織田信長が開拓した薬草園の地。いまも残るお茶の在来品種から生まれた「藝術茶」をたずねて

川崎絵美

ここは織田信長が薬草園を開拓したことでも知られる岐阜県の霊峰・伊吹山麓。

日本でも珍しく地域全体が無農薬栽培の茶畑があると聞き、この地を訪れた。岐阜県揖斐郡揖斐川町にある春日の地は、760年におよぶ茶栽培の歴史を持つ。

緑茶など茶の原料であるチャノキの在来品種は、日本に約3%しか残っていないとされる。その希少な在来品種を、化学肥料を一切使わずに自然栽培で育て、手ぎり、手揉みで作られた茶葉が、「春日茶」だ。

春日薬草店の創業者、増元直人さんは、岐阜の地で生まれ、花火師として各地で活躍。現在はアーティストとして、歴史ある伊吹山麓から日本や世界を見つめている。

彼はなぜ故郷で春日薬草店を始めたのだろうかーー。

生死を彷徨った先に、お茶があった

増元さんは高校卒業後、花火師として活動してきた。

小さな頃から「火薬に惹かれた」という増元さん。図書館に入り浸っていた子ども時代、手にとった一冊の本がきっかけで火薬の製造業に興味を抱いた。夢中になって本を読み、火薬の知識を深めていった増元さんは、いつしか花火師の夢を描くようになった。

「気づけば、自分の中で表現したいものが花火になっていた。花火は、火薬などの軍事産業の“平和利用”だと思っています」

若くして、国内外を飛び回り、花火師として経験を積んだ増元さん。アメリカ・ネヴァダ州で開かれる伝説のフェスの日本版「バーニングマンジャパン」で花火を打ち上げるなど、アーティストとしても活躍の幅を広げていった。

しかし、思わぬ困難が待っていた。若くして大病を患い、救急搬送され集中治療室で、何日も生死を彷徨ったのだ。

それから導かれるように、お茶の道を進むことになる。田舎で生まれ育った増元さんは「お茶との出会い」はなく、見渡せば「そこにお茶があった」と話す。

薬草は、この地域ではごく身近な存在だ。各家庭の常備薬として乾燥した薬草がある。

傷口に薬草をあてる。咳が出たらタイム入りの薬草茶を飲む。増元さんが、お茶を「家族の薬箱のような存在」と表現するように、幼い頃から、を養生として、薬草をブレンドし、お茶として飲む習慣があった。

「病気で花火師を続けられなくなってしまったことは、人生を揺るがす出来事でした。でも、お茶が自然と自分に“降りてくる”感覚がありました。火薬もお茶も、本来は“薬草”なので、実はつながっていたんだと気づいたとき、僕の次なる表現はお茶だと確信しました」

織田信長は、ポルトガルの宣教師から、病を治す薬草について教わり、伊吹山に薬草園を開拓した。一説には、鉄砲火薬の原料となるヨモギなどの薬草栽培も目的であったと伝えられる。

火薬から薬草へ。増元さんは、そうした歴史に偶然とは思えない因果を感じたと話す。

荒れていた茶畑を継ぐ

それから6年。増元さんは、譲り受けた春日の茶畑と向き合っている。

「ここはもともと手入れされていない荒れた畑だったんです。でも貴重な在来品種のチャノキが今も残ってる。いま日本茶は品種改良された『やぶきた』が主流になっていますが、伊吹山麓の春日地区は、最も多く在来品種が残る地域。僕がやりたいと名乗り出て、この畑を引き継ぐことにしたんです」

在来品種のチャノキは、茎や根が太く長いことが特徴。大地に深く根を伸ばし、自然の恵みからくる栄養分をたっぷり蓄えて育つ。

静岡など多くの茶畑では、均一に切り揃えられたチャノキが規則的に並び、整えられているが、春日の在来品種の茶畑は不揃いで、だからこそ植物の創り出すラインに心が奪われる。

化学肥料を使わないため生産効率は決して高くないが、土地の環境によく適応していて、冬場でも雪の下に埋もれながら生き続ける力強い生命力がある。

春日村のお茶は、ブレンドすることで香り付けになる「種茶(たねちゃ)」として用いられることが多い。

化学肥料を使わないため、ほかの地域と比べると「甘み」こそ劣るが、「香り」は深い。「春日の茶を混ぜないと香りが立たない」と京都をはじめとする全国の茶師から称され、種茶を卸してきた歴史があるという。

「京都は茶匠(ちゃしょう)、岐阜は茶商(ちゃしょう)とよく言われています。かなり昔に、春日薬草店の仲間の祖父が茶商をしていたのですが、当時の名刺や帳簿を見ると、取引先は京都のお茶屋さんが多いようでした。今も残っている資料から、この土地のお茶の歴史がわかります」

伊吹の水で淹れるお茶

茶畑に向かう途中、増元さんは必ず海戸神社に立ち寄る。氏神や先人たちに敬意と感謝を込めて、参拝する。まるで、この土地と彼の心を通わせる儀式のようでもあった。

水もその土地の味わいを生む要素のひとつ。増元さんは、いつもこの場所で伊吹山の湧水を汲んで茶園に向かうという。

近くにある自然公園には、天然の苔のじゅうたんが広がっていた。苔の柔らかさが、靴底からも伝わってくる。山合いに立つ公園に寄り添うように流れる清流の音も心地よい。

ここで、増元さんは静かにお茶を淹れてくれた。

この日のお茶は、春日薬草店の「千年美人」。貴重な在来品種の中でも、生産数の少ない秋摘み茶だという。

秋摘み茶は旨味が濃厚で、地域でも健康にも良いされてる。実際の成分も、市販の茶と比較しても旨み成分のテアニンが約2.4倍、アミノ酸の一種でリラックス効果があるとされるGABAは約60倍も含まれている。カフェインは約5分の1に留まるという。

ふかふかの苔の上に敷いた畳のゴザに座り、山々と青空を眺めながら、そして清流の音を聴きながらいただくお茶。滋味と旨味が、心と体に染み込んでいった。

増元さんは、表現としての茶を探究しながら、同時にビジネスの視点もあわせ持つ。

例えば、伝統ハーブティーとして販売する春日薬草店のお茶は、茶葉ではなくすべてティーパック。水出しにも対応するなど、現代のライフスタイルに寄り添うラインナップだ。

「僕なりにお茶の価値を高める努力をしてきました。ビジネスとして客観的に捉えることも生産農家にとっては大切なことです。アバンギャルドでいたいからこそ、やることをしっかりやって儲けたいという思いはあります」

「でも僕は経営のプロではないので、事業を始めた当初は先輩たちに教わることが多かった。たぶん見ていて危なっかしいのでしょうね(笑)。助言をくれたり人を繋いでくれたりする人たちが周りにいるおかげで、今があります」

お茶を「表現」する仲間たち

では、増元さんにとって、表現したいお茶とはどんなものだろうか。

「お茶の生産者のほか、選別・焙煎・ブレンドして味を調え仕上げる茶師がいて、最終工程にはお茶を淹れるプロがいます。この三つ巴で茶の藝術完成するんです」と増元さんは話す。

増元さんは、ともに茶の芸術に挑戦するふたりの仲間がいる。

ひとりは、増元さんが茶と向き合い始めた頃に出会った後藤大輝さん。茶を淹れるスペシャリストで、同じく春日の地で代々茶業を営む茶商の後継でもある。

Photo: 春日薬草店

増元さんは、彼が淹れるお茶のあまりのおいしさに感動し、自分でおいしいお茶を淹れる努力を手放したという。大輝さんに、表現したい“藝術としての茶”の世界観を伝えると、共感し、ともに作品をつくっていくことになった。

大輝さんは、東京と故郷・春日の二拠点で活動。墨田区では、まちを題材にした映像作品を手がけ、まちとアートを融合したイベント「すみだ向島EXPO」を開催するなど、文化活動にも取り組んでいる。

さらに、藝術茶を探求するには、思想が共有できる茶師が必要だーー。そうして後藤大輝さんが推薦したのが、天才と称される茶師・後藤潤吏(ひろさと)さんだった。

潤吏さんは、愛知県豊橋市にある有機栽培茶農家ごとう製茶の4代目。「国産紅茶グランプリ」にて2年連続グランプリを受賞する活躍ぶりだ。

潤吏さんは、茶農家に生まれ育ち、家業として高品質の茶の開発と向き合ってきたが、藝術としてのお茶を追求する表現者に出会ったことはなかった。

左から、後藤潤吏さん、後藤大輝さん、増元直人さん。Photo: 春日薬草店  

2017年、こうして3人は出会った。ふたりの後藤との出会いによって、増元さんが思い描いていた「藝術茶構想」が動き出した。「大きな転機となった」と増元さんはふり返る。

8年かけて熟成させる「藝術茶」

そうして、3年がかりで生まれた藝術茶が、この「団茶(だんちゃ)」だ。

円盤状に固めた茶葉を、8年もの年月をかけて熟成させる。プーアール茶から着想し、茶師の潤吏さんが、熟成の過程と香りや味わいを緻密に計算して春日の茶葉をブレンドしたという。ひとつ8万円の値をつけた。

団茶に湯を注ぐと、ゆっくりと時間をかけて茶葉が開いていくーー。1カ月に渡って団茶を味わい続けた人もいるという。日本の茶時間の概念を大きく揺さぶる作品だ。

2020年2月、近しい人だけを招いて東京で披露イベントを開くと、「団茶」は国内外の参加者から高い評価と熱狂を受けた。あるフランス人シェフは団茶を「まるでブルゴーニュのワイン」と驚き、台湾人もその深い味わいに酔いしれた。

藝術茶は、土地や茶葉と向き合い、そのお茶に合った形状やブレンド、そして淹れ方を新たに創造する。つまり、その土地そのものの味を藝術茶で表現しているのだ。

「この団茶で、(世界最古の国際競売)『ササビーズ』への出展を目指す」と、増元さんらは前を向く。

「ワインの世界では、土地に根ざした製法をテロワールと呼びますが、お茶の世界でも共通している概念。ふたりと各地のお茶を探究していけば、きっと面白い化学反応が起きるはず」

Photo: 春日薬草店

披露イベントでは、団茶をプリントしたTシャツも展示。茶の世界とは一見ほど遠いストリート・アート的なアプローチに来場客も沸いたという。Tシャツを購入することで、藝術茶を応援することもできる。

「藝術茶」の定義

2017年、藝術茶のプロジェクトを本格始動させたときに、3人は藝術茶を下記のように定義づけた。

藝術茶の定義
1.人を超える 人が明確であること
2.時を超える 経てきた時に意味があること
3.土地を超える その土地に根付く文化があること
4.関係を超える 土地に持続的関係性があること

「茶園の4代目でしっかりとした“型”がある後藤潤吏、“茶を淹れるプロ”の後藤大輝、自分はベースとなる場を“整える”ことが仕事です。それぞれの持ち場を守りながら、垣根を超えて表現することを最初に決めたんです」

団茶は、あくまで藝術茶の作品のひとつ。これからも各地のお茶や土地との出会いによって、さまざまな表現が生まれていく。日本世界の茶を探求する彼らの挑戦はつづく。

オリジナルの団茶についても、増元さんは「僕らの作品でもあるのですが、フリーライセンスとして、いろんな生産地の人たちに作ってもらえたらいいな」と話す。

一般的に、藝術の世界では表現者の感性こそが作品の要。フリーライセンスとは相反するように感じられるが、彼には独自のお茶の哲学があった。

「日本茶の歴史は、空海が中国から日本に茶種を持ち込んだことから始まりと言われますが、僕は、お茶は“通信”のようなものだと思っているんです。昔から暮らしの中にあって、人と人を繋ぐインフラでもあり、思いを届けるメッセージでもある」

現代の茶の湯とは

失われつつあるお茶や茶文化を、後世に残したい気持ちで取り組んでいるのだろうか。増元さんに問うと、「文化継承を背負う気持ちはない」と口にした。

「花火に惹かれたように、僕は消えて無くなるものが、ただただ無性にやりたくなるんですよね。茶畑や茶文化を後世に残したい、という思いもどこかにはあるけれど、それは腹の奥にしまって。ただ面白いこと、表現したいことを夢中になってやっているだけです。大人が楽しそうにしていたら、次の世代も勝手に興味を持ってくれるんじゃないかな」

花火もお茶にも、消えて無くなる儚さがある。彼がアーティストとして表現してきたものには、実は共通点があった。

増元さんは今後、お茶をどのように表現し進化させていくのだろう。

「千利休のおかげで、飲料としての茶だけではなく、茶の湯という空間が注目されたように、お茶にはまだまだポテンシャルがあると思っています」

では現代にマッチした「茶の湯」とは何か。すると意外にも「お風呂」と即答。

「“茶の湯に浸かる”ってなんかいいじゃないですか。お茶は無限の可能性があります。飲むことだけにとどまらず、もっと五感で楽しめたらいい。人の心と心を通わせる、日本独特の茶の湯文化を、世界中の人に楽しんでもらいたい」

実は春日茶と薬草をブレンドした入浴用のプロダクトを開発したという。昔ながらの銭湯やサウナがブームになるなか、「茶浴」は、茶の湯文化をアップデートする機運になるかもしれない。

増元さんは、岐阜の最西端である春日地区を「始まりの地」と呼ぶ。

地元で“龍の住む山”と伝えられてきた伊吹山に、大自然の香りを乗せた風が吹き抜ける。ふと茶畑から空を見上げると、龍の形をした雲が浮かんでいた。

茶の世界を探究し続ける彼もまた、辺境の地から革新を生み出す表現者であった。

(写真:江藤海彦)

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編集者

お茶どころ鹿児島で生まれ育つ。株式会社インプレス、ハフポスト日本版を経て独立後は、女性のヘルスケアメディア「ランドリーボックス」のほか、メディアの立ち上げや運営、編集、ライティング、コンテンツの企画/制作などを手がける。

Editor
編集者

『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。

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カメラマン

ひとの手からものが生まれる過程と現場、ゆっくり変化する風景を静かに座って眺めていたいカメラマン。 野外で湯を沸かしてお茶をいれる ソトお茶部員 福岡育ち、学生時代は沖縄で哺乳類の生態学を専攻