様子を概観して閉じることとしよう。 

これからの嗜好品 

どれほど現代が激動の時代であったとしても、煙草や酒のように何世紀にもわたって嗜好品としての位置を堅持し続けてきたものは、これからもカメレオンのように環境に合わせて姿を変え生き残り続けるはずだ。 

それとは別に、現代および近い将来で「嗜好品」としての位置を獲得しうるものの一つは恋愛である。結婚や妊娠、出産と密接な関係を持つものとして長らく神秘的な位置付けを与えられてきた恋愛であるが、ここにきて俄かにその神秘性が薄れ、カジュアルに「楽しまれる」ものに変化しつつあるように思われる。

その主な要因は、指摘するまでもなくマッチングアプリにある。買い物や仕事など幾分無機質な営みに使われることも多かったインターネット空間において、知り合いと連絡するにとどまらず新たな人間関係(出会い)を構築する機会を提供するマッチングアプリは、恋愛にこれまで付き纏い続けてきた儀式の重苦しさーーたとえ長期的視点が欠けていたとしても、相手と一生を添い遂げる覚悟を持つ瞬間の要求、また「愛」を不断に言動に落とし込むという無謀な要求―を我々の目から覆い隠し、恋愛の快楽の部分だけを味わうことを可能にした。

マッチングアプリの裾野は依然広いとは言えず、一部の「好き者」の遊びの域を出ない。しかし、史上のあらゆる嗜好品とて、大胆にも「原-嗜好品」を脱魔術化した「好き者」の遊戯が次第に広く受容されるようになって成立したものである。恋愛もまた同様の過程を辿るのか、はたまた魔術性の放棄を我々自身が拒否して「嗜好品」への転化は起こらないのか。目を離せない。 

 

1『嗜好品文化を学ぶ人のために』(世界思想社、2008年)p.69 
2『ベンヤミン・アンソロジー 』(河出文庫、2011年)p.306 

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文献目録 
ベンヤミンヴァルター, 山口裕之. (2011). ベンヤミン・アンソロジー. 東京: 河出書房新社. 
高田公理, 栗田靖之, CDI. (2004). 嗜好品の文化人類学. 東京: 講談社. 
高田公理;嗜好品文化研究会. (2008). 嗜好品文化を学ぶ人のために. 京都: 世界思想社. 

写真:川しまゆうこ

【エッセイコンテスト入賞作品】(主催:日本たばこ産業株式会社(JT)エッセイコンテスト実行委員会)
最優秀賞「孤高の孔雀たれ」潮亮太郎
優秀賞「嗜好品の構造」諏訪優介
特別賞「布団の中の定まらない私」髙木咲織
特別賞「『如雨露』としての嗜好、『こぼし』としての嗜好」内藤広武

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濁流のように去りゆくこの時間を、心が溶けるひとときに。