京都御苑の西側、閑静な住宅地に、一軒の風流な日本家屋がある。
江戸中期の儒学者・皆川淇園(みながわ・きえん、1734~1807)が設けた私塾「弘道館」ゆかりの地に明治期に建てられた「有斐斎弘道館(ゆうひさい こうどうかん)」だ。
上長者町通に面した門をくぐり、石畳を進む。ていねいに手入れされた庭と、大きな町家が目の前に現れる。
外界から遮断され、しんと静まりかえった空気――。
庭の飛び石に誘われ歩を進めると、そこは茶室の入り口だ。
点前座では、京菓子「老松」(おいまつ)の当主、太田達(おおたとおる)さんが私たちを迎えてくれた。
抹茶をふるまう茶道——いわゆる「お茶」は、日本を代表する嗜好品のひとつだ。
ドイツW杯では現地でサッカー界のスターデビッド・ベッカム、京都を訪れた元世界ランキング1位のテニスプレイヤー、ロジャー・フェデラーをはじめ海外の著名人にもお茶をふるまい、その文化を伝えてきた太田達さん。
博覧強記の茶人は、どのように歩み、いかに「お茶」という嗜好品と嗜好体験をとらえているのか。DIG THE TEA編集部は有斐斎弘道館をたずねた。
(取材・文:吉川慧 写真:川しまゆうこ 編集協力:笹川ねこ 編集:呉玲奈)
茶人、工学博士、大学教授。博覧強記の「数寄者」をたずねて
「老松」は、茶道で使われる格式高い上生菓子を扱う専門店で、創業は1908年(明治41年)にさかのぼる。
そんな京菓子店の当主のみならず、太田さんはさまざまな顔を持つ。工学博士の学位を持つ研究者でもあり、大学の教壇にも立つ。茶道の動作を科学的に分析した論文も発表している。
そして、有斐斎弘道館の理事として保存に携わりながら、国内外で茶会を催し、茶道の魅力を伝える茶人でもある。
「数寄者(すきもの)」という言葉がある。
風流人、とくに茶の湯を趣味とする人をさす言葉だ。
太田さんは、古今東西の文化にくわしい博覧強記の数寄者として、異彩を放つ。
伝統文化から先端科学まで幅広い領域に通じる姿は、詩歌や書画に通じながら「開物学」という独自の学問を創設し、有斐斎弘道館を開いた皆川淇園の姿にも重なる。
京菓子と茶――。
嗜好体験と強く結びつく日本の伝統文化を守り、伝える活動への思いを聞くと、太田さんは朗らかにこう話す。
「いやいや、そんな高邁な考えは持っていないですよ。僕はね、『こういうことができたらいいな』と言われたことをやっているだけ。家業の老松だってそう」
「嗜好品だって、結局はその人の味の好みでしょう」
「お茶の道具だって、高いか安いかなんて関係ない。僕は100円ショップで買った道具だけでお茶をやったことがありますが、そういう試みが大好き」
太田さんは続ける。
「お茶も菓子も、結局はそれらを構成する要素の組合せ。それがわかれば、より楽しくなる。要は教養とインスタレーションやね」
伝統も歴史も、軽やかに解釈をし直して、その魅力を世界に伝えていく。現代の“数寄者”は、「嗜好」を楽しむ秘訣を知っている。
理系と商社、京菓子の跡取りが選んだ道
――「老松」といえば北野天満宮のほど近く、上七軒で100年以上続く京菓子の名店です。京菓子の家業を継ぐプレッシャーは幼少期から感じていましたか。
和菓子屋ということは知ってましたが、小さい頃は自分の家についてそれ以上は知らなかったんですわ。
僕もだけど、京都って「職業選択の自由」がない人がいっぱいいる(笑)。僕も「いずれは実家に帰ってこなあかんのかな」とずっと思ってたんですね。
小学校の時はね、いわゆる“ええとこ”の子やったんですよ?
小学校3、4年までは家に上女中さんも下女中さんもいた。大きな車に、運転手さんも。
でも、だんだんお手伝いさんがいなくなって、車もちっちゃくなってきて。自動車は、運転手さんやなくて、お母ちゃんが運転してくれるようになった。
さすがの僕も「これはおかしい。家業になんかあったんや」とわかった。
そんなことがあって、進学先は「公立にしよう」と思ってね。
お母ちゃんは医療系の勉強をした人やったんで、「医学部に行ったらええ」って言うとったけど、僕は血を見るのがイヤで。
どうしようか……と思ってたら、自分が生まれた日が植物学者の牧野富太郎の死んだすぐ近くの日だとわかったんです。
「もしかしたら、自分、牧野富太郎の生まれ変わりちゃうか?」と思って(笑)、それで植物学や農学系も考えるようになりました。
牧野富太郎は植物学者で、2023年のNHKの朝の連続テレビ小説『らんまん』の主人公の題材になったことで有名になりましたね。
高校時代は、外国人の目線で客観的に見た日本についてすごく興味があった。
イザベラ・バード(19世紀の大英帝国の旅行家)やラフカディオ・ハーン(19世紀末〜20世紀初の随筆家。日本名:小泉八雲)が書いたものをよく読んでいましたね。
そこから、明治期の外国人が教壇に立っていた地方の旧制高校にも憧れてね。
旧制高校の流れを汲む医学部や農学部がある公立を探しました。結局、弘前大学と島根大学が候補になった。弘前はイザベラ・バードにゆかりがあるし、島根大がある松江はラフカディオ・ハーンが暮らしていたところでもあって。
で、弘前大学と島根大学の赤本を2つ机に置いて、真ん中に鉛筆を立てて、倒れたほうを受けようと。それで、島根大に行ったんですね。
――運を天に任せて志望校を決める。何事も面白がる太田さんのお人柄を感じます。島根大の農学部ではどんな研究をされたんですか。
当時は、環境汚染やDNAに関する研究が始まったばかりで、僕もそのあたりをやってました。
でも、修士課程のときに、実家の番頭さんから「会社が潰れそうだから帰って来い」と。
とはいえ、会社に戻ったらいきなり「社長」になってしまう。
「そんなもんイヤじゃ。ほんなら、どこの会社行っても社長としてやっていけるかどうかを試すために、1回普通の会社に行かしてくれ」って言いました。
結局、当時の丸紅の京都支店(現:京都丸紅)に入ることになりました。
――丸紅は日本有数の総合商社で、伊藤忠商事の流れを汲みます。京都の丸紅は特に、祖業である織物・呉服を得意としていた印象があります。
僕が着物好きだったこともあってね。丸紅で呉服の営業をやりました。
担当エリアは東北地方で、月に1週間ぐらいいろいろなところを回って。お土産のお菓子をいっぱい買うてきて。
それを会社の給湯室で先輩のお姉さんたちにプレゼントして仲良くなって、人間関係をつくっておく。
すると、ちょっと納期に無茶があるお願いでも、うまく社内を通せたりするようになる。
ああ、これが会社で働くコツなんだな、と。
――お菓子がコミュニケーションのツールに。
取引先の人との交流もおもしろかったですね。
もう40年以上前のこと。当時は「酒飲まへんかったら商売せえへん」とかいう人もいたから、一升瓶を持っていって飲んだりして。
自社ブランドの浴衣を考えたり、配送センターみたいなのを作って新しい物流を試したり。いろんなことをやって、社長賞を2、3回もらいました。
「あ、これは会社でやっていけるわ」と思って、それで実家に戻ったんです。
――大学は松江、就職は商社。そこから家業の「老松」へ。
京都の老舗の子って、同志社とか立命館に進んで、人脈をつくることが多いんです。
僕は松江に行ったから、実家を継いだ当時は個人的なヨコのつながりは全然なかった。
でも、それはそれでいい経験ができたと思っています。
丸紅での経験も着物のことがよくわかったし、それは茶の湯をやっている今、とっても役に立っているんです。
茶と菓子、共通するのは「物理」と「化学」
――茶人としても活動されていますが、太田さんはなぜお茶の道に?
菓子屋になると決めたときに、「お茶の知識がいるな」と思ってね。
それで井口海仙さん(1900~1982、13代千宗室の3男)に教わりました。淡々斎さん(1893~1964 、14代千宗室)の弟で、かっこええんですよ。
あとは堀宗凡さん。京都では有名な茶人にも教わりました。
――堀宗凡さんは、またの名を「花守」。クラシック音楽にのせたお点前など、前衛的な茶会に挑まれていた方ですね。
ええ。他にも、和菓子の神様のような方だった鈴木宗康さん(1926~2008、江戸菓子司鈴木越後十代目、和菓子研究家)がいます。
小さい頃は、田中緑紅さん(1891~1969、京都の郷土史家)とか堂本阿岐羅さん(1891~1975、日本画家)にも遊んでもらいました。
みんな「数奇者」ばっかりですね。
――「数奇者」から教わって、太田さんはお茶をどう捉えていますか。
茶も御菓子も、共通するのは「物理」と「化学」。
そこに「芸術性」が載ってきたらええと。だから、誰かに習えばそれで終わりというもんじゃない。
――物理と化学ですか。太田さんは、茶道の動作を科学的に解析した論文も発表されています。
茶って、世界に対する日本の資源やと思ってます。
ここ有斐斎弘道館でも、よう茶事をやってて、海外からのお客さんが「ワオッ!」って楽しんでくれる。
でも、全員に伝わるわけではない。
なかには「お茶の意味がわからない」「お茶のどこが金になんねん」っていう方や文化圏の人もいる。
「ほんなら、数式で見せたらノってくるかな?」と思って、モーションキャプチャーで茶道領域の数式化をやってみたんです。
――わかりやすい反面、数式にすると、茶道の要素からこぼれ落ちるものもありませんか。
そやねん。ほんとは嫌いですよ。
でも、こういうのを見せたら「そうか」と、茶の湯の価値をわかってくれる人もいると思うんですよ。
こういうアプローチがあると、昔の茶の書を参考に、例えば小堀遠州(江戸前期の大名・茶人・造園家。古田織部門下)が、どんな所作でお点前をしていたのか。動きを推測して、茶を点てたりできる。
そういう試みができるのは得ですよね。
――なるほど。昔の楽譜を見て、音楽を奏でるみたいな……?
僕としては、そういうのは考古遺伝学みたいなものかなと思ってもらえたらいいと思うんです。それは僕にとっては、めちゃくちゃおもろい試み。
ほかにも、いろいろなお茶会をやっています。
近江鉄道の電車の中でやったり、クリスマスにも茶会をやったりね。
――お茶会の記録写真のなかに、畳に十字架がありますね。
利休七哲と呼ばれる千利休の高弟の武将にも、クリスチャンがいました。
茶道にある、濃茶をみんなで順番に回して飲む動作は、カトリックによる影響を考える人もいますね。
――いわれてみると、聖体拝領のような感じがします。
こうやって挙げると関連性を感じるでしょう?
共通点からとらえてアプローチすると、海外の人にもお茶を理解してもらいやすくなる。
ヴェネツィア・ビエンナーレのときに合わせて、遊びでお茶席をしたこともあります。
お出ししたのは“音”を菓子にしたもの。「魔笛」がモチーフで、イタリアやフランスの方は、見たら「おお、パパゲーノ!」って喜んでくれました。
お茶は「教養」を活かす「インスタレーション」
――京菓子のような古典にちなんだ御菓子は、日本だけでなく海外でも楽しまれているんですね。
「日本」「海外」っていう分け方はしない方がいいと思うね。
だって、日本でも、京菓子が何がモチーフかわからん人、いっぱいおるじゃないですか。
たとえば、これを見てください。
僕も若いときは、真面目に菓子作ってたことあるんですよ。
――菓子の見本帳ですね。全部手描きですか? 色合いがきれいですね。
すべてのお菓子で配合を変えてるんですよ。同じ配合、同じ菓子はこの世にないわけです。
茶会では、濃茶とともにいただくのが京菓子です。
僕の場合はこんな作り方をします。まず、必ず(茶室の)床の間の掛け軸を受けた和歌から、そのキーワードをひろいスケッチに起こします。そこから材料と配合を決める。
ようは、物理と化学に、文学(和歌)をのせて、約50gの立体造形に仕立てたもの。
それが京菓子なんです。
――五感で楽しむものと言われる京菓子も、実は物理と化学、そして和歌によって造形が決まってくる、と。
たとえば、こんな和菓子をご存じでしょうか。
杜若(かきつばた)をイメージしたもので、「唐衣(からごろも)」という菓銘を付けてます。元のネタ、何かわかりますか?
――ええと、『伊勢物語』ですか……?
そう。在原業平の和歌「からごろもきつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞおもう(唐衣着つつなれにしつましあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)」ですね。
この歌の五・七・五・七・七の頭文字をつないだら……。
――「かきつばた」
京菓子の職人は、歌を知らんと菓子を作れません。
京菓子も茶会も、構築するときは、いろいろな要素の組み合わせ。
要は「教養」と「インスタレーション」やね。
※インスタレーション【installation】:(展示・装置の意)特定の空間にさまざまな物体を配置してある状況を設定し、その空間全体を作品とする手法。また、その作品。1960年代以後一般化した。(岩波書店「広辞苑」第六版より)
――物理と化学、そして教養。ロジックがあるのですね。
茶と菓子を楽しむ「茶室」とは、そもそも何なのか。
これを考えると、数寄屋建築のおおもとです。
数寄とは「数を寄せる」と書きます。
手に入る材料を(数を)寄せ集めてものを作る職人を、フランスでは「ブリコルール」といいます。そして、日本では茶会を構築するネタを絶えず考えている茶人を「数奇者」と言いますよね。
実は同じじゃないですか。
――ブリコルール=数奇者ですか。
茶の湯では、亭主は茶会の前に炭を洗っておくんですが、さらにおこした炭をどう移すか。障子の透過性や空気中の要素で光がどう変化するか。こういった要素をどう構築していくかを考えます。
まさに物理と化学でしょ? そこに教養や知識が乗ってくる必要性があるということです。
そうやって生まれるのが、たとえば谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』のような世界。茶室における光と影の美しさです。
すべての嗜好性のもとは、優しさ
――「一期一会」を楽しむために、創り上げられるお茶会。かけがえのない嗜好体験なんだなと感じます。
お茶をやっている方のなかには所作ができない初心者を軽視する方がいますが、そんなのはやめたほうがいい。その瞬間を楽しめばいいんです。
嗜好品だって、根底はその人の好みですから。あんまり難しいこと考えんほうがいいと思うんです。
お茶会かて、偉そうな人は高いものばっかりで攻めてくるじゃないですか。でもね、道具は高い安いじゃないんです。
そんなときこそ、どんなインスタレーションならもっと魅力的になるかを考えるのが楽しい。だから僕は100円ショップで買った道具だけでやる茶会も企画しました。そんなことが大好きでね。
――ユーモアも大切なんですね。
ユーモアというか、相手に対する心配り、優しさかな。
それがすべての嗜好性のもとと言ってもいい。
自分の嗜好性を押し付けてきたり、そればかりに走ったりする人って嫌でしょ? 自分の好きな味を、相手が好きとは限らないわけで。
だからこそ、相手がどう思うかを考える優しさが、お茶をする上で大切になってくるね。
さぁ、あんまり難しいこと考えんと。皆さんも一服どうぞ。
記憶の蓄積、一生に一回だけのインスタレーション
――ありがとうございます。いただきます。
今日はね、みなさん全員が違ったお茶碗で楽しんでもらおうと思って。
こっちはクマちゃんがサッカーしてるでしょ。ヨーロッパで熊の町っていったらどこかわかりますか。ドイツのベルリンなんですね。熊はベルリン市のシンボルなんです。
2006年にベルリンで開かれたサッカーW杯の時、ブランデンブルク門のところで僕がお茶会をやったんです。その時、正客だったデヴィッド・ベッカムのために作った茶碗です。
そっちはね、茶碗の中をみてください。ほら、河豚の絵があるの。お茶がちょうど口のところになって、口を開けているようにみえるのね。
――わぁ……。とってもかわいい……。
そっちはね、テニスのフェデラーがお茶していった時の茶碗。海外の人は「フェデラーと同じ茶碗でお茶を飲めるなんて!」と、とっても喜んでくださる。
あ、次は大当たりですね。これ、豊臣秀吉が使った茶碗です。慶長の役の際、毛利輝元に日本へと連れてこられた李敬さんが最初に作った茶碗です。
秀吉の後、毛利家へ。輝元、秀元へ受け継がれ、1640年に秀元が江戸の品川御殿で催した寛永大茶会でも使われています。そのとき正客が徳川家光。もしかしたら、家光が使った可能性もあるんです。
――おぉ。なんと由緒ある……。
実は、この李敬さんがお兄さんと一緒に窯を開いて、のちに坂高麗左衛門となる。萩焼の歴史は、そうやって始まったんです。
一つ一つの茶碗には、記憶の蓄積があるんですよ。
――茶杓や花を生ける筒、そして茶碗、一つ一つにゆかりや特徴がある。その組み合わせがとても楽しいですね。それに、これまでどんな方が同じ茶碗でお茶をいただいたか。茶碗の歴史が積み重なって、自分を経て、未来につながっていく。この瞬間、この空間でしか味わえない嗜好体験ですね……。
その時の道具たち、その時のホストとゲスト。その時の菓子、その時の酒の種類、その時の庭。すべてが一生に一回だけのインスタレーション。
それが茶会です。同じものはないんです。
450年も前から巡り巡って、時代を超えて、いろんな人が同じ茶碗で飲んでいる。一人ひとりがつながっているんですね。
ね、お茶って楽しゅうございますでしょ。
自分の別荘やと思って、ぜひまた遊びに来てくださいな。
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Business Insider Japan記者。東京都新宿区生まれ。高校教員(世界史)やハフポスト日本版、BuzzFeed Japanなどを経て現職。関心領域は経済、歴史、カルチャー。VTuberから落語まで幅広く取材。古今東西の食文化にも興味。
Editor / Writer。横浜出身、京都在住のフリー編集者。フリーマガジン『ハンケイ500m』『おっちゃんとおばちゃん』副編集長。「大人のインターンシップ」や食関係の情報発信など、キャリア教育、食に関心が高い。趣味は紙切り。
『DIG THE TEA』メディアディレクター。編集者、ことばで未来をつくるひと。元ハフポスト日本版副編集長。本づくりから、海外ニュースメディアの記者まで。企業やプロジェクトのコミュニケーション支援も。岐阜生まれ、猫好き。
若いころは旅の写真家を目指していた。取材撮影の出会いから農業と育む人々に惹かれ、畑を借り、ゆるく自然栽培に取り組みつつ、茨城と宮崎の田んぼへ通っている。自然の生命力、ものづくり、人の暮らしを撮ることがライフワーク。