嗜好品を、最先端の科学はいかに分析し、創造することができるのか。
認知科学、脳科学、心理学など一線で活躍するサイエンスの研究者が読み解く、連載「嗜好を科学する」をお届けする。
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私たちは、生身の身体こそが、自分の日々をつくり、人生を形成していくものだと考えている。
しかし今、この常識が大きく変化しようとしている。
今回は、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)の南澤孝太教授を訪ねた。
南澤教授は、デジタルテクノロジーによる身体拡張、いわば「もうひとつの身体」を研究する。この身体は、私たち自身の経験や考え方、さらには能力すらも拡張し、人生の価値を大きく変える可能性があるという。
この「もうひとつの身体」は、新しい嗜好体験すらも実現するのかもしれない。
嗜好品
栄養分として直接必要ではないが、ひとの味覚。触覚、嗅覚、視覚などに快感を与える食料。飲料の総称。
茶、コーヒー、たばこ、酒、漬物、清涼飲料、氷などがこれで、有機酸、カフェイン、タンニン酸、コカイン、アルコール、苦味物質、揮発油成分を含むものが多い。広い意味では菓子類も含む。
ブリタニカ国際大百科事典
(取材・文:森旭彦 写真:西田香織 編集:笹川ねこ)
身体の“境界線”を再構築する、触覚のデザイン
――身体拡張とはどのような研究なのか、教えて下さい。
身体拡張は、人間が身体を通じて得る経験や行動の可能性を拡げる研究です。その中で私たちの研究チームが探求しているのは、主に「質的」な身体拡張です。
身体拡張というと、「量的」な拡張を想像すると思います。
たとえばひとより速く走れたり、重いものが持てたりする技術の開発ということです。こうした拡張は昨今の科学技術の進歩で数多く実現されてききました。
しかし現在、量的な拡張だけではなく、「質的」な拡張について探求する研究者が増えてきました。つまり、身体を拡張することで、どれだけより豊かな感性や経験をすることができるのか、ということです。
私たちはこの生身の身体を通し、視覚、聴覚をはじめとした、さまざまな「感覚情報」を得て生きています。それらの感覚情報をデジタルテクノロジーとつなげることで記録し、共有し、拡張し、そして新しく創造することができます。
私は感覚情報の中でも、主に「触覚」の情報をデジタルテクノロジーと繋ぐことを探求してきました。「触れられる」というのは、身体の質的な拡張にとってとても重要な感覚だと考えられるからです。
――触覚は、どうして身体の質的な拡張に重要なのでしょうか?
皮膚にある触覚は、普段はあまり気づかないのですが、私たちの「世界」の内と外を隔てている、つまり境界を認識するための感覚です。
この境界を、デジタルテクノロジーを使ってデザインすること、たとえば境界をより明確にすることで、自分の内の世界を強く認識することができます。
『注文の多いからだの錯覚の研究室』こと名古屋市立大学小鷹研究室による錯覚「スライムハンド」。伸びるスライムを見ていると、壁の向こう側で指が引っ張られたときに指まで伸びているように感じる。
また、この境界を非常に曖昧にすれば「世界の中に自分が溶けていくような感覚」を他人と共有することができるようになります。
デジタルテクノロジーによって触覚をデザインすることを「ハプティックデザイン」と呼んでいます。
ーーハプティック(触覚の)デザインにはどのようなものがありますか?
たとえばKMDがNTTドコモや名古屋工業大学と共同開発している「フィールテック™」は、振動するデバイスによって、触覚を共有するテクノロジーです。
聴覚情報の場合、マイクで音をとって、スピーカーで音を再現することで人と共有できますよね? それと同じように、人が楽器を弾いたり、なにかに触れたりしたときの触覚情報を振動によって記録し、振動で再生するというデバイスです。
現在は映像と連動したコンテンツの体験を通して、琴の演奏や、抹茶を点てるような繊細な触覚を共有することを実現しています。
また、視覚障害者の方々の触覚の世界を共有するような体験もできます。
――「さわっている」感覚は、自分の行為として認識しやすいと思います。当事者や専門家でなければ分からない感覚を共有できるのは興味深いですね。
つまり私の探求は、人との関係性を変化させる感覚として、触覚を捉え直せないかということなのです。
一般的には、触覚の提示はものの質感を伝えることだと考えられます。
しかし実際には、自分の存在を感じたり、情感や情動という、複雑な関係性を構築するために、私たちは触覚を使っています。
e-Rubberという特殊なゴム素材を駆動することで、右の人の脈動を、緑の風船を通じて感じることができる。KMDと豊田合成株式会社との共同研究により開発された
――フィールテック™のような技術によって今後、私たちの日常生活はどのように変わる可能性がありますか?
私たちは現在、スマートフォンによってさまざまな体験を共有しあって生活しています。しかしスマートフォンだけを使うライフスタイルはいずれ変わっていくだろうと考えています。
たとえば、ずっと身体につけていられる指輪のような振動デバイスが生まれているように、それを主流に使いたいという人もいると思います。フィールテック™はそんな「ポストスマートフォン」のデバイスのひとつになるのではないかと思っています。
VRで、人間が“鳥の翼”を持ったら…
――触覚を含む身体拡張は、私たちの日常をどのように変えていくのでしょうか?
身体拡張によってもたらされる経験は、仮にそれがVRであろうとも、私たちの生身の身体へと働きかけ、私たちの思考を変化させます。
拡張された身体というものは、人を変える「もうひとつの身体」なのです。
すでにVRの研究ではさまざまな報告が出てきています。
たとえば、VR空間の中で、ビルなどの高いところに行き、下を見下ろすと、本当に怖いです。高層ビルの屋上などにある、観光目的でつくられたガラス張りの床などに行くと足がすくむのと同じです。たとえVRだと分かっていても、私たちの身体は現実と同じように強い不安を感じるのです。
VR空間にある身体は、生身の身体同様に、私たちに感覚的な影響を与える「もうひとつの身体」なのです。ここでVR空間の身体に「拡張」を施します。
ーー生身の身体にとどまらず、拡張していく。イメージしづらいですが……。
私たち人間は、ノーマルの状態では翼を持っていませんが、VR上では翼を生やすことができます。つまり鳥をVR空間における自分の身体にすることができるのです。
――鳥になったことがない人でも、鳥のように高い場所を怖れずに飛べるんですか?
鳥やドラゴンなど、飛べる生き物になることで、私たちはVRの中で「自分は飛ぶことができる」という認知を得ることができます。すると、不思議なことに高いところにいる不安が和らぐことが分かってきています。
――VR上で鳥の視点を獲得したことで、高所への恐怖心が和らいだんですね。
さらに他の例では、VRを使うことでDV(家庭内暴力)をしてきた男性の加害者の更生を試みる実験(※2)もあります。
VR上の実験は、DV加害者の男性が、DV被害者の女性になるというものです。つまり、女性のアバターで、虐待の被害を追体験させたのです。これにより、男性側が認識できていなかった女性側の主観的な体験を認識し、男性側の行動の抑制につながることが示唆されています。
このように、VRの中でアバターという「本来の自分とは異なる身体」を持つことが、人の「自分」というものに対する認知の拡張を生み出すことが明らかになってきました。
「新たな自分」の認知が、「現実の自分」を変える
――触覚を用いた身体拡張は、どのように創られるのでしょうか?
触覚に限らず、私たちは普段「身体所有感」(ボディ・オーナーシップ)と「行為主体感」(センス・オブ・エージェンシー)の両方が満たされることによって、自分と行為の関係を結びつけています。
身体所有感は、“身体が自分のものである”という感覚のこと。行為主体感は、“自分が行為を主体的に行っている“という感覚を指します。
視覚と触覚が同期していると、身体所有感と行為主体感が生まれます。つまり自分の身体が、自分の意図する通りに動いているのを目で見て、意図した行為を実際に行っていることを触覚で確認できるような場合です。
身体がなにかにぶつかるのを見て、ぶつかったことを皮膚で感じる。手を伸ばして取ったものを手に持っていると感じる、といったことがそうです。
この視覚と触覚の同期を意図的に切り、置き換えることで、特殊な感覚を生み出すことができます。
――錯覚、ということですか?
きっかけとしては錯覚です。ただ重要なことは、身体所有感と行為主体感が保持された新たな自分の認知を、意図的に生じさせているということです。
新たな認知が生じることで、それがたとえ自分、あるいは自分の身体でなかったとしても、自分であり、自分の身体になると感じます。
その身体によって得た経験を自分のものとして、現実の自分を変えてしまうことができるのです。つまり自分というものを(実態を伴わない)「概念」として扱うことができるようになります。
自分の精神状態をオーラで可視化する
――身体拡張によって、どのような嗜好体験を生み出すことが可能でしょうか?
仮に嗜好体験を、「非日常的な体験によって、日常の自分を変革していくようなもの」と捉えたとき、実は私たちもすでにそうした体験の実現に向けた研究を進めています。
たとえば、こちらの Transdential Avatarという研究(※3)では、自分の情動を客観的に見ることで新しい瞑想体験ができるVRを開発しています。
ヘッドマウントディスプレイを装着すると、外部のカメラで捉えられた自分自身が映し出されます。その周囲には、なにかオーラのようなものが見えます。
このオーラは自分自身の精神状態を、手の発汗と心拍数から得られる数値によってビジュアライズしたものです。
日常生活で自分自身の状態を客観視することはなかなか難しいですが、生理的なデータからビジュアライズされた自分を外から見る体験をすることで、新しい自分の捉え方が見つかるかもしれません。
またEnhance社と共同で、全身にわたる触覚刺激と聴覚を通じて、人に何らかの心象風景を想起させられないか、つまり視覚のない、触覚と聴覚だけでVR体験を作り出す研究をしています。
Enhance社が開発した、Synasthesia X1-2.44 という、44個の振動子から成るリクライニングチェアに座っていただき、目を閉じて、誰かがどこかを歩いているような音やその周りの環境の音とともに、肩や背中、足など全身にわたる触覚を与え、その世界に没入してもらいます。
このVRの中で、体験者はさまざまな心理的な体験をします。ある人にとってそれは過去の自分を回想するような旅であり、またある人にとっては日常に現れた非日常のような体験です。
ーー人によって体験が異なるのですね。
興味深い点は、これらの体験は、体験者の日常を少し変えてしまうということです。
VRは、ここにある現実とは異なるが、現実と同等の効果を持つ、「もうひとつの現実」なのです。仮に異なる現実であったとしても、それは人の思考を、生活を、そして人生を少し変えてしまいます。まさに嗜好体験と言えるのではないでしょうか。
後編:全員が“感動”するコンサートは創れるのか。アバターが生み出す究極の嗜好体験:KMD・南澤孝太
※1 https://www.jstage.jst.go.jp/article/tvrsj/25/1/25_2/_article/-char/ja/
※2 https://www.nature.com/articles/s41598-018-19987-7
※3 https://dl.acm.org/doi/abs/10.1145/3550082.3564210