酒、タバコ、茶、コーヒー……栄養の摂取ではなく、覚醒や鎮静を得るために口にするものを、われわれは「嗜好品」と呼ぶ。人類はなぜ、一見すると生存に不可欠ではなさそうな嗜好品を求めるのだろうか。
そもそも「嗜好品」は日本語に特有で、他国語に訳出するのが難しい不思議な言葉だ。初めてこの言葉を使ったのは、森鴎外と言われる。1912年に発表した短編小説『藤棚』で、嗜好品を「人生に必要」で、「毒」にもなるものと表現した。薬にも毒にもなる、曖昧さと両義性をはらんだ「嗜好品」。『DIG THE TEA』では連載シリーズ「現代嗜好」を通じて、嗜好品が果たす役割やこれからのあり方を、第一線の知識人との対話を通じて探っていく。
第5回は、生物学者の福岡伸一をたずねた。分子生物学者として研究に取り組むかたわら、『生物と無生物のあいだ』をはじめとする数々のベストセラーを世に送り出してきた福岡は、自然を機械論的に捉える生命観を批判し、「生命とは合成と分解との平衡状態、すなわち『動的平衡』にある絶え間ない流れである」という生命論を提唱している。前編では、人間が自由を手にするために獲得した言葉の力=「ロゴス」と生命の本来のあり方である自然=「ピュシス」というふたつの概念を出発点に、過剰にロゴス化した現代社会における「ピュシスへの回路」としての嗜好品の役割を語ってもらう。
(編集・文:菅付雅信 編集協力:小池真幸&松井拓海 写真:佐藤麻優子)
人間はロゴスを獲得し、遺伝子の束縛から自由になった
──嗜好品は、必要な栄養を摂る食物ではないもの、生存には無駄なものだと思われることが多いです。しかし、本当にそうなのでしょうか?
嗜好品の存在は、人間という種の特殊性と、密接に関わっているのではないかと思います。進化生物学者のリチャード・ドーキンスが提唱する「利己的な遺伝子」論に代表されるように、生物の唯一無二の目的は「交配し、繁殖する」ことであり、その観点から見れば、個体はそのための乗り物にすぎません。昆虫や魚は何千個も卵を産み、何千もの幼虫や幼魚が孵るわけですが、大半はのたれ死んでしまう。でも、そのうちほんの数匹がうまくパートナーを見つけて、次の世代へとバトンをつないでくれさえすれば、遺伝子にとっては何の問題もない。「個」は「種」を存続するためのツールでしかなく、個々の生命に大きな価値はないというのが、生命にまつわる残酷な実態なんです。
しかし、人間だけがその遺伝子の企みに気づき、「それはちょっとおかしいのではないか」と考えることができました。もちろん、この企みから完全に自由になることはできませんが、「必ずしもそれに従わなくても生きていけるんだ」と、少しだけ相対化することができた。「遺伝子の企みから自由に生きていいんだ」ということに初めて気がついた生物が人間であり、そのことが「種」ではなく「個」としての生命の価値、ひいては現代の人間を人間たらしめている「基本的人権」を生み出しました。「産めよ、殖やせよ」という遺伝子の命令に従わなくても、自由に個体としての生を全うしていいというのが、人間が長い進化の末に勝ち得たパラダイムなのです。
──なぜ人間だけが、遺伝子の外側に出ることができたのでしょう?
端的に言えば、脳が大きくなったから、言い換えればギリシア語でいう「ロゴス」を作り出したからです。ロゴスとは、言葉、論理、アルゴリズム、世界の構造化といったもの。脳が世界をロゴス化する力を持ったことで、遺伝子をDNAや塩基配列といったかたちで把握し、相対化することが可能になり、その束縛から自由になれました。ロゴスの力はものすごく強力で、それによって人間は文化や文明を作り得たわけです。
歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは著書『サピエンス全史』で「フィクションの力が人間を人間たらしめた」と論じていますが、ここで言う「フィクション」とはロゴスのことです。世界を情報化し、言語化する力こそが、人権や法律、国家や経済、そして農業やIT、AIその他のテクノロジーを生み出し、人間はそれを享受しているわけです。
生命のすべてをロゴスで制御することは不可能
──ロゴスを獲得することで、人間は個としての生を全うできるようになったと。
ただ、ロゴスは人間が世界を整理整頓して作り出したイデアであり、虚構にすぎません。生命を完全にロゴス化することはできない。むしろ生命の本当の姿は、ロゴスの対立概念である「ピュシス」なんです。ピュシスとはギリシア語で「自然」という意味で、みずみずしい、やわらかな生命全体を指しています。
そして、最も身近なピュシスは、我々の身体、つまり生きているということです。ピュシスはロゴスの力によって、部分的には相対化できます。
たとえば遺伝子の構造や、細胞の中でタンパク質が生成されるメカニズムは、科学の力でロゴス化されました。しかし、自然は本来コントロールできないものであり、ロゴスの力で完全に制圧することはできません。いつ生まれてくるか、いつどのように死ぬか、どんな病気にかかるか、なにが欲しくなるか……そうしたピュシス本来の、生命の動きは、コントロールすることができないのです。
人間はロゴスによって文明や文化を作りつつも、ピュシスに依拠し、それをリスペクトすることを受け入れざるを得ないわけです。いま我々を悩ませている新型コロナウイルスもまた、ピュシスの一部であり、ずっと昔から人間と共生してきた存在です。時には宿主に病気や死をもたらしますけれども、多くのウイルスは無害で見えない形で、ある生物から別の生物に遺伝情報の一部をちぎって渡すことで、遺伝子プール全体の動的平衡を揺らしてくれている利他的な存在です。もともと人間を侵攻してくるエイリアンのような存在ではないわけです。もとより撲滅したり、打ち勝ったりすることはできないのですから、これからも共生していくしかない。
──なるほど。ロゴスはピュシスを部分的に切り取ったものにすぎないのですね。
そうです。しかし、ロゴスとしては、その事実を我慢できないわけです。近代社会になると、人間はロゴスの力を過信して、この世界のすべてをロゴスで覆いたいという欲望が支配的になっていった。
行き着く末は、AIによって人間を完全にコントロールした世界が来るという、シンギュラリティ的な世界観です。生命を含めたすべての世界をアルゴリズム的に予測し、制御したいという欲望。でも、それはロゴス教の悪しき虚妄にすぎません。ピュシスとしての生命を、ロゴスの網の目の中に制圧することは、絶対に不可能なんです。ピュシスの実態には、ロゴスで抑えきれないものがたくさんありますから。
そこでロゴスは、ピュシスのみずみずしい部分を、すべてタブー化しました。いまタブーとされているものは、ロゴスがどうしてもコントロールできない生命の実態なんです。性的なものが隠蔽されていたり、病気が病院に押し込められていたり、死が日常から遠ざけられていたり。ピュシスをタブー化して押し込め、ロゴスだけで成り立っているように見せているのが、現代社会であるわけです。
ロゴス過剰の社会における、ピュシスへの回路が嗜好品
──ロゴスは人間の条件である一方で、生命とは本来ピュシスであり、すべてをロゴス化することはできない。その矛盾を、ロゴスはピュシスをタブー化することで、なかったことにしていると。
はい。そして嗜好品は、ロゴスに寄りすぎた社会と、生命の本来のあり方であるピュシスをつないでくれる、細い糸だと思うんです。嗜好品が身体に与える影響は、すべてピュシスを揺り動かすものです。
嗜好品が、倫理というロゴスによって「なるべく禁じた方がいい」毒として分類され、遠ざけられているのは、ピュシスの扉を開けすぎると、どうしようもなくなってしまうから。麻薬が厳しく規制されているのは、ロゴスの力によって抑えないと、ピュシスが溢れ出てくるからです。麻薬の快感は、性的な快感と同じ原理に基づいて成り立っていると言われますが、その快感を覚えた人は、なかなかその快感を手放せないわけです。
コーヒーに含まれているカフェインだって、脳の中にあるカフェイン作動性の報酬系を活性化することで、ピュシスを気持ち良く覚醒させますし、タバコもニコチン作動性神経を刺激することで、ピュシスを揺り動かしている。
嗜好品はロゴス化された社会において、人間が本当はピュシスとして生きていることを思い出させてくれる大事なツールだと思います。摂取しすぎるとピュシスが溢れ出て、社会的には少し困ったことになってしまいますが、ある程度は許されていいと思うんです。
なぜなら我々は生きている以上、ピュシスを思い出さなければならないからです。嗜好品というものは、ロゴス化された人間社会と、本来の生物としての人間をつなぐ回路として機能しているのだと思います。
──なるほど、人間の本質をえぐり出す素晴らしい洞察ですね。嗜好品の代表的な機能として「酩酊」と「覚醒」が挙げられますが、これらも人間にピュシスを思い出させるということでしょうか?
そう思います。酩酊と覚醒はまさしくピュシスの実態であり、本来我々が生きていくために必要な身体の仕組みです。いつ敵が襲ってくるのかわからない中で、食料やパートナーの居場所を探り、奪い合いを続けていくためには、自分を活性化した状態に置かなければいけません。嗜好品の覚醒作用は、我々が生きていくために必要な回路を刺激してくれるわけです。
一方で、覚醒し続けていてもストレスが生じる。生物は闘いが終われば、ストレス反応が減少して元のレベルに戻りますが、現代社会は恒常的にストレスが降り掛かってくる。したがって、神経回路を全般的に麻痺させ、リラックスさせてくれるものとして、鎮静作用をもたらす嗜好品が必要になります。
いずれにせよ、ロゴス化されすぎた社会の中で、人間もまたピュシスとして生きているということを思い出させてくれるメトロノーム、いわば外部レファレンスのようなものとして嗜好品があるわけで、なくなることはないだろうと思います。
嗜好品を敵視することは、人間そのものの否定につながる
──ただ、現代において、タバコをはじめとする嗜好品は、主に健康上の観点などから忌避されつつあります。もちろん、そこにはある程度の合理性があるとは思うのですが、行き過ぎた健康志向であるようにも見えます。
敵視し過ぎないことが大事だと思いますね。嗜好品を敵視するということは、我々がピュシスとして生きていること自体の否定でもある。ロゴス的な動物として言語・ロジックを操りつつ、一方で、生命本来のピュシス的なあり方を尊重する。両者の間を往還し、右往左往するというのが、人間の本来のあり方です。
完全に近代化された都市における清潔思想や健康志向は、ロゴスに寄りすぎています。もちろん、嗜好品に身体的な害があることは否定できませんが、ロゴスにベクトルが偏りすぎると、いつかピュシスの側から大きなリベンジを受けることになるでしょう。
──ロゴス偏重になることで、どういった弊害が生じるのでしょうか?
ロゴスの行き過ぎがもたらした最大の害悪は、富が腐らなくなることです。そもそもピュシス的なものはすべて、エントロピー増大の法則によって劣化し、腐り、駄目になります。その最たるものは食品で、生物は生きていくために食べねばならず、獲物を捕らえるわけです。そして、自分が食べる以上に収穫があっても、結局は腐って何の役にも立たなくなってしまうので、他の生物に手渡すという、利他的な行動を取ることになる。
しかし、人間はロゴス化することで、自分が得たリソースを腐らないものに変えられるようになった。それが貨幣であり、土地や債権といった富です。リソースを腐らない記号に変えることで、利己的に蓄積できるようになったわけです。その革命こそが資本主義社会を生み出しましたが、現代社会ではそれが行き過ぎているのです。
ロゴスによる禁欲は、別のピュシスをひらく
──その一方で、欧米を中心に、大麻を解禁していこうとする動きも見られますよね。ニューヨークと東京を行き来しながら生活・研究されている福岡さんの目には、そうした流れはどのように映っていますか?
行き過ぎたロゴスに対する揺り戻しでしょう。思想は行ったり来たりするものなので、人間のピュシスとしての本来性を取り戻すため、「大麻くらい良いのではないか」と考える波が来ているのではないかと思います。もちろん、まだまだ賛否両論で、子供のいる親を中心に強い反対がありますが、全般的には大麻の持つ医療的なリラクゼーション効果が肯定されつつあるように見えます。
ニューヨークでは、CBD成分(カンナビジオール:CBDとは、大麻草の茎や種子から抽出された成分のこと)が含まれている電子タバコ「JUUL」が合法的に市販されていますし、24時間営業で疲弊しがちな地下鉄やバスの運転手のストレスを、大麻を解禁することで沈静化すべきなのではないかといった議論もなされています。
──アメリカの警察官は死の恐怖と隣合わせでストレスが大きく、それゆえ実は薬物使用率が高いといった説も聞いたことがあります。
法の執行はロゴスの権化なので、当然ストレスはかかりますよね。もちろん、大麻解禁についてはその危険性も含めてまだまだ議論すべきですが、ロゴスによるストレスを緩和する、何かしらのリラクゼーション装置が必要であることは事実でしょう。
──僕は一時期マクロビオティックを本気でやっていて、たしかに身体の調子はかなり上向いた気がするのですが、関係者にかなりの酒好きが多いことに驚きました。実はマクロビオティックの本には、アルコールが悪いとはほとんど書かれていないんです。
何か特定のピュシスを禁じると、別のピュシスがひらくのでしょうね。生命の本来のピュシス的なあり方を何らかの形で禁じるのは、ありていに言えば、キリスト教思想なんです。禁欲することによって、神に一歩でも近づきたいという考え方です。ピュシスに身を任せることを自堕落とみなし、ロゴスでピュシスを抑え込む。ピュシスを精神の力で降伏させ、ロゴスの王国に入ることが、神に近づくことだと考えているわけです。
ヨハネの福音書にも「最初にことば(ロゴス)があった」という一文が出てきますし、「神=ロゴス」なんです。もちろん、そうして神を志向する生き方をあえて選ぶこと自体を否定はしませんが、それとは違う生き方があってもいいはずです。本来のピュシスは、いくら禁じても必ず、どこかから漏れ出してきます。人工的なロゴスの力で抑えすぎるよりも、多少はピュシスを容認し、嗜好品で気を紛らわせるくらいが良いのではないかと、私は思いますね。
ロゴスを極めることで、ピュシスに返る反転力が得られる
──ロゴスとピュシスの良い塩梅(あんばい)のバランスは、どうすれば取れるものなのでしょうか?
難しい問題ですね。私自身の個人史を振り返っても、もともとは分子生物学者として、完全にロゴス志向で生命を研究していました。生命を分解して細胞にして、さらに遺伝子に分けてPCR分析をしていく。要素還元主義的に生命を部品化し、ヒトゲノム計画によって全ての遺伝子を明らかにして、「細胞は2万1000種類のミクロな部品から成り立つ精密な時計仕掛けのマイクロマシンだ」と突き止めたのが、20世紀から21世紀にかけての生命科学の勝利だったわけです。
ところが、いくら生命をロゴス化して遺伝子を全て明らかにしても、生命の謎は一つもわかりませんでした。もともと私は、虫が大好きな昆虫少年でした。イモムシが急にサナギになり、その中でイモムシの細胞がすべて溶けて、蝶々が出てくる……こんなに不思議なことが一体なぜ起こるのか。少年時代に抱いたこの謎は、最新の科学でもきちんと説明できない、自然の驚異です。そこで私は、はたと気がついたわけです。少年少女のときは、生命をピュシスとして捉えていたのだと。
近代科学を勉強していくなかで、ロゴスを究極まで追求した結果、それだけでは生命はわからないと気づき、40代半ばで『生物と無生物のあいだ』という本を書きました。
生命はピュシス的なものであり、動的平衡の流れの中で捉えなければいけないという思考に回帰してきたわけです。ですが、最初からどちらにも行くことはできないと思います。ロゴスを極めて、限界を感じて反転してピュシスに来て、でもやはりそれだけでは始まらないと、また言語の世界に戻っていく。そうした往復運動があって、今日に至っているわけです。
──なるほど、一度ロゴスに振り切って、そこで限界を感じてまたピュシスに戻ってくることが大切だと。最近は反知性主義のように、アカデミックなもの全体への嫌悪が目立ってきている面もありますが、それとは一線を画しますね。
中途半端にロゴスを拒否し、ピュシスの側についているということですよね。それはあまり良くないと思います。なぜなら、解像度の高い言葉で語ることが大事だからです。ロゴスとはロジック、言語にしていくことの追求です。科学の成果を誰もが享受できるのは、ある現象を解像度の高い言葉で語り、それを共有できるからです。
一方でピュシスも、基本的に言語化を拒んでいるわけではありません。ただ、ロゴスを極めないと、ピュシスの方に返ってくる反転力が得られないと思うんです。いきなりピュシスを説明しようとすると、大きな言葉でしか語れなくなってしまう。「宇宙は全部つながっている」「地球はガイアである」「サムシング・グレート(something great)」といった、非常に大雑把な言葉になってしまい、オカルトやスピリチュアルに限りなく近づいていきます。
それで気持ちが良い人は問題ないかもしれませんが、近代科学の中に身を置く者としては、やはりピュシスもまた、新しい解像度の高い言葉で語るべきだと考えています。人間はどこまでいっても、言語を使ってものを語ろうとする生物です。言語ですべてを語りきることは不可能ですが、ピュシスもまた新しい言語を求めているはずです。一旦ロゴスの極北まで行ったうえでピュシスを語ることで、新しいパラダイムが生まれ出るのではないでしょうか。
》後編:人間を人間たらしめる「センス・オブ・ワンダー」を取り戻す:生物学者・福岡伸一
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