東京で働いていた僕らが、タイでの電気のない暮らしを経て、茶農家になるまで

小久保 よしの

奈良県奈良市の東部に、タイから移り住んで茶業を営む一家がいる。黄金井ヒデさん、あすかさんだ。

ふたりは東京でのクリエイター生活を経て、2005〜2013年春までタイ北部のパイという町にある日本人コミューン「ムーンビレッジ」に住んでいた。そこは電気や水道がなく、日々の営みの多くを自分たちでなんとかする暮らしがあった。

「旅人仲間が、茶器を持って旅していて、かっこよかったんだよ」

ヒデさんは、お茶との出会いをそう語る。

彼らのタイでの暮らし、そして奈良に住まいを持ち、茶農家になるまでの歩みを紹介しよう。そこには“現代の百姓”のヒントがつまっていた。

それまでの常識や価値観が崩れた、タイのコミューン

そもそも、どうしてタイで暮らしていたのか。お茶を焙じる小屋でヒデさんに訊ねると、東京で働いていた当時のエピソードを教えてくれた。

「僕が原宿のカフェバーで働いていたときに、カメラマンだったあすかちゃんと出会ったんだよね。彼女が仕事でタイへ撮影に行ったとき、タイ国際航空の懸賞に応募したら当選したらしく『ヒデにお土産がある!』って航空チケットをくれて(笑)」

ひょんなことから手にしたチケットで、かねてから興味を持っていた「ムーンビレッジ」を訪ねたことが人生の転機になった。あすかさんはこう話す。

「すごい魅力的だったんよ。『ムーンビレッジ』の人たちは井戸を掘って生活用水にしていたり、薪を使って毎日ご飯をつくったり、ごみも土に還せるものは還したり。当たり前のようにそんな暮らしを営んでいて、『何ここ!? こんな人たちいるんだ!』って」

それはヒデさんも同じ思いだった。

「かっこよかったよね。それまで東京で感じていたかっこよさと全然違う、自分の力を使って自分の命をきれいに燃やすかっこよさで。魅力的なおじさんたちがいっぱいいて『こんな人たちいるんだ、すげーじゃん!なりたい!』と思った」

朝起きて井戸で水汲みする小屋暮らし

ふたりはその旅で数カ月かけてインドやネパールも巡り帰国したが、「ムーンビレッジ」での日々が最も強烈だったらしい。

米づくりも手がける「ムーンビレッジ」の住人たちに言われた、「稲刈りのときにまたおいでよ」の言葉を胸に、2年後にふたりはパイの地を再訪する。

「滞在中、いろんな人に出会って毎日楽しんでいたら、メインの住人が長期で出かけることになって、『うちを使っていいから留守番してくれない?』と言われたんだ。『まじで? 楽しそう!』とすぐに思った」

「井戸を掘ったり、朝ほうきで道路を掃いたりする。そんな暮らしが美しいと思って。それで『ムーンビレッジ』に住み始めて、“旅”から“暮らし”にシフトしていったんだよね」

穏やかに、ヒデさんはふり返る。

後に、ふたりは結婚し、あすかさんは長男を出産した。当時住んでいた家はなんと高床式の小屋で、柱は木、壁と床は竹、屋根は葉っぱだったのだそう。

朝起きたら、まず井戸で水汲みをし、焚き火でコーヒーを淹れ、料理をし、川で洗濯し、庭にある畑の野菜やバナナなどのフルーツを食べる。そして、電気がないので日が暮れたら早くに眠る。

「不自由に勝る、豊かな暮らしだった。今思い返してみても、毎日が刺激的で美しい景色が蘇る」

力強く、あすかさんは話す。

茶器を持って旅する友達の言葉

現在ふたりが暮らす奈良や、お茶との縁の始まりは、生活のための仕事がきっかけだった。ヒデさんはタイで仕事をしておらず、日本に帰ったときに一定期間、仕事をしてお金をつくり、タイに戻ってそのお金がなくなるまで過ごす往復生活をしていた。

「はじめは東京で日雇いバイトをしていたけど、それを続けるにはアパートを借りないといけなくて。タイ暮らしをしている僕には敷金・礼金は無駄じゃないか? と感じて」

そんなとき、ヒデさんは周囲の旅人たちの多くが、住み込みの季節労働をしていると知る。例えば、北海道の鮭の加工処理、沖縄の製糖工場など全国各地にアルバイトがあると教えてもらった。

「奈良市田原地区の製茶工場でバイトしていた旅人仲間の友人から『一緒にやらない?』と誘われて、東京にいるよりいいなと単身でやって来たのが、奈良とお茶との出会い」

いろいろな仕事があるなかで、ヒデさんは何よりお茶の仕事を「おもしろい」と感じた。

「僕を奈良に呼んでくれた旅人仲間が茶器を持って旅していて、かっこよかったんだよ。カゴに好きなお茶が何種類か入っていて『今日はこれ飲んでみるか』って選んで、どこでも気軽に淹れる。なんてゆとりがあるんだろう、こんな大人いいなって」

「製茶工場で自分が関わったお茶を試飲したら、すごくおいしくて。楽しい仕事だと感じた。さらに、お茶が日本でどう始まったかという歴史を知って、ますますお茶は奥深いなと」

お茶は奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されている。奈良では806年、弘法大師が唐からお茶の種子を持ち帰り、お茶の製法を伝えたことが奈良のお茶である「大和茶」の起源とされている。

限られた人だけが飲める貴重品だったお茶は、その後、良薬でもあるとされ、全国で栽培されるように。ヒデさんはそうした文化にも魅せられたのだ。

少しでも美しい茶畑を残したい

製茶工場で茶農家と話す機会が増えたヒデさんは、昔の好景気だった時代や茶業の現状の話を聞いた。

「みんな一生懸命に頑張っているのに業績が悪くなっている、と。僕なりに考えて『こうしたらどうですか?』『無農薬でやるしかないのでは?』と提案してみたけど『でけへんねん』と言われたから、じゃあ、自分でやってみよう。楽しみを見出して探究してみよう! と」

「タイで培ったものを大事にしてどう生きるか考えたとき、お茶に縁があった。毎日飲食するお茶とお米くらいは無農薬で育てた良いものを口にしたいし、家族や近しい人にも提供したい。お茶づくりに携わるのはちょうどいいじゃん! って」

また、日本の原風景とも言える美しい茶畑の景色に魅了され、「これを残していきたい」と考えたことも、本格的に茶業に踏み出す理由になった。

茶農家の高齢化による廃業などで、全国の茶畑の一部は荒れ始めている。

「せめて少しでも美しさを残したい」

ヒデさんは2年目からあすかさんたち家族を奈良へ呼び寄せ、みんなで住む家も借りた。タイと奈良を往復する2拠点生活が始まったのだ。

お茶の探究も始めた。まずは製茶工場で関わった茶葉から、特に気に入った“かりがね”(茎だけを選別した茶葉)を仕入れ、お茶を焙じる業者に焙じてもらい、オリジナルのかりがね焙じ茶を販売し始める。

無農薬の自然農法によるお茶づくり

タイの暮らしには満足していたものの、長男の「日本の小学校へ行ってみたい」という言葉がきっかけで、ふたりは帰国を決意する。

こうして2013年春、奈良の家に定住するため一家は帰国した。

「タイのヒッピーのような暮らしから突然日本の小学校に入るって、(長男は)どんな気持ちだったんだろう。しかも帰国したのは、小学校の入学式のわずか一週間前だったからね」

そう言って笑い合う、ヒデさんとあすかさん。自らの感性を大切にしたマイペースで肩肘を張らない生き方は、その後、奈良でも存分に発揮されていく。

ヒデさんは帰国したその年、茶農家として独立する。高齢で茶業を辞める人が「おまえやらへんか」と声をかけてくれ、茶畑を借りることになったのだ。

「最初のかりがね焙じ茶は、茶葉は自分で育てたものではなく、農薬を使った慣行農法によるものだったから、心から自信を持って人に勧められない感じがあって。自分で育てるんだったら、良いものをつくりたかった」

こうして、無農薬の自然農法によるお茶づくりを始めることにしたヒデさん。あすかさんはパッケージデザインなどを手がけ、茶摘みなども手伝うことに。

ヒデさんが茶畑に選んだのは、前年まで農薬や肥料が使われていた畑ではなく、あえて何年か放置されているような、背丈以上にお茶の木が伸びている土地だ。お茶の木を短く刈ることから始め、あるべき茶畑に整えていった。

それから、あっという間に8年。現在、ふたりは自分たちで茶葉の栽培から製茶までを手がけ、屋号『あさひや』として、「おやこほうじ」と「こがネいろ」という2種類の商品を販売している。

また、タイで培った「何でもなるべく自分たちでつくる」がモットーのふたりは、お茶づくりのみならず、暮らしづくりも楽しんでいる。

野菜、ベーコンなどの加工品、味噌などの調味料づくり、狩猟・解体や釣りで得る肉や魚、そして家具や食器、住まいのDIYなど。あすかさん曰く、「暮らしづくりは人生を賭けた遊び」なのだそうだ。

お茶をゆっくり飲む“ゆとりの時間”を

ふたりはお茶の時間を、どう感じているのだろう。あすかさんはこう言う。

「うちに誰かお客さんが来ると、必ずお茶を淹れてみんなで飲むし、お茶を介して人とつながれるから、お茶はコミュニケーションツールの一つ。よく『お茶しに行こうよ』と言うじゃないですか。お茶の時間は、人との交流ができる時間。それって、いいよね」

ヒデさんは次のように答えてくれた。

「やっぱり旅先とかで気軽にお茶を淹れることが有意義で、時間を大事に使っているように感じる。今の世の中、もう少しそういう時間を取り戻したほうがよくない?」

「前にお米を育てたとき、栽培場所や品種によって味が違うんだと気づいて。それまでは『白米は白米』だったけど、違いを感じられた。素材ができるプロセスに関わったら、自分が変わってくる。お茶も全く同じだった。そんなことを感じられるなんて、自分のなかにゆとりができたなって思う」

「そういうゆとりが、昔はいっぱいあったんじゃないかな」とヒデさんはつぶやいた。

「この前、友達から『退行的進化論』という言葉を教えてもらった。世の中はいろんなことが発達してきたけど、限界がきてるのかもしれない。後退的な、ちょっと昔の地球に沿った自然な生き方ができたら、お茶をゆっくり飲むゆとりの時間をもつことができるんじゃないかな。それこそが、僕が考える“進化”。みんなに、気軽にお茶を楽しんでほしいから、お茶をつくり続けたい」

自分たちのペースでお茶や暮らしをつくり、全国にお茶を届ける黄金井夫妻。私たちがもっと気軽に誰かとお茶を愉しみ、味の違いを感じられるようなゆとりをもって“進化”できるように——。ふたりのお茶づくりは、これからも続く。

後編 》 親子で毎日飲める、ハレの日に味わう。奈良で出会った、365日に寄り添う2つのお茶



(写真:川しまゆうこ)

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Author
編集者 / ライター

編集者・ライター。2003年よりフリーランス。専門はローカル・ソーシャル分野と医療分野。雑誌『ソトコト』やwebメディア「Through Me」などで取材・執筆をしている。担当書籍は『ライク・ア・ローリング公務員』福野博昭、『コミュニティナース』矢田明子(ともに木楽舎)など。2017年、東京から奈良へ移住。毎年奈良県内で一般向けの編集講座「編集のきほん」も行っている。

Editor
編集者

『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。

Photographer
フォトグラファー

若いころは旅の写真家を目指していた。取材撮影の出会いから農業と育む人々に惹かれ、畑を借り、ゆるく自然栽培に取り組みつつ、茨城と宮崎の田んぼへ通っている。自然の生命力、ものづくり、人の暮らしを撮ることがライフワーク。